関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

下里公設市場の民俗誌

下里公設市場の民俗誌


0461 武田千


目次

はじめに 1

第1章 市場の歴史と現在 1
第1節 市場の歴史 2

第2節 現在の青空市場麻の様子 6

第2章 魚行商から魚屋,野菜売りへ ―与那城キクさんのライフヒストリー― 8

第3章 仲里精肉店 ―仲里豊作・仲里チヨさんのライフヒストリー― 10

第4章 外から見た市場 12
第1節 いちば寿司からみた市場 12

第2節 市場の向かいで野菜売りをしているおばあの話 13

第3節 市場利用者のおじさんの話 14

結び 14

付記 佐良浜の魚屋 14

参考文献 16




はじめに

 宮古島平良市では市場が市民の台所として栄えていた。藤井せい子氏は「宮古島(人口約五万)では、生鮮食料の大半は、島産品でまかなわれ、島の中心である平良市(市街人口一万八〇〇〇人余)の下里・北・東の三つの市場で流通販売される。」(藤井1986)という記述をしており、3つの市場が宮古島の人にとって重要だったことがわかる。夕方にでもなれば夕食支度のための主婦で市場は人でいっぱいだったそうだ。藤井氏の論文のなかに、「平良の商店街には、本土の市街でみられる八百屋・肉屋・魚屋といったたたずまいの店はまったくみられず、近年目立ちはじめたスーパーマーケット形式の店でも、生鮮食料のコーナーは申し訳程度であり、三つの市場での生鮮品販売が主流であることがわかる。」(藤井1986)という記述もあり、市場での生鮮品流通が主だったことがわかる。私が今回の調査で平良市内を散策したときにも、個人の生鮮品食品店はほとんど見かけなかった。
市場の売り手は2種類ある。「『マチ売り』とは、厳密には自家の畑や船からあがったものを、市場で売ることである。仲買人から仕入れて売るだけの者は、アキャウダとして一線を画する。」(藤井1986)と、扱う商品が自分で作ったものかどうかで区別されていた。また、「毎夕、海辺の集落から水揚げしたばかりの魚を持って売り手が市場の周辺に集まる。/道にたたずんで売るのでタチ売りと称するようになった。」(藤井1986)とマチ売りのなかでも市場の中に入らずに道端で売る人のことはタチ売りと区別していた。現在の市場の売り手は全員アキャウダである。
平良では、生鮮食品を手に入れるには市場へ行くほかに、行商人から買うという方法もあった。「行商で売られる品目は、平良の三つの市場で売られる生鮮食料品にはほとんど変わらない。/行商の売り手が売る品物は、野菜・鮮魚・豚肉の別なく宮古島産のものであることが一般的である。」(藤井1982)と藤井氏は記述しており、魚や肉のように鮮度が求められる商品でも行商されていたことに驚いた。
3つあった大きな市場も現在は下里公設市場しか残っていない。その下里公設市場も2011年に宮古島市公設市場としてリニューアルオープンをしている。リニューアルを機に市場では100以上あった店の数も現在は14つの商店と青空市場に減り、市場の様子や人出も変わった。今回の調査では唯一残っている宮古島市公設市場をフィールドとする。市場に関わる人々から市場の歩みについて様々な視点からみた市場について紹介する。また、行商人を昔していた人にも出会うことができたので、その方法や生活についても紹介する。



第1章 市場の歴史と現在

 市民の台所と呼ばれた市場も、時代の流れと共に変化した。この章では、市場で商売をする売り手の話と文献を用い、市場の歴史と現在の市場の様子を紹介する。

第1節 市場の歴史

 市場の歴史は古く、「明治末期、下里村番所が平良村役場となり、役場移転後に自然発生的に生まれた。」(平良市史編さん室1981)と記述されている。現在宮古島市公設市場で丸玉鮮魚を営む玉寄一勇さんは南市場(1)時代か商売をしており、店は朝早くから18:00頃まで営業しており、仕入れた魚はすべて売れたそうだ。その市場では売り方に特徴があったようで、木でできた机のうえに直接魚を置いて商売していたそうだ。図4は下里公設市場時代の写真であるが、机のうえに直接魚の切り身を置いているのがわかる。藤井氏の論文によると「ショーケースに入ったままでは、客は買いにくいという感覚をもっているためである。」(藤井1986)という理由からこのような特徴は生まれたようだ。この机は自分で作るか、役所から1日あたり今の金額で100円ほどの値段で借りることができた。戦後は平良市が管理するようになるが、本土復帰まではドルでやり取りが行われていた。平良市の管理のもと、木造建築の一階建の平屋の公設市場が建てられた。食料品ばかりでなく、着物や食器までなんでも揃う活気のある市場だった。

