関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

鯨文化の民俗誌 ―諫早市・長崎市をフィールドとして―

社会学部 佐久間祐希

【目次】
はじめに

1章 諫早市における鯨文化
1節 流通ルート
2節 鯨食文化
3節 食用以外の利用法
4節 鯨塔

2章 長崎市における鯨文化
1節 流通ルート
2節 鯨食文化
3節 食用以外の利用法

3章 海洋工芸社
1節 漁師時代
2節 海洋工芸社

4章 捕鯨問題を巡って

結び
謝辞 
参考文献

はじめに
 長崎県と鯨との関係はその歴史が非常に長い。壱岐原の辻遺跡より出土した弥生時代の壺には、捕鯨を行っている様子が描かれており、この地では古代から捕鯨を行っていることが推測できる。江戸時代には、組織的な捕鯨を行う鯨組が組織され、非常に大きな利益を出し、漁村は潤った。近代になり、IWCによる商業捕鯨モラトリアムが決議された後も、長崎県の人々にとって鯨は親しみのある味として、人々に愛されているのである。
 本論文においては、鯨文化が盛んである長崎市諫早市を調査フィールドとし、現在も鯨肉を取り扱っている「株式会社日野商店」「中原とらき商店」「株式会社くらさき」、また県内で唯一鯨を用いた工芸品を製造する「くじら工芸 海洋工芸社」さんを対象とした。以下、長崎県内において人々の間で語り継がれている鯨文化について、見聞したことを元に述べていく。

1章 諫早市内における鯨文化
1節 流通ルート
 この節では、諫早市における鯨肉の流通ルートに関し、商業捕鯨と調査捕鯨の時代におけるルートの変化について述べていく。
 まず商業捕鯨の時代から述べていく。かつて五島の生月や平戸などの近海を中心に捕鯨が盛んに行われていた西海捕鯨の時代から、江戸時代の鯨組、そして商業捕鯨モラトリアムが決議されるころまでは、諫早市では鯨の漁獲高が多かった。その流通ルートというと、生月や平戸などで捕れた鯨がまず大村湾に入ってくる。その後、彼杵や大村などに水揚げされるのと同様に諫早の津水という場所にも、鯨が水揚げされていた。そのため、かつて津水には、町全体に渡って鯨の臭いが漂っていた時代もあった。水揚げされた鯨は、津水で加工処理が行われ、陸路を通って光江という地点を通過し、有明海へと渡り、佐賀や福岡へと流通していった。
 その後、商業捕鯨モラトリアムが国際捕鯨委員会によって決議され、日本は商業捕鯨から撤退し、調査捕鯨へと移行した。ここでいう調査捕鯨とは、鯨資源の適切な管理下の下で、持続的に利用されるべきであるとの日本の立場から、資源の適切な保存・管理に不可欠なで科学的データを収集するという目的から始まった捕鯨の形態である。1987年には南氷洋で、また1994年からは北西太平洋で調査捕鯨が行われた。実施主体は、日本政府より特別許可証を発給された財団法人日本鯨類研究所である。日本鯨類研究所は、共同船舶株式会社に、捕鯨に必要となる人員や物資を要請し、同社がこれを受諾することで行われている。調査捕鯨によって得られた鯨資源は、国際捕鯨取締条約第8条2項により有効活用することが求められており、共同船舶株式会社は、政府や日本鯨類研究所の委託を受け、鯨肉の加工・販売を全国的に行っている。ここでいう加工とは、船上で解体して検査後に販売するために各部位に分ける一次加工であり、製品に加工することではない。共同船舶から原料として一次加工された鯨肉を仕入れ、それぞれの業者が製品となるよう加工する。諫早における鯨肉取扱店においても例外ではなく、共同船舶株式会社より鯨肉を仕入れている。

