社会学部 大庭 明剛
【目次】
はじめに
1. 東洋軒のアイスキャンディー
(1) 来歴
(2) アイスキャンディーとパンの行商
2. 前田冷菓のちりんちりんアイス
(1) 来歴
(2) 販売形態
(3) 屋台
(4) 売り子
(5) ちりんちりんアイスの一日
結び
謝辞
参考文献
はじめに
ちりんちりんと鐘を鳴らしながら、街中を歩き、商売をする行商が九州にある。かつては、多くあった行商ではあるが、徐々に数を減らし、形態を変えながらも、現在、残っているひとつであるアイスクリームの行商に着目をしていく。
現在、街中の屋台や路上で販売されているアイスクリームは、日本各地に存在する。北から、青森県にある「カランコロンアイス」、秋田県にある「ババヘラアイス」、高知にある「1×1=1アイス」、長崎県にある「ちりんちりんアイス」、沖縄にある「ギャル・アイス」がある。今も尚、これらのアイスクリームは、人々の生活の中で生き続けている。
今回、調査を行った長崎県長崎市には、地元の住民から非常に愛され続け、屋台販売を行っているちりんちりんアイスに焦点を当て、過去から現在へと紐解いていく。
なお、本論では、ちりんちりんアイスを誕生させるきっかけとなった東洋軒から述べていく。
1. 東洋軒のアイスキャンディー
(1) 来歴
東洋軒は以前、長崎市の繁華街、思案橋にお店を構えていた老舗の手作りパンのお店であった。当店は1917年に創業し、2014年3月末に閉店してしまった。現在は、東洋軒からレシピを引き継いだ手作りパンのお店、「ぱんのいえ」が東洋軒の跡地で営業をしている。東洋軒は創業後に、パン屋、喫茶店、洋食のレストランと規模を拡大していった。ここではお話を聞いた、パン事業について、見ていく。当時は、長崎市のパン屋と言えば、東洋軒と言われるほど、有名であり、野田照雄氏の父の野田貞雄氏のときには、100軒近くあった。また、長崎市内の小学校、中学校、高校、大学、原爆病院、大学病院、市民病院、役所、県庁にパンを卸していた。その当時には、数億もの収入があり、従業員は約50〜60人で働いていた。ある時は、長崎市だけではなく、島原や小浜の方面まで、テーブルパンなどのさまざまな種類のパンを積んで、ホテルを回っていた。当時は、パンはとても珍しいものであった。また、かつて、パンを作る際には、砂糖や粉ミルク等を使っており、これらの砂糖や粉ミルクの原料の調達は闇市から購入していた時期もあった。
次に、キャラクターのゾウさん(写真1)である。このキャラクターについては、長崎市内の現代の50代、60代の方々にとっては非常に懐かしく感じられるようだ。このキャラクターがいる前までは、東洋軒のトラックの横に、「東洋軒」と黒文字だけで書いていた。このキャラクターが出来上がった後に、東洋軒が最初にトラックの横にキャラクターを描いたということだった。野田照雄氏によれば、「人と違うことをしようとして考えた」というお話である。さらに、このキャラクターのおかげで、よりパンが売れるようになった。
写真1. 東洋軒のキャラクター
そして、パンの歌である。もともとグループソングがあり、それにキャラクターをつけて作ったのがこの歌である。歌詞は、「パンパン、パンパン、パンパン、東洋軒、パンボちゃんがパンビちゃんに先に言った、パンボちゃんがパンビちゃんにそっと囁きました、これおいしいぞ、パンパン、パンパン」である。野田照雄氏が歌っているのを聞いたときに、脳裏に残りやすく、すぐに口ずさみたくなるようなフレーズであると感じた。
