関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

民話の力─長崎・旧香焼島における「民話づくり」と地域アイデンティティー─

社会学部 佐藤 あかね

【目次】
はじめに
1. 香焼の変化
1.1香焼島
1.2 三菱造船所の進出
2. 「民話づくり」
2.1 運動のはじまり
2.2 聞き取りとアレンジ
2-3 民話集の刊行
2.3 パフォーマンス
3. 民話が持つ力
3.1 民話で描かれる香焼島
3.2 ポスト「民話運動」
結び
謝辞
参考文献



はじめに
 本論文は、社会調査実習として行われた長崎巡検の調査報告書となる。今回の調査は長崎市香焼町をフィールドとして行った。香焼町で行われていた「民話作り」の活動に焦点を当て、民話が持つ力について、聞き取り調査を元に述べていく。

1. 香焼の変化
1.1 香焼島
 香焼町は現在、長崎県南部・長崎市中部の長崎港の入り口に位置する町である。この香焼は島であった歴史を持っており、かつては香焼島と蔭ノ尾島の2島からなる島であった。江戸時代は佐賀藩の鍋島氏の支配下に有り、その支藩である深堀の所領。明治維新後は所属は転々とし、1872年に長崎県所属となり第二大区第三小区(深堀村香焼名)となった。1898年深堀村から分村し、その後は香焼村として石炭と造船のまちとして盛衰をくりかえすこととなる。
 日清戦争の遂行により造船業は栄え、松尾鉄工所という長崎で造船業を営んでいた会社が1902年に香焼に進出する。ここから香焼は造船のまちの色を強めていった。しかし、ワシントン軍縮会議により造船業は不況にみまわれて松尾造船は停滞する。
 その15年後、1936年川南工業が松尾造船香焼島造船所を買収し造船業を再開させる。このとき1942年川南工業により香焼島と蔭ノ尾島の間の瀬戸が埋め立てられ、一つの島となった。当時、香焼の働いている人々の8割ほどはこの川南造船所に勤めていたそうだ。 この川南工業は軍の管理工場として指定を受け発展をとげたが、敗戦により占領軍の追放を受ける。そして経営困難となり、1950年に工場閉鎖・1955年に破産を迎える。香焼からは再び造船業が消え、島民・島外民合わせて約4807人が解雇。失業と貧困に襲われることとなる。

1.2 三菱造船所の進出
 そんな中1966年、県独自の事業として対岸の深堀と香焼の間を埋め立て臨界工業用地を造成させること決定した。この決定と同時に旧川南工業跡地は三菱に買収され、三菱による香焼進出が決まる。1969年に工事は完成し、香焼島は陸続きとなり島としての歴史を終えたのである。このとき島の人たちは「戦後、島と九州本土をくっつけてしまおうと最初に言い出したのは島民のほうからである」(中里:1997)と書かれているように、本土と結びつきたいという願望があったようだ。加えて、三菱造船所の進出により生活は従来と大きく変わり安定することとなった。
 そして2005年に市町村合併により長崎市香焼町となり、今の姿となる。


【地図1−1 香焼町全図】

2.「民話づくり」
2.1 取り組みのはじまり
 香焼町において「民話づくり」の取り組みの発端となったのは、民話学習が中学校教育の一環として挙がったことである。香焼町にはさまざまな民話や伝説があり、その話を調査することが地域学習として行われた。
 しかしその当時、香焼の民話や伝説がまとめられていたのは『香焼町郷土史』で、子供たちや地域住民にとって読みやすいよう書かれている民話集がなかった。もっと分かりやすい言葉でまとめられた本はないだろうかと聞かれる中で、「ありません」で済ませてしまっていいのか、ないなら作ればいい、と香焼町立図書館を軸として有志を募り、民話を集めた本を作ることを決心する。当時香焼図書館に勤めていた坂井 淳氏は、元より図書館司書として『香焼町郷土史』に載っている民話・伝説を読む中で「村井喜右衛門」という人物の存在を知り、この香焼と関わり深い偉人をもっと子どもたちに伝承するきっかけを探していたそうだ。香焼町立図書館関係者、本が好きな住民が集まった「ねむの木読書会」、中学生3人が集まり、「民話づくり」の取り組みが始まる。

