関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

古賀植木の消長

社会学部 社会学科 澤山知里

目次

はじめに

第1章 古賀と植木

(1)戦前までの古賀植木

(2)戦中・戦後の古賀植木

第2章 古賀植木の現在と植木業者のネットワーク

(1)古賀植木の現在

(2)植木業者のネットワーク

結び

追記

謝辞

参考文献


はじめに

 今回、調査を行った長崎県長崎市古賀地区という場所は、400年以上にわたり植木の産地としての歴史を誇り、現在まで多くの植木業者が軒を連ねている。東長崎に位置する古賀地区は8つのエリアに分かれており、特に植木業が盛んなのは松原町、古賀町である。また、この地域は長崎街道の通り道となっている他、かつてキリシタンの町として栄えた事もあり、長崎の歴史を今なお残す重要な場所となっている。本稿は植木に焦点を当て、長崎市古賀地区の中でも、植木業が最も盛んな松原町をフィールドとし、古賀植木の由来から現在までの歴史を通して、時代の流れによる商売の変化や植木業者のネットワークについて明らかにしたものである。今回の調査では、長崎市で植木に関する情報や知識の提供を行う中心場所となっている「長崎市植木センター」のセンター長である池ノ上元氏とスタッフの皆さま、植木業者が加入している「古賀植木園芸組合」の組合長である久保田哲雄氏、松原町で植木業を営んでおられる「松田植木」の松田慎吾氏と慎吾氏のお父様にお話を伺った。

第1章 古賀と植木

(1)戦前までの古賀植木

 古賀植木の始まりはとても古い。今から約830年前の文治元年(1185年)、九州では壇ノ浦の源平合戦に敗れた平家の落人達が各地に散らばっており、現在の古賀地域にも住んでいたようである。その際、落人達は山や野原を開墾し、農業を行う傍ら、その合間に変わった種類の樹木があれば掘り起こして持ち帰ったという。そして、彼らは樹木を自分の家に持って帰り庭に植え、山里での暮らしの寂しさを癒していたという事である。これが、古賀植木の始まりだとされ、代々語り継がれている。

 ここで、本稿のフィールドとなる、古賀の歴史について述べたい。この地域は、もともと古賀村と呼ばれており、周囲を山に囲まれている為、村民は自然と植木や盆栽に親しんでいった。やがて応仁、文明年間の1470年代になると、現在の諫早市にいた西郷石見守尚善という武将が、当時領主であった伊佐早氏を追放し、古賀や戸石、矢上も支配下とする。さらに約100年後になると、古賀は島原の有馬氏の所領となる。この時代には大きな変化が起き、今まで西郷氏の影響で仏教の力が非常に強かったのに対し、有馬氏の時には古賀がキリシタンの村となるのである。これまで栄えていた神社、仏閣は、天主堂とキリスト教伝道所に変わった。しかしながらそれも長くは続かず、江戸時代には幕府によるキリシタン弾圧の影響で、古賀でも多くのキリスト教徒が処刑された。その後は、安政5年まで、天領として統治された。

 ここからは、植木が「商売」として確立されてから、戦前までの古賀植木の歴史と変化について見ていきたい。

 江戸時代に入ると、日本では鎖国政策が始まった。その中でも長崎県の出島は、唯一の外国との貿易港として栄え、当時東アジアにおける貿易拠点であった「平戸オランダ商館」も出島に移された。これにより、人が増え、食糧の需要も高まった事から、出島近郊の古賀の人々にも影響が出た。彼らは、農作物や植木を担いで長崎まで運び、行商をしていた。なお、植木業者の間では、行商の事を「振り売り」という(以下、行商にあたる語句は振り売りで表現する)。その後、1689年には古賀植木のシンボルにもなっている、「ラカンマキ」が中国の浙江省から移植される。現在の樹齢は約600年と言われており、高さは10メートルに及ぶ。


