関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

坂の町と対州馬

社会学部 山代哲也

【目次】
はじめに
第1章 対州馬と荷運び
第1節 古賀義己氏
(1)荷運びの歴史
(2)ライフヒストリー
(3)荷運びの様子
(4)対州馬について
第2節 渡辺正時氏
(1)ライフヒストリー
(2)荷運びの様子
(3)対州馬について
第2章 対州馬の現在
第1節 対馬と保存活動
第2節 霜川剛氏
第3節 江島達也氏
結び
謝辞
参考文献



はじめに
 日本古来の馬は、軍馬や産業として使用するには小さく、体力不足のため、明治期後半に欧米の大型馬の導入による改良が国策化された。昭和10年には、総馬数150万頭は、ほとんど改良されたが、特殊な事情により洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた馬がいる。これが、日本在来馬であり、日本固有の馬である。現在は、北海道和種、木曽馬、御崎馬対州馬、野間馬、トカラ馬宮古馬、与那国馬の8種類に分かれており、その多くは絶滅が危ぶまれている(林田 1972)。
 対州馬も例外ではない。対州馬は主に長崎県対馬市に生息し、他の在来馬と同様に賢い、おとなしい、人懐こいといった特徴を持つ。小さい体で一度に150kgから200kgの荷物を運ぶ力があり、自動車が通れない細い坂道が多い長崎市で、建築資材などの荷物を運ばせるために需要が伸び、数年前まで長崎市で馬による荷運びが行われていた。
 本研究は、日本在来馬の中でも近年まで生産的で立派な仕事をしてきた対州馬に着目し、坂の町、長崎市を中心に、かつて対州馬を用いて荷運びの仕事をされていた方、現在対州馬を飼われている方、そして荷運びの仕事をもう一度復活させようとしている方の語りやそれぞれの対州馬に対する認識のあり方について、明らかにすることを目的とする。


【写真1 長崎市で荷運びをする対州馬


第1章 対州馬と荷運び
 かつて長崎市で馬を用いて荷運びの仕事をしていた2人の元馬方を調査した。
第1節 古賀義己氏
(1)荷運びの歴史
 主に対馬市に生息していた対州馬長崎市でも見られるようになったのは、約50年前の1960年代である。当時、長崎市対州馬を用いて荷運びの仕事をされていたのは、古賀義己氏の大伯父を含めた2、3業者であった。70年代には10業者前後にまで増え、義己氏が荷運びの仕事を始めたのもこの時期である。80年代には最盛期の16業者となり、対州馬長崎市に40頭前後いたようだ。義己氏の仕事も最も多い時期であり、50年前には6、7万円であった対州馬も、荷運びの仕事に使用するということが対馬に浸透し、約50万円に値上がりしたそうである。しかし、その後は坂の上に家を建てる人が減少し、90年頃から仕事が激減したという。
 また、仕事が減るとともに対州馬の数も少なくなってきた。そのため、最後は木曽馬で仕事をしていた人が多かったという。2009年に義己氏を最後とし、長崎市で荷運びの仕事を行う者はいなくなった。
 仕事が減った理由として、1.坂の上に新築の家を建てる人が激減した。2.坂の上に新築の家を建てる場合も、現在は道路が整備されているため、馬を用いる必要はない。3.馬が通るために最低1m30cm以上の幅が必要であるが、道に手すりができ、馬が通れなくなった。などが挙げられるそうだ。

(2)ライフヒストリー
 元々は、義己氏の大伯父が農業用の肥料を運ぶために、対馬市に行き、対州馬を購入した。その後、馬が肥料を運ぶ様子を見た周囲の住民からも、建築資材などの荷運びを依頼されるようになり、仕事へと発展した。その後、大伯父に次いで義己氏の父、朝男氏も対州馬を購入した。朝男氏は元々馬車引きをしており、本当に馬好きであったという。
 義己氏は、当初、タクシー運転手として働いており、荷運びの仕事を継ぐ意思はなかったが、父の体調不良などが原因で22歳頃から荷運びの仕事を手伝うようになる。約10年間はタクシー運転手と両立し、父が他界した後は荷運び1本で仕事をされていた。義己氏のご子息も当時は仕事を手伝っていたようだが、先が見えない仕事のため、引き継がせる意思はなかったという。仕事が減ったため、2009年に荷運びの仕事を引退される。現在は農家をされている。