しかし、南市場は火事によって全焼する。1967年11月14日15:00頃、夕食の支度で買い物客がたくさんいるときに発生した(平良市史編さん室1981)。この火事は「名渡山火事」と呼ばれ、戦後もっともひどい大火事と言われている(平良市史編さん室1981)。この火事は、南市場の道を向かいに位置する名渡山商店の2階でのアイロンのつけっぱなしが原因で起こった。この火事が戦後もっともひどい大火事と呼ばれる所以は2つある。1つめは、当時の建物はほとんどが木造だったということだ。木造であると、燃えやすいため風にあおられて瞬く間に火は名渡山商店の近隣だけではなく、向かいの南市場まで燃え広まった。名渡山商店のすこし離れた場所に店を構えていた、ぎんざ食堂がブロック造りだったそうだ。市場の人々に火事のことを聞いたときに皆「ぎんざ食堂しか残ってなかった。」と言っていたので、火事によってすべてが燃えてしまったことがわかった。
2つめは消防機関が全く機能しなかったことだ。消防車2台の給水タンクは到着後すぐに空になり、近くの消火栓は一か月前から故障し、応援に駆け付けようとした消防車もパンクし大幅に消火活動は遅れた(平良市史編さん室1981)。当時、消防団員に所属していた玉寄一勇さんは火事の時のことを、「水がでなくてただただ火事を眺めているだけだった。」と語っていた。この火事により南市場は燃えてしまい、消火による水浸しになり、お店をやっていける状態ではなかったそうだ。

 1969年3月下里公設市場が建設された。当時の市長さんがマクラム弁務官に頼み、建てられた。マクラム弁務官は、マクラム通りという道路の名前にもなっているアメリカ人の弁務官である。
下里公設市場は鉄筋コンクリート2階建てで、1階には野菜売り場2階の左側には肉屋、右側には魚屋が入っており、100人を超える売り手がいた。役所に1か月1万円の契約で市場内に店を構えることができた。衛生上の問題から、魚屋と肉屋には保健所から冷蔵庫を設置することが義務付けられるようになった。火事によって店が全焼したことに加えて、冷蔵庫まで買わなくてはならず、家計にとっては大きな痛手となったそうだ。
市場内だけではなく市場の前で野菜や魚をタチ売りする人もいた。市場の管理化、自動車の増加によって、衛生上、交通上の問題から禁止されるようになった(藤井1986)。しかし、数は減ったものの存在はしており、役所の人が見周りに来た時だけ市場の半地下に逃げ、役所の人が帰ったらまた道に出て売るという鼬ごっこをしていたそうだ。
下里公設市場が平良市の南に位置することから、1968年に北部に北市場、1970年に東部に東市場が建設された(平良市史編さん室1981)。人出はあいかわらず多かったが、2つの市場ができたことにより南市場の時よりも少し減ったように感じたと、玉寄さんの奥さんは語っていた。また市場の売り手同士も仲が良く、運動会も開かれていたそうだ。
賑わう下里公設市場も、2007年に老朽化のために閉鎖された。

下里公設市場が閉鎖を機に、商いをやめる人が多かった。残った人々は、市場の南西に位置する御嶽近くの公園で仮営業をし、商売を続けた。台風の日以外は、雨が降っても傘をさして営業をするほど熱心に商売していた。しかし、下里公設市場が閉鎖されたことと、スーパーやコンビニが増えたことにより人出は大幅に減ってしまった。

