関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

新宗教の形成と展開ー天照教の事例ー

社会学部3回生

前 綾華

【目次】

はじめに

1.教祖・泉波希三子

 1-1.立教以前

 1-2.立教後

 1-3.霊能力

2.信者からの聞き取り

 2-1.野本氏の語り

 2-2.小松政夫氏・真澄美氏の語り

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに
 天照教は北海道室蘭市に本部を置く宗教法人である。昭和28年に初代管長である泉波秀雄(以降管長と表記)と、その妻である教祖・泉波希三子(以降教祖と表記)とともに立教された。天照大御神・大国大御神・恵美須大御神の3柱、そして阿弥陀如来を祀っており、神仏習合が特徴である。成立時期が新しいことから、新興宗教に分類される。今回の調査では天照教本部に伺い、本部神官の方、信者の方から聞き取りを行った。

f:id:shimamukwansei:20190929145328j:plain(写真1) 天照教本部

 

 1.教祖・泉波希三子

1-1.立教以前
 天照教教祖である泉波希三子(旧姓、泉澤キサ)は、大正11年5月10日、北海道島牧郡島牧村に8人兄妹の次女として誕生した。昭和21年に看護婦と助産婦の資格を取得後、助産婦として働き、稚内で管長と出会い結婚した。しかしその後管長は結核を発症し、洞爺湖温泉町教育保養所に入院することになった。教祖は救いを求めて洞爺湖にある御嶽教照浜教会の教会長・浜口テリ氏(以降浜口氏と表記)を訪ねた。部屋に入った途端、教祖は浜口氏に「あなたは、神様にお仕えしなければならない星を持って生まれて来た人ですね」と言われたという。その後、管長とともに3日間、浜口氏から不思議な話を聞き、浜口テリ、茂三郎両氏の弟子として修行することを決心した。修行を始めてから数日後、管長に口開きがあった。教祖は管長の口を通して伝えられたご神言を書き取り「神様からのおたより(現在はおみくじ)」と名付け、これを持って洞爺湖周辺を中心に布教を始めた。そして昭和28年5月1日に立教宣言をした。この「おみくじ」は現在も残っており、運勢や社会情勢を占うのに使われている。

1-2.立教後
 立教後、教祖はおみくじを持って道内各地で本格的な布教活動を始めた。当時はお金がなく、駅で寝泊まりすることもあったという。そして各地を回る内に、おみくじの評判が口伝えで広まり、「良く当たる先生がいるらしい」と聞きつけた人々が、教祖の行く先々に集まるようになったという。そこから信仰の道に入る人々も出てくるようになった。昭和28年に教祖と管長は神からのお告げを受け、室蘭の教祖の兄・泉沢勝男が経営する自転車店の2階の押し入れを神殿として御神霊を祀り、信仰の拠点とした。その後、本輪西に独立の神殿を建立し、昭和46年には柏木町に本部神殿を移転して現在に至る。

f:id:shimamukwansei:20190929145412j:plain(写真2)当時の泉沢自転車店(『天照教五十年史』より)   

f:id:shimamukwansei:20190929145829j:plain(写真3)本部神殿 外観
 天照教では「神の道」「仏の道」「人の正しい道」の3つの道を説いているが、教祖は管長から「神の道」を学び、古い信者達から良識・礼儀・教養など「人の道」を、無縁仏との関わりから「仏の道」を学んだという(2-2に詳しく記載)。また、教祖は贅沢をせず、質素な生活をしていたという。赤いセーターにズボンという格好が多く、信者からは親しみを込めて「女先生」と呼ばれていたそうだ。教祖を知る信者曰く、教祖にはいかにも「偉い人」というような近寄りがたい雰囲気は全くなく、気さくで親しみやすかったという。教祖が来ると信者達が自然と教祖の周りに集まり、和気藹々としたそうだ。
 天照教では毎月15日に感謝祭という行事があり、信者が集まる。管長は平成3年11月15日、ちょうど感謝祭が行われる日に逝去したため、月命日は感謝祭と併せて行われているそうだ。管長の死後、教祖は「私はお参りの日に死ぬ、管長先生と同じ日に死ぬから」と言っていたという。本部神官の塚越氏が理由を尋ねると、自分の月命日と管長の月命日を別日に行うのは大変だから、と答えたのだそうだ。そして、その後教祖は平成20年1月1日に逝去した。天照教では毎月1日に月次祭という行事がある。教祖は管長と同じ日ではなかったが、ちょうど行事があり、信者が集まる日に逝去した。

