関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ハタとハタ職人

社会学部  藪 実咲


【目次】
はじめに
1.ハタの世界
2.小川凧店
3.大守屋
結び

謝辞
参考文献



はじめに
 長崎では、正月に揚げられる「凧」のことを「ハタ」と呼ぶ。それは一般的な凧とは大きく異なる。ハタのつくりはもちろん、長崎おけるハタは3月から5月の春に揚げるのが主流であり、春の風物詩とされている。
しかし、近年ハタ揚げをする人々が減り、長崎におけるハタという存在が変わりつつある。本論文ではハタ職人さんから見る長崎のハタについて述べていく。


1.ハタの世界
 「ハタ」というものは長崎で言う凧のことで、長崎で揚げられた凧は文化文政期(1804〜30)に著述された「長崎名勝図絵」にはアゴバタと記述されている。
 由来としては、西暦1600年前半頃、唐・オランダ(オランダ人の付き人であったインドネシア人)から渡米する異国人によって伝えられたとある。長崎独特のアゴバタと呼ばれる現在の長崎ハタは出島のインドネシア人たちによって南方系の凧が伝わったものだろうと言われている。

 この由来により、ハタの文様はオランダ船の船旗や信号標識旗をデザイン化したものが多く、色も白、赤、青、黒を組み合わせて使用している。デザインは非常に簡素でシンプルなものが多い。それは天高くハタを揚げた際に自分のハタが一目でわかるように、遠くでも見ることができる柄に仕上げているからである。古典的な柄は基本的なハタの柄とされており、波に千鳥、丹後縞、かの字、山星、日一、紅丹後など様々な柄が存在し、中には漢字やひらがな、アルファベットを描いた柄もある。それぞれの柄には意味があり、人々は一番自分らしい柄、気に入った柄を選んで、空高く揚げるのである。



【写真1−1 古典柄のハタの一部】

 大きさは、凧の親骨に一文銭を一列に縦に並べた数をいい、一般的な凧は16文、小凧は10文とされている。

 さて、次にハタの構造を見ていく。ハタというものは親骨となる竹が重要である。大体4、5年ものの竹を使用し、サイズに切り分けてから火で炙って油抜きをする。それから天日干しをして水分を飛ばす。これを繰り返し、竹が飴色になり、しなるようになればようやくハタを作ることができる。軸となる竹を2本用意し、十字に組む。竹の先に糸を張り、そこに和紙を張っていく。和紙には柄をつけるのだが、それらはすべて切り絵のように和紙を切って、貼り重ねるのである。

 また、一般的な凧には尾っぽが凧の下部についているが、ハタにはそれがない。代わりにヒュウというものがハタの左右についている。尾っぽがない理由としてはハタの揚げ方に関連する。
 長崎のハタ揚げは「ケンカバタ」といって、揚げたハタの糸同士を絡ませ、擦り切り、相手のハタを落とす、という勝負事なのである。落とされたハタの所有者は自分のハタの所有権を失い、ハタは拾った者の物となる。子供たちはハタを落とし合い、落としたハタを取り合って遊ぶ。ハタ揚げをする際、尾っぽがついているとハタが上空で安定してしまう。安定してしまうと、自由にハタを動かして糸を絡ませることができない。そのため、ハタには尾っぽはあらず、左右にあるヒュウでバランスを取っているのである。

 ハタ揚げができるようになるには出来上がったハタに糸をつけなければならない。ちょうど骨組みが交わる中央部分と下部に糸をつけ、のばし、糸を合わせる。そこからは「ビードロヨマ」と呼ばれる特殊な糸を100メートルほどつけ、その先にさらに普通の凧糸に柿渋を染み込ませて固くした物をまた100メートルほどつける。ビードロヨマというのは糸にガラスの粉と米粒を練ったものを擦り込んだ糸で、ハタ揚げの時にはそのビードロヨマを擦り合わせて、切り落とすのである。ビードロヨマを含めた糸は、ザル等に紙を張り、柿渋を塗ったハタ篭というものに入れて、持ち運ぶのである。またハタ揚げの際には、長い糸が絡まないように篭に糸を上手に収納しながら揚げる。こうしてハタは揚げられるのである。