「2011年7月下里公設市場は宮古島市公設市場としてリニューアルオープンする。」(宮古毎日新聞)。建物2つとその前に青空市場が広がる。2階建ての建物の中には1階に土産物や八百屋、2階にはカフェが入っている、その隣の建物は魚屋と肉屋2つずつ入っている。役所の抽選に当たった店が市場の建物または青空市場で商売することができた。
市場に買い物に来るのは個人で飲食店を営んでいる人や商店を持っている人、昔からの友人などである。若い人たちや、かつて市場のにぎわいを支えていた主婦のほとんどがスーパーやコンビニに買い物に行くようになってしまった。
市場の建物内に店を構えるのには役所に1か月3万円納めなくてはならない。1店舗あたりの敷地は広くなり、店もきれいにはなったが売上が落ちたのに対して、この値段は高いと玉寄さん夫婦は感じていた。
青空市場では、タイルの床の上に膝くらいの高さの机を置き、パラソルを広げ椅子に座りつつ商売している。雨風の影響で営業がし辛く、台風のせいでパラソルが飛んでいってしまうこともあるので、青空市場のサンルーフ取り付けを役所に頼んでいる。
宮古島市公設市場は、公設市場というよりは、高速道路のサービスエリアにある道の駅のような印象を受けた。観光バスも何度か来ており、土産物を買っていく観光客が多くいた。

図1 
宮古島市公設市場の外観の様子。
2階建ての建物の手前に青空市場が広がる。
青空市場の前には、みやこまもる君も建っており、観光客が写真をよく撮っていた。



第2節 現在の青空市場の様子
この節では、青空市場が最もにぎわう朝の様子を時間ごとに紹介する。

図2 宮古島市公設市場内部の様子

7:30 
ABCDHの売り手のおばあと野菜の仲買人のおばあ4人が息子や夫の車で青空市場に到着する。仲買人のおばあは昔はたくさんいたそうだが、現在は4人に減ってしまったそうだ。パラソルを広げ、木の机の上を掃除し、開店準備をする。EF(2)を使って仲買人のおばあたちはBCDHの売り手に野菜を売る。Aは、娘の畑でとれた野菜を売っているので仲買人からは野菜を買っていなかった。

8:00
Gのおばあが娘の車で到着する。ABCDHはもう開店準備も終り、売り始めているので遅めの到着である。Gの店の商品は娘が北のほうで仕入れたものを売っているので仲買人は利用しない。
Fにはお弁当屋が店を広げる。買い物に来た人だけでなく、市場内の売り手にもお弁当を売っていた。青空市場の売り手BCとは、野菜とお弁当を物々交換していた。お弁当屋が店を広げている時間帯が最も人が多く、飲食店経営者や昔からの友人などが野菜を買っていていた。皆、野菜を買うときに30分ほど売り手のおばあと世間話をしてから帰ることが印象的だった。仲買人のおばあ4人もBCの後ろで座りながら、BCや買い物に来た人とおしゃべりをしたり、市場で昼食や夕食用の買い物をしていた。

9:00
仲買人のおばあ4人が朝に野菜を売ったBCDHから集金をする。朝に野菜を売ったときではなく1時間ほどたってから集金をするそうだ。集金後、4人で一緒にタクシーで帰宅する。帰宅後は畑の手伝いをしていると言っていた。

10:00
弁当屋が撤収したあとに、パン屋がFで商売を始める。パン屋は市場内の売り手にパンを売ったあと20分ほどで撤収した。
Bの後ろにヤクルトを売るおばあが到着する。30年この仕事を続けているそうで、買い手だけでなく市場の売り手の人にもヤクルトを届けているそうだ。

11:00
BCH、ヤクルト売りのおばあが撤収する。BCHは息子や夫の車で帰り、帰宅後はのんびり過ごしているそうだ。南市場、下里公設市場のときは18:00まで1日中野菜を売っていたのだが、現在は11:00で帰宅している。
ヤクルト売りのおばあは、お昼からは掃除の仕事をしているそうだ。下里公設市場のときから、マンゴー畑やたばこ畑などで副業をしながら生活をしていたそうだ。

昼からは客足が朝に比べるととても少ない。30分に1-2人くらいの来客がある程度である。
観光バスが来たときには、人出は多いが土産物屋で買い物を済ませる人がほとんど青空市場で野菜を買う人はほとんどいなかった。