(3)荷運びの様子
 最も多い時期には、月に25日前後仕事をされていた。雨の日は仕事ができないため、天候にも左右されていた。引退された2009年頃には大きく需要が減り、最終的には月に2、3日前後にまで仕事が減少したという。
 仕事は毎日9時頃から始まり、馬の体力的な問題もあり、1か月以上かかる仕事でも16時には切り上げていた。坂道の長さにもよるが、日に20往復以上することもあったという。仕事がない日も小屋や道具の手入れや馬の世話に時間を取られるため、自由な時間がほとんどなかったようだ。
 長崎市の荷運び業者同士は横の繋がりがあり、仕事量が多いときはお互いに協力していた。当時は荷運び業者が集まって開かれる忘年会や新年会などもあり、義己氏の父が元締めであった。大半の荷運び業者は農業と兼ねており、馬の堆肥を畑に使っていたようだ。
 また、仕事を行う範囲は、地域ごとに分かれているのではなく、長崎全域で仕事をされていたという。仕事の依頼は、個人から受けるのではなく、多くは大工を介して受けてられていた。つまり、大工が荷運び業者を選ぶという形で仕事が行われていた。
 月に25日働いていた業者は稀で、人の手伝いを専門とする業者もいたようだ。日当は馬1頭につき3万円から3万3千円であった。馬は1度に人間の何倍も多くの荷物を運ぶため、稼ぎが良かったという。
 多いときは3、4頭で同時に仕事することもあったという。遠方で荷運びを行う場合はトラックで馬を運んでいた。その際は、台等を使って馬を乗せるのではなく、「飛び上がり」と呼ばれる技を覚えさせ、馬自身に乗らせていたそうである。1台に3頭まで乗せることが出来たようだ。
 また、荷運び以外に、「長崎くんち」(長崎市の伝統的な祭り)にも仕事として対州馬を過去に5、6頭出していたという。義己氏は、40年間で仕事のために約15頭、馬を購入された。仕事を引退した2009年には木曽馬を1頭飼われていた。

(4)対州馬について
 体力などの問題から、仕事ができるのは3、4歳から20歳前後までである。また、性別による能力の差はない。餌は、ワラやぬか、草などを農協で購入していた。1日分が約1000円だそうだ。
 対州馬は木曽馬と比較すると怯えにくく、扱いやすかったそうである。もちろん馬による個性も大きく、対州馬よりも早く仕事を覚える木曽馬もいる。同じ対州馬でも人を蹴る馬やすね馬(寝たふりをする)と呼ばれる特徴を持った馬もおり、購入前によく検討していたそうだ。馬が一人前になるまでには、平均すると2、3年かかり、呑み込みが良い馬でも1年はかかるそうだ。呑み込みの悪い馬はどれだけ時間がたっても仕事を覚えず、坂道を走って登ったり、階段を登りたがらないという。
 通常は馬を2、3頭飼って交代で使う。しかし、3頭目に購入した馬は能力が高く、ほとんど毎日働いていたという。逆に、仕事を覚えずに何十日も仕事をしない馬もいたようだ。仕事をする前に現場を確認して使う馬を決める。慣れていない馬は、緩い坂道で使うようだ。また、最大の難所は急な坂道よりも階段を登らすことであったという。
 対州馬は、蹄が強く、裸足でも良いが、足を弱らせないために蹄鉄をつけていた。この蹄鉄も自分たち(後述する渡辺正時氏と共に作ることもあった)で作っており、1つあたり2時間ぐらいかかるという。
 馬が病気になった際は、馬の扱いに詳しい東長崎のかかりつけ医のところまでトラックで連れて行ったという。馬の容態によって連れて行けない場合もあるため、ある程度は飼い主自身が馬の病気の知識を必要とするようだ。
 ペットとは異なり、仕事のための馬という認識から名前を付けている業者はいなかったそうだ。しかし、仕事の馬ではあるが、現在、義己氏が飼育している犬と同じぐらい愛情があったという。


【写真1-1 坂の町】
「この辺りの家はほとんど馬で建てた家ばっかりやもんね」と語る義己氏。しかし、現在は、多くの高齢者が坂の下のマンションに移り住み、空き家が増加しているようだ。



【写真1-2 厩舎の様子①】

【写真1-3 厩舎の様子②】
馬に使用したロープやワラなど、現在も当時の面影が残っていた。


第2節 渡辺正時氏
(1)ライフヒストリー
 以前は百姓であったが30歳頃から荷運びの仕事を開始された。正時氏を含め、周囲には3人の馬方がいたが、2人は2、3年で辞めている。30年以上続けた人は稀であったそうだ。
 仕事を始めてから、軌道に乗るまでは4、5年かかったという。60歳を過ぎたあたりから仕事が激減したようだ。需要が減ったこと以外の大きな要因の1つとして、馬が活躍していた狭い道路に手すりが出来て、馬が通れなくなったことを挙げられる。
 約13年前に高齢が原因で仕事を引退された。かつては、50kgのセメントを馬に担がせることもあり、馬の背中に乗せるまでが一苦労であったという。
 当時は、正時氏の次男も手伝っていたが、仕事が減ったため、引き継ぐ意思はなかったという。現在は再び農業をされている。

