関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

髭籠と粉河祭の民俗誌―和歌山県紀ノ川市粉河―

髭籠と粉河祭の民俗誌―和歌山県紀ノ川市粉河

上田晴菜

【要旨】
 本研究は、毎年7月最終土曜日、日曜日に開催される粉河祭とだんじりで使用される山車上部の髭籠(ひげこ)について、和歌山県紀ノ川市粉河をフィールドに実地調査を行うことで、粉河祭の変遷、髭籠の由来と祭礼での役割、そして髭籠が一時中断するに至った理由とどのような過程を経て復活したのかについて解明したものである。本研究で明らかになった点は、次の通りである。

1. 粉河祭は、粉河産土神社の祭礼である。1344 (康永3) 年に、「粉河寺六月会」として文書に記されていることから粉河祭の始まりは14世紀中頃とされており、歴史が古い祭りである。2013(平成25)年度の粉河祭は、7月26日に宵々祭、7月27日に宵祭、7月28日に本祭が行われ、露店が出て山車が押し出される宵祭の日が一番の賑わいをみせていた。

2. 粉河祭の中心行事は渡御式であり、後からだんじりが渡御式にお供するようになった。お渡りが各村の宮座の人々しか参加できないのに対し、だんじり粉河の町衆誰でもが参加できるイベントであったため、人々は粉河町衆の心意気を見せようと盛大に押し出していたようである。しかし1976 (昭和51) 年以来渡御式は2年に1度しか執り行われなくなり、渡御式より後に登場しただんじりの方が粉河町衆の祭りとして根付いていくようになった。そして山車への取り付けが一時中断されていた髭籠が復活して以降さらにだんじりが注目されるようになり、現在ではだんじり運行が粉河祭の名物となりつつある。

3. 髭籠は、約10メートルの竹ヒゴからできている。幅2センチの竹の先を4つに割き、それを40本組み合わせることで、合計160本の竹ヒゴが出来上がる。この竹を山車の真柱の先と髭籠をつなぎ合わせる金具に挿し込んで広げ、組み作業を始める。竹と竹の間隔は約2センチメートルで、この間隔を守りながら円状に紐で編んでいく。すると竹は放射状に丸く垂れさがり、髭籠が完成する。

4. 「髯籠の話」(『折口信夫全集 第二巻』)によると、髭籠とは神の依代であり、神は山車上部に高く揚げられた髭籠を目印に降りてくるのであるという。そしてこの依代を立てる場所が標山を意味しているという。粉河祭では宵祭に神を髭籠にお迎えし、太鼓と鉦を叩いて神をお慰めする。そして髭籠に降りてきた神を町中にご案内することによって町内の安全を祈願し、神のお恵みを頂いているのである。

5. 2013(平成25)年度の粉河祭で使用されていた山車は、天福町、石町、本町、根来町、東町、北町、蔵之町、這上り町、中町の9つの町の山車であった。そのうち髭籠を取り付けていたのは根来町と這上り町以外の7つの町であった。宵々祭でだんじりが運行した町内会は、天福町、石町、本町、根来町、東町、北町、蔵之町の7町で、飾付のみの町内会は這上りと中町であった。東町と蔵之町と中町の3町のみ髭籠を取り付け、その他の町は提灯のみで飾られた山車を使用していた。宵祭でだんじりが運行した町内会は、天福町、石町、本町、根来町、東町、北町、蔵之町の7町で、飾付のみの町内会は中町のみであった。宵々祭と同様、東町と蔵之町と中町だけが髭籠を取り付けていた。そして本祭でだんじりが運行した町内会は、天福町、石町、本町、東町、北町、蔵之町の6町で、飾付のみの町内会は、中町と這上り町であった。

6. 髭籠が一時中断になった理由は、町に電柱が建設され始め、電線が引かれるようになったからである。1910 (明治43) 年頃から粉河電燈会社が創設され、発電設備の導入や電柱の建設がすすめられるようになった。そして町中に電線が引かれ始めたことによって、狭い門前町を髭籠を取り付けた背の高い山車が運行するのは危険であるという理由から、髭籠を取り付けた山車は運行不可能となった。

7. 髭籠が復活したのは約20年前である。大の祭り好きである村上好延氏と当時粉河祭保存会の会長を務めていた山本進洋氏によって、髭籠が復元された。村上氏は折口信夫の「髯籠の話」を知っており、これをきっかけに髭籠の復元に取り組み始めたのだろうと予測していた。しかし村上氏は「髯籠の話」について知らないということが明らかとなり、復活させようと思った理由が別にあることが分かった。それは、一時中断していた華やかで美しい髭籠をもう一度山車に取り付け、祭りを盛り上げ楽しみたいという思いがあったからである。また一時中断の原因ともなった粉河とんまか通りの電線も2005 (平成17) 年7月に地中化され、背の高い髭籠の付いた山車への弊害がなくなったことによって、髭籠を取り付けたままのだんじり運行が可能となった。こうして運行条件が整ったのと同時に髭籠復活への強い思いが重なったことにより、村上氏は髭籠復活に向けて熱心に取り組み始め、再び復元させることができたのである。

8. 現在粉河では少子高齢化が進み、若者の人口が減少している。同時に祭りに対しての思い入れが若者の間で薄れつつあることから、髭籠を継承しようと立ち上がる若者がいない状況である。村上氏は髭籠が後世に受け継がれることを強く望んでいるが、このままでは髭籠を付けた迫力あるだんじり運行を継続させることは難しく、復活した髭籠が再び中断してしまうだろうと危惧している。


【目次】

序章 ―――――――――――――――――――――――――――――1

 第1節 問題の所在‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1

 第2節 紀ノ川市粉河‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2

第1章 「髯籠の話」と粉河祭―――――――――――――――――――4

 第1節 折口信夫と「髯籠の話」‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4

 第2節 粉河祭の歴史‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥8

第2章 粉河祭―――――――――――――――――─20

 第1節 宵々祭‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥20

 第2節 宵祭‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥29

 第3節 本祭‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥40

第3章 髭籠の消長―――――――――――――――――─47

 第1節 髭籠の一時中断‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥47

 第2節 村上好延氏による髭籠の復活‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥48

結語――――――――――――――――――――――――――――――57

文献一覧――――――――――――――――――――――――――――60


【本文写真から】



































一番最初に復元された髭籠を取り付けた山車











宵々祭の中町山車(左)と東町山車(右)











宵祭の石町山車











2013年髭籠作りの様子(村上氏提供)


【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。長時間のインタビューに何度も快く応じてくださり、資料や写真を提供してくださった村上好延氏。お忙しい中時間を割いていただき、粉河祭の歴史についてのお話を聞かせてくださった増田博氏。粉河祭について詳しい方をたくさん紹介していただいた粉河産土神宮司の中山淑文氏。これらの方々のご協力無しには、本論文の完成にはいたらなかった。調査の過程でお世話になったすべての方々に、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。