関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

文献解題

島村ゼミ3回生によるフォークロア研究文献解題

【解説担当者より】
 今回は以下の三本の論文を取り上げることになったのだが、この三本に絞る前に気になる論文をピックアップした。解説担当者の興味には偏りがあった。昔話や世間話、喧嘩言葉、伝説など人々によって語られ伝えられるものがほとんどであった。以前、昔話について調べたことがあるのだが、その際に、同じ昔話でも土地によって伝えられ方が違うことを知った。その後、伝わり方の違う有名な昔話や、またあまり有名でないその土地だけに伝わるような昔話の研究をしてみたいと漠然と思っていた。その研究への興味が今回で昔話以外にも向くようになった。個人的には妖怪などが好きなのでそれに関わる面白い話に出会えたらと思っている。(安井萌)


■久保 孝夫「津軽海峡圏の昔話と笑い話」『日本民俗学』189号、1992年

(1)著者について
 久保 孝夫 青森県民俗の会。

(2)対象
 津軽海峡圏に伝わる昔話と笑い話

(3)フィールド
 北海道道南地域(八雲町、乙部町奥尻町等)、青森県津軽(西郡深浦町鰺ヶ沢町木造町舘岡等)・南部(野辺地町等)・下北地域(東通村目名、佐井村等)

(4)問題設定
 昔話、笑い話を含む口承文芸が新しい土地でどのように根付き、伝承されてきたのか
 
(5)方法
 聞き取り調査

(6)ストーリー
 北海道において比較的古い時代から人が定着した道南地域と、津軽海峡を隔てた対岸地域(青森県津軽・南部・下北地方)との生活文化には、非常に類似している文化要素が多くみられる。同様に昔話においてもこれらの地域の間には多くの点で類似性がある。地域によって昔話で使われる言い回しや話の内容が違うことを『地蔵浄土』という話を用いて示した。また昔話の役割も述べていて、生きていく上での知恵や教訓を子供たちに教えることがその役割としている。笑い話については「江差の繁次郎」という話を様々な地域の人に聞き取りを行い調査した。その結果、繁次郎という主人公を使ってその土地その土地の笑い話が語られていることが明らかとなった。しかし、異なる土地でも繁次郎について具体的なイメージは共通している。最後に昔話や笑い話の魅力は、人によって語られることは真実味・切実味があり、人の心を強く打つとしている。それが現代では、隣近所と深く関わることが減り、助け合ったり助けたりの相互扶助の精神が薄らぎ、人間の機微をそこはかとなく感ずることもなくなったことはさびしい事であると筆者は述べている。

(7)結論
 昔話(主にむかし語り等)は急速に失われつつある。その起因するところは、昔話を憶えていたお年寄りが少なくなったこと。またかつて子供たちに昔話を語ったことのあるあるいは子供の頃祖父母などから昔話を聞いたことのある人たちの記憶の中から消え去ろうとしている。子供も昔話よりテレビを楽しむようになった。そのために次世代へ受け継がれていない。笑い話に関して言えば、日常どこにでもありそうな形の笑い話がふくらんで村々に伝承され、話を形成していったものと考えられる。これは笑い話の成立を考える上でたいへん興味深い。今なお、日々の生活の中に笑があり、多くの笑い話が語り継がれていくことは精神的なゆとりがあり、幸せな人生観を持っているからにほかならない。

(8)読み替え
 この論文の中では具体例として『地蔵浄土』という昔話と、「江差の繁次郎」という笑い話が挙げられていた。語られる土地、語る人によって言い回しや、時には話の内容まで変わる。これは昔話や笑い話が人々の間で生きられているということを目に見える形で表している。特に「江差の繁次郎」は興味深く、様々な土地で生まれた笑い話が繁次郎という主人公を使って語られているのである。主人公は共通していてもグループによってそのイメージや話が異なるのである。昔話や笑い話をグループという区切りで見ることができる。


■宇田 哲雄「喧嘩言葉・悪口について―ムラ人の地域社会認識―」『日本民俗学』196号、1993年

(1)著者について
 宇田哲雄 1964年、埼玉県生まれ。1990年、成城大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在は、埼玉県川口市文化財センター主査を務める。

(2)対象
 喧嘩言葉、悪口

(3)フィールド
 群馬県高知県など

(4)問題設定
 ムラとムラあるいはムラのひとつの広い地域において、喧嘩言葉や悪口といった資料から人は生きていくうえで、他社会をどのように見て社会生活を営んできたのか

