関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

文献解題

島村ゼミ3回生によるフォークロア研究文献解題

【解説担当者より】
今回、解説するにあたって、実際に論文をいくつか読んだが、解説担当者の出身である福岡と死についての話に焦点を当てた。死と言ったが、死だけでなく、死に関わりのあるもの、例えば、死の儀礼である葬儀において宗教が関係するということから地続き的に宗教にも興味を抱いている。葬儀については以前、概観をしたが、今回の解説によってまた新たな側面を見ることが出来た。今回の解説によって、同じことに焦点を当てつつ、異なるアプローチを試み、より立体的な理解を得るといった経験、どの分野においても通ずる手法を経験できた良い機会になった。(藤村雄一郎)


■金子毅「もう一つの戸畑「提灯山笠」―「女山笠」創出をめぐる葛藤の構図から―」
『日本民俗学』258号、2009年。

(1)著者について
1962年埼玉県生まれ。文化人類学民俗学を専攻しており、近代産業社会と労働文化にかかわる歴史民俗学を研究。

(2)対象
戸畑祇園祭りにおける「提灯山笠」と「女山笠」創出と実現の過程における地域社会

(3)フィールド
戸畑の商店街・市場

(4)問題設定
地域活性化の一策としての「女山笠」創出と実現の過程における地域社会の葛藤の複雑性

(5)方法
現地での聞き取り調査、文献調査

(6)ストーリー
1802年の疫病蔓延の際、神社に祈祷したところ疫病が治まったことから須賀大神に感謝を込めて山笠を奉納したことが始まりとされている戸畑祇園山笠。提灯を灯した状態で山笠を担ぐため「提灯山笠」とも言われる。
八幡製鉄所開業以降、労働者・商業者が大量に流入したことより、市場・商店街が形成され、また、戸畑祇園山笠の舁き手である山衆の供給源となった。そのため、山笠の舁き手は激増し、それと呼応するかのように山笠の巨大化現象が生じた。
しかし、1973年の石油危機に端を発する鉄冷え以降、経済の停滞が訪れる。そこで、地域活性化の企画として従来女人禁制である山笠を女性が舁くことが発案される。しかし、地域社会においては亀裂が生じる。ここでは、文化財指定やおまつり法による行政の後押しがありつつもそれが地域社会とは相いれないという葛藤を明らかにしたものとなっている。

(7)結論
女人禁制の掟を破り女性が山笠を舁くということは、山笠を舁くことに誇りを持っている山衆や舁き手を供給してきた商店街・市場からは否定的な態度がとられた。しかし、活性化事業を行政が後押ししている以上、否定的ではあるものの条件付きという形で実現がなされた。その際の主な条件は「提灯山笠」と同様に行うということだった。
前述したように「提灯山笠」は、提灯を灯した状態で山笠を舁く。つまり、一歩間違えば、火だるまになりかねない祭りである。そのため、「提灯山笠」を舁くにはそれなり技術が必要となってくる。しかし、結果として「提灯山笠」を舁いたことのない女性たち、言うなれば「提灯山笠」において死蔵されていた者たちの手によって「女山笠」が実現されたことを考えれば、彼女たちに協力をした山衆が存在したことは明らかで、山衆も一枚岩ではないということだった。
戸畑祇園祭は現在、国指定重要無形民俗文化財指定となっているが、かつては喧嘩山として知られるほどスリリングなものだった。だが、文化財指定を受ける際に、安全という大義名分のもと喧嘩山の様相は削除され、面白さを感じなくなった山衆は離脱、また喧嘩山に必要だった高度な技術は必要無くなり、それなりの技術を要するだけの民主的山笠となった。
彼女らに協力したものが、反発し離脱していった山衆だった。
女山笠」は離脱した元山衆たちの知識と記憶によって、男たちの「民主的山笠」から再帰された女たちの「民主的山笠」であり、もう一つの「提灯山笠」と言える。そして、元山衆にとっては抗弁ならぬパフォーマンスにほかならない。ならば、たとえ否定的な態度が存在していても、女性の主体的な参加意欲がある限り、おまつり法という大義名分を後ろ盾に「女山笠」は存続し続けるだろう。

