関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

宮古上布の民俗誌 ―洲鎌ツル氏・池間吉子氏・宮古織物事業協同組合―

宮古上布の民俗誌
―洲鎌ツル氏・池間吉子氏・宮古織物事業協同組合
社会学部 0542 菰方育美

【目次】
 序章
  第1節 問題の所在
  第2節 宮古上布とは何か
 
第1章 洲鎌ツル氏―上布の里、下地で上布に従事するおばあ―
第1節 上布の里 下地
第2節 ライフヒストリー
第3節 マウガンとの関わり
(1) 洲鎌ツル氏のマウガン
(2) マウガンを感じたケース
第4節 真屋御嶽の祭祀
(1) 稲石祭
(2) 農業に関わる祭
第5節 「伝統の継承」をめぐって

 第2章 池間吉子氏―たて糸の産地、西原で上布に従事するおばあ―
  第1節 たて糸の産地 西原
  第2節 ライフヒストリー
  第3節 「伝統の継承」をめぐって
 
 第3章 宮古織物事業協同組合
  第1節 宮古織物事業協同組合の歴史と現状
(1) 歴史
(2) 現状
  第2節 組合と個人

 結び
  

序章
  
第1節 問題の所在
 沖縄県宮古島には宮古上布*1という伝統工芸品がある。大変価値のあるものとして知られる宮古上布は、最盛期では宮古島の女性皆が作るほど生活に身近であった。しかし現在は後継者不足により伝統継承が心配される。これまで宮古上布そのものに関する研究は存在したが、生産者側から見る宮古上布の研究は存在しない。そこで宮古上布を生産する人のライフヒストリーから伝統継承や変遷を調査することにした。以前と変わらず全ての作業を一貫して行う従事者2名のライフヒストリーから見る宮古上布と、宮古上布の伝統継承活動を行う宮古織物事業協同組合に現地で聴き取り調査した結果を以下で述べる。

  第2節 宮古上布とは何か
 宮古上布は苧麻(ちょま)という植物の繊維を使って織りあげた一反3000万円の最高級織物である。現在、黒砂糖、鰹節と並んで宮古島の三大特産物といわれている。1977年には沖縄県無形文化財に指定され、1978年には国の重要文化財に指定されている。作り方が細かく、一反を織りあげるのに約2か月かかる。
起源は約400年前で、栄河氏下地親雲上真栄の妻である稲石刀自(いないしとぅじ)によって創められたといわれている。稲石は夫の栄進に感激し、君恩に報いようと琉球国王への返礼として「綾錆布(あやさびふ)」*2という麻織物を献上した。これが「宮古上布」と呼ばれるようになるのである。宮古上布創製当初は、他に麻の細かい糸を使った織物がなかったために、大変価値のあるものだとされていた。また、手間もかかり高級品であったために琉球王国にとって大事な交易物であったのだ。上布の美しさゆえに「人頭税*3が施行された当時は宮古上布も課税され、上納布として人々を苦しめた時代もある。
宮古織物事業協同組合の組合員である武富暁代氏の語りを以下に述べる。人頭税当時は役人の監視の中で上布を作り、10回の検査に合格してやっと品物として認められるというほど大変過酷であった。本来人頭税は男性が納めるひえ・あわが正式物であったが、当時水が少なく、農作物がなかなか生産できなかったこともあり、女性が上布を織って代わりに納めていたということである。そのために宮古島では現在でも共働きやキャリアウーマンが多く、女性が強いとのことだ。人頭税廃止後は生活費や学費として人々の生活に根付くようになった。価値の高さゆえ、以前は上布だけで大変な収入になっていたらしく、子供を医者、弁護士、先生など高学歴の職に就かせることができたという。上布のおかげで宮古島は大変豊かになったのである。昭和初期までは上布の糸作りの技術を学校で教えていたために、多くの女性が上布に従事していた。また戦後は女性の仕事はなく、仕事をするならば上布を作ることしかできなかったこともあり、生活に根付いていたとのことである。
以下で宮古上布の作業工程を述べる。
 【宮古上布作業工程】
①糸づくり(苧麻の栽培→ ブー引き→ ブー績み→ 撚りかけ→ 整経)
②図案作成(図案作成→ 染色前の下拵え→ 手括り工程)
③染色(藍建て→ 藍染めor植物染色)
④製織(経糸の下拵え→ 緯糸の下拵え→ 製織)
⑤砧打ち作業(洗濯→ 砧打ち)
このような細かい作業工程を経てやっと出来上がるものである。


