関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

伊良部島佐良浜地区の追い込み漁・アギヤーを行う漁労集団

伊良部島良浜地区の追い込み漁・アギヤーを行う漁労集団
                         社会学部 0245 豊副啓人

はじめに
 宮古島からフェリーで20分ほど行くと伊良部島という島がある。伊良部島の佐良浜地区では漁業が盛んに行われており、カツオの漁獲量が日本一になったこともある。そんな豊かな漁場を持つ伊良部島では、伝統的な漁法として受け継いできたアギヤー漁という独自の漁法がある。伝統的なアギヤー漁の今回の研究では変遷やどのような集団が行っているのかということを以下に論ずる。


【目次】
 序章  アギヤー漁というもの

 第1章 アギヤー漁の変遷
 第1節 昔と現在の大きな変化
 第2節 昔のアギヤー
 第3節 現在のアギヤー
 第4節 人数の減少

 第2章 唯一のアギヤー漁集団「国吉組」
 第1節 国吉組という組織
 第2節 潜り長
 第3節 漁の配当金

 第3章 アギヤー漁師のライフヒストリー―国吉正雄氏・福里英二氏―

 結び



序章 アギヤー漁というもの
 アギヤー漁は糸満海人によって生み出された漁法である。アギヤーとは宮古島の方言で「網を揚げる」という意味であるが、その言葉の通り水深10メートルほどの海底に網を設置し行う。漁のスタイルとしては追い込み式の漁で、酸素ボンベを背負い海中で魚を追い込んでいく漁法である。このアギヤーで狙う標的は昔からグルクン(和名:タカサゴ)という魚である。沖縄県で食べられるグルクンの7割ほどがこの佐良浜地区のアギヤー漁によって賄われている。
 このアギヤー漁は明治時代に糸満海人の漁法として確立し、大正初期に糸満海人によって佐良浜に伝えられた。この時に佐良浜で漢那計徳氏が漁法を伝授され、それから佐良浜に住む漁師たちに追い込み漁の技術を教えたことでアギヤー漁は始まっていった。アギヤーを最初に伝授された漢那計徳氏は莫大な富を手に入れたと言われている。
 アギヤー漁において重要なことは海中で魚を網に追い込むという行為ではなく、網を設置する場所を選定することである。まず、網を設置する場所は根(セイ)と呼ばれており、このセイの数は伊良部島沿岸部から少し離れたところまで、全体で何千か所もある。セイの場所は地図などでは記されておらず、すべて頭の中にはいっているのである。漁を行う上でアギヤー漁師たちは、その日の水温・潮の流れ・風など様々な条件に自分自身の経験や感覚を合わせて場所の選定をおこなう。そして水中で袋網と袖網注1という2種類の網を設置する。この行為をキジルという。この網を設置するまでの一連の流れをその日の責任者がおこなう。網を設置してからは袋網にかかるように水中内でグルクンを誘導する。袖網が両サイドに張られているため、一度グルクンが網のほうに向かってしまうと逃げることができないという仕組みだ。

図1:袋網と袖網を束ねたもの

第1章 アギヤー漁の変遷

第1節 昔と現在の大きな変化
 昔と現在のアギヤーは水中でグルクンを網に追い込むという点では同じであるが、大きく異なっている点がいくつかある。アギヤーの一つの転換点として大きな要因をもつのは水中眼鏡の登場である。水中眼鏡の登場により、以前は豚の油などを水中に流しそこから魚のいる場所を確認してから潜っていたが、水中眼鏡が登場してからは潜ってからでも目で確認できるようになったため、漁獲量は格段に増加している。
 アギヤーで用いられる船をサバニというが、サバニも木造からファイバー船注2へと変化している。木造船のサバニは杉の木で作られており、当然エンジンのようなものはついていなかったため手漕ぎで沖まで出ていた。ファイバー船になってからはエンジンでの移動となったため、漕ぎ手の労働力は必要なくなったが、漁にでるための燃料(油)代のコストが大きくなっている。ファイバーのサバニは特徴として船体が全て青く塗られている。これは海の色と同化させることで魚たちを警戒させないようにという意味がある。木造のサバニは現在でもハーリー注3などの行事で使われている。

