島村ゼミ3回生によるフォークロア研究文献解題
【解説担当者より】
今回論文を選ぶにあたって、解説担当者は各地の「盆行事」、そして「伝承」というキーワードを重視した。元々、解説担当者は地元である広島の「盆行事」に関心を持っており、広島はもちろん全国の「盆行事」の違いについて調べてみたいと思っていた。しかし論文を読むことによって日本における「墓制」という分野にも興味を持つようになった。
「盆行事」「墓制」「伝承」は人々の間で語り継がれ、続けられている限り変化していく。その変化の背景や人々の意識を考察することは非常におもしろく、より関心を持つことができた。数ある論文の中から3つを選び、論文を読むことで元々興味のあった分野についての学びを深めることができ、新たな分野を切り開く最良の機会になったといえるだろう。
■鈴木洋平「石塔化と「無縁」─佐渡橘における恒久的石塔の選択と「意味づけ」─」257号、2009年。
(1)著者について
鈴木洋平 東京大学大学院総合文化研究科博士課程。専門分野は地域研究、文化人類学。
(2)対象
佐渡市立場の恒久的石塔
(3)フィールド
佐渡市橘
(4)問題設定
無石塔墓制であった佐渡市橘において、恒久的石塔の受容を題材に、人々が新たな要素や物事を受け入れるに際して行う「意味付け」の変化を検討。
(5)方法
文献調査、フィールドワーク
(6)ストーリー
橘には、本稿で同家同年石塔群と呼ぶ、同じ家が同じ年に複数の“先祖代々之墓”と記した石塔を建てる例がある。土葬期において、墓地に置かれた墓石は処分されることを前提としていた。しかし石塔は初期の戦没者碑のように墓地の外に建てられた。橘において、墓地内に恒久的石塔が立てられるようになった契機は、その多くが戦没者碑やムエンと呼ばれる親族内の未婚死者への位置づけであった。同家同年石塔群も、家ごとの考えによって選択を繰り返し、位置づけと「意味づけ」を変化させてきた結果であった。本稿ではこのように、埋葬地として墓地が使用されていた橘において現在のような恒久的石塔という要素を各家で受容する中で、どのような解釈や理解によって「意味づけ」が行われ、また個別の事例において、どのように位置づけようとしたのかを検討する。最初に、受容された石塔とその具体例、そしてその問題の所在について記述し、橘の墓地の現状、土葬期の橘、石塔選択について詳しく述べ、最後に恒久的石塔がもたらす「意味づけ」の変化を考察するという構成になっている。
(7)結果
石塔を必要としない土葬が行われてきた橘という地域で、恒久的石塔が受容された。これにより家の死者が一つの石塔へとまとめられた結果、現在では、死者に対する意識が埋葬地点から恒久的石塔へと移っている。こうした変化を示すものとして、土葬期に土饅頭に対して行われていた儀礼が、恒久的石塔に対して行われるようになった。土饅頭と石塔の形状や性格の差が明確に現れている。土饅頭に行われていた儀礼が恒久的石塔に移り、儀礼に対する人々の認識も石塔を中心とする中で、それぞれの「意味づけ」や対処の仕方に新たな変化が生まれている。このような意識の変化は石塔そのものの重視につながる。かつて使用されていた石塔は「魂抜き」の後処分されていた。現在では新たな石塔を建てるに際して古い石塔を後ろに並べる家がみられる。「もったいない」という理由からである。これは必ずしも金銭的な価値観によるものではない。恒久的石塔の普及により土饅頭から恒久的石塔へと死者を意識する対象が移った結果、処分されることを厭わなかった石塔に対しても処分を避けようとする意識が生まれている。死者を表す存在としての石塔の「意味づけ」が、今後も変化していき、新たな選択を生むこととなるだろう。また、死者認識の対象が恒久的石塔に移る中で、記された文字が墓に納める死者の性格をも限定するようになっている。現在の橘において石塔という存在は、刻字された恒久的石塔が持つ対象の明確さや廃棄の困難さによって、これまで以上に死者を規定する存在として影響を与えるようになっている。