18:00
ADGのおばあが帰宅する。


図3
青空市場10:00頃、お弁当屋が店を広げ、最も人がたくさんいる時の様子。


図4
図2のBCの後ろ辺り。
一番奥のおばあはC、その隣の男の人は買い手、その他は仲買人のおばあである。
みんなで、座っておしゃべりを楽しんでいた。



第2章 魚行商から魚屋,野菜売りへ ―与那城キクさんのライフヒストリー

 与那城キクさんは久松出身の84歳である。図9の人物である。現在は図2のA場所で野菜売りをしているのだが、以前は魚行商や魚屋をしていたそうだ。この章では、キクさんの人生の歩みと市場との関わりについて紹介する。

与那城キクさんは久松の半農半漁の貧しい家に生まれた。幼いころは、畑で育てているサトウキビや芋や麦、粟など農業の手伝いをした。中学生になると、馬のエサの草刈りの仕事などをして働いた。また、キクさんの父は、漁師をしておりカツオ、アイゴ、タコなどを捕って生活していた。
 21歳になり、友達のしていた行商を始める。7:00頃、父の捕った魚をたらいにのせて久松を出発する。8:30に南市場で主な収入源である鰹節を仕入れる。10:00から18:00までグスクベ方面でたらいを頭にのせ、仕入れた分が売り切れるまで売り歩く。毎日売る場所は変えていたのにもかかわらず、友達と売る範囲が重なったことはないらしく、売る範囲もキクさんの勘で決めていたそうだ。19:00ごろからは、行商仲間の友達と丘の上(現在の宮古総合工業高等学校の近く)でそばを食べ、おしゃべりをしてから帰宅していた。この時間が何よりも楽しかった、とキクさんは語っていた。
 27歳のときにキクさんは結婚し、6人の子どもを育てた。夫は漁師ではなく、船乗りをしている人だそうだ。キクさんと結婚する前に教師をクビになってしまい、八重山の船乗りをしていた、とキクさんは語っていた。元教師だった夫に、算数など商売で必要になる知識を教えてもらった。
結婚を機に、行商は辞めて下里公設市場で魚屋をはじめる。魚屋をはじめるにあたって、300万円ほどの冷蔵庫を購入した。しかし、魚や切り身などの商品は板の上に置き商売をしていたそうだ。100㎏以上あるマグロや重たい魚も同じ市場で魚屋をしている人がついてだからと運んでくれたり、お金を出して仲買人の人に運んでもらうことで、キクさん1人でも商売することができた。仕入れた魚は1日でほとんど売れ、多いときにはマグロが7本ほど売れる日もあったほど市場は人手が多く、活気づいていた。
 下里公設市場が閉鎖され、魚屋を続けるには600万円の冷蔵庫が必要となった。600万円の冷蔵庫は高くて買うことができなかったため、魚屋を辞めた。しかし、商売を続けたかったので、御嶽近くの公園で野菜を売ることにした。野菜は長女と三女が嫁いだ農家の野菜である。
 宮古島市公設市場がリニューアルオープンされてから現在まで図6Aの場所で朝の7:00から18:00まで1日中、野菜を売っている。娘からは「もう引退したら?」と言われているそうだ。しかし、外にでずに家に1人いてはぼけてしまうと考えている。何より人と話すことと商売することが好きなので野菜売りを続けている。

図5
与那城キクさんの写真。野菜やミカン、ピーナッツなどを売っている。



第3章 仲里精肉店 ―仲里豊作・仲里チヨさんのライフヒストリー

 仲里豊作さん、チヨさん(図6の人物)はともに74歳で仲里精肉店を55年間営んでいる。豊作さんは久松出身で大工から肉屋へと転身した。豊作さんと与那城キクさんは従妹関係である。チヨさんは、平良市内の出身で、若いときは肉の行商も行っていた。この章では、仲里さん夫婦の歩みと仲里精肉店と市場の関わりについて紹介する。