図2:杉で造られたサバニ


図3:ファイバーで造られたサバニ

アギヤー漁師の数も大幅に減少しており、1950〜60年ごろは100人ほどいたアギヤー漁師が現在は15名となっている。これは非常に危機的な問題であり、現役のアギヤー漁師の平均年齢は65歳ほどで後継者もいないためこのままいくとアギヤー漁自体が無くなってしまうと言われている。

第2節 昔のアギヤー
 昔のアギヤーが木造の船で漁に出ていた。水中眼鏡や酸素ボンベがなかったために一回の漁にかける時間は体力的な問題もあり極端に短かったと考えられる。この当時はアダンパ(アダンの葉)注4を魚が嫌うという特性をいかし、シルシカーという立て縄式の網を水中にはり、それを上下に揺らすことでグルクンを追い込んでいた。

●漁の一連の流れ
①朝5〜6時、出港。2合の泡盛を海に撒き大漁を願う。
②その日の責任者が風・潮の流れからセイの選定を行い、網の設置。(キジル)
シルシカーを等間隔に設置し、漁師達は海面上からこのシルシカーを上下させる。
④グルクンはこのシルシカーを嫌うため、網のほうへ逃げていく。
⑤潜り手(素潜り)がサッピャという道具を用いて追いこんでいく
⑥逃げる先を袖網・袋網の中へと誘導し、漁の成功となる。

この流れからわかるように、当時の漁法では長く水中に潜っておくことができなかったため、水上で泳ぎながらシルシカーを上下に揺らし網の中に誘導していくコーハン注5という役割が非常に重要だった。

図4: サッピャ(全長3メートルほど。先端はビニール紐がついている。)

第3節 現在のアギヤー
 漁の一連の流れは昔と基本的に同じである。大きく変化した部分は、酸素ボンベの普及により一回の潜りにかける時間が長くなったということだ。それに伴い、昔のアギヤーは漁にかける時間は短かったが、現在では長いときで8〜9時間(平均的な時間:AM6時〜PM2時)漁に出ていることもある。また立て縄式のシルシカーもアダンパ(アダンの葉)をつけるのではなく、ビニール紐を用いるようになった。グルクンはビニール紐を嫌う性質があり、そこをうまく利用しアダンパからビニール紐へとシフトしていった。
 昔はアギヤー漁師の数も多かったため、漁に出る日に欠員がでても出漁していたが、現在は一人でも欠員が出ると漁は中止になってしまうこともある。これはアギヤー漁がチームプレイで行う漁法であるからで、一人でも欠員が出るとそこをカバーすることが難しいと考えられている。
 現在では酸素ボンベの普及により、水中内でグルクンを網に追い込むことが可能なため、コーハンの役割は昔ほど重要ではなくなっている。潜り手のことをダイバーといい、彼らは20キロほどの酸素ボンベを背負って水中に潜っていくのである。

図5:現在のアギヤーの見取り図 沖縄県の漁具、漁法より


図6:実際に使われている酸素ボンベ(20キロ)

第4節 人数の減少
 ピーク時で100人ほどいたアギヤー漁師が現在15人しかいない。平均年齢も65歳ほどととても高く、このままだとアギヤー漁は無くなってしまう可能性が高い。人数減少の理由はいくつかある。

世襲を行わないということ
  →アギヤーの過酷さを知る漁師は自分の子供に継がせようとしない。
   佐良浜に住む他の漁師でも敬遠しがちな漁法である。
②潜り漁師特有の病気のリスクが高い。
  →潜水病(耳が聞こえにくくなる)、重度の肩こり・腰痛(酸素ボンベを背負うため)
③グルクンの漁獲量が年々減少していっているため、この先が保障できない状況であるということ。


このように、アギヤーは基本的に世襲をしないということが大きな理由だと考えられているが、漁師さんたちの本音は自分の子供を危険な目に合わせたくないということである。現に唯一のアギヤー漁集団である国吉組でも世襲は一度もおこなっていない。
このまま人数が減り、後継者が現れなかったらアギヤー漁の衰退は進む一方である。アギヤー漁が衰退していくとカツオのエサでもあるグルクンが取れなくなってしまうため、佐良浜のカツオ漁も衰退していくと考えられる。そうなると佐良浜の漁業がなくなってしまうかもしれないという大きな問題もある。