2節 鯨食文化
 諫早では、商業捕鯨が行われていた時代に好んで食される鯨の部位にはある特徴があった。それは、背中や胸などの赤身や皮肉といった、他の部位と比較しても比較的安価で入手できる部位である。それら安価な部位を諫早では塩蔵して、長期保存可能な状態にし、少しずつ食べていたのが商業捕鯨の時代の食べ方である。残りの高価な部位については、比較的裕福な人々が多く暮らしていた長崎市に流通していった。このトピックについては第2章以降で詳しく述べていく。さて、なぜかつての諫早ではこのような食べ方がなされていたのか。それは、諫早の地理的な状況が関係してくる。かつて諫早は農業従事者や肉体労働者の多い、長崎市などと比べると比較的低所得層の人々が多く生活していた。彼らは日々自らの肉体を酷使するため、身体の負担が大きかった。そんな彼らのエネルギー減として機能していたのが、塩蔵された鯨肉だったのである。彼らは塩蔵した鯨肉を摂取することで、たんぱく質を摂取すると同時に塩からミネラルも摂取していたのである。そこで使用された鯨肉は、低所得層の諫早の人々でも手の届きやすい価格であった、皮肉や赤身いった低価格の鯨肉だったのである。塩蔵しているということもあり、当時の諫早の人々にとって鯨肉は普段からおかずとして食卓に並ぶだけでなく、酒のあてとしても親しまれていた。また塩蔵するもう一つの理由として、当時保存技術がまだ発達していなく、生鮮食品の鮮度の劣化する早さが早かった時代の一つの保存技術として、塩漬けするという手法が取られたという経緯がある。
 また、現在では高級部位として知られる鯨の舌であるさえずりという部位も諫早では水揚げされるものの、長崎に出荷されていた時代があった。当時諫早では、さえずりはダシとしてしか使わないような、不必要なものとしての認識が強かった。また、赤身や皮肉の商売だけでも十分生活できるほど、商売の盛んな時期があり、さえずりまで扱っている暇はなかった。しかし、漁獲量が減少し、赤身や皮肉だけでの商売では生活が苦しくなってくると、さえずりも扱うようになっていった。
 諫早では、野菜が出だしたら鯨も動くと言われるように、鯨肉と野菜との関連も深い。諫早の人々は季節の野菜に合わせて、上述した安価な鯨肉を購入し、それを煮物にして食べるという習慣があるのである。その代表的なものが鯨煮しめという食べ方である。これは、主にジャガイモ・昆布・大根・人参・玉葱などと一緒に鯨肉を煮たものである。現在でも、遠くにいる家族が久しぶりに実家に帰ってきたときには、鯨煮しめを食べることが多く、これに合わせて鯨肉を買いに来るお客さんも多い。
 さらに、諫早では、正月前の数日前から鯨の小腸である百尋を食べるという習慣もある。諫早の人々は百尋が食卓に並び始めると、正月が来たと実感するのである。この理由として、一尋というのは古代の日本や中国において用いられていた長さの単位であり、百尋はこれの百倍に相当することから、百尋を正月に食べることで長生きしたいという期待の風習が諫早の人々の間には共有されていたのである。また、食材そのものに関連した理由もあり、百尋は年間商材ではなく、短い期間しか保存が効かない食材であり、さらに高価ということもあって、正月前のハレの期間にのみ食されていたという背景がある。
 この他にも、結婚式などハレの日には、畝須や百尋、尾羽など高価な部位を食べる習慣が、現在もなお存在している。

3節 食用以外の利用法
 諫早には鯨を食用以外にも用いる習慣がある。まず、家屋を建てる際に、家の大黒柱となる支柱と礎石の間に鯨肉を挟むというものがある。これは、鯨が諫早の人々にとって非常に縁起深いものであり、建材にこれを混ぜることで、縁起を担いで家の安全を祈願したのである。また、鯨油は害虫駆除として使用されていた。具体例として、シロアリ対策のため家の周囲に鯨油を撒いたり、田畑に撒いたりするという習慣もあった。

4節 鯨塔
 諫早には鯨塔と呼ばれるものが存在する。光江橋に備えられており、明治一年に建立されたものである。鯨塔が建立された背景には以下のような経緯がある。ある年、諫早地域の漁獲高が非常に少なく、人々は生活に困窮し、その日暮らしの生活を送っていた。そんな時、有明川に鯨が流れ着いてきた。人々はこれを捕獲し加工することで、地域の経済が潤い、正月を無事乗り切ることができた。人々は生活が潤い、無事正月を迎えられたことに感謝し、鯨塔を建立する運びとなったのである。現在、諫早の人々は、この鯨塔を信仰の対象としては捉えていない。

