関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

文献解題

島村ゼミ3回生によるフォークロア研究文献解題


【解説担当者より】
 論文のテーマを選考するにあたって、解説担当者は元々宗教や信仰に関わるものや妖怪などの宗教的、神秘的なテーマに興味を持っていたのでシャーマンや葬儀、妖怪や憑依といったようなテーマの論文を13ほど抜き出し、その中から特に関心のある信仰や妖怪に関するものを7つ抜き出した。またさらにその中で読み込み、3つに絞り込んでいった。信仰に関するものの中でも特に私は稲荷神社のことに関心を持っていたので一つ目の「狐伝承と稲荷」はタイトルの段階で確定していた。稲荷神社に関心を持っている理由としてはゼミで訪れたことも含め、それ以前にも伏見の稲荷神社に行ったことがあり、その稲荷信仰の神秘性に強く惹かれたからである。二つ目の「むかで神と竜神 −赤城山信仰のふたつの面−」を選んだ理由として、むかでを神とする信仰があると耳にしたことがあり、そこからむかで神の名前に惹かれて選択した。上述したように妖怪の類の研究にも興味があったのだが、河童や座敷童などのオーソドックスな妖怪よりも少し知名度が低いものを調査してみたかった。故に妖怪に関連性があり、その名を以前から耳にして興味を抱いていた沖縄のキジムナーの研究論文を三つ目に選択した。今回は宗教的なテーマに限られてしまったが、自分の関心以外の分野の論文も読み、関心の幅を広げ、新しい発見ができればと思う。(吉野有紀)


■大森恵子「狐伝承と稲荷信仰―特に変化型狐伝承と荼吉尼天信仰を中心にして―」『日本民俗学』177号、1989年。

(1)著者について
著書に『稲荷信仰と宗教民俗』『念仏芸能と御霊信仰』『踊念仏の風流化と勧進聖』など。

(2)対象
狐伝承・稲荷信仰と荼吉尼天信仰

(3)フィールド
京都府鷹ヶ峯(円成寺常富明神)、岡山県久米郡(木山寺善覚稲荷)、大阪府能勢町能勢妙見堂鴎稲荷)、大阪府堺市少林寺(白蔵主稲荷)、東京都文京区(伝通院沢蔵主稲荷)、愛知県名古屋市(鷲津山長寿寺高蔵坊稲荷)、京都府上京区相国寺宗旦稲荷)、京都府東山区知恩院濡髪堂)、三重県上野市(広禅寺小女郎稲荷)、和歌山県和歌山市紀三井寺春子稲荷)、長野県戸隠村(大昌寺願叶稲荷大明神)、奈良県大和市(源九郎稲荷)、兵庫県多紀郡(王地山稲荷・森田邦夫家の屋敷神稲荷)、京都府伏見(伏見稲荷

(4)問題設定
狐にまつわる伝説や昔話については、説話伝承学の面からも種々な論考が試みられてきたが、全国津々浦々に鎮座する稲荷社や稲荷小祠の祭祀由来のなかから、狐伝承が付随するものだけを選出し、稲荷神と狐の宗教的関連性を明らかにする研究は、いまだなされていない。そこで、本稿では宗教民俗学の観点から、稲荷信仰を通して狐伝承が示す宗教的要因を分析するとともに、「狐」が暗示する宗教的本質に焦点を当てて考察してゆく。

(5)方法
文献調査、聞き取り、フィールドワーク

(6)ストーリー
初めに稲荷伝承における狐は原始的な食物霊として霊獣性を拡大していったということを述べ。そこから狐が暗示する宗教的本質とは何かを主に変化型狐伝承を取り上げ、それに由来する稲荷社の御神体の大部分は荼吉尼天であることから特に変化型狐伝承と荼吉尼天信仰とのかかわりについて考察する。そこで、僧侶変化型狐伝承、童子変化型狐伝承、女変化型狐伝承、翁変化型狐伝承、相撲力士変化型狐伝承という5つの変化型狐の諸形態を挙げ、各々狐や荼吉尼天信仰にまつわる伝説や伝承を紹介している。この一連の具体例から狐伝承と荼吉尼天信仰との繋がりを導き出している。

(7)結論
 神道的稲荷よりも仏教的稲荷に狐伝承、特に変化型に属する話が多く付随しているのは、やはり原始的神概念の顕れと考えられる。荼吉尼天信仰を媒介として、霊験あらたかな稲荷神、即ち狐ほど、僧侶や童子、あるいは茶人・寺女・翁など種々に変化して民衆の前に姿を現し、吉凶を予言したり奇端を示現するものだと信じられるようになったといえよう。そのような理由で荼吉尼天をまつる稲荷社には、変化型狐伝承が多く付随するに至り、今日までその伝承が語り伝えられてきたと推察することが可能となる。

