関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

Ⅲ.澳花村で出会った人々

1.保子さん

 上村(ウエバンシャ)から坂を下り、下村(タバンシャ)へと続く橋を渡って200mほど歩いて行くと日本語の音声が聞こえてきた。すぐ横の飲食店で老夫婦が時代劇を見ている。耳を欹てて聞いていると「チャンバラ、チャンバラ」と指をさしたので「こんにちは、日本から来ました」と声をかけると、少し驚いた様子で一間おいて「私日本語話せますよ」と言って店の中に入れてくれたのが保子さんである。ずいぶん久しぶりに日本語を話すそうで、声をかけた私に一瞬戸惑っていた様子から、自分が日本語を話せる事実を忘れていたかのような印象をうけた。ずいぶん古い時代劇を薄型テレビで見ていた。昼ご飯をとっていない私に「ご飯を食べなさい、1人分だけだから内緒にして」と家庭料理をごちそうしてくれた。魚の煮つけに、香草の炒め物、冬瓜のような触感の野菜とラム肉のようなやや臭みのある肉のスープだった。どれも日本人の味覚にあった優しい味付けだった。
 
 保子さんの本名は張林保珠(日本名:中平保子)で、「張」・「林」はそれぞれ夫婦の姓で、名前が保珠。日本統治時代の戸籍謄本の原本を見せてもらうと、そこには父:中平保、母:中平キミ子、子:中平保子とあった。しかしそれは戸籍上の話で、実の父親の存在を知ったのはずいぶん後だったそうだ。実の父親は日本統治後村にやってきた日本人の警察官で、この時警察と言えば先生も兼務していたという。店の裏側の坂道を少し上がった所に警察の宿舎があった。保子さんの母キミ子さんは村でその“実の父親”と出会い保子さんを産んだが、籍を入れていない状態だった。戦後、彼は日本へ帰国し消息が分からなくなる。その時保子さんは3歳だった。保子さんは親族から米兵の船と衝突もしくは爆撃を受けて亡くなったと聞き、かつてその事実を教えてくれた親族(実の父親の妹、もしくはその後の父親、中平保の妹)と海辺の廟を訪ねたことがあるという。真実は未だ解明されぬままで、自分が元気ならば日本にいる親族を探したいと繰り返し言っていた。

母キミ子さんはその後3歳の保子さんを連れて部落よりさらに山側出身で日本語の先生だった保さんと再婚する。保さんも妻中平ヨモスを病気で亡くし、娘二人を連れての再婚だった。長女の名を忍、次女の名を克美といった。夫婦の間には保子さんの妹・弟も生まれ、現在東京に住んでいるという。保子さんはその後台中へ移り、結婚して子どもがうまれた。歳をとり、夫をなくし、仕事ができない身体になると寂しくて長男を連れて田舎に戻ってきたという。他の子どもたちは現在台中で離れて生活している。今の夫とは村で出会った。彼もまた配偶者を亡くした人で花蓮からきた平地人だ。籍は入れず、「部落で出会った友達」のような感覚だと言っていた。

少し前まで飲食店を営んでいたが体調を崩し今は休んでいるというが、カラオケとお酒を置いている場所柄、人が自然と集まってくるのだそうだ。カラオケには古い日本の楽曲本と中文の本2種類、マイク2本が備わっていた。コインを入れて稼働させるタイプのもので、お酒を飲みながら歌って踊る時間が楽しいのだという。向いの雑貨屋に町から食料や飲料をつんだトラック一台が定期的にやってきて、保子さんの店はそこからお酒やお米を買っているそうだ。店の奥は居住スペースになっており、保子さんの部屋を突き抜けると日本式庭園が現れた。母キミ子さんが手入れしていたものを引き継いだものだそうで、立派なものだった。庭の前には6人掛けの椅子とテーブルがあり、夏場はそこでご飯を食べることもしばしばだそう。


保子さんの手料理

日本語の歌リスト

自宅の裏側にある日本庭園


2.みゆきさん
 
 もう一人紹介したいのが米雪(ミーシェ、日本読みでみゆき)さんだ。本名は遊暁菁。上村に住み、保子さんの現在の夫とは“娘”と呼ばれる関係にある。(保子さんは娘と孫の使い方に区別がないと説明するが、日本語の意味から、年齢的に孫関係ではないと思われる。とすると、義理の娘、すなわち息子の嫁にあたる存在なのだろうか?)みゆきさんはかつて日本人の彼氏と付き合っていて、度々来日していた経験から日本語を少し話せる。元彼は京都出身で札幌の会社に勤めていたので、みゆきさんは札幌まで訪ねたそうだ。そのほか東京や宇都宮、沖縄にも行ったことがあるらしい。ある日連絡がとれなくなって消息を追っていくと、元彼は津波にのまれて亡くなったという。

 現在みゆきさんは7歳上の男性と結婚し、上村に住んでいる。みゆきさん(37)は6人兄弟の次女。長男大偉(46)、次男大儀(44)、三男大勝(42)、長女暁鈴(39)、四男の大慶。彼女はこれを「日本の名前だ」と紹介してくれた。そして、この四男の大慶はなんと公開以来台湾史上最高の興行収益を記録している映画『賽徳克・芭莱』(日本語で『セデック・バレ』英語で『Seediq・bale』)の莫那魯道(モーナルダオ)を演じているという。私たちが訪れた数日前に帰郷していて、その時の彼の直筆サイン入りポスターも見せてくれた。

※ここで少し映画の説明を加えておきたい。
 
この映画は日本統治時代のタイヤル族による最大規模の抗日運動であった霧社事件を描いている。セデック・バレはセデック語で“真の人”を表す。セデック族の男性は一人前の男になるために首刈りを行う習慣があり、その証に顔に入れ墨をいれて初めてセデック・バレ(部族のヒーロー的存在)になることができる。セデック族は虹を信仰の象徴としていて死後先祖の家とされる天国につながる虹の橋を渡る際に額の入れ墨が橋を渡る資格になるとのこと。監督は魏徳盛(ウェイ・ダ―ション)でレッドクリフジョン・ウーがプロデューサーを務めており、カンヌ・ベネチア国際映画祭にも出品された。日本からも俳優が出演し、製作スタッフにも多数関わっているが、公開の予定どころか情報も乏しいのが現状。モーナルダオは抗日運動の指導者であり、物語の中心人物である。みゆきさんの弟大慶は制作スタッフが集めた数百人の役者候補者の中から監督によって即決される。彼のもつ潜在的な狩人のような眼力、185cmの長身などの条件がかわれた。全くの演技初心者だったが期待通り数カ月で本物のモーナルダオになっていったそうだ。(『賽徳克・芭莱HP英語版』http://www.seediqbalethemovie.com/main.phpより一部翻訳して引用)


弟のサインと一緒に集合写真



担当:呉