赤瀬邸のラカンマキ。写真は古賀植木園芸組合様よりご提供いただいた(写真1)。


その翌年の、1690年頃の元禄年中には、植木を育てる事が「商売」として、より確立されていく。当時、古賀村松名西山に西山徳右衛門という人がいた。この人物は現在でいう、町村長並の力を持っていたのではないかと考えられる。徳右衛門は、主に農業のみで生活していた村人たちを見て、このままでは村として経済的に成り立たないと思った。彼は全国を巡り、各地で植木や盆栽が目についた。そして、古賀の気候や土地、村民の性格や人情を考えると植木業に適していると考えた。その結果、徳右衛門は村民に向けて、農家の副業として植木・盆栽を推奨したのである。これが、古賀の「植木業」としての始まりである。植木業が確立された頃は、古賀が天領となっており、村から出るのも比較的自由であった事や、貿易港・商業都市として栄えていた長崎の近郊であった事が、植木業確立の大きな決め手となったと考えられる。その当時は、古賀という村は長崎の大量な需要に応える良い供給地としての働きを担っていたのである。

 幕末の1810年頃には、古賀松原名に植木業を営む人が現れ、中国商人向けに「曲(まがり)木(ぎ)」などが作られた。当時中国商人の間では、長崎に来ると、「滝の観音」という所でお参りをしてから、帰りに古賀一帯の植木を見に行くというルートが定着していた。滝の観音の伝説は1659年までさかのぼる。中国商人の許登授を始めとする一行は、長崎への航行の途中、船が暴風雨に遭った。許登授は死を覚悟して、観音さまにお祈りをしたところ、滝の観音と言う女神が現れ、船を救ったのである。商人たちは長崎に滝の観音があるか尋ね歩き、ついに見つけた滝を観音様として崇め始めたという話である。

 先述した曲木というものは、その後古賀の優れた技術として評判となっていく。これは元々盆栽の技術であり、これが作られた時期に田中信右衛門という人が造園業を始めたという記録が残っている。松田氏によると、昔は農業ができない時に、稲わらを使って曲げていたそうである。現在は針金を木に巻き付けて作る方法以外に、曲木が盛んな千葉県では木の中の肉を抜く方法も行っているそうだが、この方法は枯れやすいという。また、良い曲木の作り方として、同じ方向に繰り返し曲げない方が良いという事や、古い葉だけでなく、新しい葉もバランス良く抜かないといけないという事が挙げられるそうだ。このように、曲木は作るのが難しく、手入れにも時間がかかるため、時代の変化と共に作り続ける事はなかなか難しくなったという事である。なお、今の曲木の中には、真正面から見ると一見曲がっている状態に見えるが、横から見ると真っすぐの一本の木のように見える物もあり、技術のバラつきがあるという。

 天保年間の1830年頃になると、10人ほどで「植木仲間」を結成した。これができた背景は、客からのクレームだった。池ノ上氏によると、植木仲間ができる以前は、古賀の植木屋は個人個人で家を回っていた。すると、本当は古賀の者ではないのに「古賀の植木屋です」と言って商売をする人々が現れ始めた。既に古賀の植木技術は発展していた為、そのような人に当たった客は「古賀の植木屋なのに、なぜこのような庭なのか」等というクレームが起こってしまったのである。このような理由から、古賀の植木屋は、「組織を作って自分たちの植木を守らなければいけない」と考え、植木仲間発足に至ったという。この頃から、中国、オランダへの植木の海外輸出も行われ、古賀植木は確固たる技術の元、業者数を増やしながら海外へも販路を広げていく事となる。