(8)読み替え
 今回の「提灯山笠」においては、男性・女性に限らず、どちらも火だるまになる危険を避け、かつ山笠を動かすことが集団に課されている。そのためには、個人は山笠を動かす集団の一部として、部品として、個性を埋没させる必要がある。そうすることで、疎外からの解放や集合的沸騰を感じ得ることが出来るだろう。これらが集団技という点で組織論的視角の導入が必要となってくるだろう。
 また、「女山笠」の主な舁き手は市立戸畑商業高校の女生徒である。彼女らは初めはボランティアの単位に振り返る措置が行われた為に参加したに過ぎないかもしれない。しかし、スルという過程を経て、主体的意図やリピートが生じている。これは、彼女らが「女山笠」を舁くことで、地域社会の一員として社会化・フロー体験を感じ得たからだろう。このようにして、従来、山衆たちによって維持されていた戸畑祇園祭の伝統文化は女性にも媒介されるに至ったと言えるだろう。


■山田慎也「死を受容させるもの―輿から祭壇へ―」『日本民俗学』207号、1996年。

(1)著者について
1968年生まれ。国立歴史民俗博物館研究部民族研究系准教授。葬送儀礼の近代化と死生観を研究。

(2)対象
葬儀

(3)フィールド
東京都

(4)問題設定
葬儀の中心的存在となっている祭壇。その祭壇の形態を通した、死の受容の在り方

(5)方法
葬儀用品問屋や葬祭業の方々からの聞き取り調査、文献調査

(6)ストーリー
明治・大正期における葬儀から昭和期の葬儀の形態変化について述べ、そこでの人々の営為が論じられている。

(7)結論
明治・大正期では、葬儀には基本的に、簡単な机を置き、香炉や燭台、位牌を飾る程度で祭壇を重視することはなかった。葬儀の中心は柩で柩を納める輿だった。そして、遺体を納める柩はその材質や厚さ、その形態によって葬儀の規模や死者の社会的身分を示すものだった。また、それは葬列において柩を納めて運ぶための輿や駕籠についても同様だった。
葬列は大正の始めからほとんど行われなくなる。しかし、葬列を行わなくなっても、輿は葬儀において用いられた。だが、その機能は棺を入れることではなく、柩をかくす飾りの役目だった。棺かくしとして、移送を目的としない「動かざる輿」として用いられるようになるが、昭和30年代以降この棺かくしは白木の聖殿へと定型化した。また、昭和初期頃から寝棺が多く用いられるようになったと同時に、寝棺の前に大きな机が出現、また、そこに飾り付けが施され、祭壇の様相をとることとなっていった。
前述したとおり、葬列は大正中期には行われなくなるが、その代わりに霊柩車が使用されるようになるが、もともと霊柩車は葬列を組むことのできない下層民のため、葬儀の簡略化を目的に登場したものである。なので、霊柩車は死者の社会的身分の違いを覆い隠す役割を持っていた。つまり、かつての葬列が持っていた、社会的身分の呈示をすることで既成の社会秩序を周囲に認識させるという役割を放棄するものであると言える。
そこで、葬列に代わり家に呼び込む儀式として普及してきた告別式に社会的に死を呈示する役割が移り、さらに、社会秩序の担保として祭壇への関心が向いたのだろう。
祭壇が社会的身分を呈示する以上、祭壇の華美化は免れないだろう。その結果、本来は祭壇の最奥に置かれていた柩も祭壇の前に置かれるようになった。現在の祭壇は、それ自体が仏のいる浄土、死者を赴く他界を示しており、祭壇の前に死者を安置することで、死者が浄土の中にいることを視覚的に演出するといった再生のモチーフを想起させ、死のリアリティーを構成した。仏教においては引導作法によって死者を浄土へと送り、また、かつてのように、葬列において輿に載った死者の葬列の移行を体験することで旅立ちを想起し、死のリアリティーを構成するということは困難になった。
死自体は不可避であり、それに臨む人々は死を「旅立ち」や「再生」といったなんらかの観念に変換している。つまり、死の儀礼は死の受容に必要な変換装置である。不可解な死に対峙するためには積極的な変換が必要なのである。人々は輿や祭壇にその機能を期待し、その機能が果たされてこそ、やっと死の受容ができるのだろう。

