関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

四万十の「大文字」

社会学部 森田 麻中

【目次】

はじめに

1.「小京都中村」の大文字

2.間崎地区と「大文字」

3.「大文字」をめぐる歴史認識

結び

謝辞

参考文献

はじめに

 現在の高知県四万十市間崎には十代地山という、地元の人々からは大文字山と呼ばれている山があり、そこでは毎年旧暦7月16日にあたる日に大文字の送り火を行っている。この間崎地区における大文字の送り火は横一の長さが23m、人の字の長さは左右ともに25m、字の幅は3mの白抜きになっており、右と左の払いの字の先が細くなった大の字に火を灯す行事である。大文字といえば、有名で規模も大きいもので、京都で古くから行われている大文字五山の送り火がある。
この通称「大文字」は京を囲む五山で点される送り火であることから、正式には「大文字五山の送り火」ともいう。見物人も繰り出す大規模な祭りという意味からは大文字祭礼と呼びうる。大文字五山送り火は毎年8月16日の盆の翌日に行われる仏教的な行事であり、ふたたび冥府に帰る精霊を送るという意味を持っている。「大文字」「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の五山で点火される送り盆の行事である。大文字五山の送り火の起源や創始年代については、これほど大規模な祭り、行事であるのにもかかわらず、不思議とわかっていない。

 なぜ、四万十市で大文字が行われるようになったか、というと応仁の乱をさけてやってきた一条公が持ってきたとされている。それについて調べたことを論じていく。

1.「小京都中村」の大文字

 間崎地区は中村駅から10㎞程移動したところにある地域であり、そこに地域の人から大文字山と呼ばれる十代地山がある。この大文字山は茶わんをふせたような形をした山であり、山の右側に後ろから回り込む形で山頂までの山道が整備されている。山頂には山の神をまつる小さな祠がある。その山の神をまつる祠は長い年月と雨風で傷んでしまっていたため2年ほど前に補強工事が施工された。

写真1・大文字山

間崎の大文字山送り火は今から500年前に始まったといわれている。大文字山のふもとにある、高知県環境共生課によって立てられた大文字の送り火についての立て札にはこのように記されている。

今から五百年有余年前、前関白一条教房公は、京都の戦乱をさけて家領の中村に下向され、京に模した町づくりを行った。東山、鴨川、祇園等京都にちなんだ地名をはじめ、町並みも中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
この大文字山送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良、父教房の精霊を送るとともに、みやびやかな京都に対する思慕の念から始めたと、この間崎地区では言い伝えられている。現在も旧盆の十六日には、間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている。

写真2・山のふもとの立て札

この看板に記されている通り、中村の町は500年前、応仁の乱に戦禍をさけて家領の中村に下向された一条家に関係している。下向してきた一条教房は京都に模した町づくりを行ったため、中村の中心は一条神社や碁盤の目になった町並みが残っている。中村に来、13年後58才で教房はなくなり、後を息子である房家が継いだ。この大文字の送り火は二代目房家が祖父の兼良、父の教房の精霊を送るため、また宗を懐かしんで始めたとも言われている。この大文字の送り火は間崎の人々が自分たちで行っている行事であり口伝で伝えられ、やり方も古くから間崎に住む人々の間で共有され、今日まで受け継がれている。

2.間崎地区と「大文字」

 この章では実際にどのように大文字の送り火が行われているかについて論じようと思う。

間崎の大文字は間崎地区を昔は7つに分けていたが、現在は全部で4つの地区に分け、毎年交代で当番をしている。その年の当番に当たった地区から話し合いで選出される当番長は什長と呼ばれ、一年の任期の間様々な仕事を担当する。什長というのは元々、軍のひとまとめのことで、10軒でひとつにしていたことからそう呼ばれるようになったと言われている。この大文字で使われるまきを事前に準備するための各方面への連絡や、当日の神事や食事の手配などこの大文字の送り火も什長が中心となって進められている。

 実際の流れとして、大文字の送り火は朝から準備される。大文字山の整備は朝から行われ、草刈りや去年の炭の片づけなどを行う。それから大の字の形にまきを並べるのだが、まきはあらかじめ調達し、準備したものである。全部で92世帯の各世帯からまきを1束ずつ集めているが、大文字を40分ほど燃え続けさせるためには大量に必要であり、足りない分のまきは製材店で補充している。そのまきを鉈やチェーンソーで適当なサイズに割り、それを麻紐で束ねておくという作業を10人で3日間ほどかけてやっておく。当日には山頂までその準備しておいた大量のまきを運び、大の字形に並べ、紐をほどいて組む。すぐに火が消えてしまわぬよう、また火がまきに移りやすいよう、布に灯油を染みこませたものをまきの下に仕込んでおき、一画目の横棒の最初の方にはまきを多めにし、あとの方に書く字はまきを少なめにする。そのまきを更に大文字を昔から知っているご年配の方からアドバイスを受けつつ字がぼやけないようにまきの位置や量を微調整して準備をしておく。また、雨が予想された年はまきの上にブルーシートを直前まで点火直前まで被せておいたという。大雨が降った年になかなか火が付かなかったことはあったが、その年もなんとか火は灯せたので、雨で中止になったことは記憶にある限りないそうだ。