 明治18年の1885年には、松田嘉平がロシアのウラジオストックハバロフスク渡航し、ロシアへの輸出は古賀植木の最盛期であった。古賀植木が海外に広く進出したため、1903年には植木の奨励が始まり、原野に松や杉などを各部落で植え付けていた。以前は小物の振り売り用や、輸出用が主だったが、この頃になると、松の曲木などの庭木の栽培が少しずつ盛んになった。しかし、1904年に日露戦争が始まると、ロシアとの取引は完全に停止し、戦中は植木栽培を辞め、農業に転じていった。戦後は、復活した海外輸出と長崎、佐世保の発展に伴って植木業も息を吹き返した。当時は植木の栽培面積もかなり広かったが、それでも足りない物は半成品を久留米その他から移入する事もあった。明治40年には現在の古賀植木園芸組合の前身となる、「古賀園芸組合」が創設された。この頃から大正時代にかけては、先述してきた「振り売り」が盛んであり、長崎、島原、大村、佐世保、佐賀まで、植木を特殊な担いかごに入れ、肩に担いでいた。松田氏によると、大正時代までは道路事情も悪い上に馬車なども少なく、人力で荷を運んでいたという。中には運ぶ作業だけでもと何人かの集団に加勢する事で稼ぐ業者さんもいたそうである。またその分、業者間のコミュニケーションが盛んであり、酒を飲んで語らう機会が多かったとのことである。また、植木を担いで移動する途中、休憩時間に「〜さんの…の木や葉は良いね。どうやって作っているのだろう」というように、情報を交換する事で、技術を高め合っていた人もいたという。

 大正時代に入ると、これまで業者が苦労してきた日見峠にトンネルが開通し、長崎までの所要時間が大幅に短縮された。また、同時期に「古賀植木園芸組合」が結成される。この頃は第一次世界大戦で現れた成金らの需要によって、植木業は再び盛況する。しかし、戦争が終わると再び不景気となった。植木は、人々が庭を造る際など比較的金銭に余裕がある時に求められる事が多く、植木業はしばしば景気の良し悪しに左右されてしまうのである。

 昭和初期になると、先述した古賀植木園芸組合によって、長崎市と合同で毎年4月の1か月間、植木展示即売会が行われる。しかし運営上問題があり、しばらくすると古賀と長崎市は別々の管轄で行うようになる。また、地元での植木普及のみならず、長崎と中国を結ぶ上海航路により、輸出で儲かった時もあったという。

(2)戦中・戦後の古賀植木

 やがて昭和時代に入り、太平洋戦争が始まると、昭和17年を最後に植木の海外輸出も完全に停止する。国内では食糧増産が強制され、植木畑は食糧を生産する畑に変わり、植木が完全に無くなってしまった。松田氏によると、戦時中は松田植木の畑もイモ畑になり、現在残っている畑のものは殆どが戦後にご両親が植えたものだという。

 戦争が終わり、昭和24年になると、県立諫早農高古賀分校が創立され、植木の技術を教えていた。そして昭和26年には、ようやく田畑での植木生産の転用許可がおりる。久保田氏によると、これらの出来事は、植木が殆ど残っていなかった古賀植木を立て直そうという意図からの事であったという。昭和27年には古賀植木園芸組合の再強化を図り、業者同士がより一致団結して古賀植木の戦後復興に取り組もうという意志が感じられる。

 昭和30年頃になると、古賀の植木畑も復活し、他県から特に大きな業者が訪れるようになる。松田氏によると、商売熱心で当時各地で振り売りを盛んに行っていた田主丸(福岡・久留米市、現在の日本三大植木産地の一つ)の業者が古賀にも訪れるようになったという。田主丸の人は、東京や青森などにソテツを売りに行くなどしており、古賀の植木も買い上げて、九州の様々な所へトラックで売ってくれていたという。田主丸の方々は、とても商売熱心で、西日本一円を商業圏内にしていたのではないか、と松田氏は仰っていた。また、始まった年代は不明だが、古賀における植木のせりが始まってからは、古賀の業者と田主丸の業者の個人的な繋がりが広まる。また、長崎市植木センターの方によると、田主丸は当時から大量の森林木を所有していた他、苗物を得意としており、古賀に比べて平地の面積が非常に広かった為、大量生産する事が可能であったという。その他、福岡の甘木(現在の朝倉市)では果樹の苗が多かったそうである。

