関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

長崎と唐灰汁−120年の変遷−

社会学部 門谷真衣

【目次】

はじめに
 
第一章 戦前・戦中の唐灰汁

第一節 貿易商人による輸入

第二節 戦時中の唐灰汁

第二章 戦後の唐灰汁

第一節 輸入禁止と唐灰汁の生産

第二節 用途の変化

第三章 製麺所から見た唐灰汁

結び

謝辞

参考文献

はじめに
 唐灰汁とは、炭酸ナトリウム、炭酸カリウムなどを配合した薬品のことである。長崎では、ちゃんぽん麺、ちまきソーダ饅頭、角煮饅頭の皮、ワンタンの皮、シューマイの皮などに使われている。その起源は1700年前ごろにさかのぼり、中国奥地で、偶然発見されたとされている。現在、唐灰汁の製造業者は長崎県内に萬泰號、瑞泰號製麺所の2件しかない。以前は、新地中華街の中に、もう一軒あったそうだが、現在はこの場所から転出なさっており、取材することは出来なかった。本レポートは、唐灰汁が今から約120年前に、長崎に初めて貿易商人によって、輸入されてから現在に至るまでの変遷をまとめたものである。

第一章 戦前・戦中の唐灰汁
 
第一節 貿易商人による輸入
 もともと唐灰汁は、中国で古くから饅頭や包子など、発酵食品の酸を中和する働きがあるとして、当たり前に使われてきた。13世紀の初めに書かれた「居屋必要事類全集」にも麺類に使う記述があるそうだ。その唐灰汁が日本にやってきたのは、華僑が日本に来るようになった明治末頃、貿易商人によって輸入されたのが始まりだとされている。今は埋め立てられているが、長崎新地中華街の近くの湊公園がある場所は昔、河口だったそうだ。当時、この場所には船がたくさん止まっていたという。

写真1 現在の湊公園

写真2 湊公園の看板

萬泰號では明治の末頃、貿易商人であった初代、林須禄(すいろく)氏が20歳の頃、中国から釜山に寄って、商売をしたのち長崎にやってきた。それと同時に唐灰汁を輸入し販売し始めた。釜山は、長崎と同様に、港町で貿易が盛んであったため、華僑華人が集まりやすかったのだそうだ。当時、須禄氏が行った貿易では、日本から五島などの海産物や、北海道の貝柱を輸出していた。そして紫檀、黒檀、硯、筆、くらげなどとともに唐灰汁が中国上海から輸入されていたそうだ。上海丸や長崎丸という船で、港から唐灰汁を長崎新地に運び、それを長崎で販売していたようである。唐灰汁の大きさは、一つの塊で、40〜80キログラムにおよぶほど大きなものであった。それを分割して販売していたとの記録が残っているそうだ。
また、瑞泰號製麺所の初代である劉徳英氏も約126年前、北京大学の薬学部を卒業後、貿易で漢方や中国雑貨、ナマコやこしょう、精霊流しの時の爆竹とともに唐灰汁を輸入し販売し始めたそうだ。
萬泰號では須禄氏が長崎で最初に唐灰汁を中国から輸入したのではないかと伝わっているそうだ。しかし、一方で誰が最初に輸入し始めたのかは、定かではないという。というのも現在、貿易と聞けば、大掛かりなイメージがあるが、戦前、貿易の規制はほとんどなかった。そのため、個人が商売として、自由に貿易をすることができたこともあり、もしかしたら他の誰かが先に唐灰汁を輸入していてもおかしくはないのだそうだ。この個人が自由に貿易をするという状態が昭和16年ごろまでは続いていたという。

第二節 戦時中の唐灰汁
 第二次世界大戦が始まると、全く貿易が出来なくなった。魚雷などによって貿易船が沈められる恐れがあったため、船の行き来が出来なくなってしまったのである。そのため、唐灰汁が長崎に入ってくることはなかったという。唐灰汁が輸入できなくなってしまったことに加え、戦時中、華僑華人は常に監視されるような状況におかれ、身動きが取れず、商売をすることが難しかった。そういった状況が重なり、華僑華人の中には商売が成り立たず、店をたたみ、中国へ帰る人々もいたようである。
萬泰號では、当時のことを知る人がおらず、貿易ができず唐灰汁が手に入らない当時のことについて詳しくは分からないという。唐灰汁に関しては、戦時中は食べ物自体が不足していたため、唐灰汁の入ったちゃんぽん麺にこだわらなかったのでは、と萬泰號の方は語る。
瑞泰號製麺所4代目である劉中泰氏の両親はこの戦争中の数年間上海にいたのだそうだ。戦争が終わらないと長崎に帰ることは難しかったという。そして戦後すぐに帰国をしないと帰国するのがとても難しくなるということもあり、戦後すぐ日本に帰ってきて、製麺業を始めたのだそうだ。

