関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

土に込める―淡路瓦をめぐる生業と生活―

土に込める―淡路瓦をめぐる生業と生活―

豊福啓人

【要旨】
 本研究は、兵庫県南あわじ市津井・湊・阿万・松帆慶野の4つの地域をフィールドとし、淡路瓦をめぐる人々の生業と生活について実地調査を行うことで、淡路瓦産業の「分業」という社会体制と随所で見られるこだわり、鬼瓦を手掛ける鬼師たちの世界からもわかる淡路瓦産業の「自由」という特徴、そして変化しつつある淡路瓦産業と人々の関係について解明したものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1.淡路瓦の起源は400年以上も昔に遡るが、瓦作りの原料となる土の豊富さと海上輸送の発達により、淡路瓦産業は日本の三大瓦産地となるまでに発展してきた。淡路瓦の特徴は「燻す」工程にあり、燻された瓦、すなわちいぶし瓦の生産量は日本一を誇っている。現在、淡路瓦の90%以上は津井で作られている。津井は淡路瓦産業の中心部分であり、それに伴って多くの瓦職人たちが住んでいる地区である。

2.瓦屋には「白地」と「黒地」と呼ばれる瓦屋がある。前者は焼き窯を持っていない瓦屋で後者は焼き窯を持っている瓦屋である。白地の瓦屋は焼き窯を持っていないため、製造工程の乾燥までを行い、黒地に委託することで焼成を行っている。現在でこそ両者の関係は良いと言われているが、一昔前までは両者の関係は決していいとは言えなかった。黒地の職人たちは白地の職人に技術を求めた結果、白地の職人は技術という点で淘汰されていった。

3.淡路瓦産業は特定の瓦専門店による社会的分業体制が築かれている。その背景には、何千種類もある瓦を全て作ろうとすると売れなかった場合のリスクが大きいため、そのリスクを軽減するという目的と、一社独占状態になるのを避けるという目的もある。このような社会的分業体制が築かれているからこそ、淡路島の地場産業として伝統的に瓦製造が行われてきた。また、分業化されているのは各種の瓦だけではなく、淡路瓦を中心とし、原土配合業、白地瓦屋、黒地瓦屋(窯元)、販売業、運送業など、淡路瓦をめぐる社会体制そのものも分業化されている。

4.瓦の中でも伝統工芸品として扱われている鬼瓦も淡路島で作られている。淡路島では鬼瓦を手掛ける職人を鬼師と呼び、鬼師たちは粘土からへらなどの様々な道具を使って手作業で鬼瓦を作っていく。三州鬼師の世界では親方・師匠と弟子の関係が強く、鬼瓦作りにおいて流派が存在するが、淡路鬼師の世界では親方・師匠と弟子の関係はさほど深くないため、流派が存在しない。そのため淡路鬼師たちは自由に鬼瓦を作っている。

5.淡路鬼師の世界が自由な環境であるからこそ、作業に使う道具も自分たちの日常生活から応用できる物を使っている。

6.瓦産地として発展してきた地では必ず良質の粘土が取れる。淡路島も例外でなく、淡路島で取れる土「鳥飼粘土」は瓦作りの素材として最適であり、淡路島の職人たちは「奇跡の土」とも呼ぶ。しかし、この土は採掘しすぐに使えるわけではない。原土配合業者が採掘し、様々な工程を経た後、配合されて初めて淡路瓦を作るための粘土ができあがる。このような原土配合業者のこだわりが淡路瓦産業を支えている。

7.淡路瓦は機帆船による海上輸送によって、市岡を中心に近畿圏内に流通圏を拡大していった。昭和30年代になるとフェリーボートが登場し、機帆船による運搬は無くなったが、フェリーボートで遠距離への輸送が可能になったことで、島根県愛媛県を除く西日本エリア全体に流通圏は拡大した。

8.阿万で作られる瓦は淡路瓦の中でも阿万瓦と呼ばれ、淡路瓦と同じように流通していた。阿万からの海上輸送は、津井・湊から海上輸送を行うよりも立地的に条件は勝っていたが、明石海峡大橋の開通とともに、海上輸送からトラックでの陸上輸送に切り替わった結果、阿万は海上輸送の利点を失い、阿万瓦は姿を消すことになった。津井・湊で海上輸送に携わっていた人々は瓦屋に転身する人が多かったが、阿万では船の名前を屋号として使い、トラック運送業者に転身する人が多かった。