写真1 諫早市内にある中原とらき商店外観


写真2 中原とらき商店でいただいた鯨煮しめ

2章 長崎市における鯨文化
1節 流通ルート
 この節では、1章1節と同様に、長崎市における鯨肉の流通ルートに関し、商業捕鯨と調査捕鯨の時代の変化について述べていく。
 まず、西海捕鯨から商業捕鯨の時代については、まず生月や平戸近海で捕獲された鯨が大村湾に入ってくる。その後、彼杵・大村・諫早などに水揚げされた後、解体・加工作業が行われる。長崎市の場合、彼杵に水揚げされた鯨がまず、大村湾において対岸の時津に運ばれる。その後、陸路に変更して、道ノ尾―浦上という順路を辿り、長崎へと運ばれていた。
 調査捕鯨に切り替わってからは、諫早の場合と同様に、共同船舶株式会社が加工販売している鯨肉を長崎市内の各鯨問屋は卸し入れている。この形態が現在もなお取られている。

2節 鯨食文化
 諫早と同様、長崎市内においても好んで食される部位にはある特徴がある。
 まず、長崎市内で好んで食される部位は、鯨の腹部に当たる畝須や尾羽、さえずりなどであり、これらはいずれも他の部位に比べても比較的高価であるという特徴がある。なぜこのような特徴が現れるのか。それは、日本がこれまでに政策としておこなってきたことが関連してくる。江戸時代、日本は鎖国令を布き、外国との交流を制限していた。そんな状況下で唯一、外国との交流が公認されていたのが長崎であることはよく知られた史実である。そんな環境下にあった長崎は、当時から異文化に対する抵抗が少なく、それらを寛容に受け入れてきたと言える。江戸幕府天領であり、海外との貿易も盛んに行われていた長崎には、商売に成功して多くの利益を得た、比較的裕福な人々が多く暮らしていた。鯨以外にも美味しい食べ物を食べていた長崎市の人々は、鯨の場合でもやはり美味しい部分を食べようとする。かれらにとって美味しいとは、身が「柔らか」くてとろけるような食感のようなものを指す。諫早地方で好んで食される、赤身や皮肉は調理すると固くなってしまい、長崎市の人々はこれを嫌い、畝須や尾羽、さえずりなど柔らかくて美味しいものを好んだのである。また、長崎の地理的な条件も、このような食べ方に関係してくる。九州地方で捕れた鯨は、長崎県の彼杵に水揚げされ、各地に流通していくことは先程述べた通りである。鮮度の高い状態で鯨肉を届けられるような近場で、かつ高価な部位を買ってくれるような富裕層が多い地域は長崎県であったため、彼杵の商人たちはその多くを長崎市に送り、長崎市に住む人々もこれを好んで食するようになったのである。
 長崎市内に住む人々にとって鯨を食することにはどういう意味合いがあるのか。それに関連した興味深い話を、今回調査させていただいた「株式会社くらさき」さんから聞くことが出来た。その内容は以下である。長崎市にある墓はその多くが坂の上にあることが多い。これは単に、長崎県が坂の多い地域であるというだけの話ではない。長崎市で墓が坂の上にあるのは、死んでもなお天に近いところで休めるように、また天に近いところから私たちを見守ってもらえるようにといった人々の思いがあるためである。興味深いのはここからで、人々の鯨に対する思いにも同じような原理、願いがあるのである。鯨は世界で一番大きな生物であり、強くたくましいものの象徴とされてきた。人々も、鯨を食することで大きく成長し、強くたくましい人間になれるようにという願いを込めているのである。
 1章2節で諫早でも、ハレの日などには高価な部位を食べる習慣があると述べたが、長崎市にも、同様に季節の行事やハレの日などに合わせて食べられる食べ方がある。正月には、諫早と同様に畝須や百尋、尾羽など高価な部位を食べる習慣がある。長崎市ではこれと併せて、鯨雑煮も食べられる。節分には、おなますという料理が食べられる。これは、大根や人参と一緒に鯨の皮の部分を酢で和えた酢の物である。お盆には、仏壇に鯨のおなますを供えるという習慣がある。長崎くんちの際には、おなますや鯨の煮物が食べられる。