第1章 洲鎌ツル氏―上布の里、下地で上布に従事するおばあ―

第1節 上布の里 下地
 沖縄県宮古島市平良下地は、宮古島の南西部と来間島によって成る地域である。
上布創製者の稲石が宮古上布を始めた場所であることから「宮古上布の里」といわれている。それを示すものとして稲石を祀る「真屋御嶽」*4がある。伝統的工芸品産業振興協会によると宮古島内で苧麻手紡者が最も多いのが下地町であるとのことだ(伝統的工芸品産業振興協会 2004:18)。苧麻手紡者が多いということは上布を織るための糸がたくさん生産されるということであり、つまりは上布織の環境に優れているといえる。
 下地で宮古上布に従事する洲鎌ツル氏の語りの中で、下地に存在する「宮古苧麻績み保存会」の存在が明らかになった。原材料の苧麻糸は手績み技術者の熟練した手技から生まれるが、技術者の高齢化により上質な手績み糸が減少、宮古上布の保存伝承に支障を来すようになった。このような危機を脱するために2001年より技術保持者、苧麻生産者、行政担当者が協力し、保存会を立ち上げたのだ。2002年には下地、平良、城辺友利の3団体で宮古島苧麻糸連絡協議会が結成され、より宮古全域に広げるために現在の宮古苧麻績み保存会となった。1年に1回、1人に3万円の補助金が与えられ、1年に20日間糸績み講習を行っている。1グループは10名前後で、10グループで保存会は構成されている。12月末には1年の集大成として展示会を行うが、そのときには1人1つの糸、計100つ前後の糸が集結するとのことである。
 このように下地では未だに上布の里としての活動が行われている場所である。実際に下地を訪ねると、家の畑などあらゆるところで苧麻が栽培されていた。
図1 下地の苧麻畑  図2 真屋御嶽

図3 真屋御嶽を外から見た様子  
図4 洲鎌ツル氏
図5 宮古苧麻績み保存会の展覧会の様子              
   

 
第2節 ライフヒストリー
 数少ない宮古上布従事者の洲鎌ツル氏に出会い、多くの情報を得ることが出来た。まずは以下で洲鎌氏について述べる。昭和5年1月生まれの83歳。平良市下地町洲鎌出身で、宮古上布創製者稲石の直系の子孫、13代目にあたる人物である。上布に従事するようになったきっかけは、祖父母が苧麻栽培をしていたために苧麻が身近で会ったこと、稲石の家系であること、他に仕事がなかったことである。現在は「工房 藍風」にて制作活動を行っており、すべての工程を1人で行う優れた技術者である。
  