石塔選択によって得られた石塔刻字や永続性に対する自明性は、石塔を墓地の中心として扱うように、人々が持つ墓地というものの意味と機能を変化させてきている。恒久的石塔などの新しい要素自体が、次第に死者や墓地、石塔に対する感覚を変化させ、新たな問題を生む背景となっているとともに「意味づけ」に影響を与えている。変化につながったどのような選択も、その時々に人々が過去と現在の状況の接続を意識し、あるいはその一部を捨て去りながらも、新たな展開へと対応しようとした試行錯誤であることに変わりはない。
(8)読み替え
佐渡橘ではかつて土葬が行われていたが、今では恒久的石塔が受容されている。これは人々の意識や時代背景の変化によるものである。また土饅頭といった儀礼も恒久的石塔に移っていった。石塔は試行錯誤を繰り返し、新たな展開へと対応してきた。このような変化や儀礼は地域独特のフォークロアといえる。そして石塔という存在はこれまで以上に死者を規定する存在をとして影響を与えるようになっており、石塔はアイデンティティを象徴する重要なものであるということがわかる。
■林英一「明治政府の近代化政策と地蔵盆─地蔵盆の成立をめぐって─」『日本民俗学』255号、2008年。
(1)著者について
林英一 獨協大学国際教養学部言語文化学科非常勤講師。研究テーマは、葬送儀礼・祭り・年中行事などの変化や、現代の民俗の動き、災害伝承など。
(2)対象
地蔵盆
(3)フィールド
京都を中心とした近畿地方
(4)問題設定
「地蔵盆」はどのようにして成立したのか。
(5)方法
文献、現地での聞き取り調査
(6)ストーリー
「地蔵盆」は近畿地方でさかんに行われている行事である。筆者は「飾り付けられた地蔵の前で子どもが遊ぶ」形式を地蔵盆の基本形と捉えている。江戸時代に地蔵盆の前身である「地蔵祭り」が行われていたが、明治時代初頭に地蔵は棄却されている。そうであるにも関わらず、現在「地蔵盆」が行われていることは近世と近代との間に祭りの連続性がないということになる。本稿では不連続性が及ぼした「地蔵盆」の成立を考えることを目的としている。まず、現在の「地蔵盆」の形態について述べ、次に「地蔵盆」の前身として考えられる「地蔵祭り」について、そして地蔵棄却の背景と様子について記述し、「地蔵祭り」の復活と「地蔵盆」という呼称成立の問題について述べ、最後に調査結果を考察するという構成になっている。
(7)結論
近世の記録から、マチ部のほとんどで「地蔵盆」の原型と考えられる「地蔵祭り」が行われていたということがわかる。また「地蔵祭り」はマチ部での呼称であるのに対して、「地蔵盆」は非マチ部で使われていた呼称であるということがわかる。近世のマチ部での「地蔵祭り」の内容は①女、子どもが飾られた地蔵の前で鉦を叩く。②供え物や提灯を飾り付ける。④鉦をならす。④作り物をする。⑤「南無地蔵大菩薩」と唱える。というものであった。⑤は地蔵信仰を具現化したものであり、「地蔵祭り」が地蔵信仰として成立しているということを示している。一方で禁令をみてみると、「地蔵祭り」を旧習であり無駄に雑費や時間を使い、人々を惑わす悪弊有と断じており、「地蔵祭り」は因習打破を目的として禁止されている。禁止の背景には廃仏毀釈よりも近代化に力点が置かれているのである。このようにして地蔵は棄却されたが、明治半ばに復活する。しかし、地蔵信仰の再興というよりも「祭り」の復興に主眼が置かれた形になったといえる。これは現在の「地蔵盆」が子ども主体の子どもが遊ぶという行事の形から理解できる。
(8)読み替え
「地蔵盆」は江戸時代から続いている儀礼である。儀礼の中でもCalender Rituals(年中行事)と呼ばれ、毎年行われる行事である。またこの行事は、受け継がれていく間に少しずつ変化し、地域によって独特な特徴を持っている。例えば、京都府宇治では15年近く前から祭日前の土日に行事を行うようになった。これは勤め人が多く、人手が足りなくなってしまったという理由からである。一方で、滋賀県米原では地蔵の縁日が地蔵盆の日であるとして行事の日にちは毎年固定している。このように共有される人々によって差異が生じるのだ。このような違いは「地蔵盆」におけるフォークロアといえるだろう。