(2)荷運びの様子
 多い時期は月に25日前後仕事をされていた。仕事はほとんど1人で行い、量が多いときは業者仲間に協力を依頼していた。建築資材すべてを運んでおり、4mから5mの材木を運ぶこともあったという。
 馬を飼うことによる苦労としては、自由な時間が限られており、旅行が出来ないことであるという。反対に、恩恵は、お金周りが良くなったことだという。人ひとりが1万円稼ぐときに、2、3万円稼がれていたそうだ。
 また、メディアからの取材も多く、働いていたときは、東京や外国からも記者が訪ねてきたそうだ。
 正時氏は、馬を多い時には4頭同時に飼われていた。最後は対州馬が手に入りにくくなったため、木曽馬2頭を飼っていたようだ。また、そのうち1頭は義己氏に譲った。この木曽馬が、長崎市で最後に荷運びをした馬であった。義己氏が引退し、現在ポニーランド長崎で飼育されている。

(3)対州馬について
 同じ日本在来馬でも、対州馬と木曽馬の性格の差は大きいという。木曽馬はおとなしいと同時に怖がりで、階段を登りたがらない。反対に、対州馬は物怖じしないという。
 対州馬の印象として、賢い馬であることを強調されていた。1つの荷物を運び終えた後、綱を引かなくても自ら坂道を下り、次の荷物の前で主人を待っていたそうだ。また、仕事に行く際に、玄関口にニンジンをもった子ども達がいることもあり、周囲から可愛がられていたという。


【写真1-4 馬に使用していた蹄鉄】


第2章 対州馬の現在
第1節 対馬と保存活動
 険しい山道の多い対馬において対州馬は、人や物を運ぶことで、人々の生活に大きく貢献していた。しかし、明治37年には対馬に4000頭以上いた対州馬であったが、農業人口の減少や農機具の機械化、ヘリコプターや自動車の普及によって需要が減り、その数は激減した。600頭前後まで減少した1972年から保存の取り組みが開始され、「対州馬振興会」が発足された。
 日本在来馬のほとんどは地元大学の農学部が保存活動の中心的役割を担っているが、長崎には農学部を有する大学がない。そのため、現存する対州馬の多くは対馬にいて、市や振興会が管理している。しかし、振興会が発足されてからも対州馬の数は減少し続け、2010年にはわずか29頭になってしまった。
 80年半ばころに9頭から47頭まで繁殖させることに成功したが、馬の活用方法を見いだせないまま、財政を圧迫し、増やした馬を島外に放出し、物議を醸した過去がある。(長崎新聞 2010)
 そのため、持費や活用の場がない中で、保存が困難な状況ではあるが、現在、市は50頭までは対州馬を増やす意欲があるようだ。実際に、減少傾向であった対州馬が、34頭前後にまで増加している。また、対馬では対州馬レース「馬とばせ」、佐世保では「対州馬展」が実施されるなど各地で関心が高まっている面もある。


第2節 霜川剛氏
 わずかではあるが、現在も個人で対州馬を飼育している人物がいる。大村市の「waranaya cafe」オーナー霜川氏もその1人である。長崎市出身で取材当時36歳であった。
 自給自足の次の世代のライフスタイルを作りたいと思われ、農業を始める決意をされた。同時に、農業に使える馬を飼いたいと思われ、幼少期の時に坂道を登っていた馬のことを思い出される。調べていくうちに対州馬の特徴や現状を知り、関心が高まったという。
 その後、紹介を通じて対馬市内で里子(対州馬)と出会い、個人飼養者から買い取ることになった。
 対州馬を飼われたことによる恩恵として「馬と共に生活する、こんないい経験誰にでも出来ることではない。ましてこんな性格的にも能力的にも素晴らしい馬っていうのは対州馬、里子しかいない。」と語る。
 様々な現実の壁もあるが、長崎市の文化として、人々のために働いてきた馬として、対州馬は残していかないといけない馬という気持ちを常に持たれているようだ。