9.1995年に起きた阪神淡路大震災の際に風評被害を受け、淡路瓦産業は冬の時代を迎えることになった。最盛期には600軒以上の瓦屋が津井にはあったが、現在は減少の一途をたどっており、100軒ほどにまで減少している。

10.元カメラマンの山田修二氏が淡路島に移住し、カワラマンとなって活動を始めたことで、淡路瓦産業は「伝統の保存と創造」を軸に変化しつつある。瓦を屋根から降ろし、新しい瓦の使い方を模索する風潮が生まれ、景観材として瓦を使ったり、インテリア・エクステリア製品として瓦が使われるようになった。また、山田氏が熨斗瓦を使った青海波を作り始めたことで、淡路島の景観が変化している。

11.昭和55年(1980年)頃にガス窯が導入されるようになり、だるま窯は姿を消していたが、2008年に山田氏と地元の有志によってだるま窯が復活した。瓦作りの原点に戻ることで、淡路瓦産業をもう一度盛り上げようという動きが出てきている。


【目次】
序章――――――――――――――――――――――――――――――――1
 第1節 問題の所在‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2
 第2節 淡路瓦と鬼瓦‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5
 第3節 黒地と白地‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥9
  (1)黒地とは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10
  (2)白地とは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥9
  (3)軋轢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10
 第4節 分業制‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥12
第1章 鬼師たち――――――――――――――――――――――――――19
 第1節 黒地瓦屋―株式会社タツミ―‥‥‥‥‥‥‥‥20
  (1)沿革―変化する瓦屋―‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥20
  (2)黒地鬼師―天野武氏―‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥25
  (3)黒地鬼師―小丸一哉氏・池田賢治氏―‥‥‥‥‥28
 第2節 白地鬼師―川崎忠之氏―‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥31
第2章 土へのこだわり――――――――――――――――――――――――39
 第1節 淡路の土「鳥飼粘土」‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥40
 第2節 慶野配合所‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥43
第3章 鬼をこしらえる――――――――――――――――――――――――49
 第1節 作業工程‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥51
 第2節 道具‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥65
  (1)道具の種類‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥65
  (2)道具を生み出す‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥68
第4章 淡路瓦の流通――――――――――――――――――――――――71
 第1節 津井と阿万‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥73
 第2節 流通圏の拡大‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥77
第5章 鬼を降ろす―――――――――――――――――――――――――81
 第1節 カメラマンからカワラマンへ―山田修二氏―‥‥‥‥83
 第2節 屋根から降りてきた瓦たち‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥86
第6章 焼きへのこだわり―だるま窯の復活― ―――――――――――――91
 第1節 だるま窯とは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥92
 第2節 だるま窯の復活‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥97
 第3節 だるま窯に携わる人々‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥104
  (1)道具師―平池信行氏―‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥104
  (2)道具師―清水公博氏―‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥107
結語―――――――――――――――――――――――――――――――109

文献一覧―――――――――――――――――――――――――――――113

【本文写真から】

写真1 形成中の鬼瓦


写真2 洲本市鳥飼浦の土の層


写真3 焼成中のだるま窯


写真4 甍の波

【謝辞】
 本論文を執筆するにあたり、多くの方々に協力していただきました。突然の来訪にも関わらず、快く迎えてくださった株式会社タツミの皆様。株式会社タツミでは興津裕扶氏、興津博捷氏、天野武氏、小丸一哉氏、池田賢治氏に、淡路瓦・淡路鬼瓦について様々なお話しを聞かせていただきました。また、土についてお話しを聞かせてくださった記虎浩一氏、白地鬼師として活躍しておられる川崎忠之氏、流通についてお話しを聞かせていただいた木下敬之氏、瓦師である山田修二氏、道具師である平池信行氏、清水公博氏、その他大勢の淡路瓦産業に携わる皆様。皆様のご協力のおかげで本論文を完成させることができました。
 だるま窯の焼成の現場では、山田修二氏を中心とした瓦職人の方々と一緒に瓦を焼かせていただきました。貴重な経験をさせていただいたと共に、皆様との晩酌は時間を忘れてしまうほど盛り上がり、聞かせていただいたお話しは人生の教訓にもなりました。
 この場を借りて、関わった全ての皆様に心より感謝申し上げます。