関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

神社合祀と祠のゆくえ―八幡浜市と向灘地域の事例―

社会学部 3年生
山田 彩世

【目次】
はじめに
1章 向灘と神社合祀
1−1 八幡浜市向灘
  1−1−1 勘定
  1−1−2 杖之浦
  1−1−3 大内浦
  1−1−4 中浦
  1−1−5 高城
 1−2 神社合祀 
  1−2−1 権現山
  1−2−2 神社合祀
  1−2−3 向日神社
2章 祠のゆくえ
 2−1 杖之浦
 2−2 大内浦
 2−3 中浦
 2−4 高城
3章 急傾斜地崩壊対策事業と一ノ宮神社の再興
 3−1 脇田神社
 3−2 急傾斜地崩壊対策事業
 3−3 一ノ宮神社の再興
結び


はじめに
 本稿では、愛媛県八幡浜市向灘地域の5つの地区の神社について取りあげる。勘定以外の地区にあった神社は1927年に権現山の上にある神社に合祀されたが、1つを除いて今もなお祠は現存している。今回の調査では、向灘地域に住んでいる人々に聞きとり調査を行い、残っていた資料とともに神社合祀と祠のゆくえを明らかにし、まとめたものである。


1章 向灘と神社合祀
1−1 八幡浜市向灘
 愛媛県八幡浜市の北西部に位置する向灘地域は、勘定・杖之浦・大内浦・中浦・高城の5つの地区から成る。北は権現山を経て保内町、南は八幡浜湾に接し、江戸時代初期にはすでに漁業や海運業が行われており、近年急速に市街地化した。また、今から約80年前の1927年までは各地区に1つ神社が存在していた。


▲向灘地区の地図(Googleマップより)

1−1−1 勘定
 勘定は別名「神城(かみしろ)」とも言われおり、厳島神社の本家の安芸の宮島が神の島ということから昭和の初めごろから「神城」と呼び始め、戦後に公民館活動が行われるに至って「神城公民館」が登場すると、いつの間にか「勘定」が「神城」に書き換えられていたという歴史がある。また、後朱雀天皇の永承年間(1046年〜1052年)に、勘定浦の漁師であった清兵衛がある夜の夢に市杵島姫命(別名:狭依毘売命)の姿を見て、安芸の国の厳島神社に参詣した。そして神璽を受けて帰郷し、これをわが家の祭神として祀っていたのち、勘定全体の氏神に発展したものが勘定にある宮嶋神社の所以である。


▲勘定 宮嶋神社


▲勘定 宮嶋神社

1−1−2 杖之浦
 杖之浦は古くは「天田」と称したが、「天は雨を降らし、田は水に緑あり、毎年、元水の災を蒙る」として、杖之浦と改めたという。杖は老を扶くるの儀をとり、遺陥を防がんとの願いによる改名だった。また、杖之浦は天保時代の八幡浜浦の地図には「つえのうら」では無く、「ついのうら」と書かれてあり、潰しの浦であることを示している。杖之浦地区では、土地の陥落するすることを「都恵奴気」という。これは潰え抜ける意であるが、部落ではこれを嫌って「杖之浦」に改めた。また、杖之浦には朧神社があった。斉2 (855)年、地震に次いで夏、大雨が降り、田畑の崩壊が続いた。これを恐れてスサノオノ命とクシナダ姫を祀り、出雲八重垣の故事に則り、土地堅確を祝し、氏神としたのが朧神社であると伝えられている。荒神として八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオノ命なれば、天災をも防ぐことができると考えたのが朧神社の祭神とした理由のようである。

1−1−3 大内浦
 大内浦には産敷神社・守神社があった。「産敷神社」「守神社」この2社は、大内浦の東西にあり、東を男神タカミムスビ神、西は女神・カミムスビ神という。産敷神社を本社として、守神社は境外末社である。向灘に人が住み始めたのは古い時代からだが、上古草創の時代、海はひどく荒れて山では猛獣が威を振るっていた。そのため魚介・穀物類は取れず、住民は食糧難に陥っていた。養老4 (720)年、清家貞綱はそのような民衆の請いを入れて、男・女神の2廟を大内浦の東西に創建した。また、平家一門が西海に逃れたとき、安徳天皇をこの大内浦にかくまっていた。天皇のいるところを大内山ということから、この地区を大内浦と呼んだ。