 昭和33年(1958年)には、戦後初めて、「第1回植木まつり」が開催された。松田慎吾氏のお父様によると、その時の平戸にあったツツジが非常に美しく、それを見た人が「長崎の植木の美しさを宣伝したい」と考えたのが植木まつりの始まりではないかと思っている、と仰っていた。以後、現在にわたって毎年ゴールデンウィークの5月1日〜5日に、現在の長崎市植木センターの敷地で行われている。主に一般のお客さん向けで、今は約500種ものマキや松、果樹などが売られ、花に関してはその時期に花が咲いている物が好まれるという。一回目が行われた時は、各組合員の庭園を開放し、松原停留所から松原公民館に至る道端で、植木や盆栽を売る売店があった。長崎市植木センターの方によると、当時は今の何倍も売上があり、出品する業者やお客さんの数も多かったという。また、長崎市の方でも戦後、3月に公会堂広場前で植木まつりを行うようになり、現在は長崎グリーンキャンペーンとして続いている。


長崎駅からバスで約40分のところにある鶴の尾バス停。長崎市植木センターはここから徒歩すぐ(写真2)。


長崎市植木センター外観。古賀植木の情報発信の場であり、植木や園芸について学べる講習などを定期的に行っている(写真3)。


長崎市植木センターを中心に植木が植えられている地域を「植木の里」と名付け、散策道が整備されており、自由に散策できるようになっている(写真4)。


松田氏によると、昭和50年頃になると、大きい規模の業者から自家用トラックを持ち始める。そして、さらに時代が進むと、やり手の方は折り込みユニック車を使うようになる。これにより、これまで何人かの人力のみでマキなどの大きい木を運んでいた状況が無くなり、移動時間の短縮につながった。その一方で、以前のように他の業者さんと作業をする事が少なくなり、お酒を飲んで語らう機会が少なくなったそうである。お酒が入る事で、失敗談だけでなく、やっかみ等があって話しにくい成功談も聞けるという。しかし、結果的には業者同士の繋がりが希薄になってしまったという事であった。この頃について、松田氏は「枝物が失われた15年」と表現されていた。それでも、国内の需要が無くなったわけではなく、大きい木を購入する方もいらっしゃったが、それは5〜6年に1本出るか出ないかぐらいだったそうである。

 昭和60年頃になると、一大植木ブームがやってくる。松田氏によると、この頃になると、現在の女の都(めのと)や、つつじヶ丘に新興住宅ができ始める。というのも、この時期に長崎市内の三菱重工長崎造船所に、高度経済成長期からの造船景気が来ていたのである。これによって、社員やその家族が住む住宅がたくさんできたのである。そして家が出来た事により、植木や庭の需要が高まった。松田慎吾氏のお父様によると、この頃は植木を見に来る人々の為に、道で植木の売店を開いていた他、業者が所有している植木畑を、ボランティアの案内で実際に見せていたのだそうだ。その他にも、住宅地に客土を入れ込む仕事もあったという。このタイミングで古賀に流れ込んできたのが、先述した福岡の田主丸の業者たちであった。彼らは庭石や植木を売り、元々振り売りが盛んな事もあり、大変商売上手であった。その為、例えばこんな事があったという。田主丸から女の都に植木を運ぶ際、地図上では古賀を通るのである。それを利用し、実際は古賀の植木ではなくても、古賀植木が伝統のあるブランドだとわかっていたので「古賀の方から来ました」という田主丸の業者がいたのである。これを受け、古賀の業者たちは、自分たちの植木をもっと守らなければいけないと感じ、そういった運動もあったそうだ、と松田氏は仰っていた。また、田主丸の業者の中には、長崎に振り売りに来て、そのまま長崎に定着した方もいるのだという。この頃から、長崎に比べ、より広大な平地で大量生産できる田主丸が、植木生産の中心地となっていった。このように、戦中・戦後と幾多の波を乗り越え、現在まで古賀植木という名が続いているのである。

