関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

まちかどの商い―金田商店と桑原晨伸酒店―

社会学部  伊原育美


≪目次≫
はじめに
第1章 油屋町の金田商店
1.来歴
2.商い
第2章 蚊焼の桑原晨(あき)伸(のぶ)酒店
1.来歴
2.商い
結び
謝辞


はじめに
 本論文は一種の商品で商売が成立する中、二つ三つとあらゆるジャンルの商品を販売している二店舗にインタビューを行い、まとめた調査報告となる。第1章では野菜や果物、生花を販売している油屋町の金田商店。そして第2章では元々酒屋だったが、現在は酒類に加えて衣類やアイスクリーム、宅配サービスなど様々な商品を提供している蚊焼の桑原晨伸酒店。それぞれの店舗について来歴と商いを以下に紹介する。

第1章 油屋町の金田商店1. 来歴
 長崎市内中心部の一角にある油屋町。ここは長崎港に注ぐ中島川下流左岸に位置し、町名は油商人によって開かれたことに由来している。今から35、40年前に創業された金田商店は、路面電車正覚寺下」で下車するとすぐ近くの路地に立地していた。一軒家の1階を改造して店を構えているような外装。屋根の下には多くの野菜や果物、生花が並んでいた。その中心で金田和子氏は店を切り盛りしていた。この商店は夫の金田民生氏と夫婦で経営し、女性のアルバイトを2人雇っている。元々、東京都で民生氏は某石油会社に勤めるサラリーマン、和子氏もOLをしていたという。「病気になって会社を辞めた」「東京の空気が合わない」という理由から和子氏の出身地である長崎に戻った。「ここでお店を始めたら夫婦で子供を育てられる」「子どものことを一番に考えたい」という思いから、近くに小学校がある油屋町で商売を始める決意をしたという。長崎に住み始めた頃、民生氏は保険のセールスマンをしていた。しかし体調不良により辞職し、一緒に商店を経営したという。長崎は慣れている土地だし自然もいいからという軽い気持ちで始めたことあって、当初は漠然としていたため“ままごと感覚”だったという。
 子どもは男の子が二人いるが県外に出て家庭をもっているため商店の跡継ぎはいない。和子氏は「自分たちの代で終わるけれど、こういう店を大切にしたい」と仰っていた。

写真1−1:金田商店(外装)

写真1−2:金田商店(正面①)

写真1−3:金田商店(正面②)
「金田商店」→「舞花」→「金田商店」 店名は「金田商店」と「舞花」の2つあるという。店側面のトタン板に地図があり、そこには“フラワー&フルーツ舞花(金田商店)”と明記されていた。元々、商店として野菜や果物、生花を販売していたが途中から花屋一本で経営していた。和子氏に理由を尋ねると「子どもに手がかからなくなり、花屋をしてみたかったから」と仰っていた。その時に店名を「金田商店」から「舞花」と改める。「舞花」は現在、商店の右側にあるデイサービスぬくもりの場所で営業していた。そこは新築で家賃が高く、奥行きがあり、商売しているのが分かりづらかった。そのため経営がうまくいかなかったという。

写真1−4:地図

写真1−5:デイサービスぬくもり
 当時、和子氏は5時から江戸町で行われていた朝市に参加していた。朝市は9時まで行われ、和子氏は自宅から「舞花」に行き、そこから市場まで生花を車に積んで持って行った。「舞花」の花を市場で卸していたから、朝市で売れなかった時は持っていた分より持って帰る分が多かったという。「舞花」を経営する前から朝市で生花を卸していたため、18年くらいしていた。アルバイトの一人はここで出会った、同業者である。規制緩和の影響で商売が困難となり、一緒に働いているそうだ。後に和子氏は体調を崩し、また、商店に専念したかったこともあり、昨年8月半ばに朝市をやめた。
 仕入れ先は長崎市から少し離れた諫早市にある花市場。月、水、金曜日の昼のみの仕入れだったため月曜日の朝に花がなくなることが多々あったという。その場合は、近くのお百姓さんから卸していた。その際に「野菜を作っているから買って」と言われたり、分けてもらったりしていたことから再び商店を始めようかと思い、「舞花」から「金田商店」に戻したという。
 現在の場所は昔、ペット屋、次に牛乳屋になった。最初、「金田商店」を始めたときは現在の商店が位置している左側路地の突き当りで営業していた。その当時から現在の場所でしたいという強い願望があり、牛乳屋が辞めてからすぐに移ったという。

