萬弘寺の市と浜の市―大分における市の伝承―
渡邉紫帆
【要旨】
本研究では、大分県の、萬弘寺にて行われる萬弘寺の市、柞原八幡宮にて行われる浜の市、以上2つの市の歴史やかつての市の賑わいの様子から、昔と現在の市の役割や交易の変化を明らかにする。本研究で明らかになった点は次の通りである。
1.かつての交易として挙げられるのは行商である。貨幣が未発達な時代は行商が行われながらも、交換されるのは物品貨幣であり、物々交換だった。行商を更に便利にするため、場所と日時を定めた市が開始された。市が立つ場所は、浜辺など海人と農夫といった異なる環境にある者同士が出会う場所。または、「無主」の場である神社や寺だった。
2.萬弘寺の市は、5月18日から24日に大分市坂ノ市の萬弘寺にて行われる、1432年の歴史を持つ市である。萬弘寺の市の起源は宗教の産物である。萬弘寺の病気平癒祈願が当時の人々に大きな話題を生み、萬弘寺には毎日多くの信者が通うようになった。集まった信者の交流から門前での物々交換が始まり、一般市民にも広まった。現在も18日には物々交換を行う。
3.戦前から戦後の時代の移りにより市の規模自体は小さくなるものの、山の男と海の女による物々交換がメインであることに変わりはなかった。現在は物々交換の珍しさから一般参加者が、貰い物のお酒や付録などを交換に持ってきたりする。
4.萬弘寺の市での一般商業市で売られていた商品は、他の市で売られるものより2、3割安く、粗悪品、流行遅れの物が多かった。商人はそれらの処分場所として集まる時代もあった。現在は多くの市で見られるような、食べ物や玩具を売る店がほとんどである。
5.区画整理を機に、運営が萬弘寺の市保存会に移行していく。萬弘寺の市は、社会の不況風、市に対する住民の熱意の低下などが重なったことにより、平成10年頃に存続の危機を迎えるが、保存会の再編成により危機を免れる。その後も寄付金や物々交換参加者の減少といった問題は残るものの、保存会の活躍により今日まで継承され続けている。
6.浜の市は、柞原八幡宮にて9月14日から20日まで行われる市である。1000年前より始まり、「西日本3大市」とまで呼ばれ栄えていた。市の起源は日根野吉明である。柞原八幡宮は大友氏の庇護を受けていたことから、当時柞原八幡宮にて行われていた放生会神事には多くの人が集まった。日根野吉明はその賑わいに目をつけ、そこで市を開くようになった。
7.浜の市では府内藩から大変協力を受けていた。市期間は、浜の市のみでの販売を義務付けるおふれを出した。また、通常禁止されていた遊郭などが市期間のみ許可された。場所割なども全て府内藩が受け持ち、城下町を模して、品や地域ごとに町名を付けるという、独特な場所割を行った。時代と共に浜の市への他国商人、他国商品の入りこみ、持ち込みが減少し、地元の人々の出店も減少した。明治4年に、府内藩がなくなり、本格的に浜の市は宙に浮く。大正5年、柞原八幡宮が国幣小社に昇格し、「由原八幡宮」から柞原八幡宮に改められた。それと同時期に、大分商工会を中心に浜の市復活に向けての動きが見られる。
8.現在の市の出店は、トラブル回避などを目的として二豊街商協同組合に委託している。数は少ないが、西大分商店街の人が店先に露店を出すこともある。西大分商店街内で構成される、浜の市祭り実行委員会は度々浜の市活性化のために新規事業を行うなど協力的である。
9.浜の市名物は今も昔も変わらず、しきし餅と一文人形。どちらも製造販売を行う人は大変少なくなっていて、継承が危ぶまれる。
10.浜の市を後世に残していくためにも、柞原八幡宮では社会に発信していくことを課題に広報活動にも力を入れている。
【目次】
序章 問題の所在・・・・・・・・・・7
第1章 萬弘寺の市・・・・・・・・・・11
第1節 萬弘寺と市・・・・・・・・・・12
第2節 物々交換・・・・・・・・・・13
第3節 一般商業市・・・・・・・・・・17
第4節 萬弘寺の市の現在・・・・・・・・・・20
第2章 浜の市・・・・・・・・・・31
第1節 柞原八幡宮と市・・・・・・・・・・32
第2節 市の賑わい・・・・・・・・・・33
第3節 浜の市の現在・・・・・・・・・・38
結語・・・・・・・・・・53
文献一覧・・・・・・・・・・56
謝辞・・・・・・・・・・57
【本文写真から】
萬弘寺広場 区画整理後、ここで物々交換が行われるようになった。
現在の萬弘寺外観
時代ごとの物々交換の品の変遷『白水郎 第23号』(2006年)
放生会神事の様子『柞原』(2012年)浜の市期間中、浜の市の起源とも言える放生会神事が行われる。
浜の市期間 柞原八幡宮の仮宮の様子 長澤氏より提供
【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力していただき、深く感謝しております。お忙しい中、お話を聞かせてくださった、柞原八幡宮の長澤様、海部古墳資料館の栗野様、萬弘寺の市保存会元会長の吉田様、皆様のご協力なしには、本論文を完成することは出来ませんでした。心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。