図6 工房 藍風
図7 工房 藍風の中の様子①
図8 工房 藍風の中の様子②


               
 幼少期は苧麻作りの家系で育つが、特に上布織りを継ぐことは考えずに過ごす。
第二次大戦中、高等2年であった洲鎌氏は空襲を経験し、さらに軍事工場で働くことになる。防空壕では糸績みをして過ごす。祖父母が糸績みをしていて身近であったため、洲鎌氏自身も糸績み技術を身につけていた。
戦後は輸出入がなく、自給自足の生活を強いられる。雇用される仕事がないため、自分でできる仕事をみつける必要があった。そこで身近である苧麻を使って、さらに発展させて糸作りを始める。織物組合に入会し、平良市内を歩き回り、上布従事者の技術を見よう見まねで習得する。その約2年後、自らの手で宮古上布を完成させ、ドル*5で買ってもらう。
 図9 洲鎌氏が初めて織った上布
結婚時期前後から、度々夢で「神の道に入るように」という神のお告げを聞くようになる。しかし、所帯もあるため「許して欲しい」と拒む。神の道に入れば、集中して上布に携われなくなるという思いも強かった。夫はサトウキビ栽培の農業をしていたため、洲鎌氏は農業と上布織りの兼業をして生計を立てていた。
現在、子供は息子2人と娘1人がいて、娘が退職を機に後継者になることが決まっている。普段はゲートボールを楽しんだり、真屋御嶽の管理をしたりしつつ、上布織りに携わっている。今後も出来る限り宮古上布を折り続けていく覚悟である。

第3節 マウガンとの関わり
(1)洲鎌ツル氏のマウガン
 宮古島にはマウガン信仰というものがある。マウガンとは守護神のことで、40〜50代くらいに個々で自分が帰依するマウガンを決め(マウガンを“供する”)、香炉を祀り置く。
 宮古上布織りの仕事がうまくいかないときは自分のマウガンが暴れているという。洲鎌氏は「マウガンに“邪魔される”」と表現していた。本人曰く、洲鎌氏のマウガンは守り、力が大変強いとのことだ。マウガンの力が働くときは、くしゃみ・しゃっくり・ゲップという合図がある。合図以外でもマウガンからのお告げの夢を見たり、なんとなく神を感じたりすることがある。創製者稲石は当時神と会話するいわゆるノロであり、人助けをしていた。その血が洲鎌氏にも引き継がれているのではないだろうか。洲鎌氏の香炉は那覇で購入したものであり、2012年の旧暦9月に香炉を作業所から本家に供している。その香炉を実際に見せてもらうことができた。洲鎌氏は3つの香炉を所持しており、左から順にマウガンの香炉、福の神の香炉、観音様の香炉と並んでいた。金色に輝く香炉はたいへん立派で、本人も誇らしそうに語ってくれた。マウガンの香炉の上には、実際に洲鎌氏が見たことのある自分のマウガンの絵が飾られている。この絵は洲鎌氏が画家に、自分が実際に見たマウガンの特徴を事細かに言って作らせたものである。
 洲鎌氏の語りによって、宮古上布と神信仰が関わっていて、上布を織る上で神が影響を及ぼしているということが今回初めて明らかになった。
  
図10 洲鎌氏の香炉(左からマウガン、福の神、観音様の香炉)
    
(2)マウガンを感じたケース
マウガンの人助け
「あるとき洲鎌氏のもとに、神ダーリ*6に苦しむ女性が近付いてきた。しばらくすると、すっきりした顔で女性は帰って行った。洲鎌氏のマウガンが威力を発揮し、その女性を助けたのである。」

神からの誘い
 「結婚する以前から夢で、カンカカリヤ*7になるべきだというお告げを度々聞いていた。しかし、仕事もあるし、所帯を持つようにもなるため、許してほしいと拝んで神の道へ入ることを拒み続けた。上布織りの仕事は集中力が必要であるため、神の道を究めているようではできないと思っていたからである。」

身内の不幸とマウガン
 「身内の不幸のときはマウガンが暴れ、邪魔をするという。体をおかしくしたり、吐き気で動けなくさせたり、仕事ができる状態では決してなかった。」

自然災害からの守り
 「20年前、家を建設していたときのことである。翌日風速60メートルの巨大台風が上陸するという予報がでたときに、夫や息子がいるにも関わらず、大工や設計士など30〜40名が吸い寄せられるように洲鎌氏のもとに相談に来た。洲鎌氏はひとまず台風対策をさせた。しかし結局台風は向きを変えて上陸せず、全く被害はなかったという。おそらくマウガンが守ってくれたのであろう。」