【写真1−2 大守屋さんのご主人・大久保氏のハタ篭とビードロヨマと糸】

 またハタ揚げは大人の遊びとしても広まっていた。長崎市内には老舗が多く存在し、その老舗の若旦那衆が芸妓とハタ屋を引き連れて、花見をするために愛宕山などの周囲の山に登り、ハタ揚げを楽しんでいたとされている。若旦那衆はお互いのプライドをかけてハタ勝負をし、さらにその勝負に止まらず負けた方は酒勝負では負けまいと山を下りてからも飲みに出かけ、飲み勝負を行っていたのである。これが後のハタ勝負における「つぶらかし」という言葉に繋がっている。

 長崎の人々が山で花見をし、ハタ揚げをするという文化は諸外国からのピクニック文化と長崎のハタ揚げ文化の融合であると言えるだろう。また若旦那衆が花見に持っていく弁当の内容も決まっており、すわ(ふきのようなもの)と揚げ出しの煮物、あじの蒲鉾、あさりが主になっていたという。これらを詰めた弁当を持ち、芸妓、ハタ屋を連れたのは、連れられた若旦那の応援をするためである。芸妓は舞い、ハタ屋は若旦那がすぐにハタ勝負できるように最良のハタの用意をするのである。故にハタ勝負は若旦那同士の勝負でもあり、ハタ屋同士の勝負でもあったのではないかと言われている。

 また、若旦那衆は各々のハタにお金をかけていたのではないか、ともされており、「勝負を相あらそふ、甚しきハ一日壱人の費銭壱貫文弐貫文におよふ、崎中是をつもりて数百銭にいたるは無益のこといはんかたなし。(中略)銭を費やすものは多かつたに違ひない。」(渡辺庫輔 1959 「長崎歳時記」『長崎ハタ考』)。という記述も存在する。一般的にはハタを落とせばそのハタを取り合うものとされているが、若旦那衆はそのようなことはせず、落としたハタは周囲にいる子供たちに譲っていた。お金をかけたハタであっても、あくまで大人は勝負することを目的としているため、ハタを取り合うようなことはなかったという。長崎のハタ揚げは子供の遊びと大人の遊びの二つが存在していたということがわかる。現在、毎年4月に唐八景公園で行われている「長崎ハタ揚げ大会」では、長崎検番が祝舞を披露するという催しがある。これは2004年から復活したものであるが、大人の遊びとしてのハタ揚げが存在していた証拠ではないか、とされている。


2.小川凧店
 次に実際にハタを作るハタ職人さんに話を聞いた。小川暁博氏、小川凧店さんの3代目店主である。


【写真2−1 小川凧店 3代目 小川暁博氏】

 小川凧店さんの歴史は古く、創業は明治45年。初代店主の小川仙之助氏は明治11年に生まれ、元々長崎の飯香浦町という地で百姓をしていた。明治26年、当時15歳で現在の小川凧店さんの位置する風頭山に引っ越してきたのである。現在ハタ揚げの場所として有名な風頭山。当時は一帯が荒地で、仙之助氏はそこを切り開き、家の裏の納屋に牛やヤギや羊等を飼い、あぜ道を崩させたりして、開墾し、主に芋や麦を作っていた。現在お店の前に位置する駐車場は全て芋畑だったという。