2.2 聞き取りとアレンジ
 民話の元となる話は、昔から香焼で暮らしてきたお年寄りの方々から集められた。各地区の公民館に集まってもらい、そんな話もあった、こんな歌もあった、と香焼の民話や昔話・思い出を自由に話してもらう中で集められた。『香焼町郷土史』に書かれていない話、聞いたことがない話も多数出てきて驚くこともあったという。そうして聞き取りを行っていくうちに、各地区に住む方々が持つ自分たちの地区への思いの深さを、話を通して感じ取り、少しでも多くの話を掘り起こして残していきたいと思ったそうだ。
 好きに喋ってもらったため、思い出や情報という話にはなっていない話も多く集まった。そこで、本に収録出来る形「民話」にするため、聞き取りした話に細かい表現を加えたり、ふくらませたりと様々なアレンジをしたそうだ。

2.3 民話集の刊行
 民話集の刊行は、小さな手作りの和綴じの本からはじまった。聞き取ってアレンジした話をワープロで打ち込み、挿絵を描き、印刷し綴じて製本するという作業を全て自分たちで行った。そうして完成したのが、『香焼の民話とむかしのできごと』『香焼の昔ばなし』である。
 そしてその数年後、当時香焼図書館の隣にあった親和銀行の支店長から、親和銀行補助金を使ってしっかりした本を作ってみてはどうかと提案され、ハードカバーの民話集の刊行をすることとなる。もっと手に取ってもらえるように、しっかりとした本として家庭の本棚に並べられるようになるなら、と再度昔ばなしと民話の聞き取りとアレンジが行われ、民話集は再編集された。こうして出来たのが、『香焼の昔ばなし』である。挿絵の切り絵も、当時町職員であった岩本伉氏の指導の下、自分たちで切ったりと苦労して出来たものだそうだ。
 『香焼の昔ばなし』というハートカバーの本はこうして出来たのだが、教育委員会学校図書館に寄贈することが多く、販売よりもその数は多かったという。学校では副読本として使われたようで、香焼の子どもたちは、地域にある話を身近に感じられるようになったことだろう。



【写真2−1 『香焼の民話とむかしのできごと』】


【写真2−2 『香焼の昔ばなし』】


【写真2−3 『香焼の昔ばなし』】


2.4 パフォーマンス
 民話集の中に「オランダ船を引き揚げた喜右衛門さん」という話がある。これは前述の「村井喜右衛門」という偉人が関わっている話だ。以下は物語の要約である。

 むかしむかしの江戸時代、香焼島の近くの長崎港でおこった本当の話。その頃は鎖国の時代で外国との交流はしていなかったが、長崎を通してオランダと中国とは交易をしていた。
 十月十七日(寛政十年・一七九八年)交易を終え、国に帰ろうとしたオランダ船・エリザ号が暴風雨により座礁し、ついには沈んでしまう。長崎奉行所は沈んでしまった船を引き揚げてくれる人を募集をかけ、そこで名乗り出たのは、喜右衛門。防州櫛ヶ浜山口県徳山市)から香焼に来て、地元の漁師を雇い網元をしていた男であった。
 しかし奉行所は「地元の人でやりたい」と喜右衛門の申し出を一旦は断るものの、なかなか引き揚げに成功せず、とうとう喜右衛門に引き揚げを依頼する。そして、依頼を受けた喜右衛門は知恵を絞り、さまざまな仕掛け、潮の満ち干きや風力なども考え、エリザ号の引き揚げに成功する。
 この引き揚げ話はオランダだけではなく世界中に広まり、喜右衛門の技術や知恵は高く評価され有名となった。喜右衛門は故郷・防州櫛ヶ浜に戻ると、その引き上げの功績を讃え武士にしか使用が許されなかった苗字・帯刀が許可され、「村井喜右衛門」となった。

 この村井喜右衛門という民話の中に出てくる偉人。その昔、青山学院大学の教授により調査されており、香焼町の一部の人々も、調査・研究されていることは知っていたそうである。しかし詳しいことは知らず、村井喜右衛門のことは海賊か何かだと思っていたという。
 民話集に、この「オランダ船を引き揚げた喜右衛門さん」が収録されることにより、その功績は子どもたちだけではなく香焼に住む人々にも伝えられた。そして、本に収録されるだけではなく、より多くの人に、よりわかりやすく「村井喜右衛門」を伝えるためにさまざまなパフォーマンスが行われた。
① 「オランダ船を引き揚げた喜右衛門さん」の紙芝居作製
当時、絵の上手かった高校生に絵を描いてもらい、紙芝居を作製。1995年に一つ目、2000年に同じ作者で二つ目が作られている。
② 「オランダ船を引き揚げた喜右衛門さん」の人形劇
「ねむの木読書会」の人々が中心となり、小学生にむけて上映された。人形は全て手作りで、人形作りの先生の指導の下、昔の服を再現するために古く見える布などを探すなど工夫と苦労を重ねて作ら
れたものだそうだ。
③ オランダ船・エリザ号引き揚げ時の模型(模型作成者・梅原 喜一郎氏)
④ 「村井喜右衛門」イメージを曲にした組曲(長崎組曲巻二第12番・飛山 桂作曲)
などさまざまな形で展開している。海賊だと思われていた「村井喜右衛門」だが、こうした活動を通して、その偉大さや賢さが町の人へと伝わっていった。