マウガンの顕現
 「悩んでいたときに“どうかマウガンをみせてください”と祈ったことがあった。その日すぐに夢の中で、長い衣装を身にまとった長い髪の女が現れたという。」

マウガンのお告げ
 「長男が代々の位牌をひとつにまとめようとしたときに、稲石の夫の位牌だけなくしてしまったことがあった。そんなとき洲鎌氏の夢にマウガンが現れ、本家の仏壇にとまり、頭のない鯛の姿を見せたという。おそらく本家の初代を捨てるとはとんでもないことだということを示そうとしたのだろう。その直後にお坊さんが亡くなるなどの不幸が立て続いた。そこで大金をかけてもう一度位牌を作りなおした。」

お叱り
 「農業に関わる祭の日取りを近所の人に聞かれた際に、“○月○日だよ”と教えた。その日の夢で神のマウガンの一声によって叱られたという。それからは日にちをはっきりと言わず、“暦を見ていらっしゃい”というようにしている。」

マウガンからの合図
 「出かけていると合図があったために、すぐに家に入った。家に入った瞬間に突然大雨が降りだした。このようなことはよくあることだ。」

第4節 真屋御嶽の祭祀
(1)稲石祭
 毎年11月30日に行われる稲石祭。人頭税が始まった当初から行われている、宮古上布に関する祭りである。真屋御嶽は下地町洲鎌にあり、稲石と夫の2人が祀られている御嶽である。管理は洲鎌氏が行っている。
午前中は真屋御嶽に上布にかかわる人々が御参りに行く。午後は平良市西里にある稲石の石碑に行って、お祓いをしたり、踊ったりして午後5時半くらいまでお祝いをする。ドル時代から平成一桁までは参加者は、宮古上布の着物を着て参加していたが、現在は着物を着ること自体が珍しいし、最高級品であるため堂々と着にくくもなっているとのことである。現在の参加者人数は50名程度である。以前は午前中の行事はなかったが、6年前にユタ*8の根間ヒデ氏が宮古織物事業協同組合に真屋御嶽に行くように諭したことから、それからは皆で行くようになったとのことだ。この点においても神の存在が宮古島や、宮古上布に根差していることがわかる。

 (2)農業にかかわる祭
 麦ブー(麦が採れた時期)、粟ブー(粟が採れた時期)にあいさつに行く。真屋御嶽の近所に住む農業者が訪ねる。訪れる日にちは暦で決められている。その日に自分が行けないからと、他の人に自分の分まであいさつを頼むのは良いこととはされていない。

第5節 「伝統の継承」をめぐって
 ドル時代は、宮古上布織りは価値ある仕事で高給取りの仕事であった。洲鎌氏曰く、友人は独身でも、宮古上布の仕事だけで家を建てることができたくらいであった。しかしテレビが普及して、文化や環境が変わったことで、上布は生活から徐々に離れていったのであろう。上布織りの減少原因としては他に、技術者の高齢化、上布のように手間暇がかかる仕事より楽な仕事が増えたことが挙げられる。現在では洲鎌氏のように宮古上布だけで生計を立てていける人はごくわずかで、下地では苧麻づくりは残っていても、織りをしている人は残っていない。洲鎌氏は代々続く宮古上布の伝統を守る責任を感じつつ、今後も織り続けていく。
 最近では他県から宮古上布の技術を学ぼうと訪れることが多くなってきた。しかし、学んだ後、本土に戻る人が多いという。洲鎌氏曰く、“宮古に住んで、宮古で継承していくからこそ伝統といえるのだ”。つまり、伝統はその地の人がその地で受け継いでいくものであるのだ。