(8)読み替え
ここにおいて共有されているコンテキストは変化狐に関する伝承・伝説であり、フィールドは各稲荷神社のある地域でそこの人々に共有され信仰心をより高める要素として大きな役割を果たしている。
変化狐伝承の中にも僧侶・童子・女(寺女)・翁・相撲力士というように様々なバリエーションがあり、同じように荼吉尼天を祀っている稲荷神社であるのにそれぞれ少しずつ異なるエピソードが見られた。そのエピソードは人から人へ語り継がれるたびに少しずつ変化していったであろうし、真偽のほどはわからなくとも伝説として今日もまだ語り継がれ(生きられ)ている。その変化狐の不思議なエピソードこそが当時の人と現在それらの稲荷神社を信仰している人とをつなぎ合わせ、荼吉尼天信仰とも結びつくことでより一層信仰心を熱くさせるのである。知恩院の濡髪堂の濡髪大明神とよばれる信仰を例にすると、知恩院境内に住みついた白狐がいつもぬれたような美しい髪をした童子に化けて姿を現したことから濡髪童子と呼ばれるようになり、知恩院の守護神として祀られたという伝承がある。ここにおいても荼吉尼天が御神体であるが、この濡髪大明神という名から男女の「濡れ場」が連想され、荼吉尼天信仰とこのエピソードが合わさり、荼吉尼天信仰に性的信仰が含まれることで縁結びの神として信仰されたという。また、異なる地域でも共通の変化形態をとり、伝承においても共通する名前が見受けられた。それらの伝承にはつながりがあり、一方が元凶となってもう一方がそれの派生として現れるものがあった。円成寺の常富明神と能勢妙見堂の鴎稲荷を例に挙げると、学僧に化け悪さを働いた狐に「詫び証文(狐落としに使う証文)」をかかせたという話が円成寺の常富明神にはありが、その後その狐が能勢に至ったと伝えられていることから狐落としに霊験がある社として名高かった能勢妙見堂の鴎稲荷のとのつながりがわかる。このことから、狐の変化伝承は過去と未来の人や異なる地域の人との間をつなぐだけでなく、信仰やほかの伝承など様々なもの同士を結び付けて広まっていることが考えられる。


■都丸十九一「むかで神と竜神 ─赤城山信仰のふたつの面─」『日本民俗学』179号、1989年。

(1)著者について
都丸十九一(1917年7月15日 - 2000年3月21日) 群馬県勢多郡北橘村出身の民俗学者民俗学研究、特に地史の分野で活躍し、地名を成り立ちから分類して自然地名・人文地名・修飾地名・新付地名という概念を打ち立てるなど、顕著な功績を残した。
  
(2)対象
赤城山神のむかで神と竜神の伝説とその両者の関係。

(3)フィールド
群馬県赤城山

(4)問題設定
赤城山神をむかで神・竜神の両面から考察

(5)方法
文献調査、フィールドワーク、聞き取り調査

(6)ストーリー
赤城山神のむかでと日光山神の大蛇の神戦譚は古くから下野国内や東北地方など広い地域に伝えられていたが、赤城山神がむかでとなって戦ったという伝説は『日光山縁起』や『山立由来記』などの文献に書かれているだけで現地の群馬県内においては全く伝承されていない。しかし、むかでは神の眷属といわれていたり、むかでをテーマとした造形物が赤城山麓から関東平野中央部にかけて存在していたりすることから赤城山神とむかでは密接に関係していると思われる。その具体例を挙げ、それについての説明およびエピソードを紹介。その中には大ムカデを退治したという藤原秀郷にまつわる伝承があり、赤城山周辺一帯は古く秀郷流の一族によって開発されてきた地域ということを明かす。上述した伝承ないし造形物の所在地は秀郷の子孫の有力な豪族たちに由来のある地域とほとんど合致しており、それらの地域における藤原秀郷に関する伝説をいくつか挙げ、秀郷流の家々と赤城神との関係を考察していく。また、赤城山全域及びその周辺地域においてむかで神以前は竜神が信仰の対象とされていたと考えられ、赤城山における竜神に関する伝承・造形物を挙げる。結論として、赤城山麓で秀郷流の家々がむかで伝承を流布したことで元来竜神信仰であった赤城山信仰と結びついていったと思われ、むかでを守護神とする信仰がその地に根付いたとしている。

