「寺と遊女」
坂口 晴香
はじめに
佐野眞一著『誰も書けなかった石原慎太郎』を読んだ。その中で遊廓・遊女に関する記述があり、小樽では開拓使制度のため官営で遊廓をつくったというところに興味を持った。さらに小寺平吉著『北海道遊里史考』を読むと、遊女の扱いがひどいものであったということと、供養もされずに「投込寺」と呼ばれる寺の門前に屍が放り込まれたなどの記述があった。投込寺ではないが、無縁仏を供養する場をしての寺と遊女の関係については『誰も書けなかった石原慎太郎』でも触れられており、寺と遊女の繋がりは濃かったことが伺えた。そこで調査テーマを『寺と遊女』に設定し、投込寺の存在と遊女の死について、主に北廓での聞き込みを中心に小樽調査を行った。
第1章 小樽の遊廓
(1)小樽と遊廓の発生
かつて、小樽はニシン漁が盛んな漁場であった。そこでニシン漁をするヤン衆と呼ばれる男たちが集まり、その男たちを相手に商売をする女郎街が生まれた。これが小樽の遊廓の起源である。しかし、それにさらなる拍車をかけたのは、1869年に発足された北海道開拓のための開拓使制度の一環にある。開拓のための屯田兵や大工、官員など男性の往来が盛んになり、持て余した性欲の捌け口として、漁師相手に商売をしており浜千鳥と呼ばれていた女たちが1871年に金曇町一帯に駆り集められた。その遊廓は国から補助金まで出る官営のもので、遊女たちは道具同然の扱いを受けたという。
(2)南廓
金曇町はその後大火で全焼した。現在、金曇町の名は残っておらず、その一帯は信香町と若松という地名である。遊廓は住ノ江町に移ったものの、そこも大火で全焼。その後1900年に天狗山を切り開き、遊廓を移した。ここは小樽南部の遊廓であることから、「南廓」と呼ばれる。エリアは現在の松ヶ枝町・入船町・花園町・住ノ江町の辺りである。松ヶ枝町には南廓時代に「洗心橋」という名の橋があり、南廓で一夜を過ごした客がここを通って心を洗い帰って行くことから、その名がついたという。現在、洗心橋の名は地名としてのみ残っている。
(3)北廓
また、北部では南廓に対し1907年に「北廓」が、手宮・梅ヶ枝町・錦町の辺りに作られた。現在は南廓に遊廓跡は残っていないが、北廓にたった一つ遊廓の跡が残っている。
錦町に存在し、昼に行っても夜に行ってもシャッターが閉まっていたが、地元の方によると一階が薬局で、二階部分のみ当時の遊廓造りが残っているそうである。
第2章 寺と遊女
(1)遊女の扱い
第一章の(1)にて、遊女たちが開拓使制度の一環で駆り集められ、道具同然の扱いを受けたと述べた。聞き込み調査では、遊女たちが寮として実際に暮らしていたであろう家に上がったことがあるという、石山町にある浄応寺のご住職から興味深い話を伺うことができた。その家には、一階から二階へ続く階段がひとつしかなく、二階に上がると細長い廊下の両端に四畳半程度の部屋がいくつも並んでいたという。階段がひとつしかないのは遊女が簡単に脱走できないようにするためであり、客はこの寮に来て買春をしていたようである。
また、遊女の中には単身赴任や仕事で訪れる男性の現地妻になる者や、売られてきた者もいたという。そういった遊女は虐待を受けるなどひどい仕打ちを受けた上に、自殺さえも経営者に監視されていた。
(2)興聖寺
もはや人間らしい扱いをされていなかった遊女だが、彼女たちが死ぬとどのように葬られたのだろうか。『北海道遊里史考』によると寺の門前に埋穴があり、そこに死んだ遊女を放置していくという「投込寺」という存在があったそうだ。これは特定の寺を指すのではなく、無縁仏を葬る寺の俗称である。しかし、聞き込み調査を行った結果、誰にも「投込寺」という呼び方があったという証言は得られなかった。
しかし、無縁仏として供養はしていたようである。佐野眞一の『誰も書けなかった石原慎太郎』では、興聖寺に無縁仏の石碑があると述べられていた。以下「 」内がその抜粋である。
「小樽駅から車で十分ほど行った長橋三丁目に、興聖寺という寺がある。その境内を進むと、一番奥まったところに、無縁供養塔、鎮魂と彫り込まれた石碑と、六角形の台座に乗った観音様の座像がみえてくる。二つの石碑は昭和二年八月に建立されたもので、樺太で死んだ名もなき積み取り人夫や女郎たちを弔うための慰霊碑である。