第2章 池間吉子氏―たて糸の産地、西原で上布に従事するおばあ―
  
第1節 たて糸の産地 西原
 沖縄県宮古島市平良西原は、宮古島の北部に位置する。平良市史によると、1974年に池間島から73戸、伊良部島良浜から15戸が移住し、創られた集落である
(平良市史 1987:10)。分村の目的は池間島の人口増加に伴う移住である。平井によると、西原を移住地に選んだ理由は、湧水が豊富であったことだ(平井 2012:38)。
 西原は宮古上布のたて糸づくりの産地である。以前は各家庭に苧麻畑があり、栽培していたが、10年前あたりから減少し、現在も栽培しているのは今回お話を伺った池間吉子氏だけであるという。ただし苧麻績み教室というものがあり、ここで苧麻績みの技術を継承している。西原は苧麻績みや宮古上布の産地として栄えた時代からその面影はなくなり、人々も上布は高級な店での売り物という価値観に変化している。実際に西原を歩いてみても、苧麻畑は見当たらず、宮古上布として栄えていた頃の面影は見られなかった。

  第2節 ライフヒストリー
 西原で宮古上布に従事する、池間吉子氏に出会い多くの情報を得ることができた。まずは以下で池間氏について述べる。昭和12年11月生まれの75歳。宮古島市平良西原出身である。現在は「伝統工芸・宮古上布 西原織物」にて制作活動を行っており、すべての工程を1人で行う優れた技術者である。結婚して4人の子供がいるが、娘が池間氏の後継者になることが決まっている。
 幼少期は祖母が人頭税の世代であることから、宮古上布を織っていたことと、母が糸績みの名人であったことから、宮古上布を身近に感じながら育つ。母の時代までは西原の女性は宮古上布織りがたいへん身近な生活であった。
 池間氏にとって28歳が転換期である。それまでは子供を祖母に預けて保険セールスの仕事をしていた。仕事で平良市荷川取周辺を訪問しているときに、機織りの音が聞こえてきた。音のする方に向かっていくと数人の女性が宮古上布を織っていた。その中のある織り師が、自分1人で子供を医者と先生にしたという。また上布の織り手が3人いると3、4ヶ月で家が建つという話も聞く。それらの話を聞き、池間氏は一念発起し、宮古上布を作ることを決める。そこで織物組合の織子育成講座を6カ月受ける。その後糸績み名人の母の糸を使って、6カ月かけて初めての作品をつくり上げる。作品の検査の後1週間後に合格の知らせを受ける。そしてヤマコ―百貨店(やまこ百貨店)に買ってもらうことが決まったときには、たいへん嬉しかったという。当時368ドルで買ってもらうが、これはたいへんな大金であった。宮古上布を織かたわら、PTA活動や婦人会活動にも精をだす。
 47歳のとき、西原の「祭祀組織」であり、400年前から行われている「元島池間島」の神事であるナナムイ*9に入学する。池間氏は1年生で入学した際に、神クジ*10で中司に選ばれる。10年間一日も休むことなく神事に携わり、無心に神と語らう。57歳で無事にいんぎょう(卒業)を迎える。この10年間はナナムイと宮古上布を同時に行っていたので、最も苦しい時期であったという。
 ナナムイが終了すると宮古上布の販売不振の時代が訪れるが、洋裁を生かした洋服を取り入れたり、小物を作ったりと新作づくりをしてヒットを生む。そんなとき、夫が友人の連帯保証人になったことで借金を背負うことになる。たくさんの人に助けてもらったり、上布の収入を返済に充てたりして、借金すべてを返済する。精神的にも体力的にもたいへん無理をしての生活であった。
 60歳を迎えると、西原部落で60歳になると入会することになっている老人クラブ「西原みどりの会」に入会する。その仲間と日々楽しく過ごすが、夫の死、母の死と立て続けに不幸がある。母は98歳まで現役で苧麻績み教室の教師を勤め、100歳で亡くなる。池間氏は、その母の糸を昨年8月まで使い続けて作品を作っていた。
 現在は宮古上布保持団体で、琉球王朝時代に描かれた絣の図案である「御絵図柄」*11の復元に尽力している。宮古上布織りとクラブ活動に日々勤しんで楽しく過ごしている。池間氏曰く、苦労を経験してきたからこそ現在が楽しく、祈っていれば神が力を貸し、全て叶うのである。