第二章 戦後の唐灰汁

第一節 輸入禁止と唐灰汁の生産
 戦争が終わってからも、物質不足が続いた。それに伴い、唐灰汁も入手が困難になってしまったという。そこで、唐灰汁の代用品として、苛性ソーダなどの化学物資が使われるようになった。
しかし、この代用物質は唐灰汁と比べて、アルカリ性が非常に強かったためか、中毒死する人が出るなど、中毒事故が多発した。そのため、昭和27年に法的規制がなされ、唐灰汁の代用物質の輸入と使用が禁止されることになった。
これまで輸入していた唐灰汁やその代用物質は、人の手がほとんど施されていない物質、いわゆる天然かんすいと呼ばれるものであった。戦後の物質不足に加えて、天然かんすいの輸入と使用ができなくなった長崎では、各製麺業者などがこれまで輸入していた天然の唐灰汁の成分を分析し始めた。彼らの独自の分析の結果、人の手が加えられた唐灰汁(人口かんすい)が生産されるようになる。このように、唐灰汁は各製麺所によって独自に生産されたものであるため、現在でも唐灰汁の業者ごとに、その複合材料の種類や、分量、比率は異なっている。この成分によって、製麺所が作る麺の食感や色合いもわずかに違ってくるのだそうだ。
この後も唐灰汁に関する規制が出てくるのだが、その発端となったのは、昭和30年に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件である。多数の食中毒者を出したこの事件によって、日本全国で食品の衛生面が一段と重要視されるようになった。その結果、食品添加物への規制が厳しくなったという。それまでは、誰でも自由に製造することができていた唐灰汁も食品添加物と同等の扱いを受けることになったため、唐灰汁の製造は食品衛生管理者という資格なしには出来なくなった。この食品衛生管理者の資格は、唐灰汁をはじめとする甘味料などの食品添加物を製造する仕事に携わる人は必ず取得しなければならないものである。昭和33年にはじめて、長崎から3人の唐灰汁製造業者が唐灰汁製造のために資格を取りに行ったのだそうだ。また、当時唐灰汁に使われていた成分の中には、国によって安全性が指摘され、唐灰汁には使うことができなくなった物質もあったのだそうだ。
現在においては、製造した唐灰汁には、日本食品添加物協会の「かんすい確認証」のシールを貼ったものを使用しなければならない。そのため、月に2回、保健所に製造した唐灰汁を100グラムほどに、小分けにして持って行き、不純物が入っていないかなどを、検査をしてもらうそうだ。検査結果で許可が出ると、日本食品添加物協会から「かんすい確認証」のシールが送られてくる。それを貼ったものが唐灰汁として、製麺所などに卸すことが出来るのである。以前は誰もが自由に製造でき、検査なども受けずに自由に販売することができた唐灰汁であるが、現在では、衛生面での規制が非常に厳しくなっていることがうかがえた。

第二節 用途の変化
 現在、唐灰汁はちゃんぽん麺やちまきなど、食品に混ぜるものとしての役割が主である。しかし、昔は洗剤としても使われていたという。そもそも唐灰汁は石鹸と似た成分が含まれている。そのため、かすり傷やさかむけなどの傷口に唐灰汁をたらすと、石鹸をたらした時と同じようなピリピリとした感じがするという。また、石鹸と同じで、目に入るとひどく傷むそうで、製造するときにはマスクなしにはできないそうだ。石鹸と似た成分が含まれているものの、唐灰汁に使われる成分は食用の成分であるため、体内に入っても害はないが、石鹸と同様に殺菌作用や漂白作用があるという。
通常、麺を製造する際は、水に薄めた唐灰汁が使用されるのだが、濃度の高い唐灰汁だと、色のついた衣服を真っ白にしたり、ものに塗られたペンキの色を落としたりするほど強力な漂白効果を発揮するのだそうだ。また、以前中華料理屋では、屠殺場から運ばれてきた豚の内臓を殺菌消毒するためにこの唐灰汁を溶かした液体を用いていたそうだ。豚は臭いも強烈だったため、唐灰汁はその匂いを消すのにも効果的だったという。また、唐灰汁は油汚れを落とすのにも、非常に効果的だったため、どうしても油で汚れてしまう厨房の掃除にもこの唐灰汁が使われた。唐灰汁を作るときに出るくずを唐灰汁製造業者から卸し、それを水にとかしたものを、絞った雑巾やたわしに浸して、特に床を掃除していという。
しかし、その使われ方も現在ではされていない。優れた洗剤が開発、販売されるようになったからである。時代の流れによって、唐灰汁の用途が変化してきているのである。
現在、唐灰汁は食品に混ぜること以外には、あく抜きに使われている。そもそも、日本の灰汁(あく)は灰を水に浸した時の上澄みのことをいう。灰あくとも呼ばれるこの灰の上澄みは、強いアルカリ性を持ち、食品の持つクセを取り除く役割がある。よって食品の苦みなどのクセをとるあく抜きに利用されるのだ。中国の灰汁(唐灰汁)も日本の灰汁と同じ作用をするため、この灰あくの代用品として、唐灰汁は現在でも使われているそうだ。

