関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

海人草と伊良部島

海人草と伊良部島
                    社会学社会学科 23010150 竹中東吾

【目次】
序章
第1節 問題の所在
第2節 海人草とは何か
第1章 密漁・密貿易の時代
第1節 宮古島における密漁の歴史
第2節 プラタス諸島
第2章 伊良部島の生活
第1節 食生活
第2節 海人草
第3章 海人草の密漁・密貿易
第1節 密漁
第2節 密貿易
結び


序章

第1節 問題の所在
伊良部島良浜地区はカツオ漁などの漁業が盛んであり、それで島の生計が成り立っている。しかし過去には生活に必要な物資を得るために密漁・密貿易を行っていた。海人草は密漁・密貿易と深く関わっている海草である。伊良部島では過去にその海人草について密漁を行っていた。そこで私は虫下しとして使われていた海人草について調べてみることにした。
しかし、今回調査をするにあたり判明したことは今現在、実際に海人草を採っていたという人はもうほとんどいないということだった。漁は50年ほど前に行われており、今回話を聞くことが出来た人は、当時子供であり、海人草によって腹痛を治療していた人であった。

第2節 海人草とは何か
海人草とは暖流流域の海底やサンゴ礁に育つ海藻の一種である。海人草は一般的にマクリと呼ばれている。これの持つカイニン酸という成分が回虫の駆除薬の効果を持っている。
当時は貴重な薬として多くの地域で重宝していた。

〈図1: 海人草〉
私が伊良部島で海人草について調査するとき、なかなか海人草についての情報を得ることは出来なかった。宮古島の市場にいたおばあに特徴を説明したところ、それは『ナチャーラ』という呼ばれ方をしているということだった。それ以降、一度カイニンソウという発音で質問し、理解していただけなければナチャーラという発音で調査を行うことにした。結果、ほとんどの人が海人草のことを理解し、話を聞くことが出来た。

第1章 密漁・密貿易の時代

第1節 宮古島伊良部島における密漁の歴史
 1950年近く、沖縄県先島諸島では米軍の軍政が行き届いていない。また戦後で物資欠乏に直面していたため、物資の密貿易による流出を取り締まろうとしても、人々は必要な生活物資を強く求めていたため、おしとどめることは出来なかった。このように密漁・密貿易は1945年から1952年まで興隆した。石原昌家が提唱した、いわゆる「大密貿易」時代であった。
 海人草が獲られていたのは1945年〜1956年であり、ほとんどが大密貿易の時代と被っている。大密貿易の時代、米軍の領域管理は共産主義者への管理を除いてさほど厳しくはなかった。地元の警察や自治体も宮古の住民の事情を十分に理解しているということもあり、寛容だった。

第2節 プラタス諸島
伊良部島の佐良浜漁港で海人草を行った際、現地の人から海人草を獲っていたのはどこであるかを聞いたとき、シナという人とプラタスという人に出会った。このときに聞いた言葉より海人草を獲っていた場所は現在台湾と中華人民共和国の双方が領有権を主張している東沙諸島(プラタス諸島)だということが判明した。
終戦直後は、虫下しとなる海人草は貴重な薬草だった。プラタス島近海はその海人草の宝庫だった。
             (著:石原昌家 『大密貿易の時代 占領初期沖縄の民衆生活』)
 上の文献においても示されていること、現地の人たちの意見の意見も併せて東沙諸島であるということに間違いはないだろう。