図11 池間吉子氏 
図12 伝統工芸・宮古上布 西原織物
図13 伝統工芸・宮古上布 西原織物の中の様子 
図14 御絵図柄の復元作業
 
第3節 「伝統の継承」をめぐって
 上布織りが盛んで、上布が“生活の一部”とされてきた西原も、現在では変化して苧麻畑も残っていない。池間氏曰く、周りの友人もゲートボールやクラブ活動など新たな楽しみを見つけているから、苦行してまで上布に携わろうとはしないのであろう。今後は現代のニーズに合った“売り物”を作っていくことを考えている。
 他県から宮古上布の技術を学ぼうと訪れることが多くなってきたが、学んだ後本土に戻る人が多いという。池間氏曰く、“宮古人は宮古アイデンティティがあるし、宮古上布が身近であるから、宮古でずっと織りを続ける。その地に住む人がその地でずっと継承していくからこそ伝統であるのだ。”


第3章 宮古織物事業協同組合
  
第1節 宮古織物事業協同組合の歴史と現状
(1)歴史
 宮古上布に従事するようになって9年目の組合員、武富暁代氏にお話を伺った。
 1902年に宮古群織物組合として設立されたのが組合の始まりである。1944年に戦争のため一度解散するも、1946年には戦前携わっていた関係者を中心に宮古織物事業組合として再設立する。さらに1957年に業績不振により解散するも、1958年には現在の宮古織物事業協同組合として設立し、現在に至る。

(2)現状
 宮古島市平良にある宮古伝統工芸品研究センターにて活動を行っている。二階建てになっており、一階は展示物や商品が陳列されていたり、組合員が会議を行ったり、作業をしている様子が窺えた。二階ではベテランの組合員をはじめとして、主に研修生が機織り機を使って作業している様子であった。組合員は92名で朝9時から夕方6時まで作業している。事業内容としては、製品と原料糸の検査事業、供給事業、指導事業である。また製品の紹介や販売を始め、織物・藍染体験も行っている。このように組合では生産体制の維持や、伝統継承、品質維持に努めている。現在の年間生産量は、最盛期である1973年の10000反からは大幅な減少で、20反程度である。
 宮古上布従事者の激減の現状について武富氏は次のように述べる。主な原因としては、現在は多種多様な仕事があり、選べる幅が広がってあえて苦行をしようとしなくなったこと。また原料糸の生産従事者が減少したことである。原料糸の減少に比例し反数も減少するため、値段が上がり、売れにくくなることで従事する人も減っていくという悪循環であるのだ。また人々の価値観も変化してきた。以前は、宮古上布は身近なものであると同時に、高給取りでもあるため、人気かつ住民には一般的な仕事であった。現在は生計を立てることが第一という考えの中で、上布だけではなかなか生活できないという現実であるのだ。
 組合の事務局員である下里まさよ氏から宮古上布の生産体制について伺った。宮古上布は現在、宮古島の住民票がないと作れないという決まりがある。そのため他県からの従事者は住民票を移す必要がある。さらに平成8年に組合より特許申請がなされ、宮古織物事業協同組合でしか宮古上布の生産は認められていない。ただし、昔から織り続けている人は、上布織りは許されているが、宮古織物事業協同組合の調査では組合に入らず、現在も個人で織り続けている人は確認できないという。

  
]図15 宮古織物事業協同組合
図16 宮古織物事業協同組合の中の様子
図17 1階で組合員が作業する様子
図18 2階で研修生が作業する様子      
     
 