【写真2−2 当時の風頭山とされる絵画】


【写真2−3 写真2−2と同じ位置から見る現在の風頭山】

 また、風頭山は異なる土地から移動してきた人々が住んでいた。長崎市は島原から出世するために移動してくる人々が多いため、風頭山も島原出身の人々が多く居住していたとされている。山を切り開いたことで、風頭一帯が農家となり、人々は皆それで生計を立てていた。その一方で、仙之助氏は農業をするだけでなく趣味であるハタを作るこの店を建てて、ハタ作りに勤しんだ。暁博氏によると仙之助氏は百姓をしながらハタ揚げを楽しんでいて、良い風が吹くから風頭山に移住してきたのかもしれない、という。

 2代目の啓太郎氏に代がわりすると、小川家を支える仕事も変わった。ハタ職人をする傍ら啓太郎氏は副業として左官屋をしていた。啓太郎氏の時代のハタ屋はなぜか左官業を営む者が多かったという。ハタというのは季節モノであり、大体1月から5月頃にハタを作り、販売する。当時、春の風物詩であったハタは他の季節には販売しておらず、1シーズンで売り切ってしまっていた。というのも、ハタは現在のように観光土産物とはされておらず、春にハタを揚げる人にしか売れなかったのである。故に1年の半分は他の職をしなければ生計が立てられないのである。

 啓太郎氏は長崎市内で左官屋をし、啓太郎氏の妻・ツルヨさんは家事をする傍ら、畑で農業をし、作った芋などを市場に売りに出していた。小川家は大地主で、風頭山の土地を多く所有しており、家から山の麓の方まで小川家の畑であったという。啓太郎氏はその土地の大きさに、見ず知らずのお坊さんに無償で土地を受け渡し、そのお坊さんがその土地を転売し、お金儲けに使われた、というエピソードもあるくらいである。

 さて、啓太郎氏の本業であるハタ作りについて見ていく。先ほども述べたようにハタというものは季節モノで、さらにハタを揚げる人しか買わない、ツウの人のみが知る代物であった。それは当時の小川凧店さんの販売方法にも関係している。現在の小川凧店さんのように店頭でハタを作製、販売をしていたのではなく、昔は家の裏の納屋に電球を引いて、暗室を作り、そこで作業をしていた。納屋の中というのはハタを作るのに最適の場所で、ハタに使う和紙には太陽がサンサンと降り注ぐ場所での作業は適せず、ほどほどの湿度と暗所が必要であるとされている。納屋という場所での作業は、家の裏というのもあり、一般の人には見えない。それどころか小川家はごく普通の一軒家にしか見えないため、ハタ販売が一般向けではなかったということがよくわかる。一般向けではなかったものの、春にはハタ合戦を楽しむ人々だけがこぞって小川凧店さんにハタを買いに来たのである。
しかし、当時は小川凧店さんの他にもたくさんのハタ店があり、特に大きいお店だったのが「森本ハタ店」さんであった。現在はもう営業していないお店である。森本ハタ店さんは元々風頭山の麓にお店を構えていたのだが、戦後現在の思案橋の方まで下りてきた。


【写真2−6 当時の森本ハタ店さんの様子】

 元々、小川凧店さんは森本ハタ店さんの卸しという形で仕事していた。昔啓太郎氏はある提灯屋さんから和紙を仕入れてハタを作っていたのだが、その提灯屋さんが倒産してしまった。困っていたところを森本ハタ店さんに相談して、森本さんから和紙を分けてもらうようになったのである。森本ハタ店さんは長崎市内で一番大きいお店だったため、忙しく、すべてのハタ作りの工程に手が回らなくなり、他のハタ店を雇っていた。その1つのお店として、小川凧店さんも和紙を分けてもらうかわりにビードロヨマを引いて森本ハタ店に卸していた。しかし、小川凧店さんに多くの注文が来て200〜300枚もの和紙が必要になった際には、森本ハタ店さんに紙の枚数を制限されていて、希望の枚数分の和紙をもらえなかったということも中にはあったそうだ。そんな苦労の中でも、啓太郎氏は生粋の職人さんとして生き、昭和49年にガンで亡くなった。

