関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

伊良部島佐良浜と南方漁業

伊良部島良浜と南方漁業

社会学部 0200番 梶鮎美


目次

序章 
第1節 問題の所在
 第2節 伊良部島良浜集落という場所

第1章 佐良浜港における現在の南方漁業
 第1節 南洋と南方の違い
 第2節 現在の南方漁業
 
第2章 かつての南方漁業
 第1節 盛んだった南方漁業
 第2節 南方漁業に行かなくなった理由
 第3節 当時の佐良浜漁師の生活
 第4節 長浜操氏によるフィジー開拓

第3章 集落景観に表れた南方漁業の影響 
 
結び

参考文献



序章

第1節 問題の所在

 今回調査を行った伊良部島の佐良浜はかつて、漁を通して南方に位置する海外の島々と交流があった。現在は以前のように南方に漁業に出ることはなくなったが、全く行かなくなってしまっているのかどうかが不明であったため、今回2012年11月7日〜10日に実際に佐良浜で調査を行い、明らかにした。また、現在の佐良浜に南方漁業によってもたらされた面影は残っているのかも合わせて調査した。

第2節 伊良部島良浜集落という場所
 佐良浜とは宮古島から北西に約4キロの場所に位置する伊良部島の沿岸にある漁業の町である。伊良部島の人口は約6208人(2007年現在)で、佐良浜港周辺には2つの集落(前里添と池間添)があり、橋でつながる下地島との間には6つの集落がある。佐良浜は720年頃に池間島から移り住んだ人たちによってつくられた。特にカツオ漁が有名で、今日も盛んに漁が行われている。
良浜に住む漁師は朝早く漁に出掛け、正午から夕方にかけて佐良浜港に帰ってくる。そして漁でとってきた魚は、市場や魚屋にすぐ並ぶのである。
 今回はこのような佐良浜において調査研究を行った。








図1 佐良浜港での水揚げ










図2佐良浜港横の魚市場にてマグロを本土に輸送する様子







図3 佐良浜港(左)と魚市場(右)



第1章 佐良浜港における現在の南方漁業

第1節 南洋と南方の違い

 はじめに、明らかにしておきたい点として、「南洋」と「南方」という言い方の意味の違いについてである。
「南洋」とは「カロリン諸島マリアナ諸島を含む、小笠原諸島より南、赤道以北の島のこと」(仲間明典2012)であり、「南方」とは「我が国より南、赤道より南も含めて南方」(仲間明典2012)である。
つまり、日本から少しでも出て漁をした場合、南方に漁業をしに行ったということになる。南方といった場合の方が広い範囲を含んでいることがわかる。このことを踏まえて、現在の漁業について見ていきたい。

第2節 現在の南方漁業

今回、明らかになったことは以下の2点である。
 ①佐良浜から南方に出ていくのはカツオ漁で、日帰りのみ
 ②グアムを拠点に、マグロ漁を行っていて、現地人を雇う形がまだ続いている
日帰りで南方に行っていることや、以前たくさんあった基地がなくなり、グアム基地のみになったことから小規模なものへと変わっていることがわかる。以前のように大規模なものではなくなってしまったために、南方に行っているのかどうかについて認識に食い違いが生じていたと思われる。
また、合わせて尖閣諸島の問題にも触れておきたい。佐良浜からは尖閣諸島にカツオ漁で行っていたが、尖閣諸島問題が発生してからはいけなくなってしまったという怒りの声が多かった。佐良浜から尖閣諸島へ出漁を始めたのは1950年頃で、南小島で仮設の加工工場を設置してカツオ漁を営みはじめたという。そのころから尖閣諸島は佐良浜漁師達の漁場として親しまれていたのである。

第2章 かつての南方漁業

第1節 盛んだった南方漁業

 ここでは、まず南方漁業が盛んに行われるまでの歴史的な流れとともに、当時の南方漁業に関するエピソードも加えて述べていくこととする。
良浜における南方漁業は1931年に佐良浜漁業組合が日本水産会社と契約を結び、漁船大福丸、漁泉丸に乗員を乗せ、パラオ島でカツオ釣り漁業をやったことから始まったとされる。その2年後あたりから南方諸島への渡航が急増する。これは佐良浜周辺でのカツオ漁の不振と組合船の解散が原因であった。豊漁に恵まれたため、パラオをはじめ、パプア・ニューギニア、ソロモン(漁業基地3ヵ所)などと相次いで出漁していった。当時は漁船21隻、乗組員500名程度の規模であった。
漁師らが南方の基地に家族、友人や知人を呼んだため、パラオサイパンなどの島々は女郎屋、旅館、一時的に佐良浜の分村が作られたかの様な状態であったとされている。基地には映画館、日本人学校、散髪屋などがあった。この中でも意外に儲かっていたのは散髪屋であったという話も伺った。また、パラオサイパンでは日本語よりも佐良浜の方言の方が通用していたというほどであった。