3節 食用以外の利用法 
 諫早市と同様に、長崎市にも鯨の食用以外の利用法がある。諫早市でも行われていた、害虫駆除のために家の周囲や田畑に鯨油を撒くという習慣は、長崎市でも行われている。また、長崎市では鯨の骨や髭などを用いて、工芸品を作るという文化も存在する。これは諫早市ではあまり見られない文化である。しかし、諫早市と比べると、長崎市内での鯨の食用以外の利用法自体の数はあまり無く、主に鯨は食用として親しまれていたということが言える。


写真3 調査を行った株式会社日野商店外観


写真4 調査を行った株式会社くらさき外観

3章 海洋工芸社
 2章3節で長崎市には、鯨の工芸品を作る文化があると述べたが、長崎県内で唯一、現在まで工芸品を作り続けている会社がある。それが、長崎市本尾町にある「くじら工芸 海洋工芸社」である。この章では、海洋工芸社に焦点を当てて述べていく。

1節 漁師時代
 この節では、海洋工芸社の創業者である故村野七郎氏の生い立ちから、漁師時代、そして企業しようとするまでの話に関して述べていく。
 村野七郎氏は、1924年五島列島に生まれる。家族は遠洋巻き網漁業を職としており、朝鮮半島に漁に出かけて、利益を出していた。その後、長崎水産高校に進学し、卒業後は徴兵することとなる。下関からフィリピンに向かう途中、潜水艦に撃沈され、漁船に救出されることとなる。その後、台湾で終戦を迎え、翌年の6月に服役する。
 長崎港から故郷の五島に向かう船上のこと、三菱重工業長崎造船所において当時建造中であった、第一日新丸を目撃する。そこで、南氷洋捕鯨を行いに行くための船であると聞き、興味を抱いた七郎氏は作業員に志願し、大洋漁業に入社することとなる。
 七郎氏が乗った船は、第三日新丸である。七郎氏は、船の中で、ストーキーと呼ばれる役職に就いていた。これは、船内のすべての業務を行う役職である。その業務は、船内のいわゆる雑務と言われるものから、本来の業務である漁に関係したものまでに及ぶ。
捕鯨漁は非常に過酷な漁であり、当時は現在とは比較し難いほどの困難があった。船は一度出港すると、6か月は港に戻ってこれない。七郎氏が捕鯨漁師であった、昭和20年から40年の時代には、現在のように高度に発達した通信技術がない。家族がいた七郎氏は、非常に寂しい思いをすることになってしまう。そんな状況下にある七郎氏の一番の楽しみは、家族から届く手紙であったと言う。そのため、現在の海洋工芸社の社長であり、七郎氏の娘である村野眞理子さんは、毎日のように七郎氏宛の手紙を書いていた。
 また、捕鯨船には当時船員が約700名ほどいたが、その全員が男性であった。また、南氷洋捕鯨を行うため、船上での生活は寒さに非常に苦しめられる生活であった。そのため、捕鯨漁師は、比較的寒さに強い東北地方の男性が多かった。そんな状況下で、七郎氏は家族によく「船には、酒だけはある。女はいない。世の中の変化もない。」と嘆いたそうである。また、南氷洋は日照時間が短く、生活の中で太陽に当たることのできる時間が随分と限られていた。また、船内の食生活は、生野菜をほとんど食べないものであった。主食は鯨肉で、時々ジャガイモや人参などが支給されていた。栄養不足から、七郎氏はほとんどの歯が抜けてしまうほどの状態になる。
 このような過酷な状況の中で、船上での生活に耐えきれず、自殺する者もいた。技術が進歩し、携帯電話などを持参すことができる現在でもなお、自殺する者がいる現状である。七郎氏は、「捕鯨漁師は、精神力と使命感の強い者でなければ続けることが困難な職である」とよく言っていたそうだ。この使命感というのは、まず自分の仕事には家族の生活が懸かっているというものである。また当時日本はひどい食料不足が社会問題となっていた。そのため鯨肉によって、不足している日本人のタンパク質を補おうとする政府の目的があった。自分たちの仕事には、日本人全員の命を左右しかねる仕事であるという責任感もあったのである。
七郎氏は30代半ば、このまま捕鯨漁師を続けていたら自分の身がもたないと考え、歩船を下りる決心をする。七郎氏には家族を養う必要があったが、若い頃より捕鯨漁師として活躍していたため、転職するための十分な知識や技術がなかった。考え抜いた末、やはり自分には鯨しかないという結論に至り、鯨の工芸品を扱う仕事をしようと決める。というのも、捕鯨漁師は、過酷な仕事の空き時間に趣味の一環として、マッコウクジラの髭や歯などを用い、工芸品を作っていたのである。七郎氏はこれが商売になるのではないかと考え、起業するに至ったのである。