写真1−6:最初の金田商店経営場所

2. 商い
 右側に生花、左側に野菜や果物を揃え、さらにその奥には竹線香を置いていた。主に民生氏は仕入れや配達、和子氏は販売を担当。仕入れや配達から帰ってきた民生氏が販売の手伝いやフラワーアレンジメントを行うこともあった。季節に関係なく、野菜や果物よりも生花が売れる。近くに寺院や墓地があるため生花を目的に店に来る客が多かった。墓石の両サイドや自宅の仏壇に供えるため購入する人がほとんどだったが、中には寺院に飾るからと大量購入する人もいた。さらに、店が混んでいる際は客が自分で生花を組み合わせ、包装し、購入している場面もあった。年配の方が多い中、原付に乗った住職や近くに住む親子連れ、外国人など幅広い客層に親しまれている。
 道を挟んだ商店の向かい側でアルバイトの女性が生花を束ねていた。そこは4年前までクリーニング屋だったが、閉店後、金田商店の在庫倉庫兼作業場になったという。以前は店内で在庫管理や生花を束ねていたが、今は生花や野菜の種類が多く、管理や作業することが困難になり利用している。市場で一種を50本、100本単位で仕入れるため、他種とバランスよく組み合わせ商品を作っているという。完成したものはすぐに店頭に並べて販売する、つまり常に新鮮な生花が店頭に並んでいるということになる。和子氏も販売の傍ら時間ができれば生花を束ね、商品を作っていた。

写真1−7:生花を束ねるアルバイトの女性
 店内の商品はすべて自分たちで仕入れているが、時々店頭に魚を置くこともある。天気が良くて船が出た際、油屋町から離れている茂木から友人が「置いてほしい」と届けに来るそうだ。魚の値段はよく分からないので500円均一で売っている。そのため店頭に並んだ日は完売するほど人気だという。
 金田夫婦は店先で「いらっしゃいませ」と客寄せすることはない。店に近づいてきた客に対して「どれにしましょうか?」「眺めてください」と優しく声をかけていた。また、これから墓参りをする客に対しては「どういうのあげましょうか?」「短く切りますよ?」と声をかけ、その誘い文句に購入する人もいた。長崎県民は信仰が強く、毎月1日と15日には墓参りをするため、生花と一緒に竹線香を購入する人が多い。客のほとんどは金田商店で墓参りに必要なものを揃え、その足で直接向かうという。
独自の工夫 野菜や果物には値札が付いていたが、生花には一切付いていなかった。生花は月、水、金曜日の週に3回、主人が市場に仕入れに行くが、時期によって値段が異なるため付けていないという。それでも和子氏はお客に値段を聞かれると間違えることなく、すぐに答えていた。さらに、客の要望に応えて商品にしていない生花を束ねて、売ることもあった。

写真1−8:果物

写真1−9:生花
 生花は新聞紙に包んでそのまま渡すか、袋に入れて渡していた。その際に使っていた袋が長崎市指定の燃やせるごみ袋だった。その理由を尋ねると「そのままお墓参りに行って枯れた花を生花と取り換えた後、ごみ袋に捨てることができるから」と仰っていた。世間ではレジ袋削減、マイバック持参を呼びかけている店舗が多いにも関わらず、このようなサービスを行っているのは、地域密着型の商店だからこそできるアイディアだ。また、店内には花屋に必ずあるフラワーショーケースがない。花をケースに入れた方が蕾のまま売ることができて長持ちし、売り手側からしたらあった方が便利と思うが置いていないという。経費が掛からない、そして花が開きやすい分、安価でお客に提供することができるのも金田商店の売りにしている。
 さらに、野菜や果物を置いていた机はベニヤ板と生花を出荷する際に用いる桶でできていた。以前はトロ箱を重ねたり手作りの机を使ったりしていたが、閉店の際に全商品を店内にいれるため、ベニヤ板と桶が解体しやすく便利だという。店頭に並んでいる生花も種類別にその桶に入れて販売していた。昔はタダでもらえていたが現在は難しいという。ここに長年商売を続けてきた工夫と知恵が感じられる。

写真1−10:生花の桶

写真1−11:閉店準備後の金田商店①

写真1−12:閉店準備後の金田商店②

第2章 蚊焼の桑原晨伸酒店1. 来歴
 蚊焼は長崎半島の南部に位置し、はじめ蚊焼村、昭和30年からは三和町(さんわちょう)、そして平成17年に長崎市編入した地域である。そのため町の地図には昔の名残で三和町と表記されていた。現在、三代目の方が店を経営しているが、名前からしたら二代目。店名になっている祖父に名前をもらい、また、父親が会社勤めだったため生まれてすぐ二代目になったという。

写真2−1:三和町の地図
店舗外装
 現在の外装は店の看板の上に狸の置物2体、自動販売機7台、ソフトクリームの看板、アイスケース、造花、吸い殻入れがあり、何を専門に売っているのか分からないが一見は酒屋である。
 狸の置物は滋賀県信楽で購入し、オスとメスで対になっている。一般的に一体だけ置いているイメージだが、別々の二体をお見合いさせて購入したという。さらに、店の入口には宅配の段ボールが大量に積まれていた。