1-3.霊能力
 教祖は霊的な力を持っており、憑霊や予言をしたという。夕張郡由仁町の由仁布教所が開設したばかりの頃、そこに度々「お化け」が出たそうだ。塚越氏曰く、由仁布教所は、かつて「飯場」で、喧嘩をして死んだ労働者の男性2人が土葬されている場所だったのだという。由仁布教場のお化けの正体はその男性2人で、教祖によって「田中」と「竹浦」という名前がつけられたそうだ。そしてそのうち、田中・竹浦は教祖に憑依するようになったという。憑依された教祖の言葉づかいや態度は普段とは一変し、「酒持ってこい!」「俺は白雪(日本酒の名称)じゃなきゃ飲めねぇんだ」などと大声で叫ぶこともあったそうだ。『風雪の日々』によると、教祖に憑依した田中・竹浦は、「オレは由仁の親方であるぞ!」と大声を張り上げ、あぐらをかいて供えられた酒を一升全部ラッパ飲みでがぶがぶと飲むのだという。教祖はこの田中・竹浦の供養を行い、この経験から「仏の道(浮かばれない仏の思いや、先祖供養の大切さ)」を学んだという。「仏の道」は信仰の基本理念となり、現在の天照教の教えに繋がっている。田中・竹浦は本部が現在の場所に移ってからも度々教祖に憑依していたそうだが、立教45周年を迎える頃に、教祖に憑依して「もう旅に出るから」と言ったきり、一切出てこなくなったそうだ。
 教祖は度々予言をし、その予言はよく当たったという。山岸一徳の『あなたは神のお告げを聞いたか』には、教祖が昭和40年に室蘭で起きたタンカーの火災を予言したことや,昭和52年の有珠山噴火を予言したことなどが記されている。また、信者曰く、教祖は富士製鐵(現・日本製鉄)が新日本製鐵に名称を変更した際、「せっかく縁起の良い名前(富士)だったのに残念だね」と苦言を呈し、新日鉄はこれからさびれていくだろうと言っていたそうだ。そして教祖の言葉通り、その後鉄鋼業界の不況により新日鉄は衰退した。

 

2.信者からの聞き取り
 三名の信者から聞き取りを行った。

2-1.野本氏の語り
 野本氏は22歳の時に当時白老にあった布教所(現在はなくなっている)の2代目の方と結婚したことがきっかけで、天照教に触れることになったという。野本氏の実家には神棚や仏壇はあったものの、教えなどは特になかったため、嫁いできて初めて信仰というものに触れたという。そしてそこでいろいろな手伝いをしながら古い信者達から天照教の教えや信仰について学んだそうだ。
 野本氏は天照教の神様に実父の病気を治してもらった経験があるという。野本氏が26歳の頃、実父が病気を患い、医者からは助かる見込みがないと宣告されたそうだ。しかし、義父に「神様に頼んで助けてあげる」と言われ祈祷してもらったところ、病状が回復したという。この経験がきっかけで、野本氏の実家でも天照教を信仰するようになったそうだ。また、野本氏がより深く信仰するようになったのは実母の死がきっかけであるという。野本氏が春の大祭の準備のために本部に来ていた際、実母が事故に遭い病院に搬送されたと連絡が入った。連絡を受け、急いで本部から病院へ向かおうとしたとき、教祖が「わしも一緒に行く」と言い、病院までついてきてくれたのだという。結局実母はそのまま息を引き取ったが、その事故が介護に疲れた実父によって引き起こしたのではないかという疑いをかけられ、実父が取り調べを受けることになったそうだ。教祖はその間も、野本氏の側にいて声をかけ続けてくれたという。その後、実父の疑いは晴れ、検死から実母の遺体が戻ってきて、なんとか葬儀を執り行うことが出来たそうだ。野本氏は自分が一番大変で落ち込んでいた時に教祖に助けられ、感謝していると述べている。そして、教祖に恩返ししなければならないと思ったそうだ。それまでは本部に行くことはあまりなかったそうなのだが、本部の方にも頻繁に奉仕に訪れるようになり、信仰も深まったという。
 天照教では、入信届けなどがなく入信するのもやめるのも自由だという。また、信徒になるための特別な条件や厳しい戒律もないそうだ。だからこそ自分の心で感じ、信仰することが大事であると野本氏は述べている。
 