【図2−4 紙芝居の挿絵 (http://www.geocities.jp/sutyuaato/skmsbi1.html)】


【写真2−5 人形劇で使われた喜右衛門さん人形】


【写真2−6 船の模型(梅原喜一郎氏作)】


3. 民話が持つ力
3.1 民話で描かれる香焼
 本の刊行やパフォーマンスで民話やむかしばなしを形にすることによって、浮かび上がってくる香焼の姿がある。この場所にはこの話が伝わっているという民話地図【写真3-1】を見てみてもわかるように、民話がつくった香焼の姿であり、取り組みに関わった人々が残していきたい・伝えていきたいと考えた香焼の姿がある。郷土史や町政などで調べても想像し難い、この取り組みがなければ描かれなかった姿であると考えられる。
 坂井氏は、この一連の取り組みを「ふるさとの発見」とおっしゃった。取り組みの中で民話が持つ力に導かれ、体験したさまざまなことを通して、ふるさとの持つ良さを沸々と感じたそうだ。さらに、民話集を作った後、「香焼」は良いところだと郷土愛感じ、地域のお年寄りが次々と亡くなっていくのを目の当たりに見て、早くもっとたくさんの「香焼の昔話」をお年寄りから聞き取り、次世代に伝えていきたいと感じたそうだ。
 つまりこの「民話づくり」の取り組みは地域アイデンティティー のひとつである。過去の香焼の姿を子どもたちや地域住民に伝承し守っていくということを民話、そしてこの本が担っているのだ。

3.2 ポスト「民話づくり」
 「ねむの木読書会」は続いて、香焼の今昔カルタを作った。町の人から香焼の昔の写真を提供してもらったり、ないものは自分たちで撮りに行ったりして製作されたそうだ。カルタには炭坑で栄えたことや、昔あった建物や習慣などが書かれている。これはポスト「民話づくり」の取り組みであり、民話集と同じように香焼の地域アイデンティティーをつくっているといえる。
 つまり、香焼図書館や「ねむの木読書会」、それに関わる有志の方々は、香焼の昔の姿にひきつけられたことによって、香焼の地域アイデンティティーをつくる会として活動していたのだ。



【写真3−1 民話地図(『香焼の民話とむかしのできごと』収録)】


【写真3−2香焼の今昔カルタ】



結び
 民話や昔ばなしがもつ力にひきつけられ、民話・昔ばなしを、そしてそれによって描かれる香焼の昔の姿を守り残していきたいという思いが、「民話づくり」を進めていった。本の刊行、さらには紙芝居や人形劇によって子どもたちや地域住民に、香焼の昔の姿や偉人のことを伝えられることとなった。それは香焼の地域アイデンティティーをつくり、住民の視点からしかみることのできない香焼の姿を次世代に伝承することに成功した。


謝辞
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にあたたかいご協力をいただきました。当時香焼図書館にお勤めになっていた坂井淳氏、「ねむの木読書会」の時津裕美子氏、前川弘子氏、村井喜右衛門の話及び香焼の歴史について語っていただいた村井憲一郎氏、紹介や資料を貸してくださった香焼図書館の口木氏、職員の方々。本論文の完成は、これらの方々のご協力のおかげであります。お忙しい中連絡をとらせていただいたり、お話をしていただいたり大変お世話になりました。この場を借りて、心よりの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。


参考文献
香焼町立香焼図書館・ねむの木読書会,1999,『香焼の昔ばなし』ねむの木読書会(民話の会).
香焼の民話づくりの会,1995,『香焼の民話とむかしのできごと』香焼の民話づくりの会.
香焼町立香焼図書館・ねむの木読書会,1997,『「香焼の昔ばなし」─「香焼の民話とむかしのできごと」第二版─」香焼町立香焼図書館・ねむの木読書会.
香焼紙芝居1995,(http://www.geocities.jp/sutyuaato/skmsbi1.html
中里喜昭,1997,『香焼島地方自治の先駆的実験』晩声社
香焼町郷土誌編纂委員会,1991,『香焼町郷土誌』香焼町
香焼町史編纂委員会,1982,『香焼町史「経済100年の歩み」』香焼町総務課(企画広報)
香焼町立香焼図書館,2004,『知と創造をもとめて 香焼図書館四半世紀の歩み』香焼町立香焼図書館.