最後に、さまざまな種類のパンについて取り上げる。ここでは、聞き取り調査の行えた三つに絞る。一つ目に、「サラダパン」である。これはロールパンに、ポテトサラダとプレスハムを挟んだものである。野田照雄氏によれば、朝5時から青果市場に行き、野菜を購入し、一日にサラダパンを何千個も作っていた。二つ目に、「チョコレートバケット」である。これは、フランスパンの中に、チョコレートとレーズンを入れたものである。このパンは、野田照雄氏が発案し、「世界初のチョコレートバケット」であった。毎日、たくさん売れ、お客さんが行列を作って、買って行かれる程の盛況のようだった。その後に、神戸の老舗のパン屋のドンクが「チョコレートバケット」を見に来て、真似をして作ったということだった。三つ目に、「ヤキリンゴ」である。このパンは、野田照雄氏の父である野田貞雄氏が、丸型のスポンジにクリームを挟んだものを作られた。このパンの名称は「ヤキリンゴ」ではあるが、原材料にはリンゴを使っていない。このパンができたきっかけは、息子である野田照雄氏の作った「チョコレートバケット」に負けないパンを作るために、父である野田貞雄氏がこのパンを発案された。その後に、福岡県のリョーユーパンのキタムラ氏が東洋軒を訪れ、「ヤキリンゴ」を教わったということだった。
(2) アイスキャンディーとパンの行商
今から50年ぐらい前に、新しい商品として、アイスキャンディーやアイスクリームを作り始めた。売り始めのきっかけは、夏場の暑い時期には売れるということからだった。その当時のアイスクリームとアイスキャンディーの作り方は、次の通りである。アイスクリームは、卵、砂糖、牛乳等を型の中に入れる。それを凍らせるために、氷と塩で冷えきった筒に型を入れ、その型をモーターで回転させて固めていた。アイスキャンディーは、水槽のような缶に型があり、その中に砂糖水等を入れて、凍らせ、冷やして固めていた。双方ともに、固まり始めた頃に、棒を差し込み、さらに、固めた。その後に、水が入らないように、型から取り出し、冷凍庫で冷やしていたそうだ。
次にパンとアイスキャンディーの行商については、よく覚えていないということだった。しかし、記憶の範囲内では、始めは、人力によるリヤカーで行い、パンやアイスキャンディーを積んで、街の販売箇所を決めながら、売り歩いていた。その当時には、20台ぐらいのリヤカー(写真2)を使って街中に出向いていた。さらに、「パンが来たぞ」と知らせるために、鐘をちりんちりんと鳴らしていたということだった。その後、ロバを用いて、リヤカーを引き、売っていた時期もあった。また、アイスキャンディーだけを買いに来て、売り歩いている人もいたようだ。
最後に、前田冷菓にアイスキャンディーを販売していたかどうかについて、野田照雄氏に尋ねたところ、覚えていないということだった。ここでは、東洋軒から前田冷菓にアイスキャンディーを販売していたという事実にはたどり着けなかった。
2. 前田冷菓
(1) 来歴
昭和35年に、前田冷菓(写真3)は前田亀作氏と前田ヤス氏によって、ちりんちりんアイスの製造販売が始められた。それまでは、土建屋さんであり、年を取ってからアイスクリーム屋を始めたということだった。そのアイスクリーム屋は、その当時、長崎市で非常に有名であったパン屋の東洋軒が、パンやアイスキャンディーを作っており、それを購入して、観光地や街を回って路上販売を行っていた。その後、仕入れを行って販売するよりも、自分自身で販売した方が儲かるということから始めたのが、ちりんちりんアイスのルーツである。その後は、前田清香氏の母の時代が二代目となり、現在は前田清香氏の時代で三代目ということだった。また、創業当時から家族経営を貫いている。
次に、長崎市において、ちりんちりんアイスの生まれるきっかけとなった一説につい見ていく。前田清香氏によれば、外尾冷菓(ほかおれいか)さんは、もともと洋服の仕立て屋であり、佐世保の米軍基地で、米軍の服を作り、その代わりに砂糖を手に入れていた。それに加えて、女性の働ける場を作るために、アイスクリームを作って、販売したのが始まりだということだった。しかし、前田清香氏も本当のことは分からないみたいだ。