2節 海洋工芸社
 前節で七郎氏が漁師を辞め、鯨の工芸品を始めようと方向転換したに至るまでの経緯は説明したが、実際に彼が事業を始めたのは、昭和40年のことである。最初はペンギンの工芸品を作り始める。しかし、当時長崎において工芸品と言えば、べっ甲の方が知名度、人気共に高く、鯨の工芸品はなかなか売れない日々が続いた。そのため、経営は厳しく、作業場は畳2畳ほどの大きさしかなかった。当時の状況を振り返り、七郎氏は家族によく「苦労はしなかったけど、貧困した」と語っていたそうだ。
会社を始めてから5年後の、昭和45年、七郎氏はある方向転換をする。それは、工芸品を扱うと同時に、椿油の販売も行うというものである。七郎氏が椿油の販売を開始したのには幾つか理由がある。まず、工芸品だけでは経営が非常に苦しかったということである。また、五島列島では椿が数多く咲いており、人々はそこから椿油を採取して生活の中で利用するという習慣があったのである。七郎氏も、例外ではなく、家庭で椿油を栽培しており、食用や灯り用として利用していた。現在の海洋工芸社の社長である、村野 さんは、「もし、父が椿油の販売をしていなければ、廃業していた」と語るほど、海洋工芸社にとって椿油の存在は大きなものであったのである。
当時の営業形態は、工房兼販売所である自店のみでの販売であり、営業に回ったり、物産展に出品したりといった活動にはあまり力を入れてこなかった。しかし、昭和48年にホテルニュー長崎に初めて直売店を出すこととなる。これを契機に、多くの人々に鯨の工芸品を認知してもらうことに成功し、その後は順調に売り上げを伸ばしていった。
ここで、鯨の工芸品を購入している顧客に関しても述べていく。海洋工芸社として、本当の所は、地元長崎の人々を相手に販売をしていきたいと考えているが、実際は、県外から足を運んできた観光客が購入していくことが多いのが現状である。彼らが鯨の工芸品を購入していく理由として、珍しいものであるから、また色合いが白く、アクセサリーなどが洋服と合いやすいなどが挙げられる。村野眞理子さんは、購入者の心情を以下のように推測している。鯨は80年近く生きる大きな生物であり、その間に一つも病気をしなく、非常に体が強い。特に、歯鯨であるマッコウクジラは深海3000mまで潜ることができるため、そのパワーは他の哺乳動物には例がない程のものである。人々も、鯨の工芸品を家に置いたり、身に付けたりすることで、鯨のように強く生きたいという気持ちがあるから、買っていくのではないかと語っていた。
鯨を工芸品として扱っていく上での、今後についてはいくつかの課題がある。まず、工芸品の原料となるマッコウクジラが、IWCにより捕鯨禁止とされ、今後あまり原料の入手が見込めないのではないかという問題である。また、鯨の工芸品を購入していく人が減少してきているのが現状であり、利益が落ち込んでいくことで、製造を続けていけるのかという問題もある。さらに、椿油が美容に良いなどといった認識が人々の間に浸透した結果、企業が椿油を大量に買い占め、商品開発を行うといった動きが起き、これらの大企業よりも小さな企業では椿油の入手が困難になってしまうという問題もある。
 しかし、村野眞理子さんは、工芸品を扱い続けていきたいと語っている。工芸品を製造し、それが人々の手へと渡っていくことで鯨に対して親しみを持ってもらう。そうすることが、鯨を守っていくことに繋がり、村野眞理子さんにとって鯨を守っていくことこそが私たちの使命であると語っている。


