関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

Ⅱ.タイヤル族の村

【目次】
1. タイヤル族とは
2. 村の位置
3. 村の景観
4. 人口と戸数
5. タイヤル族の暮らし
 (1) 生業
 (2) 食文化
 (3) 行商
 (4) 教育
6. タイヤル族の儀式
 (1) 年中行事
 (2) 葬式と埋葬
7. 村落移動の歴史
8. 日本人の居住
9. 教会と日本語
 (1) タイヤル族と教会
 (2) 日本語の普及
10. 参考文献





1. タイヤル族とは

 タイヤル族は、台湾北部から中部にかけての山岳地帯に分布しており、その人口は8万人以上で台湾において、アミ族に次いで二番目に多い原住民とされている。日本統治時代に馬淵東一らが『台湾高砂族系統所属の研究』において分類した9民族の中に含まれている。現在では、当時タイヤル族の一部として位置付けられてきたタロコ族やセデック族が分離独立するなどしており、台湾における原住民は全部で14とされている。タイヤル族をはじめとする台湾の原住民は、日本の統治に始まり中華民国の統治へと100年以上、紆余曲折した歴史に翻弄されながらも、それぞれの時代に適応した生活を営み、今日に至っている。



2. 村の位置

 今回調査の地となったタイヤル族の村は、宜蘭縣南澳郷澳花村にある。この村は台湾北東部の宜蘭縣の中で最南端に位置しており、台湾三大良港の一つである花蓮港を擁し中東部最大の港湾都市として有名な花蓮市が属する花蓮縣に接している。太平洋に面する東側を除き三方は標高1000mから3000m級の山々と渓流が組み合わさり険しい地形を形成している。台北からは、車で約4時間。途中、宜蘭縣蘇澳〜花蓮市を結ぶ台9線蘇花公路を利用するが、海岸沿いまで山地が迫る地勢の影響もあり、これまでに落石や崖崩れによる死亡事故が多発している。私たちが、台北へ戻る際にも崖崩れにより通行止めになる恐れがあった。ちなみに、鉄道を利用する場合は台湾鉄路管理局北廻線の和平駅が最寄り駅である。



3. 村の景観

 和平駅から海沿いを車で走ること約10分。山手へ向かう細い道に入り、しばらくすると村の入り口に辿りつく。そこからは徒歩で村の中へ。さっそく、道が二つに分かれる。まずは、左に進んでみることにする。目の前に現れたのは、澳花橋。コンクリート製で、街灯も設置されている。橋の上から左手を望むと、和平渓と呼ばれる川が山側から海に向かって流れており、遠くにセメント工場や滝が見える。橋を渡り終えると、右手に広場があり、行商の車に人が集まっている。少し進むと、右手にカラオケが設置されているヤスコ(保子)さん宅、道を挟んで向かいに商店がある。学校、警察派出所、教会などもある。さらに進むと、そこは墓地である。墓地と居住地の境となる所には、木が植えられており、その墓地の奥には工場が見える。つまり、居住地の外側に墓地、そして工場が立地していることがわかる。ここまでが下村と呼ばれる地域である。
 さて、ここで一度入口に戻ることにする。先ほどの道を右手に進むと上村に通じる。上村には、ミユキ(米雪)さん宅や教会などが存在する。上村は住宅が多い印象を受ける。多くの建物が1階または2階建てである。人びとが上村と下村をバイクなどで行き来している姿をしばしば目にした。ちなみに、病院は村内に存在せず、毎週水曜日に花蓮から週替わりで異なる科の医師がやって来るそうだ。

澳花橋

警察派出所

墓地と居住地の境目にある大木

墓地の向こう側に見える工場群



4. 人口と戸数

 村民の話によると、タイヤル族の部落は8つからなるそうである。そして、今回訪れた澳花という部落は、上村(Alang-daya)と下村(Along-houna-tsi)の二つからなる。人口は、上村、下村各約1000人の合計約2000人であり、戸数は両村合わせて200〜300戸である。うち「漢民族」の家は10戸程度である。単純に計算して、一つの家におおよそ4人が住んでいると思われる。
ところが、南澳郷簡史によると、タイヤル族の村は以前は13の部落からなり、現在は9つの村からなるとある。そして、その9つの村というのは碧候、寒渓、武塔、金岳、東岳、金洋、南澳、澳花、大進とある。住民による話とこの資料の内容が微妙に異なっているのは、部落と村という単語の捉え方の違いなどからきているのであろうか。