 この十代地山の頂上には山の神を祀る祠があり、祠そのものは2年前ほど前に崩れかけていたものを修復している。この山の神については、元々山の神がいて仕事に従事していた人たちがいたか、山の神を祭っていた人たちがいたかであろうが、そこに一条氏が目を付けたのではないか。祭っていた神様は、大物主ではないか、などと言われているがはっきりしたことはわかっていない。朝の準備を終え、軽く腹ごしらえとおみきを入れてから、17時頃になればこの十代地山にて神事を行う。山の神へのお供え物として持ち寄った米、酒、鯛などの魚、果物、野菜、椎茸や昆布などの乾物、お菓子を並べる。上の段には左から魚、米、酒を、下の段にはかし、果物、乾物、野菜を供え、祝詞をあげ、榊を台にあげてお奉りをする。そして、五穀豊穣と地域の人々の健康、安寧を願ってお祈りする。

写真3・山の頂上の祠

 18時半ごろになると大文字山の近くの広場、四万十市野鳥自然公園で盆踊りが催される。この盆踊りは大雨で中止になったり、昔戦時中に途切れたりすることはあったものの戦後は中止と復活を繰り返しつつも、現在は続いている。盆踊りを踊ったり、太鼓を披露したりと大文字点火が始まるまで催され、大文字が点火される19時になると一度中断される。大文字の点火前にも組んでおいた灯油を含んだ布とまきの上から灯油をかけておき、19時になると大文字点火の合図である煙火があがる。この大文字の点火作業に使われるトーチは竹を切り出したものであり、長さは1mほど、トーチの先には灯油を含んだ布がつけられている。この煙火を合図にそのトーチに火をつけ、点火する際は二人一組になって火をつけていく。まずは一画目の横画を左から右に声を掛け合いながら同時に灯していく。一画目が終わると上に戻り、二画目の左の払いの部分を灯していく。二画目が終われば再び上に戻り、三画目の右はらいを灯していく。二画目と三画目の点火作業に当たる人は一画目と交わる部分が高熱になり、灯せば上に戻らないといけないので特に大変である。昔はまきを組む作業から男性だけで行われていたが今は人手不足もあり、まきを組む作業も女性が行っている。この点火作業はだいたい7、8人で行われ、危険な作業なので男性のみで行われている。
 この大文字が完成する19時15分頃になると式典が近くの四万十市野鳥公園の広場で行われ、地区長の挨拶のあと、市長と市議会議員が祝辞を述べ、それから再び、盆踊りが再開される。大文字は40分ぐらい燃え続け、20時頃になれば水をかけて火を消す。消火を終えてからの下山は21時ぐらいであり、それでようやく大文字の送り火の一日が終了する。

3.「大文字」をめぐる歴史認識

 この大文字の送り火の起源に関しての資料や文献は残っておらず、この大文字の送り火は口伝で伝わっている。地域全体を4つの組に分け、当番什長を選出し、その当番まとまった組が一年の行事を担当する。この大文字の送り火にいたっても朝からこんな手順でどのぐらいのまきを組んでというのも当番の什長の判断に任され、細かいところは昔から大文字を知っている年配のご老人に指導してもらうなどで伝わっているのである。

 大文字の送り火に関しては前述の通り、一条公に由来し、その起源は500年前にあると言われ、今日まで続いているという。だが、この一条公ゆかりの通説と500年の歴史を揺るがしかねない出来事があった。その出来事とは現在の間崎地区長である中山典夫氏の娘である中山知意氏が当時小学生のとき書いた自由研究で、『「間崎大文字の送り火」について』という祖母から大文字について聞き取りをして書かれたもので、自由研究の第二章「間崎の人々のなげき、祖母のなげき」に記されている。それは次のような内容のものである。

 二、間崎の人々のなげき、祖母のなげき
 今年の六月十三日、間崎中の人々がなげくような出来事がありました。その日の新聞に『間崎大文字の送り火、一条公ゆかりの通説はくつがえされる。五百年の歴史は、実は二百五十年であった。市文化財保護審が確認』という記事がでたということです。つまり、大文字の送り火が『一条公ゆかりのものではない』というのです。間崎の人々にとって、本当に、寝耳に水のおどろきでした。
 一条公ゆかりという文献資料があるわけでもないし、あくまでも伝承されたものであるから、異説の出ることもあるだろうが、その書き方が、あまりに人の心をきずつけるものであったから、部落の人々は話し合い、このことについて市の関係者の説明を求めることにしたそうです。
 そのために、部落の人たちが調べてみると、この異説は、まだ研究段階であり、あの記事は、一部の人の話を聞いて新聞社が勝手に作ったことが分かったそうです。
 二百五十年でも、五百年でも、長い伝統のある送り火です。今からも間崎の人々に、親から子へ、子から孫へと受け継がれていくでしょう。でも、やっぱり、間崎で生まれ育った私も『一条公ゆかり』『五百年の歴史』の説であってほしいと願っています。