 仲里豊作さん、チヨさんは27歳のときに結婚した。豊作さんは那覇で大工をしており、那覇で生活していた。結婚して数年後、肉屋を営んでいた豊作さんの父が50歳の若さで亡くなる。豊作さんは初めのうちは大工を続けたかったため、肉屋を引き継ぐ気がなかった。しかし、父の友人達に「なんでおとうのやっとる仕事をやらんか?」と励まされ、宮古島に帰り肉屋引き継ぐことを決意する。
 宮古島に帰ってきてから、肉屋を始めようとするが、南市場には空きがなかった。そのため、南市場から少し離れた自宅で肉屋を営むことにした。その自宅では、豊作さんの母、豊作さん両親の末っ子、台風で亡くなった豊作さんの妹の子ども2人と自分たちの子ども4人の計10人の大人数で暮らしていた。台風が来たら知り合いの家に避難しなければならないほど自宅は古かったため、31歳のときに借金をして家を新築する。しばらくして、空きのでた南市場に入ることができた。
自宅営業から南市場時代の仲里さん夫婦の一日を紹介する。朝、豊作さんはリヤカーつきのオートバイに乗り、東グスクベから1日1頭の豚を仕入れる。屠殺用機械ができるまでは、豊作さん自身で豚をつぶし、チヨさんのいる店まで持って行っていた。昼過ぎになっても肉が余っている場合、チヨさんは2歳になる娘を背負いながら行商をはじめる。知り合いや市場の人に連絡し注文を取り、その配達をすることと、行商する分は1斤ずつ包み平良市内を歩きまわった。包んだ肉は、あだんばの葉でできた籠バッグのようなものに入れ、売り切れるまで行商をした。
南市場に入れてから2、3年後に名渡山火事の被害にあう。お店は燃えた上に水浸しになってしまったため、下里公設市場ができるまではお店を休んでいた。
 下里公設市場ができたが、保健所から冷蔵庫設置が義務付けられた。新築、南市場の焼失、冷蔵庫の借金が重なり、とても苦労したそうだ。しかし、冷蔵庫を購入したことで余った分を保管できるようになった。そのためチヨさんは行商に行く必要がなくなり、楽になったと語っていた。
下里公設市場になってからは、冷蔵庫のほかにも仲里精肉店に変化があった。豚のえだ肉を那覇から週に2回仕入れるようなり、鶏肉も扱いはじめるようになった。鶏肉を扱うようになった理由は、豊作さんの同級生がしていた鶏肉屋を取引先や仕入れ方法などをチヨさんが引き継いだからである。鶏肉の仕入れ方法は、ブロイラーを那覇に買い付け、船で送る。チヨさんは最終の飛行機で帰り、翌朝にブロイラーを受け取りに港へ行き、そのまま市場へ向かい商売をしていた。鶏肉の注文が入るとチヨさんが目の前で鶏をさばいて売っていた。豊作さんは豚肉、チヨさんは鶏肉を担当していた。
 下里公設市場閉鎖してからは、近くで店舗を借りてそこで仮営業を続けていた。
 現在の宮古島市公設市場になってからは、仲里精肉店は息子の代になった。牛肉や味付け肉のような加工品、魚や刺身と幅広く商品を扱うようになった。仕入れは息子が行い、仲里さん夫婦は店番をしている。8:00から18:00まで営業をしている。個人の飲食店や老人ホームへ店の商品を卸しており、これらが主な収入源となっている。
今の宮古島市公設市場については、人も少なく下里公設市場のときには7つもあった肉屋も、今では3つ(3)しか残っておらずとてもさみしいと語っていた。

図6
仲里さん夫婦の写真。左が仲里豊作さん、右がチヨさん。

図7
仲里精肉店の肉売り場の様子。

図8
仲里精肉店の魚売り場の様子。



第4章 外から見た市場
 南市場、下里公設市場時代は人手が多く、その周りには食堂や雑貨店が建ちとても栄えていた。市場の周りで商売をしていた人々や、昔から市場を利用している人から、市場の印象やその変化について聞くことができた。この章では、外からみた市場を紹介する。

第1節 いちば寿司から見た市場

 宮古島市公設市場の裏手に店を構える、いちば寿司の先代の與那覇寛仁さん74歳とヨシ子さん73歳(図9の人物)からいちば寿司の歴史に加え、市場の印象についてもお話しを聞くことができた。