2-2.小松政夫氏・真澄美氏の語り
 小松政夫・真澄美夫妻は現在、札幌福神支部に在任しており、政夫氏は神官を務めている。政夫氏が天照教を信仰するようになったきっかけは彼の父親にあるという。政夫氏の父親は元々漁師の網元であったが、ニシンの不漁のため、分家して八雲町に引っ越してきた。父親は冬に室蘭へ出稼ぎに行っていたので、おそらくその時に教祖と出会い信者になったのだろうという。そして、教祖に「そこにいたら兄弟がばらばらになる。室蘭に来なさい」と言われ、一家全員で室蘭に移住した。政夫氏は若い頃は熱心に信仰していなかったそうだ。しかし、ある日胃痛で苦しんでいた際に、神棚にあげてあった水を飲んで手を合わせ祈祷したところ、胃痛が治まったという経験から、神の存在を認め、信仰するようになったという。二世信者である政夫氏に対して、真澄美氏は結婚するまで、天照教のことは知らなかったそうだ。挙式を本部で挙げるということになって、初めて天照教のことを知ったのだそうだが、信仰心を持つことはなかったという。しかし、その後長男の病気をきっかけに信仰するようになる。かつて、当時3,4歳だった長男が髄膜炎で意識をなくし、危篤状態になったことがあるという。その際に親族の「こんな時こそ神様に頼もう」という提案で、天照教へ電話し祈祷を頼むことになったのだそうだ。姉が政夫氏の代わりに病室の外まで電話を掛けに行き、政夫氏は病室内で待っていたそうなのだが、姉が電話をかけ「お願いします」と言っているのが病室内にも聞こえていたという。そして、姉が電話を切り病室に戻ってくる足音が聞こえた瞬間、長男の意識が戻ったのだそうだ。真澄美氏は当時、次男産後一週間であったためその場にはいなかったそうなのだが、後にこの話を聞いて、信仰するようになったと述べている。
 また、2人は不思議な夢を見ることがあるという。真澄美氏は、稀に教主(泉波希久子氏)が夢に出てくることがあるそうだ。自分や家族に大きな異変があるときにだけ、事前に夢の中でお知らせをしてくださることがあるという。真澄美氏はこのような不思議な夢は滅多に見ないのだそうだが、政夫氏は頻繁に不思議な夢を見るという。聞き取りを行う1ヶ月ほど前、政夫氏は脳梗塞で入院していたそうなのだが、脳梗塞を早期に発見できたのは不思議な夢のおかげでもあるという。一ヶ月ほど前、政夫氏はひどい目眩がしたため、病院で点滴を打ってもらったそうだ。医者から再度受診することを勧められていたそうなのだが、当初はそのつもりはなかったという。しかし、その晩の夢に「壁掛け時計が頭に落ちてきた人」と「首がない人」が出てきたという。政夫氏は夢見が悪いと思い、心変わりをして再度受診をしたところ、脳梗塞と診断され即入院することになったのだという。その後、真澄美氏が自宅に戻り神棚に手を合わせようとしたところ、神棚の鏡が奥の御堂側に寄りかかるように倒れていたという。これがもし手前側に倒れていたら、供えてあった水などを巻き込んで大変なことになっていただろうと述べている。2人はこの出来事を、神様が守ってくれているということを分かりやすく教えてくれたのだろうと解釈しているという。
 2人は現在の天照教について、2代目管長や教主と信者の距離が近く、直接話すことができ、相談に乗ってもらうこともできるので、天照教の信者は恵まれていると述べている。また、昔から今も変わらず、家族的であると述べた。

 

 結び
 今回の調査で、教祖・泉波希三子氏は人々を引きつける魅力を持っていたということが分かった。また、天照教の特徴として、入信届けなどがなく入信するのもやめるのも自由、厳しい戒律がない、他の宗教を否定しない、教団のトップと信者との距離が近いという点があげられ、自由度の高い教団であるということが分かった。
 聞き取りや資料などから教祖が優れた霊能力を持っていたということが分かったが、それだけではなく、教祖自身の人柄が多くの信者の心を引きつけ、天照教の発展に繋がったのではないかと推察する。

 

【謝辞】
 今回の調査にあたり、快く受け入れてくださった天照教本部の皆様、並びにお話を聞かせてくださった信者の皆様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献
・櫻井義秀監修,本野里志・佐藤寿晃編,2003,『天照教五十年史』天照教.
・泉波希三子,1980,『風雪の日々 天照教史空知支部編』天照教.
・泉波希三子,1994,『ノストラダムスの予言は回避できる』ハート出版.
・泉波希三子,1988,『天照大御神様のお告げ』,天照教.
・山岸一徳,1991,『あなたは神のお告げを聞いたか 未来を予言し福を呼びこむ天照教のすべて』現代書林.
・天照教HP(https://www.tenshokyo.net/,2019年8月24 日にアクセス)