(8)読み替え
 死の受容を行うための緩和装置として死の儀礼がある。そして、それはその者が最後に経験する通過儀礼であると言えるだろう。死の儀礼としての葬儀によって生と死の境界が引かれるのである。また、キリスト教に見られるような終末思想においては、最後の審判によって永遠の生命を与えられるか、地獄に落ちるかが決まる。つまり、ここでは、一度きりの生命といったように生と死に絶望的な隔たりがある。しかし、仏教に見られるような輪廻という考えにおいては、あの世に還った魂が、この世で何度でも生まれ変わってくると考えられている。ここでは、生と死が死の儀礼によって境界が引かれているが、旅立ちと再生といったように地続きなものとなっている。
 これらの死生観の違いに応じ、死の受容はおそらく変わってくるだろう。葬式だけでなく死の受容を表象するものである、死の儀礼あるいは死を感じさせるような儀礼を見ることで、そのコンテクストにおける立体的な理解ができるだろう。


■桜井徳太郎「日本人にとってカミとは何か―民俗学的カミへのアプローチ―」『日本民俗学』183号、1990年。

(1)著者について
1917年新潟生まれ。東京文理科大学文学部史学科を卒業後、東京高等師範学校助教授、東京教育大学助教授・教授を経て、駒澤大学教授・文学部長・学長・名誉教授、日本民俗学会会長や日本風俗史学会長を歴任。柳田國男に学び、シャーマニズム民間信仰、他界観を研究。1981年に紫綬褒章、1990年には勲三等旭日中受賞を受勲。2007年没。

(2)対象
民俗的カミを受容する日本人

(3)フィールド
田遊び行事の地(東京都板橋区徳丸)
屋久

(4)問題設定
日本人にとってカミとは何か

(5)方法
文献調査、実地調査

(6)ストーリー
普遍宗教や世界宗教と言われるキリスト教イスラム教宗教圏における神とは日本の神は異質である。たとえば、民間信仰の基層をなす民族的なカミ。これらのカミは民間信仰の領域で機能するきわめてアニミスティックで自然崇拝の色が濃い。これらの土着の民俗神と地域外からも外来神を求めた理由を述べ、人々のカミの受容形態を呈示。そしてカミの衰退と賊活を通して民俗的カミの両義性を論じる。