図4 南方諸島の地図







第2節 南方漁業に行かなくなった理由

 現在は規模を縮小させた南方漁業のみが行われているが、なぜ以前のように盛んに行かなくなってしまったのか。現地での調査や歴史的背景から6点挙げたいと考える。
1点目は元々、本土の人に雇われて行っていたため、自分から行きたいと志願していっていた人はあまりいなかったという点である。家族を置いてまで南方に漁に出たくはないという漁師が多かったとされている。
2点目は南方で漁業をするだけではなく、漁業の技術も教えていたのであるが、現在はその必要がなくなった点である。佐良浜の漁師は腕がよく、南方でも歓迎されたが、現在、南方では佐良浜の漁師に頼らずに漁を行えるほどに技術が伝わったために、技術を教えに行くという名目では南方に行かなくてよくなったのである。
3点目は南方の現地人を雇ってから1、2年すると知識がついてきて、集団ではむかうようになるという問題である。この問題解決のために、1、2年たつとメンバーを入れ替えるという工夫も行っていた。船の乗組員は佐良浜の漁師2人、現地人8人程度の割合であった。そして、だんだんと南方の治安が悪くなり、ストライキが起こるようになり、2000年7月26日 ソロタイ68号クーデターに巻き込まれる拉致事件が発生する事態となった。そのため、8月10日 ソロモン出漁を断念し、カツオ漁をストップさせるということが起こったのである。こうした南方でのトラブルも大きな原因であると考えられる。
また、当時は男性が漁に行っている間、女性たちが協力し合って子育てをしていたが、現在は女性だけで育てられる時代ではなくなったというのが4点目である。昔は近所の女性同士で育児を行っていたこともあったが、今は女性も働きに出て家にいないなど、南方漁業を行っていた時代とは生活のスタイルが変わり、女性だけではできないことも多く存在してきた。そのため、長期間男性が家を空ける南方漁業は避けられるようになったということである。
5点目は、そもそも漁業を継ぐ人がいなくなった点である。以前は中学卒業と同時程度の時期に漁に出ていくということがあったが、現在は高校、それ以上の専門学校や大学に進学するのが佐良浜でも一般的になってきた。そのため、学歴的にも漁師ではなく、別の仕事を選ぶ選択肢も生まれてきたのである。現在では佐良浜に住む若者で、なかなか漁師になる者が居なくなってきているようで、佐良浜以外の本州から漁師が来ていることも稀ではないようである。
そして最後は、当時保険が掛けられておらず、給料しか得られなかったこと、さらには厚生年金もないという点である。これは船を持っていた頭が自分の給料から保険を出すのを渋ったためとされていることや、当時保険についての認識が甘かったことなどが原因とされている。この問題については佐良浜に住む女性が南方漁業の最も大きな問題のひとつとしてとらえる声を多く聞いた。しかし、現在のグアム基地での漁に関しては保険・保障があり、問題は解消されつつあると考えられる。
以上の点から現在の南方漁業のあり方になったものだと考える。