写真5 くじら工芸 海洋工芸社の店内に置かれている鯨の工芸品の数々


写真6 くじら工芸 海洋工芸社の店内に置かれている鯨の工芸品


写真7 故村野七郎氏が共同船舶株式会社より譲り受けた捕鯨

4章 捕鯨問題を巡って
 歴史的に見て、捕鯨を取り巻く世界の状況にはいくつかの問題が発生しており、現在もなおその影響が続いている。例えば、鯨が餌として他の海洋生物類を食べすぎているのではないかといったもの、これまでの鯨の乱獲により鯨類が絶滅に瀕するのではないかというものがある。また、鯨は知能が高く親しみがあり、神聖なもであるという考え方が海外を中心にひろまっており、特に日本を対象として言われていることなのだが、これらを捕獲することは非人道的で野蛮な行為であるといったものもある。さらに、シーシェパードと呼ばれる反捕鯨集団が存在し、彼らが捕鯨船に対し過激な手法を取って反捕鯨を訴えるということが起きており、日本も南氷洋での調査捕鯨の際、重症を負う船員が出るほどの攻撃を受けるという事件が発生していることも問題となっている。
 これら捕鯨を巡る問題に対し、自分たちに直接の影響があるということで、今回調査を行った人々は、僅かに違うものの、近しい考え方を持っていた。
例えば、「中原とらき商店」の店主である、中原信行氏は、現在の一般的に公となっている世界的な反捕鯨の立場に対し、強い反対意識を持っている。信行さんが反対意識を持つのには以下のような考えがある。上記の捕鯨を巡る問題の一つで述べた、鯨の乱獲に対して、日本の調査捕鯨で得られたデータによれば、鯨の量は、捕鯨を続けていても絶滅には至らないほど回復しており、今後一定の水準を守り続けていく限り、問題はないという結果が得られた。このデータは非常に正確であり、科学者の集まる国際的な委員会においても、その評価が高い。しかし、海外を中心に広がる捕鯨は非人道的行為であるという認識が影響することで、日本の正確なデータがIWCに送られても、捕鯨が禁じられてしまう。その反捕鯨のニュースだけがあらゆるメディアを通じて人々に届くことで、人々は、鯨は今絶滅の危機に瀕しており、捕ってはいけない生き物なんだという思考に至る。結果として、人々が鯨を食べることが悪いことだと思い込み、食べる人が減少し、なじみのない食べ物となってしまう。これでは、日本の調査捕鯨によって得られた科学データの意味がなくなってしまうではないかというのが信行氏の主張である。そこで、自分にできることは、鯨の商売を続けていき、より多くの人々に鯨を食べてもらうことで親しみを持ってもらい、鯨は正しい量を守っていれば、食べても大丈夫なんだと思ってもらうことだと語る。そのために、信行氏は積極的にポスター作りやレシピの紹介などの活動を行っている。
「株式会社くらさき」の店主である、小嶺ひろ子さんも、反捕鯨の立場には否定的な意見を持っている。海外の国々が日本の捕鯨に対して反対意見を投げかけバッシングを行うのは、ある種の嫉妬心、やきもちの感情があるのではないかと小嶺ひろ子さんは語る。日本は古くから捕鯨を行ってきたという歴史があり、伝統として根付いている国である。それは、根本的な日本人の勤勉さ、まじめさ、信仰心から生まれたものである。捕鯨に賛成の立場を取る国々にもやはり、歴史や伝統があるのである。これに反対の立場を取る海外の国々には、そもそも日本のような捕鯨の歴史や伝統がない。鯨は知能が高くて愛らしい生き物であるから、捕鯨を行うのには反対という立場をとるのは、甘い考え方であり、日本のように伝統ある国がやっていることには口を挟まないで欲しいというのが、小嶺ひろ子さんの主張である。世界的な反捕鯨の影響を受け、日本にいる人々の鯨離れが進んでいることは先程述べたが、中原信行氏と同様、さんも、より多くの人々に鯨を食べてほしいと考えており、鯨が人々にとってより親しみ深い存在になることを望んでおられる。
 「くじら工芸 海洋工芸社」の現社長である村野眞理子さんも、国際的な反捕鯨の動きには反対の立場に立つ。これまで何度も述べてきたように、海外の国々は鯨を高等な生物であるとし、これを食べることは野蛮な行為であるとする。では、牛や豚は下等な生物であり、これらを食べることは野蛮な行為には当たらないのか。海外の国々は、鯨を食べることと牛や豚を食べることは別問題であるといった立場を取っている。村野眞理子さんは、この考え方に疑問を投げかけている。このような考え方をするならば、知識や技術を持った人々は高度な人間であると認識され、人々から敬われる。一方、知識や技術がなかったり、障害を持ったような人々は下等な人間であると認識され、差別や虐待の対象とされてしまう。このような状態が成立してしまって良いものなのか。仮に、宗教や文化の違いで生物に優劣をつけるような集団があったとしても、それは自分たちのコミュニティの中だけの価値観であり、それを他のコミュニティに押し付けることは間違っている。これと同じ構図が、鯨を取り巻く人々の価値観の中で起きてしまっている。日本んは、古代より鯨文化が浸透しており、それを別のコミュニティである海外の国々からとやかく言われるのは間違っているというのが、村野眞理子さんの主張である。