 2代目の啓太郎氏が亡くなってすぐ3代目に就任したのが、今回インタビューさせていただいた暁博氏である。暁博氏は小川家の四男であり、小川凧店を継ぐ前は建設会社で会社員をしていた。暁博氏が23歳の時に啓太郎氏のガンが判明し、余命3ヵ月とされていたため、暁博氏は会社をやめてすぐ風頭町に帰ってきた。啓太郎氏は四男である暁博氏にお店を任せ、暁博氏は先代が亡くなり、そのまま3代目として小川凧店を営むこととなった。

 しかし、暁博氏自身はハタ作りの経験がなかった。小さい頃は啓太郎氏の仕事を手伝ったこともなく、ただハタを揚げて遊んでいただけだった。ハタというのは小さいがナイフを使用するため、危ないから、と両親は作業場に入ることも許してくれなかったという。しかし、家に材料はあるため見よう見まねではハタを作って遊んでいた。

「これはハタを作っていたのではない」「当時は今みたいに売り物なんかなかったのでね、自分で作って遊ぶしかなかった。自然の物と共存して、遊んで生きていた。子供が目の前に新聞紙があれば遊ぶ、ハタもそれと一緒。」暁博氏はハタを独学で、イチから作り始めたのである。

 仙之助氏、啓太郎氏と同じように、ハタ店だけでは生計を立てられずに、暁博氏も建設会社をやめてからも路肩仕事を行っていた。現在はフリーアルバイターという職業が存在しているが、昔はなかったため、何か仕事をして家にお金をいれなければならない、という気持ちがあったという。啓太郎氏との約束でハタ作りという仕事は残していかなければならないということを頭に入れつつ、生活のために仕事を2本にしていた。路肩仕事の他に、公民館活動も行っており、一般の人にハタ作りを教えた。また学校にも出向き、生徒にもハタ作りを教える。朝から路肩仕事をして、昼から、持って行っていた背広・革靴に着替え、現場から学校に向かうこともあったという。

 3代目としてハタ作りを始めて15年経って、40歳の時に先代の時から使用していた作業場としての納屋や家を全壊して、新たな住まいを建てた。建て替えの理由としてはハタが一般向けにならないから、というのがあった。普通の家で、ましてや納屋で作業していてはハタがどこで売っているのかわからない。これでは一般の人々には来てもらえない。またその時期に白アリが発生したこともきっかけになり、建て替えることになったのである。

 現在の小川凧店さんの作業場兼長崎凧資料館になっている場所は家で言う屋根裏の位置にある。1階部分は小川家の住まいとなっており、その上の屋根裏で暁博氏はハタを作っているのである。


【写真2−7 屋根裏に位置する長崎凧資料館兼作業場】

 納屋を壊してから作業する環境が180度変わり、屋根裏は頭が焼けるくらいに日光が降り注ぎ、気温も高い。先ほど和紙は熱い場所での作業に適さない、と述べたが、これは暁博氏が実際に屋根裏で作業をし始めてから知ったことであった。暁博氏の兄弟が住まいの設計をしたのだが、今まで納屋という暗い場所で作業していたため、健康的で良い環境での作業を、と仕事場に光を取り入れたのである。しかし和紙は熱に弱く、ひん曲がってしまい、上手く張ることができない。今では屋根の下には断熱材が入れられ、日光の入る所には板を張って防ぐようにしている。また現在の作業場の奥に掘りごたつがある。そこは元々作業場として作られた空間だったが、掘りごたつの頭上にある天窓から強い日光が差し、和紙が曲がって作業にならない、となり、今では天窓をやめ、さらにそこは使用せず荷物置き場としている。ハタ作りの環境の適合不適合は生活をして、実際に作業してみないとわからないと暁博氏は感じたという。


【写真2−8 現在荷物置き場となっている元作業場(写真奥)】

 そして45歳の時に暁博氏のハタが長崎県の伝統工芸品として登録された。県下で小川凧店さんだけが指定され、教育委員会などから修学旅行の体験学習に選ばれるようになり、そこから観光に力を入れるようになったのである。