5. タイヤル族の暮らし

 (1) 生業
  主に農業、鉱業、林業が行われている。まず農業に関してだが、粟や豆、芋類をはじめ、冬瓜などの野菜、バナナや梨などの果物に至るまでその種類は比較的豊富である。明らかに栽培されているものが多くある一方で、自生しているものを収穫し利用することもある。上村にある教会横には、枇杷の木が植わっており、これらは約20年前から栽培されているそうだ。澳花は枇杷で有名であるという話も伺った。金柑など柑橘系の実がなる木も見られる。現在、主に農業に従事しているのは高齢者であり、昼間から酒を飲んでいる者も見られる。一方、若者の多くは村から出て職を求める。ただ、このような若者も村に十分な送金ができるのは一部の裕福な者に限られ、後日訪れたサキザヤ族においても置かれた状況は同様である。また、小規模ではあるが山羊や豚、イノシシの飼育も行われている。
  次に、鉱業に関してである。中央山脈の東側、特に南澳から花蓮にかけては大理石(結晶質石灰岩)の大規模産地である。よって、これをセメント等に加工する工場および、その工場とおそらく採石場を行き来するトラックが多数見られる。
  最後に、上記1のとおり澳花をはじめ南澳郷は、三方が山々で構成されているため、昔から林業が盛んであったそうだ。文献においても檜をはじめとする針葉樹が豊富であったことがわかる(大島正満 1935)。ちなみに、このように鉱業および林業が盛んであることから、石と木材の運送を目的とするトラック運転手を職とする者も多いそうである。

教会横の枇杷の木

澳花橋の向こう側に立地するセメント工場


 (2) 食文化
  日本統治時代の影響を少なからず受けた食生活を送っていると思われる。今回、料理を作っていただいたのは、日本統治時代を経験されているヤスコ(保子)さんで、これが村民全てに当てはまるかどうかはっきりとは分からない。この時の料理の内容は、白ご飯、煮魚、葉物の炒め物、肉のスープであった。キッチンも拝見させていただいたが、そこには、日本にあるような炊飯器やお椀、そして醤油まであった。また、村内の商店には、日本語表記のお菓子も売られていた。

キッチン周りの様子

村内の小売店で販売されているお菓子
 
 
 (3) 行商
  村には、トラックにさまざまな食料品を積んだ行商がやって来る。この行商には、パックされた米だけを大量に載せて来るもの、野菜や果物を載せて来るもの、移動式パン屋のようなものなどがある。このような行商が、一日にどのくらいの頻度で、どこから村にやって来るのか、また、行商組織のようなものが存在するのかなど疑問点は多い。トラックに関しても、村で使用されている石材運搬用トラックの荷台を改造しているのではないかと思うほど、形や色の似たものであった。村民の話によると、これらの行商をしているのは「漢民族」※であるそうだ。なぜ「漢民族」が山奥に住んでいるかというと、「漢民族」の経営するセメント工場が付近にあり、その家族や関係者が住んでいるからであるそうだ。

行商(野菜)

行商(パン)

行商(米)


 (4) 教育
  村の中には、宜蘭縣南澳郷澳花國民小學がある。村民の話によると70年以上前、この学校の名は日本蕃童教育所であったそうだ。文献によると、当時は、台湾総督府が児童教育の施設としての学校制度を確立し、教育を通して日本人への同化を強いていた時代であり、山地村落の随所に蕃童教育所という施設を設立したようである。そして、これは警察派出所の管理下にあり、「修身」「国語(日本語)」「算術」「実習(農業)」「唱歌」「体育」を教える教育機関であったそうだ(山路勝彦 2011)。私たちが調査した際には、学校には中国語とタイヤル語の教科書はあったが、日本語の教科書は見つからなかった。実際、校長先生は片言の日本語を話されたが、生徒はもちろん、多くの若い教師にも通じなかった。おそらく現在は学校において日本語教育は行われていないのではないか。また、この学校に通う漢民族は2〜3名程度であり生徒のほぼ全てをタイヤル族が占める。学校内には、樹齢600年の樟樹がある。

学校の外観

学校での授業風景

学校の階段に貼られている原住民の言語と思われる単語カード


6. タイヤル族の儀式

 (1) 年中行事
  澳花村では、クリスマスに着物を着て、阿波踊りを踊る行事があるそうである。参加者はお年寄りだけとのことである。この話を伺った際、阿波踊りと限定されていたところに疑問を持った。翌日訪れた、慶修院の周辺がかつて吉野村と呼ばれており、四国吉野川からの移住者が多数いたという点(詳しくは10/8の記事をご覧ください)を踏まえると、ここに大きな関係が存在しているのではないだろうかと考える。