第三章 製麺所から見た唐灰汁
 製麺所では、唐灰汁はなくてはならないものである。唐灰汁を使うことで、麺に甘みが出る。同じちゃんぽんでも、食べ始めた時と、食べ終わりの時では、スープの味がわずかに変化するという。食べ始めた時には、溶けだしていなかった唐灰汁の成分が、食べ終わりの頃に、スープに溶け出し、さらにおいしく感じられるのだそうだ。また、冷やしたちゃんぽん麺はあまりにおいがしないが、出来たてのちゃんぽん麺は唐灰汁の独特のにおいがするそうだ。さらに麺を作るとき、唐灰汁を小麦粉に混ぜると、独特の黄ばんだ色になる。ちゃんぽん麺のあの色は、着色料を使っているのではなく、唐灰汁そのものの色が出ているのだそうだ。製麺において重要な役割を唐灰汁は担っている。
一般的に、ちゃんぽん麺に使われるものは、相対的に炭酸ナトリウムの配合が多く、ラーメンに使われるものは、炭酸カリウムの配合が多い。この配合は、業者によって、それぞれのスープによりなじむように考えられたものだという。しかしどちらも役所の届け出としては、「かんすい」の名称で表示されるようになっている。過去に、製麺業者が長崎において歴史もあってなじみもある「唐灰汁」という名称を使ってほしいと、市や県に交渉したそうだが、結局許可が下りず、現在の表記に至っているという。役所の届けは異なるものの、三栄製麺の大坪正一氏によれば、特にちゃんぽん麺用のかんすいを唐灰汁と呼んでいるのだそうだ。
唐灰汁には、粉末のものと、固形のものが存在する。粉末のものはいわゆる粉末かんすいと呼ばれるもので、例えば、カップ麺の裏の成分に書かれている「かんすい」とは、この粉末のものを意味する。粉末のものはより機械的、化学的に製造されたものだという。粉末の唐灰汁は、長崎県外でも様々な会社によって作られているそうだ。しかし、固形のものは、長崎県内でしか作られていない。長崎県内でしか製造してはいけないのだそうだ。長崎県内でも、粉末のものを用いる製麺業者もいれば、固形のものを用いる製麺業者もいる。長崎県外でも、長崎県で作られた固形の唐灰汁を使う製麺業者もいるそうだ。全体で見ると、粉末のものを使う製麺業者が多いという。しかし、どちらにも良さがあり、どちらを用いて麺を作るかは各製麺業者の「こだわり」次第だ。

写真3 唐灰汁

写真4 唐灰汁

写真5 唐灰汁(粉末)

写真6 唐灰汁(粉末)

写真7 唐灰汁を水でうすめたもの

写真8 ちゃんぽん麺

結び

本レポートでは、明治の末から現在に至るまでの、唐灰汁の変遷について長崎での調査から得たことをまとめた。唐灰汁は明治末期に貿易商人によって輸入された。戦時中は唐灰汁が輸入できず、多くの業者が店をたたんだ。戦後、衛生上の問題で、唐灰汁やその代用品が輸入禁止になり、各製麺所などが、独自に唐灰汁の成分を分析し、生産するようになった。その結果、化学的な人口の唐灰汁が製造されるようになった。また、現在では、日本食品添加物協会の「かんすい確認証」のシールを貼らなければならないなど、衛生面における規制が厳しくなっている。現在は、ちゃんぽん麺やあく抜きに使われるが、以前は、洗剤代わりに中華料理店などで使われていた。現在では、優れた洗剤が開発・販売されるようになったため、洗剤として使われることはなくなっている。唐灰汁には粉末のもの、固形のものがある。どちらを使用するかは、製麺業者のこだわり次第である。

謝辞

このレポートを書くにあたり、たくさんの方々からご協力をいただきました。瑞泰號製麺所の劉中泰さん、萬泰號の林知恵子さん、林薫さん、三栄製麺の大坪正一さんとご家族の方々、貴重なお時間を割いて、お話を聞かせてくださり、本当にありがとうございました。皆様のご協力がなければ、このレポートは完成しませんでした。お話を聞かせていただいた全ての皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
陳優継『ちゃんぽんと長崎華僑 美しい日中文化交流史』2009, 長崎新聞社