写真2−2:桑原晨伸酒店(外装①)

写真2−3:桑原晨伸酒店(外装②)

写真2−4:狸の置物

写真2−5:ソフトクリームの看板

写真2−6:宅配する段ボール
規制緩和・集合指導 昭和初期に創業した桑原晨伸酒店は、10年以上前の規制緩和によって経営が難しくなったという。酒とタバコを扱う店舗の距離によって卸すことができず、小売店は苦労した。以前は軽自動車が辛うじて入るとこに店を構えていたが、移動する際も許可制だったためして大変だったという。規制緩和がない時、酒屋は一か所に集めて指導を受ける「集合指導」があった。その地区の人を集めて毎月の仕入れと販売をリッター計算し直す。これによって税金を納めなければならなかった。現在は届出になり、集合指導はなくなっている。昔は近所に何件も小売店があったが、ほとんどやめてしまった。規制緩和の調査で、自分が顧客だったら安いところから多分買うだろうと答えたこともある。小売店の商品がいくら高くても買ってくれる人がいるから経営がどうにか成り立っているという。

2. 商い
 元々は酒屋で、当時からちょっとした食料品や日用品を置いていたという。現在の店内には酒、化粧品、米、洗剤、衣類、靴、お歳暮(お茶・缶ジュース・ゼリー)、お菓子、パン、ローソク、ごみ袋、タバコ、ソフトクリーム、アイス、造花があり、宅配サービスもしている。一番初めの方は配給制で酒と一緒に醤油も置いていた。その流れで酒を量り売りしていた時代もあったそうだ。ある日、店に来た男性に「よかったら、衣料品を置かせてくれませんか?」と言われたが、弟が衣料品店を経営しているため、断ったという。この出来事がきっかけで弟の衣料品を置き、委託販売を始めた。布団や靴も弟さんの会社から仕入れているという。宅配サービスは12月だけクロネコヤマトから委託され、近所を夫と息子が担当している。
 造花を販売しているのは墓に供えるためである。蚊焼は墓地が多く、夏場になると生花は長持ちしないため、綺麗な造花を供える文化が根付いたという。正月とお盆は造花を外して生花を置いたり、加えたりする人が多い。さらに、造花とハナシバを組み合わせて供える人もいるという。また、この地区では家庭の神棚に松を供える。一般的には榊を用いるが、昔から庭に植えている松を供えてきたという。

写真2−7:造花

写真2−8:蚊焼の墓地①

写真2−9:蚊焼の墓地②
 これからの時期はお歳暮やお中元が良く売れる。カタログ注文が多いため見本として置いているそうだ。また、店内の至る所に昔ながらのポスターが何枚も貼ってあった。名酒や化粧品のポスターは希少であるため、客から譲ってほしいとお願いされたこともあるという。名酒のボトルが並んでいる棚の上には結納品の角樽が置いてあった。昔は酒を入れて使っていたが、現在は飾りとして貸し出している。結納の時は必ず使っていたが、年々減ってきているそうだ。

結び
 本調査は長崎市にある油屋町の金田商店と蚊焼の桑原晨伸酒店にインタビューを行い、店舗の来歴と商いについて明らかにした。
 油屋町の金田商店では夫の民生氏の病気と子どもが成長できる環境を考え、東京都から長崎県へ移る。夫婦で野菜や果物、生花を扱う商店を経営し始めたが、子供に手がかからなくなってから店名を「舞花」に改め、花屋をしていた時期もあった。同時期から去年の8月まで生花の朝市に参加していた。生花にだけ値札をつけていないことや墓参りに向かう客には市指定のごみ袋に入れて渡すなど商店独特の工夫が見られた。
 蚊焼の桑原晨伸酒店は元々酒屋だったが、店に来た男性の一言で衣料品を置くことになった。そこからヒントを得て化粧品やタバコ、造花など様々なものを置くようになり、12月限定で宅配サービスも委託されている。蚊焼には墓に造花を、家庭の神棚に松を供える独特の文化がある。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、多くの方々に協力していただきました。調査初日からあたたかく迎え入れ、商店の来歴やライフヒストリーをお話して下さった金田民生氏と和子氏。酒屋が今の商売に至るまでの経緯や蚊焼の文化についてお話して下さった桑原文子氏。突然の来訪にも関わらず、快く協力していただき大変感謝しております。皆様のおかげで実のある調査を行うことが出来ました。そして上記以外にも調査に協力していただいた全ての方々に心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。


参考文献
角川日本地名大辞典」編纂委員会 1987 『角川日本地名大辞典』42、角川書店