(7)結論
民俗的カミは人々の居住・生活の場に見られる。そしてそれらのカミは地域守護の中核であり住民の拠るべき信仰の原点でもある。基本的にこのカミにおいては、住民の宗教的ニーズに十分こたえることが出来るという前提となっているが、外来神が存在するというからには、何らかの理由で土着神が住民のニーズに応えられなくなったということが指摘できるだろう。応えられなくなった所以はどこにあるのか。住民のニーズに応えるべくカミは霊威を有している。しかし、霊威も無限ではない。この霊威は、まず人々の信仰がなければ生じず、年ごとに更新されるものである。また、カミは常在するものでもないため、霊威を不断に行使するにはままならない。では、カミが不在の際、カミは何をするのか。
カミはマツリにおいて顕現すると言われている。それ以外は、人々の信仰を集め霊威を蓄えると考えられている。にもかかわらず、カミの霊威や威力というものは、そのカミを信じる氏子の期待に必ずしも応えることはできない。日本におけるカミ観念が民俗的カミである以上、それらのカミはアニミスティックであることは免れず、万能な唯一神ではないのである。そのため、人々はカミのできることを効能として捉え、この時にはこのカミといったように、複数のカミを信仰するに至った。すなわち、カミの力の限界を認めざるをえず、その限界を乗り越えマイナス面をカバーしてくれる、より霊威のある対象、つまり外来神が信仰されるに至ったのである。
 カミは人々の信仰を集め、その力を行使することが求められるが、地域共同体におけるカミの受容においては、住民のニーズに応えられるカミが積極的に受容される。パターンとしては、招請神あるいは勧請神という地域住民の主体的意思によって積極的に受容されるもの、もしくは外来神という住民の意思にかかわらず他地域から導入されて地域に定着するカミである。だが、いずれにしても地域住民の宗教的ニーズが原点であり、それに適合しない場合は拒否されてしまう。住民のニーズはまことに現世利益的であり、居住・生活の場で実践される。要するに、ニーズに応えられないということは、氏子にとっては生活の場が空白をもたらされることであり、空白が生じた際、既存のカミ以外を求めるのである。とするならば、土着のカミは外来的他信仰の霊威によっていよいよその影を薄くし、自前の主体性を失ってしまったのかが問題となる。
 前述したが、カミは日常の生活空間外から降臨し氏子に恩恵をもたらす。そのために、他界において霊威は十分に補給されるとみなされている。しかし、これらのカミが常在するとなると、供給源が絶たれるため霊威は衰退する。では、常在するカミは霊威をどうやって回復するのか。人々が年ごと月ごとに、または季節に沿ってマツリを施行する所以はここにある。つまり、季節の折り目、節目ごとに他界からカミの霊威を招き求め、その霊力を地域常在の神々に憑依させることによって、減退した霊威の蘇生と活性化を図ろうと試みた。人々がマツリに全力を注入して奉仕あるいは没入する原点もここにあるだろう。
 我々の民俗的カミへの期待はその実が現世利益的であるため留まることをしらないが、カミの霊威は消耗していく。しかし予期せぬ事態に直面した際、例えば災害などが挙げられるが、これらのマイナス要因はいかなる尽力を尽くしても免れることはできない。そのため、これらはカミ、要するに悪神のせいにし、それに対し悪神・悪霊の封じ込みといったことをした。ムラの境界に防塞の民俗神を設けたり道切りの網を張ったりすることもこのためで、遮断といった措置をとってきた。そして、これは地域神の権威が衰えない限りは有効であった。しかし、カミの力は消耗していくのである。カミの尋常ならざる霊威はケのエネルギーと考えられるが、その霊威が衰退するとケガレに陥ると考えられる。このようにしてケガレ化がすすむと、もはやカミ本来の機能を顕在しえないケガレ神へ転落したと考えなくてはならない。そうするとカミのマイナス面ばかりが目立ってくるようになる。場合によっては加害神への転化も見られるだろう。だが、日本のカミはマイナスの加害神となって人々を苦しめはしたものの、人々の慰撫奉祀の処置を受け善神へと転移するといったマイナスからプラスへと転化する可能性を持ち合わせている。同じカミでも、時には悪いことを聞いたり、または良いことを聞くのもこのためである。つまり、二つの違ったカミの性格が未分化のまま統合された形で内包されているのである。人々は現実の世界に向かってカミが機能する際においてカミをプラスやマイナスと見るのである。とするならば、カミがマイナスからプラスへと転ずるのではなく受容する人の方に転機が存在するのではなかろうか。こうした民間信仰における逆転の倫理を根底に据える民俗的カミの在り方が、日本人のカミ観念の本体を確かめる分析指標となるだろう。                                                  

(8)読み替え
リチュアルも極端に言えばパフォーマンスの一例に過ぎない、リチュアルにおいてもそれを施行するパフォーマーとそれの受け手が存在する。しかし、施行するものの意図と、それらの受け手の理解は必ずしも合致しえない。カミの両義性に至っても同様のことが言えるだろう。