【写真2-1 対州馬の里子】


第3節 江島達也氏
 長崎市出身で、幼い頃から対州馬が荷運びをする姿は馴染みの風景であったという。現在、「對州屋」として活動されており、対州馬の活用の場として対州馬による荷運びを復活させようとしている。2012年には「長崎の坂道で、対州馬の荷運び再現プロジェクト」を実行された。
 対州馬に関心を抱かれたきっかけは、前述した大村市の里子との出会いであった。通常の馬とは異なる、対州馬特有のおとなしさや人懐こさに感動したという。対州馬に対する印象として、馬と犬の中間といった表現をされ、人懐こいことを強調された。「普通は馬の後ろなんか回れないんだけど、この子は子どもに囲まれても大丈夫。」里子を見つめながら語られていた。
 また、小さいのに体が丈夫で粗食にも耐え、蹄鉄がいらないといった特徴にどこか長崎らしさを感じられたという。
 馬がもう1度荷物を背負って坂道を歩く姿を再現したいと思われ、霜川剛氏や里子、対州馬保存会の方々と共に荷運び再現プロジェクトを実施された。東日本大震災から約1年後の2012年3月10日に実施し、馬が健気に荷物を背負って坂道を登る姿によって、人々に元気や勇気を与えたいという目的もあったようだ。プロジェクトを企画するにあたり、古賀義己氏等、荷運び業者の方にも相談をされたが、「そげん簡単にでくるもんじゃなかとよ。」と厳しい反応であったそうだ。
 本番2日前に行った練習の際に、里子が足踏みをして嫌がるそぶりを見せた。成功するのか不安であったという。しかし、慣れない場所、多くの人が取り囲む環境の中、里子に皆の思いが通じ、プロジェクトは無事成功したそうだ。反響も大きく、長崎県のほぼ全てのテレビ局や県外からも取材がきたという。江島氏は対州馬を保存していくために、対州馬のことを知らない多くの人、特に子ども達に対州馬の文化を知ってもらいたいと考える。
 実際に対州馬を飼い、荷運びの仕事を復活させたいと考えているが、様々な要因があり、簡単には飼うことができない。また、現状では荷運びの需要はなくなったという意見も多い。「工場で家を作り上げてからクレーンで積み上げるようなやり方も台頭してきた現代では、馬で建築資材を運ぶようなやり方はあっていない。色んな職人が手作業で行う時代は終わった。」という意見に対し、納得する面もありつつも、「個人的な見解としては、本当にそうなのか、確かに経済の流れはそうかもしれないが、実際に坂の町に住んでいる人々はもっと細々と手間ひまかけて血のかよったやり方を好んでいる人もまだ多い。そういうルートを開拓していくとまだまだ仕事はできる。」と語る。
 実際に、昨年の春にも江島氏の元へ工事で対州馬を使いたいので荷運び業者を紹介してほしいという依頼があったようで、全く需要がなくなったわけではないことが窺える。
 現在は「對州屋」として荷運びの仕事を再開させることを目指している。しかし、経済的にやっていけるという証明をイメージではなく具体的な数字で示す必要があるという。
 また、対州馬を用いた荷運びの文化に対しても、「馬を酷使している」「かわいそう」などの意見もある。しかし、「かつての荷運び業者さんは馬を可愛がっている。大切にしている。対州馬も人の役に立つことを喜ぶ気質を持っている。」と江島氏は語る。


【写真2-2 荷運び再現プロジェクトの写真】


結び
本研究を通じて、以下のことが分かった。
1.対州馬対馬市長崎市の人々の生活に欠かせない存在であった。
2.時代と共に、長崎市に住む人々の暮らしや対州馬に対する需要が大きく変化している。
3.対州馬を保存していくためには、活用の場を考えていかねばならない。
 以上のことから、文化を継承し続けるということは安易ではないことが分かった。しかし、インタビューをさせて頂いた方々のお話を通じ、共通して対州馬への愛情を強く感じた。また、対州馬は日本在来馬の中でも特有の温厚で人懐こい性格を持っていることも分かった。
 古くから人々の暮らしに大きく貢献してきた対州馬という素晴らしい馬を、より多くの人々に知っていただき、今後も人々に愛され続ける馬であってほしいと思う。

【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力していただき、深く感謝しております。お忙しい中、対州馬についてご親切にお話を聞かせて下さった、古賀義己氏、渡辺正時氏、霜川剛氏、そして上記の方々を紹介してくださり、親身になって対応して下さった江島達也氏、その他調査に関してご協力していただいた全ての方々、皆様のご協力なしには、本論文を完成することは出来ませんでした。心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
林田重幸著,1972年,「対馬の在来馬 対州馬日本中央競馬会. 
長崎新聞,2010年12月19日,「対州馬物語」