第2章 唯一のアギヤー漁集団「国吉組」

第1節 国吉組という組織
 国吉組は佐良浜でアギヤー漁をおこなっている唯一の集団であり、国吉組は潜り長である国吉正雄氏が率いる漁師15名からなる集団である。
 この15名の内訳として8名がダイバー注6で7人がコーハン。コーハンとは海面上から漁の様子を見てグルクンが逃げる先をダイバーたちに伝える役割だ。国吉組が持っているサバニの数は4隻で、1隻に乗り込める人数は4.5人となっている。それぞれのサバニに船主がおり、この船主と国吉正雄氏を含めた幹部が漁に出る日にちなどの話し合いを行う。
 アギヤー漁は集団でおこなう追い込み漁であるためチームワークがとても重要であり、その集団のなかでリーダーである潜り長という地位は絶対的な存在となっている。
 現に、国吉組の中でも潜り長である国吉正雄氏の決定は絶対で仮に年上だとしても、潜り長の決定には従わなければならない。
 アギヤー漁はチームワークが必要であるので、誰かが統率をとることが何より重要視されていた。そのため潜り長と呼ばれる人の権力は集団の中で大きくなっていったのである。

図7:国吉組潜り長 国吉正雄氏

第2節 潜り長
 集団のリーダーである潜り長は立候補でなれるものではなく、前任の潜り長から任命されて就任する。潜り長はコーハンのメンバーから選ばれる可能性は限りなく0に近く、ダイバーの中の誰かが任命される。これはダイバーの人のほうがコーハンの人よりも漁において直接的な仕事をしているからである。
 潜り長になるためには2つの条件がある。①結婚していて、夫婦ともに健康であること②耳の聴力が衰えていないということである。
①の理由は、潜り長の奥さんは漁師の集まりがあるときは必ず潜り長の自宅でおこなわれるため、手料理でもてなさなければならないからである。
 ②の理由は潜り長はダイバーの中から任命されることが多いため、潜水病の影響でほとんど耳が聞こえない人もおり、潜り長の耳が悪いと色々と問題が生じるためである。
 この条件を満たし漁の腕も良く、人格的にも優れている人が前任の潜り長から任命を受ける。潜り長には任期はなく、交代はいつでも可能である。また潜り長が交代したときは組の名前も変わり、潜り長の名字が組の名前になる。潜り長になっても役得のようなものはあまりないが、潜り長になるということは非常に名誉なことだと考えられている。

第3節 漁の配当金
 漁の配当は漁から帰ってきたその日の夜に潜り長の自宅でおこなわれる。配当は漁があった日の夜におこなわれるため、給与は日払いである。配当は国吉氏と各サバニの船主たちでおこなう。配当金額は10円単位まできっちりとおこない、新人もベテランも平等に扱われる。ただし、コーハンとダイバーでは貰える配当金が異なる。ダイバーはコーハンの人が受け取る配当金の2倍の額を受け取る。サバニの船主たちは2人分の働きをしたとカウントされ、貰える配当金をさらに2倍上乗せした金額がもらえる。船主でもなんでもないダイバーとコーハンは基本的に2:1の金額で、新人・ベテラン関係なく配当される。

図8:漁から帰ってきたところ

第3章 アギヤー漁師のライフヒストリー―国吉正雄氏・福里英二氏―

 国吉氏は現在60歳、福里氏は現在66歳でベテランのアギヤー漁師である。お二方にお話しを伺っていると、幼少時から現在に至るまでの人生に似通っている部分が多いことがわかった。このお二方を含め、ベテランのアギヤー漁師たちはほとんどが伊良部島の佐良浜出身である。共通点として、父親が漁師だった人が多い。またほとんどのアギヤー漁師は中学を卒業すると同時に漁師としての生活を始めているのである。
 