 いちば寿司の始まりはヨシ子さんの父が、いちば蕎麦という蕎麦屋を南市場の近くで始めたことがきっかけである。1階では蕎麦、2階では100人ほどが入る宴会場のある2階建ての食堂だった。宴会場では、結婚式やモヤイの相談によく使われていた。しかし、名渡山火事がおこり、ヨシ子さんの父も従業員も着の身着のまま逃げ出し、店も全焼した。
 火事の後、ヨシ子さんの父は下里公設市場の近くで食堂ではなく、いちば寿司を始める。お米さえあればお客様に提供できる(りっぷる2012)。どうしても資金がいるとき、手軽にできるものと言えば巻寿司だったそうで、巻寿司のみにしたそうだ。
仕入れは全てヨシ子さんの父1人が下里公設市場から仕入れていた。旬のものを取り入れた寿司を作るようにしていたそうだ。下里公設市場に行けば、豊富な種類の商品がそろっており、必要ななんでもそろった。寛仁さんはその当時の市場の印象を、建物はボロボロだが、市場の人や雰囲気は活気づいておりキラキラしていた、と語っていた。お正月やお盆、先祖のお祝いをするときに巻寿司はよく売れ、店はたいへん忙しかった。ヨシ子さんもこのころに父から「あなたも自分で寿司を作れるようになりなさい」と言われ、店の手伝いをしていた。しかし、寛仁さんの仕事の都合により宮古島を離れることになった。
 ヨシ子さんの父が亡くなり、いちば寿司は6年間ほど休業することになった。與那覇さん夫婦が宮古島に戻ってきてから、ヨシ子さんは市場近くの自宅でいちば寿司を再開する。ヨシ子さんの父の作る寿司の味が懐かしかったためか、近所の人や市場の人がたくさん買いに来てくれた。
息子の代になり、スーパーにもお店の巻寿司を卸すようになった。4代目の今は、巻寿司だけではなくお惣菜やお弁当など幅広く商品を扱っている。今でも東京などの遠方から注文が入るほど、親しまれている味である。
現在の宮古島市公設市場の印象は、昔に比べさみしい印象だそうだ。人通りがすくないだけでなく、土産物屋に商品が偏っており、昔のようになんでもそろう市場ではなくなったことも原因ではないか、と語っていた。

図9
那覇さん夫婦の写真。
左がヨシ子さん、右が寛仁さんである。


第2節 市場の向かいで野菜売りをしているおばあの話

 宮古島市公設市場の裏手で、野菜を売っているおばあから話を聞いた。
おばあは下里公設市場のときから、野菜を市場の向かいで売っていた。その当時の市場は、行事の度に活気づき、がやがやしていてとても雰囲気がよかったそうだ。そしてなにより「かっこよかった」と語っていて、この言葉がたいへん印象に残っている。
下里公設市場閉鎖と共に始まった道路拡張工事のため、店は退去させられてしまった。宮古島市公設市場の建物内に入りたかったが、外れてしまい、現在の場所で野菜売りをしているそうだ。現在の市場の印象は、活気がなく、かっこよくない、がっかりしたと語っていた。

図10
写真の左でパラソルを広げているのが話を聞かせてくれたおばあの店である。
右の建物が宮古島市公設市場であり、ちょうど市場の真後ろで商売をしている。


第3節 市場利用者のおじさんの話

 平良市内で飲食店を経営しており、仲里精肉店を昔から利用しているおじさんに市場の印象を聞いた。仲里チヨさんと今の宮古島市公設市場の現状について熱く語っていたので、その内容をこの節では紹介する。
 その空間の中心となるものが市場の役割である、とおじさんは語っていた。市場があり、そこが栄えることで自然とその周りに飲食店や雑貨屋などが建ちその空間全体が栄えるようになる。しかし、今の市場の活気が出ないのはなにより市場の仕組みに原因があると語っていた。市場の建物の中は仕切られており、隣の店とのつながりも薄いものになってしまっている。確かに、青空市場では隣の店とも会話しながら野菜を売る場面も見たが、市場の建物の中では、それぞれが店の机で事務作業をしている姿をよく見かけ隣の店と話す姿をあまり見なかった。また、土産物屋を同じ建物内に入れてしまったことで、市場らしさに欠けてしまっているのも良くないと語っていた。建物内の市場の大半は土産物や雑貨屋で、買い物をする場所というよりは観光客向けの場になってしまっている印象を私も持った。上の人は市場のことなんか全くわかってないと語っていたことも印象的であった。