 (2) 葬式・埋葬
  まず、葬式に関してである。会場の入り口周辺には、花輪が並べられてある。これらの中心部分に十字架が描かれているのがキリスト教徒である。この花輪の色は年齢によって異なり、85歳以上がピンク、95歳以上が赤、それ以外に該当する年齢は白だそうだ。白は縁起が悪いという意味合いがあり、赤は逆に縁起が良いとされる。95歳まで長生きしたのだから思い残すことはないという意味が込められているそうだ。葬式の際は、村全体が静かにしなければならず、手伝いは自主制で行われる。
 次に、埋葬についてである。納骨はお金がかかるという理由で集団納骨の形をとる場合もある。墓の形そのものは、大陸のどこでも見られるような漢民族のものと同じであるが、その上に十字架があるというのが非常に特徴的である。キリスト教(カトリック)の文化と道教の文化が融合しているのがわかる。

葬式の様子

漢民族のスタイルとキリスト教が共存する墓


7. 村落移動の歴史
 
 村民の話によると、タイヤル族の村落移動には彼らが行う独特の埋葬方法が大きく関係しているという。彼らにとっての死者の埋葬場所は家の中であり、人が息を引き取るとすぐに部屋の下に穴を掘り、足を屈めた姿で埋めていた。この際、一部屋につき一体を埋めるというルールが存在し、また、時が経っても死者が出てこないようにするため石を抱かせる場合もあった。そして、これを繰り返していると、部屋の下は死者で埋まってくる。すると、彼らはその家屋を捨て、別の場所に家屋を新築し、移り住んだのである。この習慣により、澳花村では集落が山側から海側へと移動していったそうである。ただ、この習慣が存在していたのは昭和に入るまでである。台湾総督府の命令により、彼らは家屋内での埋葬を禁止され、墓地への埋葬を余儀なくされたのである。


8. 日本人の居住

 村民の話によると、澳花村には約60年前まで日本人が居住していたそうである。日本統治時代以前は、山の上の方に住んでいたそうだが、入植後に現在の場所に村が開かれ、それに伴って山から降りてきたという。今では、落石や崖崩れの危険もあって、怖くて登れないとおっしゃっていた。
 約60年前当時、警察派出所には多くの日本人が勤務していたという。警察官は、教師と兼務しており、昼は日本語を教え、それ以外の時間は警察官として働いていたそうだ。現在のカラオケ店の裏辺りにその宿舎があったという。そして、澳花と寒渓、東渓の3部落においてのみ日本人の引き揚げが遅かったこともあり、現在も村の至る所に日本語が残っているという。また、村内には日本統治時代を象徴する桜の木が6本植えられているそうだ。


9. 教会と日本語
 
 (1) タイヤル族と教会
  私たちが、この村を訪れた際に発見した教会は、上村、下村に各一つずつであった。上村のものには「和平教曾」、下村のものには「澳花教曾」と書かれている。上村にある教会の中に入らせていただいた所、入口付近の壁に1年の当番割が掲示してある。1週間単位で、そのイベント内容と担当者が変わるようである。
  上村の教会横には、大量のペットボトルが置いてあったが、これらは売ってお金にするそうだ。ペットボトル1本につき1元の収入になるそうで、バナナ1㎏約10元であることを考えると、かなりの収入になることがわかる。

上村にある教会

下村にある教会

回収されたペットボトル

 (2) 日本語の普及
  上村の教会の中国語(台湾語)やタイヤル語で書かれた聖書や賛美歌集には日本語で読み仮名を書き込んでいるもの多数あった。日本軍が引き揚げた後、村では中国語教育が徹底された。一方、より若い世代は中国語の教育が浸透していくにつれて日本語離れしていった。話し言葉として伝わってきたタイヤル語に文字が誕生したのは約20年ほど前であり、その文字は日本語のひらがなやカタカナ、数学記号で構成されているのには驚く。しかし、日本語交じりの文字と言えど、全く異なる読み方がなされるものだと思われる。よって、お年寄りは彼らにとっての“共通語”としてより分かりやすい日本語で読み仮名をふって理解したそうである。
  村民の話によると、代代日本語が伝わってきたのは、教会で年寄りが日本語を話すからであるそうだ。実際、私たちが伺った時にもおばあさんが日本語の歌を披露して下さった。教会は、学校以外の教育の場としての役割も果たしていると言えるだろう。
  また、古い聖書や賛美歌集はほとんどが中国語で構成されているが、比較的新しいものにはタイヤル語とのダブル表記がより多く見られ、それらを通してこの村における言語教育の変遷を読み取ることができる。

聖書(国語・タイヤル語版)

日本語で読み仮名が書かれたタイヤル族語の讃美歌集
聖書に書かれた日本語名


10. 参考文献

 大島正滿 (1935)『タイヤルは招く』第一書房
 山路勝彦 (2011)『タイヤル族の100年―漂流する伝統、蛇行する近代、脱植民地化への道のり―』風響社。



※台湾における漢民族は、客家外省人・平地人のいずれかに分類されるが、捉え方により曖昧になるので、本文中では、原住民以外の文化を持つ人びとをまとめて「」付きの漢民族で表記する。




担当:秦