 手探り状態でハタ作りを始めた暁博氏が非常に苦労した点がある。それはハタに使用される和紙を染めるという工程である。暁博氏がお店を継ぐ時には啓太郎氏はすでに亡くなられていたため、教わることはできなかった。さらに啓太郎氏の代の時の和紙の仕入れ先であった森本ハタ店さんにも、京都の染め職人さんに賃金を払い教えてもらった技術のため企業秘密として教えてもらうことができなかった。手探りで染め始めるしかなかった。最初は近所のペンキ屋さんに聞いてみたりした。それでも上手くいかず、あるイベントごとで長崎大学の理工系の先生と知り合った。暁博氏はそのイベントでハタ作りを教えていたが、隣でその先生が行っているペットボトルロケットの実験に興味を持った。そこで先生と話すことになり、相談をしてみると、「生徒に(染めの実験を)やらせてみます」とのこと。カレンダーの裏に実験の成果である染料の分量や温度、染める方法などを書いて送ってもらった。しかし、暁博氏自身があわてんぼうで、失敗することが多かったという。液を溶いて、色を塗った時はキレイで「今年は良い色ができた」と思っても乾燥させると、うわぁっとアジサイのように色が散ってしまったこともあった。


「そのショックの強さったら・・・ガクーンと下がってしまった。一生懸命調合したのに乾燥させてみると化け物みたいになっていて張られんたいね・・・。」


 これが仮に3月の出来事であれば、4月にはハタ合戦が行われるため、3月でどうにかハタをたくさん作らなければならない状況となる。非常に焦りが出たという。失敗を繰り返していた時は蜜柑が青くならないか心配だったと語る。調合した青い染料を、失敗する度に大きな蜜柑の木の根元に捨てていたのである。他にもいちごの苗の根元にも捨てていたため青い染料で実が染まってしまわないか心配していた。色の調合において青色が1番難しく、蜜柑が染まるのではないかと心配するほどであるため非常に苦労していたということがわかる。しかし、神様の意地悪で数々の失敗とは裏腹に非常によくできる時もある。また小川凧店さんの前のアパートに住むペン屋のお兄さんが「塗るのは任せんね。小川さんは調合に集中せんね。」と励ましてくれたこともあり、諦めず染め続けることができたのである。納得のいく色を出せるようになったのはつい最近で、染め始めてから約40年かかった。成功した時は協力してくださった先生と手を合わせて喜び、今ではもう鼻歌を歌いながらでも染めることができる、と暁博氏は得意げに話していた。失敗続きの時のことを今、振り返って暁博氏はこう語る。


「慌ててしまって、失敗すると追い込まれるんです。人間っちゅうのは。誰でもそうなんです。几帳面な人ほど、パニックになると追い込まれてしまうんです。出場所がなくなって、暗い場所に鍵をかけられて、出る場所がないんです。探しても。弱いんですよ人間てのは。少し足らんくらいの人の方が強かとですよ。どっかで妥協してね、どうにかなるっちゃろ、ていうくらいの人の方が鬱にならんっちゃけど。でもおかげで今は長崎で1件だけの伝統工芸品として残していけるようになった。先代にも顔向けできるようになった、あの世に行ってからでも。色々な障害物を越えて、同じ仕事を繰り返して繰り返して、頑張ってきた結果はきちんと出てくる。誰に何を言われようと1つのことを頑張れば何かしらの光は見えてくる。」