第2章 古賀植木の現在と植木業者のネットワーク

(1)古賀植木の現在

 古賀植木の歴史を辿ってみると、景気の波に左右されながらも、昔から培ってきた技術を大切にしながら、他の地域や国との繋がりをしっかり持ってここまで歩んできた事がわかる。では、現在の古賀植木はどのようになっているのであろうか。

 まず、大きく変わったのは、現在植木の生産を行っている業者は殆どないという事である。その要因として最も大きなものは、聞き取りを通してとても印象的であった、「植木はぜいたく品」という現実である。今の日本のように、あまり景気が良くない時は、植木や庭はどうしても人々の間で二の次になってしまい、なかなか手が出ないのが現状だという事を、今回聞き取りをさせていただいた全ての方から伺った。また、それ以外の要因としては「ニーズの変化」が挙げられる。昔のように景気が良かった時は、少しでも良い木を自分の家に置きたいというお客さんの希望があったため、業者のところへ実際に見に行き、買っていく客もいたそうである。ゆえに、以前は古賀だけでなく、田主丸の方でも大きい高価な木を生産していたという。しかし、現在はなるべくお金をかけたくないというニーズが高まり、大きい木から、自分で育てられるヤマボウシハナミズキなどの、小さい洋物の苗木や果樹が人気になっていった。また、最近は派手な物より均一なデザインの植木の方が人気であり、同じものを大量生産していた田主丸に植木生産が移っていったという事であった。現在は、先述した古賀の植木まつりで出品されている殆どの物も、田主丸から仕入れて販売するのが主流となっているそうである。

 このように時代や環境が大きく変化した今、昔のように農業の副業ではなく主に植木業のみを行っている古賀の業者は、具体的にどのような仕事を行っているのだろうか。

 まず最も多いのが、長崎市内(古賀の業者間ではマチという)への庭の剪定である。久保田氏によると、主に昔から担当している個人のお宅の他、会社や病院、公共事業を担当する事もあるという。仕事を行う地域としては、長崎市内全般の他、諫早に行く事もある。平地で昔ながらの住宅地が多く、中には車が入れない所に行く事もある。新興住宅は、敷地が狭く庭があまり無いため、行く事は少ないという。剪定は、季節に合わせて年に2回行く事が多く、松などは年1回だという。


長崎市道ノ尾駅周辺の様子。住宅が多い。剪定はここから少し先の個人宅で行われていた(写真5)。


松の剪定の様子(写真6)。


次に挙げられる仕事は、田主丸で生産された植木を仕入れて様々な所へ売る形態である。タイプとしては、公共事業やハウスメーカーからの委託で造園を行っている際、足りなくなった植木のみ田主丸のものを買って仕事に使うという形がある。その他には、植木まつりのような植木市で販売をしたり、自宅で販売するケースもある。なお、自宅で販売を行う業態は、この後の第2節で詳しく論じる。また、その他には海外向けに植木を輸出する事もある。

このように、「植木生産地としての古賀」は、時代の変化に適応し、より良い植木を届ける為に、業態を変化させながらも今日まで業者全体で、古賀の発展に取り組んでいるのである。

(2)植木業者のネットワーク

 古賀の業者は、他地域との繋がりを大事にしながら植木業を行ってきたが、ここでは昭和時代から関わりが深い、田主丸とのネットワークについて論じる。

 田主丸とは、先述してきたように福岡県久留米市にある地域で、日本三大植木産地の一つである。振り売り文化が盛んで、早くから古賀に植木を売ったり買い付けに来たりしており、現在の植木の流通において、最も主要な場所である。古賀の業者は、どのように田主丸の業者とやり取りをしているのだろうか。