また、日本各地において、屋台のアイスクリームの屋台販売が行われているが、秋田県のババヘラアイスも長崎が原点ではないかと前田清香氏は話していた。だだし、立証はできないということだが、外尾冷菓の二代目のときに、東北からアイスクリームの販売等を習いに来たという話もあるそうだ。屋台売りのアイスクリームの原点は未だに分からない。
長崎県内では今も尚、前田冷菓、木村冷菓、篠崎冷菓の三業者がシャーベットのようなシャリシャリ感のあるアイスを売っているそうだ。以前は十数業者もあったようだ。
ここからは、ちりんちりんアイスの由来について見ていく。昭和30年代頃の長崎市内には、子ども向けの紙芝居や豆腐、野菜といったさまざまなものを売り歩く行商があった。これらの行商と同じように、当時は三角頭巾に割烹着姿で屋台を押し、ちりんちりんと鐘を鳴らし、流し売りをしていた。もともと長崎市では、どのような行商でも、ちりんちりんと鐘を鳴らすことが当たり前だったようだ。鐘を鳴らす目的としては、町周りを行ったときに、家の中にいる人に知らせるためである。その後、お客さんが「ちりんちりんアイスが来たぞ」とおっしゃるようになり、その際に、家にいた子どもたちが飛び出してきていた。その後、お客さんによってちりんちりんアイスと呼ばれるようになり、少しずつ、この名称が浸透していき、正式な商品名となる。なお、ちりんちりんアイスとして売られる前の名称はアイスクリンだったそうだ。日本において、アイスクリンと呼ばれているのは、明治後年に「当時の日本人が英語の発音を間違って聞き取ったため。」(あんばいこう、2011年、p.36)と記されている。
(2) 販売形態
ちりんちりんアイスの現在の販売形態は,屋台で、売り子さんがアイスクリームを注ぐスタイルである。ある時期には、からいこを使って、屋台から20〜30個ぐらいのアイスクリームとコーンとヘラを持って、観光地のバスの駐車場に出向き、立ち売りも行っていた。からいことは、肩から紐等を掛けて持つ箱のようなもので、駅弁の立ち売りと似たものである。また、今から四十数年はちりんちりんアイスと共に、ざぼん、みかんといったさまざまなものを売っていた。
出店場所は、主に観光地である。それらは、長崎市内であれば、めがね橋(中島川公園)、グラバー園登り口、平和公園入り口、新地中華街、出島、水辺の森周辺、その他のお祭りやスポーツ大会といったイベント時に見ることができる。また、ハウステンボスや福岡県の香椎花園といったテーマパークでも見ることができる。出店場所等に関しては、九州圏内であれば、イベント等で呼ばれた時には、出張するということだ。以前の長崎市には、十数業者のアイスクリーム屋があった時代には、平和公園やグラバー園といった観光地において、屋台が十数台並んでいたそうだ。その屋台ひとつひとつに番号があり、一日一日売れる箇所を業者ごとにローテーションをしていた時代もあったとのことだった。
販売期間は、3月末頃から11月中旬頃の期間である。また、売り始めと売り終わりの時期は、寒さ次第で多少前後することもあるということだった。基本的に冬場の寒い時期は、お休みではあるが、特別なお願いか、或は、ランタンフェスティバルの天気の良い日には販売を行っている。冬場に売りに出ない理由としては、寒すぎて全く売れないということだった。
値段の変遷については次の通りである。売り始めの頃はコーンを使ったアイスではなく、モナカで挟んだアイスで、大きさごとに、5円、10円であった。その後、現在と同じちりんちりんアイスの形状となり、昭和37年もしくは38年頃から平成25年までの間は100円で販売し続けた。平成26年から現在に至るまでは、150円に変わった。平成26年に値上げをせざる負えなくなった原因は、消費税が5%から8%に変わったこと、より衛生面を重視していく必要があること、さらに、原料の高騰という背景があり、時代の変化に対応するために思い切って値上げに踏み切ったそうだ。また、小銭を減らすためにも、切りが良い数字にする必要があった。街中では、ちりんちりんアイスといえば、100円という値段が長崎市民には根付いていた。