「手探り状態で始めてきた仕事が40年後にはこんな風になるっちゅーことは1つの仕事を通していくことが大事ですね。」


 このような苦労を乗り越えられたのには暁博氏のある考えがあったからである。先ほど述べたように啓太郎氏の代の時、元々は提灯屋さんでハタに使う和紙仕入れていたが、その会社が倒産してしまったことにより仕入れ先を失い、非常に苦労した。またそれから森本ハタ店さんを頼ったが、和紙が制限されていたという。つまり他のお店から紙を仕入れているとそのお店が倒産した場合、自分のお店も倒れてしまうこともあるということなのである。小さい頃にそのような父親の苦労を見ていたからこそ、このような理解があり、暁博氏は自分がハタに使用する和紙は絶対に自分で染めようという考えを持っていたのである。また、啓太郎氏の代の時の森本ハタ店さんとの付き合いは啓太郎氏とその当時の森本ハタ店店主さんとの間のことだったため、暁博氏に代替わりして関係が切れてしまったのである。そのようなこともあって、自分での和紙染めを選ばざるを得なかった、という。

 赤、白、青の3色で作り上げられる単純な柄のハタ。暁博氏は啓太郎氏が残した古典柄一覧のノートを取っており、それを参考にハタの柄をつけていた。


【写真2−9 啓太郎氏が残したノート】


【写真2−10 ノートの中身(ハタの切り端で作成した見本)】

 しかし現在ではその他にもさまざまな柄のハタも見られるようになってきた。のぼり鯉、武者絵(1)、干支、人の名前などが入っているハタもある。このように装飾の凝ったハタが作られ始めたのは暁博氏の時代からとされる。そのきっかけとして、昭和47年に受賞した錦鯉柄のハタがある。その当時はまだ単純でわかりやすい柄のハタが多かったが、暁博氏は父親・啓太郎氏が趣味で飼っていた錦鯉をどうしても残しておきたいという想いがあった。啓太郎氏は非常に真面目で、仕事1本の生粋の職人さんで、アルコールも飲まない。そのような父親の唯一の趣味である鯉というのは池で飼育していても酸素不足ですぐに死んでしまう。そのため、暁博氏はすぐにスケッチして、ハタの図柄にした。和紙を切り貼りして、4段の層により完成した錦鯉柄は県に認められ、賞をもらったである。暁博氏はこれをきっかけに基本的な古典柄以外の柄のハタを作り始めたのである。それからハタは徐々に揚げるモノから飾るモノへと、用途に広がりを見せた。


【写真2−11 暁博氏が作製するのぼり鯉柄のハタ(受賞物とは異なる)】


【写真2−12 写真2−11のハタの裏側】

 現在では注文を受けて作ることも多く、端午の節句に子供の名前を入れてほしい、との要望もある。暁博氏曰く、啓太郎氏の代ではこのようなハタというのは存在しておらず、最近のハタの傾向は時代だ、という。明治・大正時代の子供はハタを買うお金がなく、家庭的にも生活がままならない状態で、口に入れることができないハタをわざわざ買う余裕はなかっただろうとされる。

 最近では飾り用のハタとして小さいサイズの豆バタも広まっている。実際、暁博氏が物産展に持っていくハタは豆バタである。一般の人たちにも持って帰りやすいサイズにすることで、より買ってもらいやすくしているのである。

 注文が多く入るようになったのはハタが観光化したからで、色々な人との出会いから現在の販売・商品開発が成り立っている。観光に力を入れるようになったのも周りの人々の助言だという。「長崎さるく」という長崎の観光名所をまわるまち歩きの一環に小川凧店さんは含まれており、著者が調査中の時も多くの観光客が訪れていた。仙之助氏や啓太郎氏の代のような納屋でひっそりと作られていたハタとはもはや大きく異なってきているのである。



3.大守屋
 次に、大守屋のご主人・大久保学氏とその娘さんにお話しを伺った。現在長崎市内に所在するハタ屋はわずか3件で、その中で大守屋さんは唯一の飾りハタ専門のお店である。


【写真3−1 大守屋さんの外観】

 創業は平成22年で、店主の大久保学氏は当時55歳。今年の9月で、お店を始めて5年になるという。大久保氏は54歳まで博多で単身赴任をし、会社勤めをしていた。元々ハタを自分で作り、揚げることが趣味で、会社員をする傍ら休日は公園などに行ってハタ揚げをしていた。