 松田氏によると、田主丸では、水稲を主力に農業を行っていたが、約40年前からの減反政策により、山林苗や果樹苗に作物を変えていった。しかし、それらは収穫時期にならないと売れなかった。それでも、せりに持っていけばすぐに売れたという事で、流通において大きな働きをしていたそうである。大きいせりは2か所あり、月に3回以上行われる。ここに各地から植木業者が集まってくるのであるが、古賀から田主丸のせりに直接向かってしまうと、植木の仕入れ価格が分かってしまう上に輸送費が高くつくので、たとえ買い付けても元値より高くなり、売る事ができないという。ゆえに、松田植木では、せりに出品する田主丸の業者や、せりの主催者、大手の卸屋などと直接取引をしているという。また、その中でも特に自宅まで配達をしてくれる業者と繋がりを持っており、その時の売れ筋商品を持ってきてもらうのだという。

 ここまでは、古賀でも大きな業者を始めとして行っている事であるが、ここで先ほど述べた、現在行われている植木の仕事の中の、自宅で販売するケースを述べたい。この業態を取っているのは、現在はお話を伺った松田植木と他2〜3軒のみという事である。ここからは、松田植木の事例と共に、植木の中継ぎ業について論じる。

 中継ぎ業(卸業)は、自宅で行うのが基本なので、松田植木では基本的に他業者のように他地域に剪定には行かず、商売を行っている。業務内容は、田主丸から仕入れた植木を、松田植木を通し、別の業者に購入していただくというものである。顧客となっているのは、昔は〜造園にいたが、今は独立して仕事をしているといったような、長崎市内や諫早市の特に新興勢力の個人経営の植木屋である。個人経営の植木屋は、まだ他業者との強い繋がりが無い事もあり、仕事で自分の所に無い植木が求められた際に困る事がある。松田植木では、そういった状況の際、自分の植木屋を彼らにとって「行きつけ」にしてもらっており、「何かが足りなくなったら松田植木さんに頼めばいい」という存在になっているのである。松田植木では、業者たちのニーズに応える為に、植木や苗の種類ごとに、それぞれ異なる田主丸の業者さんと、個人的に繋がりを持っているという。このように新たな業態を取って、一般のお客さんだけでなく植木業者のニーズに対応している業者も存在しているのである。

 また、生産地の広がりは多岐に渡り、松田氏によると、福岡では筑後・田主丸・朝倉、大分では武田、熊本では阿蘇・菊池まで及んでいる。日本三大植木産地である田主丸でさえも、最近は人気がある洋物の苗木を求めて暖かい鹿児島まで買い付けに行くという。苗木の中でも、業者たちはパテント(特許)付きのものを求めているのだそうだ。また九州以外では、流行りの植木は千葉県を始めとする関東に集まっており、その他ではネットショップで購入されるケースも多くなってきているのが現状である。

結び

 本稿では、古賀植木の現在までの歩みをたどり、植木生産や販売における変化や、それらに携わる人々について明らかにしてきた。今回の調査で分かった事は以下の通りである。

1.古賀では、平戸オランダ商館が出島に移された頃には植木の「振り売り」を行っており、明治・大正時代に特に盛んになった。

2.太平洋戦争後、田畑での植木生産が許可されると、福岡の田主丸から業者が訪れるようになり、古賀との関わりが強くなる。

3.昭和60代は、長崎市内の三菱重工長崎造船所に訪れた、高度経済成長期による造船景気の影響により、一大植木ブームとなる。この頃より、田主丸は植木生産の中心地となる。

4.現在、古賀では流行している植木の生産はあまり行っていないが、人々のニーズの変化に合わせ、常に最良の植木を販売できるよう、他地方との連携を大切にしながら工夫している。