1−1−4 中浦
 中浦には敷地神社があった。「敷地神社」はむかし、向灘一帯の山に鹿の大群が棲息して田畑の作物を食い荒らしていた。これを踏まえ、矢野神山の八幡宮清家治部太夫貞綱が五穀豊穣のため、神亀元(724)年、一宮神社を勧請して中浦産土神としてお祀りしたのが「敷地神社」である。春秋の大祭には八幡宮古伝の神楽32番が奉納され、大きくにぎわったものだった。惜しくも明治7年、戦火のため社殿類焼し、棟礼や日記などの記録は残存していない。

1−1−5 高城
 天授年間(1374~1379年)に萩森城主・宇都宮公綱の侍大将、向井源蔵が向灘の近辺を守護していた。その居城を高城と呼んだため、部落の名も高城と呼ぶようになった。また、源蔵は一宮大神を信仰し、弓矢冥加守護神と仰いでいた。その後、天正13 (1585)年、萩森落城後は高城浦の産土神として高城の一宮神社に祀られ、崇高をあつめていた。

1−2 神社合祀 
1−2−1 権現山
 向灘地域の北に位置する讃岐山、通称「権現山」にはもともと石鎚山を神体山とする石鎚神社が鎮座されていた。昭和2年9月28日に杖之浦の朧神社、大内浦の産敷神社・守神社、中浦の敷地神社、高城の一宮神社と石鎚神社を合併合祀した。

1−2−2 神社合祀
 昭和2年9月28日に勘定の宮嶋神社を除く残り4つの地区にあった神社は権現山の石鎚神社に合祀された。その際に石鎚神社は「向日神社」に改称された。
合祀理由としては主に3つ挙げられる。1つ目は当時4つの地区で行われていたお祭りを住民はそれぞれ行き来していたので、合理的に1つにまとめるためである。2つ目は神社の維持が大変でお金もかかるためである。合祀すると管理責任は各地区ではなく八幡神社になる。3つ目は権現山にはもともと石鎚神社が鎮座していたが、参拝者が少なかったため、合祀して参拝者を増やすためである。また、近くの神社に合祀されなかった理由としては、近くに広い土地が無かった、4つの地区から平等な距離にあるところに置くため権現山に上げた、とされている。
 勘定の宮嶋神社だけは由緒がはっきりしており、部落の財政状況も豊かであり、神社経営に支障がなかったため合祀されなかった。

1−2−3 向日神社
 向日神社がある権現山では、毎年旧暦6月1日にお山開きが行われる。1年ごとに向灘の5地区を持ち回りで公民館にてお神楽を行う。前日の宵宮祭では宮司さんは山の上で神事を行い、御神像を拝戴し、公民館に持って行く。当日は本祭りが行われ、祠の前に御神像を置き、お供え、神事、お神楽の順で祭りが進んで行く。普段御神像は向日神社にあるので、お祭りの日は拝む対象をつくるために御神像が下ろされる。
 平成20年、向日神社に祀られている各部落の氏神様の本殿がかなり古くなっていたので、高城の一宮神社の常任総代である若松正氏が中心となって新しく建て替えた。この際、一宮神社のみを建て替えるのではなく、4部落同時に行うことで費用が安く済むという理由から4社同時に建て替えられた。


▲若松正氏


▲建て替え前の本殿


▲建て替え後の本殿


▲御神像

2章 祠のゆくえ
2−1 杖之浦
 現在朧神社の跡地には御神体は無いものの、祠と鳥居は残されており、祠の周りには千羽鶴やみかんがお供えされている。また、現在残っている祠と鳥居は昭和48年3月吉日に再建されたものである。


▲現在の朧神社 
     

▲朧神社の鳥居右下


▲朧神社の祠

2−2 大内浦
 現在は、大内浦公民館の裏に祠だけが残っている。神社名は書かれていない。今でもお山開きのお神楽をする際は祠の前に向日神社の御神像をお祀りするという。


▲大内浦公民館の前


▲大内浦公民館の入り口


▲大内浦公民館の裏の祠

2−3 中浦
 明治7年、戦火で社殿類焼したため、鳥居も祠も残っていないが、神社跡地ということで土地が売れないため、現在敷地神社の跡地には柑橘系の木が植えられている。