 ハタ作りを昔から行っていた大久保氏は会社などで名刺代わりとして取引先の方にハタを贈っていたという。ただの名刺よりも長崎らしいハタを贈ることで名前をすぐに覚えてもらえたのである。また、会社の仲間にはお正月の年賀状としてその年の干支の柄のハタを贈っていた。大久保氏の娘さんによると年の暮れに200枚ほど作っていたという。
ハタを作りながら会社員をしていたのだが、54歳の時に会社をやめ、何をしようか、となった時に趣味であるハタを作る仕事をしよう、と現在の「大守屋」を営むようになったのである。現在大守屋さんは学氏を中心に営み、家族がそれを支えている。大守屋さんで扱われている手拭いは学氏の息子さんがデザインをしている。


【写真3−2 大守屋さんのご主人・大久保氏(中央)と娘さん(右)】

 さて、大守屋さんでは揚げるハタで用いられるような古典柄のハタも扱われているが、デザインの凝ったハタも販売されている。大漁旗(2)に描かれる模様の施されたハタ、これは元々大久保氏が漁業関連の会社に勤めていたこともあり、船の進水などのお祝いとして渡すために注文されるという。また、のぼり鯉の柄の横に子供の名前を入れているハタ、主に端午の節句用いられ、親が自分の子供のために注文するのである。他にも干支柄やコウモリ柄などもある。コウモリというのは中国で幸福を呼ぶ動物、つまり縁起物とされている。長崎という地だからこそ、この文化が入ってきているのだろう。


【写真3−3 大漁旗のようなハタ】


【写真3−4 大守屋さんの飾りハタ】

 このようにデザイン性の高いハタを見ているとほとんどが縁起物として人々に認識され、人に贈られているということがわかる。それはハタが上に、上に揚がる様子から縁起が良い、とされるのである。さらにハタという長崎「らしい」ものに名前を入れたりするだけで、一点物になり、大変喜ばれることから贈り物に最適とされるのだ。このように長崎の人々にとってハタの存在は時代と共に変わりつつあるのである。


結び
 本調査では、長崎市内に所在する長崎ハタの職人さんたちにインタビューを行い、長崎における「ハタ」を明らかにした。調査によってわかったことは以下のことである。

・ハタ揚げは子供の遊びだけでなく大人の遊びでもあった。
・ハタ揚げの場所で有名な風頭山は元々荒地で、移住してきた百姓により開墾され、そこに居住した百姓がその地で始めたのがハタ作りであった。(小川凧店)
・現在揚げるハタだけでなく、飾るハタが広まっている。
・そのきっかけの1つとして小川暁博氏の父親への想いから作製された錦鯉柄のハタがある。
・長崎の人々にとってハタは縁起ものとして認識されており、人から人への贈り物になっている。



(1) 武者絵・・・端午の節句に家にて飾る布のようなもの。歴史などに登場する武将や、その合戦を描いている。男の子が産まれた家庭は、その家紋とその子供の名前を入れた武者絵を飾る。6、7メートルサイズの物が基本。
(2) 大漁旗・・・一般的に船の進水の際に周囲の人々が、船の持ち主に向けてお祝いとして贈られる旗のこと。


謝辞
 今回の長崎での調査にご協力いただいた皆様には大変感謝しております。小川 暁博氏、大久保 学氏、お二方のご家族の皆様、突然の訪問にも関わらず、貴重なお時間をさいてお話を聞かせていただきありがとうございました。上記以外のご協力いただいたすべての方々にもお礼申し上げます。本当にありがとうございました。


参考文献
原田 博二 2006 『長崎の凧(ハタ)図録』
渡辺 庫輔 1959 『長崎ハタ考』
長崎凧資料館資料 『長崎凧紋様』
長崎新聞』 2011年10月15日「ながさき人紀行」