追記

 今回の調査の中で、本論で述べた以外にも植木を巡る興味深いお話を伺う事ができた。その中でも2点について、以下で述べる。

 一つ目は、長崎くんちにおける植木屋の存在である。事前調査で、昔は長崎くんちにおける庭見世で、植木屋がそれぞれ得意先を持っていたとの記述があったので、松田氏にお話を伺った。松田氏によると、長崎くんちにおける庭見世の得意先は今でも存在するという事であった。昔は庭見世も、「少しでも良く見せたい」というこだわりがある所が多かったそうである。その当時は庭見世の独自の技法も発達した。例えば、もみじの葉を夏にむしり取る「はがり」というものがある。これにより、長崎くんちの庭見世が行われる10月3日には病気になっていない新芽から綺麗なもみじができるという仕組みである。それが、現在では本論にもあった消費者のニーズの変化が影響しており、庭見世もなるべく簡略化したいという声が多くなったという。最近では、20〜40歳ぐらいの植木業者が、長崎くんちにおける踊りの担ぎ手として、裏方で参加する事があるという。その際声をかけられ、庭見世の仕事を引き受けるというケースがあるという。

 二つ目は、大きい木が持つ価値についてである。これは、長崎市植木センターで頂いた散策ルートを歩いていた際、どこを見ても特に大きい木がたくさんある事に気づいた事から、松田氏にお伺いした。松田氏によると、特に松や槇などの木は、平成に入った頃には各業者のステータスシンボルのようなものになっているという事だった。かつて、長崎大水害雲仙普賢岳の噴火が起こった際、災害の復興特需によって繁盛した建設業者があった。その社長が、古賀の植木の中でも、特にマキや松などの男らしく大きい木をステータスシンボルとして求めたという。これは、最近における東日本大震災熊本地震でもいえる事である。植木業者の例では、大きな松の木を自分の退職金代わりにするところもあるという。退職するタイミングを見計らって木を育てておき、その時になれば売るという仕組みである。また、長崎県内で畜産業に携わっている人の中には、旅行に行けない代わりに松を見て楽しむといった人もいるそうだ。その他にも、古賀を訪れる人にとっても、大きく太い木は一つの目安になっているようである。人々は、大きい木を維持しているところは、技術も高く、良い業者だ、と判断するという。

謝辞

 本稿を執筆するにあたり、温かく迎えてくださり、ご協力してくださった全ての皆様に心より御礼申し上げます。

 初めての現地調査で右も左もわからなかった私を外に出て迎えてくださり、論文に関する詳しい事はもちろん、長崎のおすすめの場所までご親切に教えてくださった、長崎市植木センター長の池ノ上元さん。再度センターを訪問した際、植木まつりや田主丸の事について非常に丁寧にご教授くださり、美味しいお茶まで淹れてくださった、長崎市植木センターのスタッフの皆様。古賀植木や組合の歴史について様々なお話をしてくださっただけでなく、突然の申し出にも関わらず作業現場を見せていただいたり業者様を紹介してくださるなど、大変親切にしていただいた古賀植木園芸組合組合長の久保田哲雄さん。突然の訪問にも関わらずご家族で温かく迎えてくださり、古賀植木の歴史や現在の取り組みまで、私が理解できるまで何度も繰り返し丁寧に説明してくださった松田植木の松田慎吾さんとお父様。本稿を完成させる事が出来たのは、皆様のおかげです。貴重なお時間を割いて調査にご協力くださり、本当にありがとうございました。この場を借りて、改めて感謝いたします。

参考文献・資料一覧

・柴原寿恵夫,1979,『ながさき植木物語』(有)長崎県自治調査センター.

平成28年度,『植木センター要覧』長崎市植木センター.

角川日本地名大辞典 編纂委員会,1987,『角川日本地名大辞典42長崎』角川書店

農事組合法人 古賀植木園芸組合,『古賀植木の歴史』
http://www.kogaueki.or.jp/history.html, 2016年11月17日にアクセス).

・長崎Webマガジン ナカジン,『“花と木と人”がきらめく植木の里・古賀へ』(http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0605/, 2016年11月17日にアクセス).