ここからはちりんちりんアイスの詳細について見ていく。
ちりんちりんアイスの味の魅力は、シャリシャリとしたシャーベットのような食感である。また、乳製品を扱ったアイスクリームであるため、成分量で法律的に表示分類が義務づけられており、「氷菓(乳固形分3パーセント未満)」(あんばいこう、2011年、p.108)という分類になる。さらに、このアイスクリームの特徴は、喉がかわかないということであり、どちらかと言うと、喉を潤わすためのものに近い。
ちりんちりんアイスの種類(写真4)は次の通りである。一つ目に、前田冷菓創業当時から変わらぬままの味である「プレーン」である。二つ目に長崎県内の特産品や名物を使ったオリジナル味で「いちご」「カステラ」「ゆうこう」「チョコ(出島限定)」「はやか」「そのぎ茶」「花びらアイス(ハウステンボス限定)」である。ちりんちりんアイスを新たに作るときには、長崎県の特産品を使って作ることにこだわっている。また、前田清香氏によれば、創業当時から変わらない原料を使い続けているとのことだった。さらに、自分の子どもにも、家族にも安心して食べさせられるものを作るということを大切にされている。そのため、コストの安い着色料、香料、水飴、人工甘味料を使うのではなく、コストはかかってしまうが、砂糖や新鮮な食材を使うことにしている。
ちりんちりんアイスの盛り方(写真5)について探る。一つ目に、創業当時から行っている「三角盛り」である。この盛り方は、ヘラをうまく使い、タンタンタンと重ねていく方法である。二つ目に、「バラ盛り」である。この盛り方は、ヘラを使って押し固めていくことによりできる。また、これはお客さんが喜んでくれるため、サービスの一環として始められ、現在ではお客さんに喜んでもらえることから続けているそうだ。さらに、売り子さんによって、形もさまざまであるということだった。しかし、この盛り方にすると作るのに時間がかかってしまう。そのため、お客さんの多い時には、希望されるお客さんに対してだけ行うようにしている。そして、このようにバラ盛りが当たり前に浸透してきた結果、最近になり、ちりんちりんアイスを購入した方が、バラ盛りではなかったという苦情の電話を頂くこともあるみたいだ。三つ目に「チューリップ盛り」がある。これは、器用な売り子さんであればできるそうだ。今となっては、お客さんからどのような盛り方ができるかを尋ねられることもしばしばある。
(3) 屋台
屋台の詳細を見ていく。屋台には、青(写真6)とレトロ(写真7)、青とレトロのダブルの三種類がある。青の販売車では、プレーンを売り、レトロ風販売車では、オリジナルアイスを売り、ダブルはプレーンとオリジナルアイスを組み合わせているようだ。屋台は、木とステンレスを用いて作られており、移動がしやすいように、自転車のタイヤを付けているそうだ。また、青とレトロタイプの屋台の重さは冷やす氷やアイスクリーム等を含めて、約80kgあり、青とレトロのダブルでは約100kgある。そして、その他にもこの屋台には、さまざまな工夫が施されており、詳細に関しては企業秘密ということだった。
次に屋台の外装について見ていく。昔の屋台と今の屋台は、白色のラインが一本少ないぐらいの多少の違いしかなく、形は昔から同じ形である。特徴的な屋台の色にしているのは、他の業者さんと区別してもらうためだそうだ。