(5)方法
 文献調査

(6)ストーリー
 昭和10年代前半から、子供たちが喧嘩をする時に言い合う言葉や各地で使われている「悪口」が報告されることはあったが、研究者たちの間であまり問題にされてはこなかった。一方で、近年になって社会の関心が子供に向けられる中で、民俗学においても、喧嘩あるいは喧嘩言葉が、子供の成長過程において意味のあることだという指摘がなされた。筆者はこの民間伝承から、日本人の社会生活における精神史あるいは教育史の一端を考える。まず筆者は、千葉徳爾柳田國男を引用しながら研究の目的を示す。そして次に群馬県高知県の資料を用いて喧嘩言葉・悪口・はやし言葉の中で、対象を人に対していうものに限定し、言い合う社会の規模によりおよそ二つに分類した。さらに群馬県水上町など具体的な事例を通して考察をより深めていき結論を出した。

(7)結論
 喧嘩言葉や悪口の分析から、ムラ人が認識するひとつの世界と、他の地域社会への認識・評価の仕方をうかがうことができた。具体的に言えば、経済状態やムラ人の態度などが、社会に対するひとつの評価の仕方あるいは基準になっていたようである。またこれは、ムラ人のその社会の人達とのつき合い方を示していると思われ、ムラ人は、ムラ意識とともに、社会生活を営んできたのである。喧嘩は、現代において禁止されるべきもののようであるが、かつての子供達にとっては、ひとつのコミュニケーションであり、この経験をとおして、ムラの一員としての自覚や談判などのルール、交流範囲となる社会(世界)と地域社会に対する見方および付き合い方を習得していくものではなかったか、と筆者は述べている。また、喧嘩にこのような機能がなくなったことが、現代の子供の社会問題がおこったひとつの理由なのではないかと締めくくっている。

(8)読み替え
 喧嘩言葉や悪口はLIVING FOLKLOREで言うとPerformanceにあたると考えることができる。言い回しには形式があり、またその形式も形を変えながら受け継がれている。自分の相手に対する敵意を表現したり、相手の住んでいる土地について否定的ではあるが表現したりしている。悪口をよく検証すると、その悪口の対象とされている物や人などが客観的にどう見られているのかがわかる。さらにはその悪口を言う側の人々の価値観を見出すことができる。


■重信幸彦『「世間話」再考―方法としての「世間話」へ―』『日本民俗学』180号、1989年

(1)著者について
 重信幸彦 北九州市立大学基盤教育センター教授を経て、国立歴史民俗博物館客員教授

(2)対象
 世間話

(3)フィールド
 口承文芸とその他の領域

(4)問題設定
 世間話という概念には、単に口承文芸の一ジャンルを指すために使い回しされる役目しか与えられていないのか

(5)方法
 文献

(6)ストーリー
 「世間話」というものが口承文芸のジャンル、即ち分類上の一概念とするなら、この「世間話」という用語のなかに、どのようなものが囲い込まれることになるのかを最上孝敬、井之口章次、桜田勝徳、大島建彦の「世間話論」から分析していく。その際、学者達の間の不協和音のなかの世間話、「伝承性」、「境界」という点から世間話をひも解いている。さらに柳田國男の「世間話の研究」を読み「口承文芸」の一ジャンルであることが自明とされている世間話を相対化した。そして方法としての世間話と題して、「聞き書き」と「場」をキーワードとし、ここまでで掴んだ〈世間話〉という問いに込められている思想を元に、結論を述べている。

(7)結論
 「伝承性」や「境界」などといった点から見ると、世間話は「口承文芸」の一ジャンルに囚われているといえる。しかし、筆者は決して口承文芸研究における世間話の位置を否定するわけではない。筆者は「世間話の研究」を取り上げて、世間話に込められた問は従来の「口承文芸」という領域にのみ囲い込めるものではないと示した。それはつまり、われわれが日々の経験を構造化してゆく道具としての言葉の在りように関わる根本的な問を内包していた。そしてさらに民俗学という思考そのものが、我々の日常を語ってゆく言葉に対する問をも含んでいるのではないかと筆者は述べた。「聞き書き」を我々の五感のすべてが関わる「場」のあり方を指すとする。そうすると言語で表現しきれない「場」の厚みを、我々は結局言語で表現しなければならないことにもどかしさを感じる。「聞き書き」をの「場」で人が何かを語るとは、すでに置いてある言葉を披露するわけではない。問いかけに対してその人の中で構造化された言葉が発せられるのだ。「聞き書き」という「場」で我々が出会うのは、語り手がそこで言葉によって構造化したある種の物語であり、今回の場合でいうと、それが〈世間話〉にあたる。世間話は口承文芸の一ジャンルにとどまらない。個人が自由なもの言いの技術を使って語る生きられた言葉なのである。

(8)読み替え
 世間話は人と人との間で行われるものであり、共有されるし、生きられもする。論文中にもあったように口承文芸にとどまらず民俗学フォークロアの研究対象になりうるものである。しかし、世間話とはその場その場で生まれるものであるので検証するにはある程度の工夫が必要であると考える。