葛城修験の宗教民俗誌
芝野さくら
【要旨】
本研究は、葛城修験の歴史・宗教実践について、犬鳴山七寶瀧寺、犬鳴山修験道をフィールドに実地調査を行うことで、葛城修験の衰勢や復興の歴史、その中で功績を残した人々、犬鳴山修験道で実践される葛城修験の現状を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次の通りである。
1.葛城修験は、顕密両修行を重要視した東密・真言・本山派系修験者、台密・天台・本山派系修験者により、密教修行の大峯修験に対し、顕教・法華修行として必須とされた。顕密両修行に加えて、葛城山を金剛界、大峯山を胎蔵界とする金胎両部思想により、両者は「車の両輪」「鳥の両翼」と喩えられ勢力を拡大した。しかし、東密系修験者が大峯山自体を金胎両部の峯と見なしたことで大峯修験の奥駈け修行が人々の注目を集め、葛城修験は世間の関心を集めなくなった。
2.智航大徳は葛城修験の再興を図り、1850年に葛城二十八宿探索記録である『葛嶺雑記』を著し犬鳴山七寶瀧寺に献上した。調査入峯は1947年頃からであると推測されている。同時期に『葛嶺雑記』を編纂し、世間に流布したものが『葛嶺雑記 完』である。
3.『葛嶺雑記 完』は口外厳禁の修験道の掟から智航を庇護するため、次の対策を採り刊行された。①山田、西岡らは、出版社に相当する「常住窟置版」という組織として編纂・刊行することで、あくまで智航は寺院に探索記録を献上したに過ぎず、それを世に流布するのは「常住窟置版」であるとする見方を可能とした。②『増鏡』に登場する、100歳を超える空想上の人物である三浦茂樹の名を筆名に用いて序を執筆した。③江戸時代に現代の旅行ガイドブックと同様の役割を果たした風土記の体裁で刊行し、葛城二十八宿の観光案内書を扮した。
4.1872年の修験道廃止令により全国の修験寺は廃寺となり、関係者は神官となるか、密教系寺院の配下となるか、還俗するかの3択を迫られた。犬鳴山七寶瀧寺は無本寺・単立宗の祈祷寺であり、寺院で活動していた修験集団は修験宗を形成せず、寺院の宗教活動の一環として修行を行っていた下部組織に留まったことから、公的な修験活動は禁じられたものの廃寺を免れ高野山真言宗の配下となった。
5.犬鳴山七寶瀧寺第86世貫主の東條仁進師は、犬鳴山七寶瀧寺・犬鳴山修験道をモデルとして葛城修験の復興を先導した。東條師は高野山真言宗の配下を脱し、犬鳴山七寶瀧寺を真言宗犬鳴派の大本山とした。犬鳴山修験道における女性修験者の正式認可を可能とし、女性修験者による紫装束の着用を無条件に許可した。
6.東條師の特命による1953年から1955年にわたる葛城二十八宿入峯調査が、明治の宗教政策以降公的な活動が禁じられていた葛城修験の再開となった。この調査と、東條師の特命により1985年から1988年にかけての葛城二十八宿入峯調査を踏まえ、東條師は1989年に『葛城回峯録』を著した。
7.役行者が葛城二十八宿を確立した頃、葛城山は「一乗山」と総称されており、「犬鳴山」という山号はなく一乗山の一部と認識されていた。役行者は一般に701年に昇天したと言われるが、「金峯山縁起」によれば701年に母と共に渡唐し、渡唐後も3年に1度葛城山・金峯山・富士山を訪れたという記述がある。役行者がその際現在の犬鳴山周辺に重要な修行法具を埋納したことから「鈴杵嶽」と名付けられた。その後も義犬伝説や本尊不動明王の霊験から、現在の犬鳴山七寶瀧寺という山号・寺号となった。
8.義犬伝説とは、鹿を射ようとする猟師を狙う大蛇に気付いた猟師の犬が吠えたところ、鹿は逃げてしまい、猟師は犬の首を切りつけた。すると犬の首が大蛇に噛みつき、猟師は愛犬が自分の命を救ったことに気付き、愛犬の菩提を弔ったという伝説である。淳和天皇は犬鳴山の本尊不動明王の霊験により泉州一円が慈雨に恵まれたことから、犬鳴山中にある両界の瀧、塔の瀧、弁天の瀧、布引の瀧、固津喜の瀧、行者の瀧、千手の瀧の7瀧を金銀などの7つの宝に因み、七寶瀧寺という寺号を与えた。
【目次】
序章
第 1 節 問題の所在――――――――――――――――――――――――――5
第 2 節 研究史――――――――――――――――――――――――――――5
第 1 章 葛城修験と『葛嶺雑記』
第 1 節 葛城修験―――――――――――――――――――――――――――7
第 2 節 『葛嶺雑記』―――――――――――――――――――――――――22
第 2 章 明治の宗教政策と葛城山―――――――――――――――――――――33
第 3 章 東條仁進師と葛城二十八宿の再生
第1節 東條仁進師――――――――――――――――――――――――――35
第 2 節 高野山真言宗から真言宗犬鳴派へ――――――――――――――――37
第 3 節 女性への解放―――――――――――――――――――――――――38
第 4 節 葛城二十八宿の再生――――――――――――――――――――――41
第 4 章 葛城修験の宗教実践
第 1 節Y氏とN講――――――――――――――――――――47
第 2 節 M氏とT道場――――――――――――――――――――54
第 3 節 女性と葛城修験――――――――――――――――――――――――64
結語――――――――――――――――――――――――――――――――――71
参考文献――――――――――――――――――――――――――――――――72
謝辞――――――――――――――――――――――――――――――――――74
【本文写真から】
修験道における葛城山と葛城二十八宿。国土地理院の地理院地図に葛城二十八宿を示す①〜㉘の番号を追記して掲載
紫色の装束を着用する女性修験者達 友ヶ島にて。出典:垂井俊憲氏撮影(2001)『犬鳴山七寶瀧寺 葛城二十八宿を巡る』,p.3
三浦茂樹の筆名による序文。『葛城回峯録』掲載の写真複製版より。出典:東條仁進監修,1989,『葛城回峯録』,p.146-147
『葛嶺雑記 完』最後の項。『葛城回峯録』掲載の写真複製版より。出典:東條仁進監修,1989,『葛城回峯録』,p.202
【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力いただき、心より御礼申し上げます。お忙しい中お話をお聞かせくださいました、犬鳴山七寶瀧寺の皆様、犬鳴山修験道副理事長法会部長Y様、常任理事副法会部長F様、犬鳴山七寶瀧寺末寺宝照院N様のご協力がなければ、本論文の完成には至りませんでした。筆者には至らぬ点が多々ありご迷惑をおかけしたことと存じておりますが、皆様には親切にご対応頂き、本当にありがとうございました。修行体験の際にも大変お世話になり、学生生活最後の年に忘れることのない貴重な思い出を作ることができました。11月の裏行場の体験に参加できなかったことが心残りですが、社会人となっても時間を見つけて参加させて頂きたく存じます。今回の調査を通じて、皆様には様々なことをお教えいただきました。本当にありがとうございました。