昭和十(一九三五)年六月に建立された観音像の台座に目を凝らすと、六角形の石版の一面ごとに約二百人の無縁仏の名前が彫られているのがわかる。その半分は女性で占められ、梅毒などの性病で死んでいった遊廓づとめの女郎だと思われた。」
私はこの記述を読み、寺と遊廓の関係を深く知ることができるであろうと思い、実際に興聖寺を訪れることにした。車で十分の距離を、自転車で数十分かけて。
寺に足を踏み入れると、確かに2つの石碑と観音像があった。
奥の二つの石碑には、確かに無縁供養塔、鎮魂と彫られていることが確認できた。
しかし、本では観音像(正しくは如意輪観音像)の台座に遊女と思われる無縁仏の名前が彫られていると述べられていたが、これは一体どういうことか。
そこに彫られていたのは、「尊像建立發起者芳名」という言葉であった。遊女の供養ではなさそうである。私は興聖寺のご住職にお話を伺った。すると、私が本で読んだ内容とは全く違うことをお聞きすることができた。
まず、この如意輪観音像が建立された目的は、遊女や無縁仏供養のためではないそうだ。これはご住職の祖父が元々は山でその地を守るために、寄付を募って昭和10年に建立した。その寄付をした人たちの名が六角形の台座の石版に、発起者として彫られているそうだ。そして昭和15年、長橋3丁目に興聖寺建立。それに合わせて山からこの如意輪観音像を運んできたのだという。
如意輪観音像は供養のものではなかった上に、彫られている名前も供養された人たちのものではなかったことが、ここへ来て初めてわかった。
興聖寺では、無縁仏の供養は無縁仏供養塔であり、その中に遊女も入っているかも知れないとのことであった。ちなみに、鎮魂と彫られた石碑は『キタジマ スケサブロウ』という方が大正13年に亡くなり、下宿業組合が供養したものだそうだ。
また、投込寺というものがあったか尋ねてみたが、そのような話は聞いたことが無いとのことであった。
この興聖寺では如意輪観音像が供養のものでないことから遊女の死について詳しくお話を伺うことはできなかったが、そこでご紹介していただいた浄応寺にて、遊女の死にまつわるお話を詳しく伺うことができた。
(3)浄応寺
浄応寺では、遊女が死ぬと遊廓の経営者が供養にやって来たということと、身寄りのない遊女については共同納骨を行っていたと伺うことができた。
ここに納骨されている遊女の死因は、浄応寺の帳簿には、年月日・氏名・年齢・死因・届け人が記録されている。私は直接見せていただけなかったが、ご住職にお聞きすると梅毒や結核が遊女たちの死因の多くを占めているという。ほかにも、腹膜炎や壊疽性口内炎、大腸カタル、肺炎などがある。また死産も多く見られたが、これは単なる死産ではなく、死産を装った堕胎である可能性も高いと考えられる。
また、大正12年から昭和8年にかけての記録は多く残されているが、それ以前と以降の記録は極端に少ないという。その理由として、大正末期から第二次世界大戦が始まるまでの期間が、小樽が最も繁栄した時期であるため、遊廓や遊女が多かったのではないかと推測することができる。
このように、屍が寺に投込まれるというような粗末な扱いは受けていなかったようである。遊女や胎児が死ぬと経営者が供養をしていたということがわかった。
また、浄応寺でも小樽に投込寺があったのかどうかということについて、情報は得られなかった。
まとめ
調査を始める前は、遊女は投込寺に放り込まれたり無縁仏として供養されたりしていたというイメージが強かったが、実際は遊廓の経営者が彼女たちの供養をしていたということがわかった。
投込寺については情報が得られなかったため、小樽に存在したのかどうかは疑問のままである。
謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市在住の平山裕人氏、下田修一氏、清水義英氏、島隆氏、小樽市立博物館の石川直章先生の多大なご協力を賜りました。ここに記して感謝申し上げます。
文献一覧
佐野眞一
2009 『誰も書けなかった石原慎太郎』 講談社文庫。
小寺平吉
昭和49 『北海道遊里史考』 北書房。