〈図2:東沙諸島地図〉
 伊良部島の住民たちも他の地域と同じように東沙諸島まで船で行っていたということがわかった。

第2章 伊良部島の生活

第1節 食生活
 当時の人たちが海人草を必要としていた原因は主に食生活にある。昔の食生活は主食が米ではなく芋などを食べていた。米は高価な食べ物であったために祝い事や祭りのときだけしか食べることが出来ないほどだった。さらに芋は生で食べたりしていた。生芋などは当時殺菌技術が発達していなかったために、回虫などが多く潜んでいた。また、人の糞を豚の餌にしていたので人からでた回虫も豚が食べていた。以上のことより人はよく回虫によって腹痛を起こしていた。
 また、今の子供たちはサトウキビを生でかじることが少なくなってきている。今の子供たちがサトウキビをかじるとすぐにお腹を壊す。しかし、当時の子供たちはサトウキビを生でかじることは普通であった。その当時お腹を壊していたかはわからないが、なにぶん医者がいなかったのでお腹を壊すことを深く意識していなかったという。現地の人が言うには、昔は長い時間放置された生魚を食べても腹は壊さなかったという。最近の魚は腐りやすいそうだ。それが本当であるかの真偽はつかないが、昔は医者が充分にいなかったために病気としてみていなかったのではないかと考えられる。

第2節 海人草
海人草は伊良部島の人たちにとってはなくてはならない薬であった。伊良部島では海人草を獲りに行った人が近所の人や親戚に無料で配っていた。そのため、各家庭には常に海人草が置いてあった。海人草を使用するとき、海人草を湯がいて、その汁を飲む。腹痛になると家族の人がすぐに湯がいてくれたという。汁を飲むと1時間ほどで虫は対外に出され、腹痛も収まる。回虫は15㎝ほどの大きさで出てきたという。
さらに、当時海人草は全ての腹痛に効くと考えられていた。お腹が痛くなったら原因は関係なく海人草の出汁を飲んでいたそうだ。また、海人草は胎毒にも効くとされている。 
海人草が伊良部島においていかに重宝されていたかがわかる。


第3章 海人草の密漁・密貿易

第1節 密漁
海人草を獲るときはそのためだけにプラタス島へ行っていた。当時、移動手段として焼き玉エンジンであるポンポン船を利用していた。そのため移動は往復で1ヶ月もの日にちがかかった。さらに米軍に見つからないように遠回りをしていたのでさらに時間がかかった。プラタス島は当時中国軍の基地になっており、住民は住んでいなかったが兵士たちはいた。そこで収益の何割かを中国軍に渡して、操業を認めてもらっていた。ここでの漁は素潜りで行い、海人草を獲っていた。

第2節 密貿易
採った海人草は現地で売ったりもしていたが、聞くところによるとほとんどの人たちは沖縄本島に業者がいるのでそこに任せていたそうだ。現地で販売する際、売った海人草を自分達で盗みそれをもう1度売り、儲けていた。当時の伊良部島の人たちはどんなことをしても儲けてやろうと考えていたという。


結び
 今回海人草についての調査を行うにあたって、実際に漁をしていたという人はとうとう出会えなかった。しかし、今回の調査は失敗というわけにはならないだろう。何故なら、また時間が経つと海人草に関わっていた人もいなくなってしまうからだ。関わっていた人から聞くという手段が行えなければ、文献に頼るしかなくなる。完全にそうなる前に話を聞くことが出来たという点は良く捉えていいだろう。
 海人草は伊良部島に住む人たちにとって薬としての役割だけでなく貿易の商品であり収入源としての役割も果たしていた。海人草の存在は伊良部島の人たちにとって大きなものであったということが今回の研究を通してわかった点である。

参考文献
石原昌家,1982,『大密貿易の時代――占領初期沖縄の民衆生活』ルポルタージュ叢書25
河村 晋,2007,『海嘯の彼方へ』文芸社
小池康仁,2012,『琉球列島の「境界」をめぐる社会権力─ 第二次大戦後「密航・密貿易」を事例として ─』法政大学大学院
参考URL
木下靖子,2011『旅回りのテクネ―沖縄県伊良部島良浜地区、老漁師の語りから』生態人類学会,URL:http://ecoanth.main.jp/nl/17.pdf ,2012年12月3日アクセス
ゆっくりライフ URL: http://blogs.yahoo.co.jp/shima060511/42977829.html
Simple Tropical Green Life
URL: http://simplegreenlife.seesaa.net/article/205919758.html