幼少時代は海が毎日の遊び場で、学校が終わると毎日海に行っていた。遊びの一環として小さいころから素潜りをしており、魚や貝を獲っていたのである。
 中学を卒業すると同時に漁師となり、アギヤー漁を始めた。福里氏は父親がアギヤー漁師だったためアギヤー漁を始めたが、父親からアギヤーの技やテクニックなどを教わることはなかったのである。また、国吉氏はアギヤーについては詳しいことは何も知らず、漁師として現場に出ることで漁法を学んでいった。このことからわかるように、アギヤー漁は教えてもらうものではなく、自分で漁法やテクニックを編み出していくものであることがわかる。国吉氏・福里氏は数年間アギヤー漁をおこない、経験を積んでいる。

 20歳くらいの年齢をこえてからは両氏ともにアギヤー漁を一時的に辞め、カツオの一本釣りを始めている。当時はまだパヤオ(浮島)漁法注7がなかった時代なので、アギヤー漁よりも慎重に波・潮の流れ・風をよまなければならなかった。福里氏はこの時の経験が現在のアギヤー漁でもいきていると言っている。
 アギヤー漁にはあまり関係性はないが、漁師の魚を取るために必要な感覚に(波・潮の流れ・風)に「海面にいると鳥を見る」という要素が加わった福里氏は言っている。
 佐良浜漁師たちはカモメのことを「カツオの鳥」と呼ぶ。このカツオの鳥が高く飛んでいる状態を「タカミー」といい、その真下にいけばカツオが大量にいるのである。また、カツオの鳥が海面付近にいるとその真下にはマグロが大量にいたという。
 国吉氏・福里氏は漁において鳥を見る感覚を学べたことは経験としてとても大きかったと言っている。その後、両氏ともにカツオ船の船長にまでなっており、国吉氏は南洋諸島に行くこともあった。

 カツオ漁から数年後、ともにアギヤー漁を再開している。多くの漁師がアギヤー漁を一時的に離れカツオ漁をおこなっていたが、アギヤー漁に復帰する人数は少数だった。つまり、現役のアギヤー漁師のほとんどはカツオ漁も経験している。再開から15年ほどたった後、国吉氏はアギヤー漁の潜り長となり「国吉組」ができる。福里氏はサバニの船主となっている。

図9:福里英二氏

結び
 今回の調査ではアギヤー漁師の国吉正雄氏、福里英二氏にお話しを伺いおこなった。伝統漁業のアギヤー漁の変遷や、漁をおこなう漁師たちはどんな人なのかということを記している。またアギヤー漁は集団での追い込み漁であるため、チームワークがとても重要である。そのチームワークを強固にするために「組」という組織をつくり現在の国吉組まで組織として成り立っているということがわかった。
現役のアギヤー漁師の数は減少し続ける一方だが、県外から移住してきてアギヤー漁師になった人も少なからずいる。後継者がいないという問題は深刻ではあるが、佐良浜にとってアギヤー漁はなくてはならないものである。



1:袋網と袖網…袋網のサイズには決まりがない。袖網は長さ約50メートル。
        この2つを組み合わせることで一つの大きな網をつくる。
2:ファイバー船…炭素繊維強化プラスチックでできた船
3:ハーリー…沖縄県など各地でおこなわれる伝統行事。佐良浜ではサバニをもちい、競い合うことで航海安全・豊漁を祈願する。
4:アダンの葉…亜熱帯や熱帯で生育する植物。
5:コーハン…アギヤー漁において海面上から漁を観察しつつ追い込む役割。シルシカーを揺らしながらグルクンを誘導する。
6:ダイバー…酸素ボンベを背負い水中内で追い込みをおこなう役割。サッピャという3メートルほどの棒状の道具を使い追い込んでいく。
7:パヤオ漁法…浮力体を付した人工物を海の表層または中層に設置して形成した人工魚礁を使った漁法。回遊魚が漂流物に集まるという習性をうまく利用した漁法である。

参考文献
1)沖縄県漁業振興基金、『沖縄県の漁具、漁法』    発行年度・不明
2)糸満海人工房・資料館、糸満漁業の歴史
  http://www.hamasuuki.org/home/index.html
3)琉球新報 県産グルクン危機、アギヤー漁後継者不足
  http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-187187-storytopic-1.html