(7)結論
以上赤城山周辺山麓において、赤城神は竜神ないしへびとみられていた事例を別挙した。ここにおいて私は、これが恐らくは赤城山四周の普遍的な伝承によるものであるとみられ、東南麓のむかで神は、その中に発生した特殊伝承と思うのである。したがって、東南麓以外の地には波及しなかったのではないかと思う。しかし、その東南麓地方においても、むかで伝承以前に竜神伝承があった、ということは難しい。なるほど、現存の『神道集』は、岩波思想大系所収の『日光山縁起』よりも、若干の古さをもっている。しかし、これをもって両書の言おうとする次元が異なるから、その比較は不可能である。そこで私は、私の推論として、かつて赤城山信仰は、竜神信仰が中核をなしていた、ということに止めておこう。

(8)読み替え
フィールドは群馬県赤城山麓周辺であり、そこの人々(コミュニティ)に共有されているコンテキストはむかでおよび竜神赤城山の神として信仰することである。そしてそれぞれの地域、あるいは伝承を記載した書物にはそのむかで神や竜神に関するエピソードが存在する。そのエピソードは、秀郷の伝説から派生した故によく似ている物もあるが、全く同じものがあるわけではなく人々によって表現されたがためにそれぞれ独自のアイデンティティが形成され多様なものとなっている。ここにおいてもアイデンティティである伝承が人々の関心を引き付け、信仰心を高めているのである。


■辻 雄二 「キジムナーの伝承 ─その展開と比較」『日本民俗学』179号、1989年。

(1)著者について
辻雄二 琉球大学教育学部教授。現在の研究課題は、沖縄における動物供養に関する民俗学研究など。

(2)対象
キジムナーの伝承

(3)フィールド
沖縄県(主に沖縄本島

(4)問題設定
本稿で取り扱う沖縄のキジムナーは、河童一類の扱いをされてはいたが、奄美地方のケンムン、さらに九州南西地方の山童と列を等しくし、南方系の伝承とされ、山の神のような存在ととらえられてきた。こういった一連の河童研究と沖縄のキジムナーに関する従来の研究・報告をまとめ、再検討する過程を経て、その伝承の展開と本質に一歩でも近づきたいと考える。

(5)方法
文献調査、フィールドワーク、聞き取り調査

(6)ストーリー
キジムナーとは沖縄本島を中心に「木の精」とされている精霊であり、河童の一種とされた。しかしキジムナーは南方系の伝承とされ、現地では山の神のような存在とみなされてきた。ここから、筆者は河童とキジムナーの一連の研究をそれぞれまとめたうえでキジムナーの神聖、説話の展開、キジムナーの現状という三つからキジムナーを再検討していく。またキジムナーと類似する精霊であるケンムンと山童との比較を行った。結果、伝承を探っていくことでキジムナーと河童一類の伝承とのかかわりが確かめられたが、河童と区別される点としては、河童よりも色濃い特性を持っており、一般的な河童伝承には見られない特徴を持っていることである。キジムナーは様々な妖怪の特性を吸収していったことを示し、いずれの妖怪も対立関係ではなく、同一線上に存在する関係にあり、各地域によって入れ替わり、変容し、他の妖怪と組み合わさっていくものであると述べてしめくくる。

(7)結論
沖縄で伝承される、精霊キジムナーは全国でもあまり例のない妖怪である。しかしその伝承一つ一つを丹念に探っていくことによって、奄美諸島ケンムンや九州西南地方で語られる山童といった河童一類の伝承とのかかわりが確かめられた。元来、沖縄にはキジムナーとは全く性格を異にしたガワローという河童が伝承されている。このガワローがいつの頃沖縄に定着したものかはっきりしないが、沖縄ではやはり妖怪といえばキジムナーなのである。今回その伝承を概観し、そこに大きく二つの性格が存在することが確認できた。一つはガワローという河童と考えられる妖怪が存在しながらも、キジムナーはその河童がもつモチーフを、それよりもむしろ色濃く持っている点である。もう一つは折口の指摘した座敷童との関係で、その要素において、類似する点が大変多いという点である。一般的な河童伝承にはみることのできない<押さえつける>という行為は、今日のキジムナー伝承にとっては欠くことのできない要素となっている。

(8)読み替え
ここにおけるコンテキストは「キジムナーの伝承」であり、沖縄本島の一部の地域の人々に共有されている。今でもなお語り継がれ人々によって生きられ、共有されている。しかし、キジムナーはブナガヤ、セーマ、ボージマヤなどとそれぞれの地域で異なる呼称で呼ばれており、その行動や性格にも違いが出てきている。これはキジムナーの伝承が人から人へ口承で伝えられていくうちに他の妖怪の特徴や人々の想像なども取り込んで所謂尾ひれがついてしまったということも少なくないように思われる。こうして人々によって共有された一つの事象は人々によって再形成され、派生し、バリエーション豊かになっていくのである。本稿を読み、キジムナーの特徴から猩々という存在が連想された。類似した特徴が見られたためキジムナーとの間に何らかの関連性があるのではないかと思い、この疑問点を今後の学習などに生かせたらよいと思う。