結び

下里公設市場は、時代によって名前や様子を変えつつも平良市の人々にとってなくてはならない存在であった。市場の歴史と一口に言っても、市場に関わり生きてきた人々の歴史はひとつひとつが全く違い、それぞれがとても興味深いものであった。また、市場の歴史だけでなく魚行商や肉行商についてもそれを行っていた人物と出会い、その方法などについて詳しく聞くことができ、活字には残っていない事実も知ることができた。
市場の内外で商売していた人がともに南市場、下里公設市場のときは「活気があってキラキラしていた」と語っていた。宮古島市公設市場についても、「活気がなくさびしい」という人々が多かったが、玉寄さんのおくさんは「今の市場は昔より広いし、きれいだし水はけが良くなった」と肯定的にとらえていて、リニューアルしたことでいいこともあったようだ。宮古島市公設市場がこれからも市民に愛される市場であって欲しいと思う。



付記 佐良浜の魚屋

 伊良部島良浜にユークイを見に行ったときニカムラヒャーズ御嶽の近くに魚屋を発見した。市場とは関係がないが、木の机に広げられた新聞紙の上に直接魚や切り身を置いて商売しており、南市場や下里公設市場のころの魚屋の雰囲気を感じることができたので、ここで紹介をする。

 前原シゲさんは、伊良部島良浜ニカムラヒャーズ御嶽の近くで52年間魚屋をしている。シゲさんは、夕方に佐良浜漁港で魚を仕入れ、15〜16:00くらいから店を始める。シゲさんの店は坂の上に一位置しているので、下に降りることができない近所の人はシゲさんの店から魚を買っている。冷蔵庫については、若かったときは、保健所がうるさかったそうだが、今は使っていないそうだ。店の奥に壊れて物置化した冷蔵庫があった。木の机のうえに新聞紙が広げられ、その上にはマグロやカツオ、イラブチャーが置かれていた。図12の写真にその様子が写っている。魚を買いに来た近所のおばあと楽しく談笑しながら、魚を裁いていた。

図11
前原シゲさんが毎夕、魚を買い付けにいっている佐良浜漁港の様子。撮影時は、昼過ぎだったので、人が少なかった。

図12
前原シゲさんと店内の様子。木でできた机のうえに新聞紙が広げられ、そのうえに魚と切り身が直接置かれている。右奥に見えるのは、壊れて物置化した冷蔵庫。

図13
前原シゲさんの魚屋の外観。周りの家に比べ、とても古い建物だった。



(1)『宮古市史』の記載では下里公設市場と記されている。しかし、今回聞き取り調査を行った市場の人々は鉄筋コンクリート2階建ての下里公設市場以前の市場のことを南   市場と呼んでいた。よって本文では鉄筋コンクリート2階建ての下里公設市場以前の市場のことを南市場と記す。
(2)EFには固定の店舗はない。卸用の台として使われた後は、1時間ほど店を出すお弁当屋やパン屋に使用され、臨時で利用される台のような役割を果たしていた。
(3)仲里精肉店とその隣の寿食肉店と、少し離れたところでもう1つ個人で営業している店の3店舗が現在残っている肉屋である。



参考文献

藤井せい子,1986,「市のにぎわい 生活文化の素顔」,『日本人の原風景』第4巻,旺文社
藤井せい子,1982,「沖縄県宮古島の行商」,『南島史学』20,南島史学会
沖縄テレビ放送株式会社,1996,「よみがえる戦前の沖縄」,沖縄出版
平良市史編さん委員会,1981,『平良市史』第2巻,平良市役所
「市公設市場7月オープン」(宮古毎日新聞),
http://www.miyakomainichi.com/2011/06/19677/
りっぷる,2012,「島の人 生まれ島への恩返し」,『宮古島BBcom』,vol.108
沖縄テレビ放送株式会社,1995,『よみがえる戦前の沖縄』,沖縄出版