さらに屋台の修理(写真8)に関しては、専門にしている前田紀仁氏に伺った。アイスクリームを販売する期間は、永続的に氷と塩を用いて、マイナス18℃ぐらいを目安に冷やしているとのことだった。屋台は24時間、冷凍庫の役目を担っている。そのため、屋台を構成している木は腐ったり、ステンレスは錆びたりと傷んでくる。そのため、アイスクリームの販売終了後すぐに、修繕を行い始めるそうだ。また、半年近く経過したころには、少しずつ傷みが生じ、ステンレスの隙間から塩水が漏れることもある。そうなると、アイスクリームを食べた時に、塩辛い味になることがないように、日々、補修を行って、屋台を守り続けている。
最後に屋台の運搬について見ていく。創業当時は、長崎市内の工場から手押しで、観光地まで行っていた。前田清香氏の母の時代は、屋台の取手にゴムひもをかけて、バイクに繋いで牽引していたそうだ。また、長崎市内は坂が多いため、屋台に押されひっくり返り大けがにしそうになっていたというエピソードも語ってくれた。それからは、トラックの荷台に乗せて、運ぶ形態に変わった。
(4) 売り子
現在の売り子さんは、高齢のおじちゃん、おばちゃんということだった。最も年配の方で70歳ぐらい、若い方で40歳ぐらいということだった。アイスクリーム屋の営業形態が家族経営のため、売り子さんを何人か雇って、行うのが当たり前だそうだ。創業当時の売り子さんは、お友達や、ご近所の方々にお願いしていた。
屋台での売り子さんの売り方は人それぞれである。上手におもしろ、おかしく子どもたちに話しかける方、真面目にちりんちりんアイスいかがですかと声かけする方、黙って売る方、ひとりひとり個性の溢れる売り方を実践している。
(5) ちりんちりんアイスの一日
ちりんちりんアイスの1日は早朝6時より始まる。屋台に氷と塩を入れて、溶けないように冷やす。それから、屋台とパラソル、約35kgの氷、塩を観光地に運ぶ。そこに、売り子さんがやってきて、販売をする。夕方16時頃より、屋台等の回収をしていくそうだ。夏場においては、1日当たり、約600kgの氷を使うそうだ。また、1日を通して、暑い所に屋台を置くため、氷が溶けないように随時、氷と塩を補充する。この補充は売り子さんが行うため、個人それぞれのアイスクリームの冷やし方がある。そのため、屋台ごとに舌触りが少し変わるそうだ。そして、1日を通して、アイスクリームの缶から注ぐため、腰を痛めたり、ヘラによって、手にマメができたりするそうだ。
このように、さまざまな苦労がありながらも、ちりんちりんアイスをお客さんのために、作り続けている。
結び
本調査は長崎市のちりんちりんアイスに焦点を当て、昭和から今に至るまでの変遷について明らかにした。
ちりんちりんアイスの原点は、東洋軒から購入していたアイスキャンディーであり、それから昭和35年に現在と同じ屋台販売のものが始まった。
屋台で販売するものは、アイスクリームだけではなく、農産物を一緒に売ることで、季節や時代に対応している。現在では、多種多様なアイスクリームを販売することで、ちりんちりんアイスは生き続けている。
また、創業当時からの味を守り続けることによって、長崎市民の心を虜にしている。
そして、売り子さんには、女性を採用し、女性が働ける場も生み出している。
なお、長崎市のアイスクリームの行商については、前田冷菓の他にも数件あり、また、外尾冷菓に関しては、未調査のため今後も継続して調査を行う。
謝辞
本調査を行うに当たって、多くの方々にご協力をしていただきました。また、お忙しい中、お時間を割いていただいたため、この場をお借りして、心よりお礼を申し上げます。また、特に前田冷菓についてお話をしていただいた前田紀仁様、前田清香様のお二人、東洋軒についてお話をしていただいた野田照雄様には、大変お世話になりました。そして、この調査時にご尽力を賜ったことに感謝を申し上げます。ありがとうございました。