結び
 本論文においては、長崎市諫早市の2地点をフィールドとして設定し、各地域にある鯨肉取扱店、また長崎市においては海洋工芸社に話を伺い、そこから見えてきた長崎県独自の鯨文化について明らかにしてきた。今回の調査においては、以下のことが明らかになった。
1 鯨食文化に関し、長崎市諫早市を比較した際、そこに住む人々の就労状況、経済状況による影響を受けて、好んで食される部位に違いが生じている。また、その違いは現在においても存在しているものはあるものの、なくなっているものも多い。

2 長崎市諫早市どちらの市にも、鯨の食用以外の利用法が存在していた。その多くが縁起を担いだものから生まれてきたものである。しかし、長崎市には、鯨を工芸品として扱う文化がある。これは、長崎市が経済的に豊かであり、鯨を工芸品として利用するだけの余裕があったことに起因する。この点、諫早市は経済的に厳しい状況の人が多く、鯨の工芸品を扱うだけの余裕がなく、そのため工芸品を作る文化は生まれてこなかった。

3 捕鯨問題を巡って、私たち日本人の中には、世界で起きている捕鯨の現状について知らないことが多く、またそれらを知ろうともしないで反捕鯨の立場を取る人々が非常に多い。私たちはメディアから流されてくる情報を鵜呑みにし、国際的には反捕鯨の立場を取ることがメジャーなのだと勘違いする人が多い。しかし、現状は一部の国の価値観が結果として世界の意見になってしまっているだけである。捕鯨を支持する立場の国々の意見にまで、耳を傾ければ、現在の風潮がメディアによる操作であることに気づくはずである。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、貴重な時間を取り調査に協力してくださった日野商店代表取締役社長である日野裕一さん、中原とらき商店店主である中原信行さん、株式会社くらさきでお話しを伺った小嶺ひろ子さん、くじら工芸海洋工芸社代表取締役である村野眞理子さんには、熱く感謝申し上げます。鯨のことに関し、未熟者である私に懇切丁寧にお話を聞かせて下さり、非常に勉強になりました。今回の調査でさらに、鯨を取り巻く世界に魅了されました。皆様の協力なしには、本論文を完成させることはできませんでした。お力添えをいただいたことに、この場をお借りして、心より感謝申し上げます。

参考文献
2005年9月16日 『鯨と生きる 長崎のクジラ商日野浩二の生涯』 長崎文献社 日野浩二
1989年5月31日 『くじらの文化人類学―日本の小型沿岸捕鯨―』 海鳴社 
共同船舶船舶株式会社ホームページ http://www.kyodo-senpaku.co.jp/services.html
一般財団法人 日本鯨類研究所ホームページ http://www.icrwhale.org/01-B.html
2013年3月1日 「長崎と鯨」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/jigyo/370000/371000/p005681.html
2013年11月20日 「中原とらき商店 諫早と鯨〜伝統優良食材である鯨肉の食文化を守るのは、刻んできた歴史と人の思い〜」http://isahaya-moriage-girls.com/food/food02