写真4・「間崎大文字の送り火」自由研究

 この自由研究では今から28年前に発行された高知新聞に「一条公ゆかりのものでない」「500年の歴史はない」という記事が掲載され、今まで間崎地区に口伝えで代々伝わってきた大文字の送り火の伝承とは食い違う内容の新聞記事に対して嘆き悲しむ間崎住民の思いが書かれている。この自由研究中に出てくる高知新聞は平成2年6月13日の記事で、次のような記事が記されている。

 中村市間崎に古くから伝わり、これまで一条氏が始めた、とされていた大文字の送り火の起源について、市文化財保護議会(山本恒男会長)が「通説より二百年遅い江戸中期、享保年間」とする資料を確認した。同審議会は「地元民が営々と伝えてきた貴重な文化に変わりはない」として、近く、同行事を文化指定するよう市教委に答申する見込みだが、通説が覆されるだけに今後は波紋を広げそうだ。
(中略)
 今回、同審議会が「送り火が始まったのが江戸中期」とした最大の根拠は、江戸後期の文化八年(一八一一年)に山之内家の家老だった深尾氏の家臣で、国学者の岡宗泰純が著した『西郊余翰』(「南路志翼四十二」に原本収容)の記述。
幡多地域一帯を見聞した泰純はこの中で「間崎村西山の山腹に大文字あり」と記したうえで、「享保年中見善寺の僧侶江翁良邑京都東山に模して作りたりとそ」(原文のまま)と、享保年間(一七一六‐一七三六年)に現在の間崎の薬師堂近くにあったとされる見善寺の僧りょが始めたものであることを紹介。さらに送り火について「世々一条公の名残といへとも左にあらす」と、当時から既に伝わっていた「一条公ゆかり」説を否定している。「僧侶江翁良邑」がどんな人物だったか今のところはっきりしないが、ある郷土史家は「「『西郊余翰』」は審議会が史料収集中に確認した送り火に関する最も古い文書で、享保時代に始まったことはまず間違いない」。また、別の郷土史家も「一条公ゆかり」というのは一条文化への誇りから生まれた一つの『伝承』だろう」と結論付けている。


写真5・『高知新聞』1990年6月13日付、大文字の送り火についての記事

この新聞記事に根拠として取り扱われていた『西郊余翰』の原本が収容されているという「南路志翼」について、『国書総目録』(岩波書店)を参照したが『南路志』しか載っておらず、『南路志』の間崎村についての記載もすべて確認したのだが、『西郊余翰』及び「南路志翼」は見当たらなかった。この『西郊余翰』は江戸時代後期の国学者、岡宗泰純によってかかれたとされている。『西郊余翰』そのものは柳田国男が『雪国の春』(角川学芸出版)を著した際、一部は引用されているのだが、『西郊余翰』の全貌ははっきりとしていない。
 『中村市史』(第一法規出版)には大文字の送り火についての口絵には大文字が載っているが大文字に関する記述はなく、『中世土佐幡多荘の寺院と地域社会』(リーブル出版)と『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院)の中世と一条氏を取り上げた2冊本を参照しても大文字の記述はなかった。かつて間崎地区に見善寺という寺はあったであろうが、享保時代からなのか、僧侶が始めたのかまでは明らかにされていない。現在の間崎地区には薬師堂は存在しているが、見善寺が存在したということは伝わっていないという。

 前述の通り、間崎の大文字はほとんど口伝えの伝承であり、大文字に関しての資料や文献は残っていないが、間崎地区に住む人々によって今日まで伝えられているのである。
『間崎の人々のなげき、祖母のなげき』の自由研究では大文字の送り火に500年の歴史はなく、250年の歴史で享保時代に始まったといわれ、なげき悲しむ間崎の人々の思いが記されている。「500年の歴史はない」「一条公ゆかりではない」と書かれた新聞の記事に対して悲しみ、説明を求める程に「500年続いている」「一条公ゆかりであってほしい」ということが間崎地区に住む人々の歴史認識なのである。

謝辞

今回の論文作成にあたって、ご協力をいただいた中山典夫様、娘の知意様。薮ご夫妻様。そしてごお話を聞かせていただいた間崎にお住いのみなさま。お忙しい中、お話していただき本当にありがとうございました。皆様のご協力なしにこの論文を書き上げることは叶いませんでした。心より感謝申し上げます。


参考文献

和崎春日『大文字の都市人類学的研究−左大文字を中心として』(1996年、刀水書房)

市村高男『中世土佐の世界と一条氏』(2010年、高志書院)

東近伸『中世土佐幡多荘の寺院と地域社会』(2014年、リーブル出版)

中村市史編纂委員会『中村市史続編』(1984年、第一法規出版)