2−4 高城
 一宮神社の御神体は合祀によって向日神社にある本殿に移されたが、祠だけ脇田という
ところに移された。現在、一宮神社の跡地はアパートが建てられている。


中浦 敷地神社跡地


▲高城 一宮神社跡地

3章 急傾斜地崩壊対策事業と一ノ宮神社の再興
3−1 脇田神社
 一宮神社は合祀後、祠だけ脇田というところに移された。移されたところはたまたま村上さんという人の土地であり、年月が経つにつれてその祠が一宮神社のものだということは忘れられ、人々は脇田神社や村上神社と呼ぶようになっていた。

3−2 急傾斜地崩壊対策事業
 急傾斜地崩壊対策事業とは、当時昭和46年の市会議員を務めていた谷本廣一郎氏によって進められた事業である。杖之浦にある谷本さんの姉の家の裏が崩れ、県と市にお願いして工事をすることになったが、当時は莫大な工事費がかかった。しかし、姉の家はトロール漁船に乗っていたため、収入があり、隣人もトロール漁船の親方ということで負担金1軒あたり200万円~300万円で工事を行った。工事後、裏は崩れなくなり、周辺住民も工事を行いたかったが、負担金の額を聞いて工事を諦めた。谷本氏が負担金のない公式の工事をしてもらえるように声をあげたが、市も県も取り上げてくれなかった。地元の人からは家の裏の崩壊に対して何とかして欲しいとの声が沢山あがり、それを受けて谷本氏が県へ猛烈に抗議をした結果、県と市が9割、土地を持っている住民が1割の負担をするということが決まった。しかし1割の負担も出せない住民のために、さらに谷本氏が議会で3年間訴え続け、県費で全額工事費を出すことが決定した。住民は工事負担金が無いということで土地を無償で提供し、急速に急傾斜地の工事が進んでいった。今では市内全域の危険区域の工事にまで発展し、県自ら急傾斜地崩壊対策事業に積極的に取り組んでいる。
 
3−3 一ノ宮神社の再興
 今から約20年前、村上さんの土地も急傾斜地崩壊対策事業の工事が入ると言われ、土地の中にあった通称脇田神社の祠を移動しなければいけなくなった。そこで祠を開けてみると「一ノ宮神社」と書かれた木の札が出てきた。当時神社の常任総代であった若松氏をはじめ20人の人が集まって、その神社の名前を「一ノ宮神社」とすることに決めた。そこで、たまたま村上さんの土地に祠があっただけで村上さんの所有物ではなかったので、工事のために祠を高城地区が移転させ、高城地区のものとして祀ることになった。


▲谷本氏夫妻


▲高城 移転後の一ノ宮神社


▲高城 一ノ宮神社の祠

結び
向灘地域の事例によると、神社合祀され、御神体向日神社の本殿にあるにも関わらず、残存している祠に拝む人がいることが分かった。本来なら祠には拝む対象がいないはずだが、合祀したからと言って御神体がいないと言うわけではなく、残存している神社にも神様がいる人々は考えている。さらに、一宮神社の事例は合祀後に移転され、長いときを経て現在一ノ宮神社として合祀されたはずの神社が同じ名前で再興されている。

※高城の一宮神社は移転前の記録には「一宮神社」として残されていたため、移転前のものを指す際は「一ノ宮神社」ではなく「一宮神社」と本稿では記載している。

謝辞
 今回の論文作成にあたって沢山の方にご協力いただきました。一緒に聞いてまわってくださった尾下熟様、大変貴重な資料を提供してくださった若松正様、清家貞文様、何度もお話を聞かせていただいた谷本廣一郎様、調査に協力してくださった八幡浜の皆様のおかげで本論文を完成させることができました。お忙しい中、突然の訪問に対応していただき本当にありがとうございました。

参考文献
・「愛媛県神社庁」,〈ehime-jinjacho.jp/〉2018年5月15日アクセス.
・下中邦彦編(1980)『日本歴史地名体系第39巻 愛媛県の地名』平凡社
・竹内理三編(1981)『角川日本地名大辞典 38愛媛県角川書店
・一宮神社の復旧(新築)工事について
八幡浜新聞港町抄録尾上悟楼庵 まつり物語⑨~⑩