第2節 組合と個人
 “宮古織物事業協同組合”と、第1章の洲鎌氏や第2章の池間氏のように組合に入りつつも個人で活動している“個人”との比較を行う。組合は糸づくり、染色、織りなどのそれぞれの作業工程を専門的に行う分業性である。一方個人は、それらの作業を一貫して1人で行う全体性である。組合では多くが副業をしているのに対し、個人では宮古上布だけで生計を立てている。また新しく上布を習いに来た人は個人にではなく、組合で学ぶ。そのことからも組合は上布についての知識を学ぶ場であり、伝統継承の場である。一方個人は、宮古上布に関わるそれぞれの長い歴史と深いライフストーリーが窺える場である。


結び
 以上宮古上布従事者のライフヒストリーと伝統の継承についてについて調査した結果、ここでわかったことは以下の5点である。
1点目は、宮古上布の里と言われた下地では、現在でもそれが窺える苧麻畑の風景や真屋御嶽が存在するが、現在個人として宮古上布を生産しているのは洲鎌ツル氏1人である。
2点目は、洲鎌ツル氏の生活は宮古島の神信仰とたいへん密接に関わっており、宮古上布とマウガンとの関連性が発見できた。
3点目は、経糸の産地として以前は宮古上布で栄えていた西原は、現在では苧麻畑など上布関連の様子は見られず、個人として宮古上布を生産する従事者も池間吉子氏1人である。
4点目は、宮古島での後継者が激減している中、他県からの従事者が増えてきているが、洲鎌氏・池間氏共に宮古上布の伝統継承は宮古島に住む人がその地でずっと継承していくからこそ伝統といえるのではないかと考えている。
5点目は、宮古織物事業協同組合は伝統継承の場であり、それぞれの工程をそれぞれの職人行う分業性であるのに対し、個人従事者は全作業を一貫して行う全体性であり、上布だけの収入を立てている点が特徴的である。
特に注目したいことは宮古上布とマウガンの関連性である。宮古上布従事者の生活にマウガンという神の存在が密接に関わっており、マウガンが仕事を邪魔させたり、従事者を守ったり、御嶽に御参りに行ったりなど多くの関わりがみられた。宮古上布とマウガンという神の存在の2つの関連性についての発見は、これまでの研究で存在しない大きな発見である。


参考文献
1)伝統的工芸品産業振興協会, 2004, 『伝統的工芸品産地調査・診断事業報告書―宮古上布―』
2)平井芽阿里, 2012,『宮古の神々と聖なる森』新典社
3)平良市史編さん委員会,1987, 『平良市史 第7巻 資料編5(民俗・歌謡)』平良市教育委員会

*1:上布とは細い麻糸を平織りしてできるざらざらした張りのある麻織物

*2:苧麻を原料とした大名縞の紺染め

*3: 1637年から1903年まで宮古島で制度化された税制で、数え15〜50歳の男女が納税義務者とされた。

*4:神が存在、来訪する場所であり、また祖先神を祭る場所でもある。沖縄には各地で見られる。

*5:戦後1958年8月から1972年5月15日の本土復帰まで、米国統治下の沖縄であったため、円から米国ドルに通貨が変わっていた。

*6:沖縄では日常的に使われる言葉で、神からの試練により食べ物を受け付けなくなったり、幻視・幻聴・幻覚に襲われたりしている状態のこと

*7:宮古島で使われる言葉で神ダーリを経験して、神がかり(シャーマン)になった人のこと。霊的問題の解決を行う。

*8:「カンカカリヤ」と同義で沖縄では一般的にこちらが使われる

*9:西原の女性は46-48歳前後になると「ナナムインマ」という神役になる。神役になった女性は10年間にわたり村の祈願の中心的な担い手となる。平井によると、西原では年間48回の祈願(神願い)があるという(平井 2012:78)

*10:宮古島で行われる特別なクジ引き法。候補者の名前が書いてある紙をお盆に入れて、お盆を振って初めに落ちた紙に書かれてある候補者が選ばれるという方法。

*11:現在宮古島には当時の御絵図柄は残っていない