第3節 当時の佐良浜漁師の生活

とにかく、南方から帰ってきた漁師はかなりの大金を手に帰ってきたといわれている。
約10カ月の漁から帰ってきた漁師は、稼いだお金を使って数カ月遊び呆け、お金がなくなると次の漁へ出かけていくという生活を送っていた。当時、2000ドルで家が買えたが、船長になると1回南方に行っただけで、2000ドル稼げたという。自分の家だけではなく、家族や親戚の家を建てることもあった。
そして、南方から漁師が帰ってくると、那覇の飲み屋は売り上げが上がった。「那覇の高級な飲み屋にいるのは社長かヤクザか佐良浜の漁師か。」と言われるほどであり、この言葉からも佐良浜の漁師がいかに南方漁業で儲かっていたかが伺える。
このように行けば大金が手に入る南方漁業であったが、南方に行く船員は固定されたメンバーではなく、毎回選ばれていくというシステムがとられていた。ただし、このとき、怠け者の漁師はメンバーから外されることとなり、南方に行くことができないということがあった。そのため、南方に行くことのできない漁師同士が船を出すこととなるが、結局うまくいかずに失敗するケースもあったそうである。
また、昭和になってから佐良浜で結婚した若い漁師は南方で現地妻をもらうケースが多発したという話も聞かれた。
漁師は家族へのお土産として貝殻、木彫り、洋服を持ち帰った。逆に南方には子どもの古着を持っていったり、なまり節などが伝えられたりした。なまり節とはカツオの片身を茹でたり蒸したりしたものを冷却してできる加工食品である。
 南方漁業へ行っていた佐良浜漁師はこのような生活を送り、暮らしていたことがわかる。次に、実際に南方へ言った方の事例を見ていくことにする。

第4節 長浜操氏によるフィジー開拓

 実際に南方にあるフィジーに行き、操業の糸口をつけた、元漁師の長浜操氏にお話を伺った。
長浜氏は1923年生まれの89歳であり、1971年にひとりで漁業調査の名目でフィジーに渡り、フィジーでの操業の糸口をつける。自分の意志ではなく、募集があったために行ったのだという。
現地ではカツオの餌の調査、カツオの群れの調査をするとともに、漁も行ったそうだ。毎日漁の関係の仕事に追われており、寝泊まりは船の中のみであった。そのため、フィジーの方とは特に交流はなく、帰国したという。
当時、1ドル=360円の時代に1ヶ月の給料が約50万ドルであり、フィジーに行ってから暮らしは変わったそうだ。フィジーから帰国後は佐良浜で漁師をする生活をしていたということである。
また、伊良部島の中学校の英語の教師がフィジーの方であり、今でも関わりがあるのではないかということが伺える。










図5 長浜氏の船員手帳










図6 船員手帳の中身




第3章 集落景観に表れた南方漁業の影響
 
 私が佐良浜を訪れて一番に目に飛び込んだのは敷地いっぱいに建てられた大きく、そして輝くばかりに白く、または鮮やかなパステルカラーに彩られたコンクリート製の家々の街並みであった。これは南方漁業、すなわち海外の影響によるものなのか佐良浜の住人の方に聞き取りを行った。
まずわかったことは、南方に漁に出ていた時代には、家を大きく見せるのがよいとされていたため、敷地いっぱいに家を建て、「見栄を張っていた」と言われているということである。そのため、駐車場や庭のない家が多いとされている。また、南方漁業に行っていた漁師には厚生年金が支給されないため、家を建て替えることが出来ず、佐良浜の多くの家は当時のままであるとも言われている。昔は家族みんなで大きな家に暮らしていたが、今は当時の家のまま、年配の夫婦だけで暮らしているというのも現地の方の嘆きの声としてあった。
そして、家の配色の問題である。先ほども述べたとおり、佐良浜地区の住宅はパステルカラーの鮮やかな色をしているものが多く、外国のような雰囲気を放っている。さらに、家だけではなく、お墓も同様のパステルカラーの鮮やかな色をしているものが存在する。現地の方は、色は好きな色を塗っているだけであるという。しかし、何らかの形で南方の影響を受けていると推測する。 この点に関しては今後の課題である。











図7 佐良浜地区の住宅(青)










図8 佐良浜地区のお墓(青)











図9 佐良浜地区の住宅(緑)








図10 佐良浜地区のお墓(緑)











図11 佐良浜地区の住宅(黄・赤)

結び

今まで、文献等では現在の佐良浜と南方漁業の関係性について明らかになっていなかったが、今回の調査を通して現在も佐良浜と南方諸島とは漁業を通して関わりが続いていたということを明らかにすることができた。それと同時に、佐良浜の人々の暮らしは、街並み、生活を含めて今も南方漁業を行っていた時代の影響を受け続けていることがわかった。
現在の南方漁業は縮小されつつあるが、佐良浜は今もなお、南方漁業と密接に結びついている。

参考文献
1.仲間井左六,2000,『パヤオ発祥の地 伊良部町漁業史』伊良部町漁業協同組合
2.仲間明典,2012,『佐良浜漁師達の南方鰹漁の軌跡』宮古島市地域おこし研究所
3.伊良部島ねっと http://www.irabuzima.net