関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

石油人生―五島福江島荒川港における油業販売者の生活史―

石油人生―五島福江島荒川港における油業販売者の生活史―

伊原育美

【要旨】
 本論文は長崎県五島列島玉之浦町荒川地区をフィールドに実地調査を行うことで、伊原幾美氏が石油業に携わった50年間の人生を紐解き、そこから見た荒川港が殷賑を極めた時代について、明らかにしたものである。今回の研究から分かったことは以下の通りである。

1.明治初期、荒川港は兵庫県明石から灘の酒造り用の薪の積み出し港として運搬船の出入りが多く、賑わいをみせていた。しかし、時代とともに薪積み出しの流通業は衰退していき、大正時代の温泉の発見により「荒川温泉」を観光資源として前面に売り出した。

2.昭和30年から35年が捕鯨最盛期であり、東シナ海に面している玉之浦湾は捕鯨の基地として有名だった。荒川港には大洋捕鯨、布浦港には日東捕鯨、玉之浦港には極洋捕鯨といった大手漁業会社が基地を置いていた。また、捕鯨船の積み込みのほか、九州や山口県の漁船が集結し、西日本で最高に賑やかな漁港だった。

3.台風が過ぎ去った後の荒川港は、九州全域または他県から数えきれないほどの漁船が横付けにできず、縦に何隻も並び、ぎっしりの状態で避難していた。昭和34年頃の荒川は、船が入港するたびに道路が人で埋め尽くされ、車が通ることさえ困難な状況であった。道路申請に何年かかったかは不明だが、当時は地元住民よりも他県からやってきた漁師の人数の方が多かった。

4.台湾や中国などの外国船は係留できないため港外に碇を下ろす。台風が通り過ぎた後、船が出発する際は船同士の碇が絡まって、外すのに1、2日かかり出航できないことがあった。自分の船のことしか考えていない漁師は、他船の碇を引きちぎって海の中に落とすこともあった。

5.荒川の酒販店売上が長崎県内ではなく九州で1位だった。港近くの玉屋商店には四六時中、客が押し寄せ、店に入りきれないほどだった。そのため店外で立ち飲みをする漁師が多く、朝から晩まで1日中飲んでいた。

6.五島近古年代記によると荒川温泉の発見は1856年と言われている。温泉は既に江戸時代よりずっと以前から、いわゆる湯治場として諸病や傷の治療に効果があることが知られていた。しかし、当時の荒川に住む人々は温泉についての知識がなかったため、明治になっても不思議な温かい水だと思い、見過ごしてきた。その後、入港する漁師たちと話しているうちに住民の温泉に対する知識が常識化されていき、大正2、3年から温泉として利用され始めた。

7.昔の荒川温泉は桶、シャンプー、石鹸、タオルなどの貸し出しが一切なかった。そのため県外の漁師だけでなく、住民も自分の桶にお風呂セットを持参して荒川温泉を利用していた。

8.離島の陸上石油は200lドラム缶に詰め、長崎から福江港まで運搬船で運び、4tトラックに積み込んで、各スタンドへ配達するという状態で非常に不便さを感じていた。その上、台風の時はもちろん時化の時も運搬船は欠航となり、陸上、海上とも石油は一切ストップして供給が間に合わず、大変苦労をした。このような状態が続くようなら、いっそ油槽所を設置した方がよいと幾美氏は考えた。荒川に油槽所を建設することは、五島列島石油業において最大の流通革命だと位置づけることができる。

9.油槽所建設中に地元の人々から工事中断の決議が突きつけられた。そのため油槽所設置は一時停止となり、以来3年間、公民館で32回の集会を開いて説明したが、結論は出なかった。そのため33回目の最後の集会を開き、〇×式で投票してもらった結果、7票差の賛成、条件付で認めてもらい、着工から5年目で五島初の油槽所が完成した。

10.幾美氏は時代の先取り精神のもとに「車社会」の到来をいち早く察知して販売戦略を立てた。三井楽町にガソリンスタンドに向く土地を物色し、地主から300坪を借地。昭和42年2月に五島では例のないガソリンスタンドを開設した。

【目次】
序章――――――――――――――――――――――――――5
 第1節 問題の所在・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
 第2節 福江島 荒川・・・・・・・・・・・・・・・・・6
 第3節 荒川港・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
第1章 独立以前――――――――――――――――――――21
第2章 「荒川石油」の創業―――――――――――――――23
 第1節 荒川の賑わい・・・・・・・・・・・・・・・・・23
 第2節 「荒川石油」の創業・・・・・・・・・・・・・・34
第3章 油槽所の建設――――――――――――――――――43
第4章 ガソリンスタンドの登場―――――――――――――49
結語――――――――――――――――――――――――――55
文献一覧――――――――――――――――――――――――58

【本文写真から】

写真1 鯨を解体している様子(山口潔氏 提供資料)

写真2 漁船で賑わう荒川港(山口潔氏 提供資料)

写真3 現在の荒川温泉

写真4 ドラム缶を積んだ3tトラック

写真5 当時の松早石油株式会社荒川給油所(『長崎県衛生公害研究所報』より引用)

写真6 現在の三井楽町にあるガソリンスタンド

【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力をいただきました。
 お忙しい中、道路申請に使った当時の写真を見せていただき、また、荒川の様子について熱心にお話して下さった山口潔氏、ご自身の経験談をもとに捕鯨や石油店勤務時代の話をして下さり、当時の写真も貸していただいた豆谷智氏、荒川温泉にまつわる資料を貸して下さった山口幸太郎氏、突然の来訪にもかかわらず、快く質問に答えて下さった荒川石油店所長の青野氏、荒川港で食堂を営む平山美智恵氏、食堂に居合わせた漁師さん、荒川温泉の番台さん。本論文が完成に至ったのは皆様のご協力のおかげです。今回の調査にご協力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。そして何よりもこの論文の主人公であり、長期にわたる調査で何度も質問に答えて下さった伊原幾美氏、八千代氏には大変感謝しております。本当にありがとうございました。