■田野登「柴右衛門狸伝承の一展開─洲本市の観光マチおこしにおける道頓堀中座楽屋話との関連─」『日本民俗学』265号、2011年
(1)著者について
田野登 1950年大阪府福島区生まれ。大阪市立大学文学部卒業。大阪城南女子短期大学公開講座講師。著書に『大阪のお地蔵さん』(北辰堂)や『水都大阪の民俗誌』(和泉書院)などがある。
(2)対象
柴右衛門狸伝承
(3)フィールド
洲本市、洲本八幡神社(兵庫県洲本市山手二丁目)
道頓堀中座
(4)問題設定
淡路の洲本八幡神社に祀られる柴右衛門狸が由来譚として展開する過程を洲本市の観光マチおこしと道頓堀中座楽屋話との関連によって明らかにする。
(5)方法
フィールドワーク、文献調査
(6)ストーリー
淡路の洲本八幡神社には「芝右衛門狸」が祀られている。芝居好きの「芝右衛門」という名前の狸が侍に化けては大阪の道頓堀にあった中座に芝居を見に通っていた。しかしある日正体がばれてしまい、犬に殺されてしまう。すると今まで大盛況だった中座の客の入りが悪くなった。狸の祟りに違いないと考えた人々が中座の中に祠をたて、祀ったところ中座にはかつてのように大勢の客が入るようになった。それ以降、たぬきは商売繁盛・人気の神様として大切にされ、その伝説は今でも語り継がれている。本稿ではまずこの伝説に関する研究史、各資料での伝説の展開について記述し、道頓堀中座の狸祭祀取り込みの経緯を述べ、最後にマチおこしの観点から伝承を考察するという構成になっている。
(7)結論
今日の〈洲本八幡柴右衛門話〉伝承の発生に中心的役割を果たしたのは、〈洲本市街地域活性化センター八幡委員会〉である。
まず地元新聞社淡路総局は、1999年10月15日以降、大阪道頓堀中座の閉座に伴う柴右衛門狸の「里帰り」言説を発信した。「里帰り」言説は、演劇関係者・役者たちへの取材活動によって還流された情報である〈中座での柴右衛門祭祀〉を前提とするものであった。新しい柴右衛門狸伝承が立ち上がったのは新聞社を中心とするマスコミによる演劇関係者・役者へのインタビューを従前の柴右衛門狸伝承に接合した情報を発信したことが契機となったのである。「里帰り」言説が取り沙汰されて以降、郷土史家は古書を発見するなどして今日の〈洲本八幡柴右衛門話〉伝承にもみられる新たな柴右衛門狸伝承として再構成するための資料提供をした。彼は地元の新聞社などからもたらした情報をも柴右衛門話に組み入れ、その情報を地元での伝承に還流させることとなった。市街地活性化センター委員会の委員長である神社宮司は境内地に柴右衛門狸を芸事の神、商売繁盛の神、人気の神として民俗宗教面での権威付けを図った。その作業において犬による殺害記述のない柴右衛門狸伝承を碑文として刻ませた。今日の観光産業が死を忌む風潮に傾斜していることを容認して、犬による殺害記述のない柴右衛門狸伝承を発信することになったのである。郷土史家でもある地元作家は、絵本『しばえもん』を2000年に刊行した。この絵本は〈犬による襲撃〉を記述したが〈狸の死〉については記述せず、洲本へ帰郷した柴右衛門狸伝承を発信した。地元の出版は絵本『しばえもん』を宣伝するとともに新しく創出した柴右衛門狸を筆頭とする八匹の狸からなる「八狸」の伝承に基づいて〈ゆるキャラ〉のモニュメントの八狸像を市内各所に設置し、旅館連盟・商工会とともに八狸伝承をモチーフとする土産物、グッズなどの商品開発をして観光客誘致に貢献している。
このようにして「柴右衛門狸伝承」は展開し、洲本の観光マチおこしへとつながっていった。
(8)読み替え
伝説は語り継がれることによって生きたフォークロアとなる。この「柴右衛門狸伝承」も各地で語り継がれており、基本的な話は一緒であるものの、語る人や語られる場所によって少しずつ差があることがわかる。この差がフォークロアといえるだろう。また語り継がれ、その話を聞くことによって私たちは昔と繋がることができる。伝説は過去と私たちを繋げてくれるのである。