関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

雛を建てる―愛媛県八幡浜市穴井・真網代の雛祭り―

雛を建てる ―愛媛県八幡浜市穴井・真網代の雛祭り−

呉 美里


【要旨】
本研究は、「真穴の座敷雛(まあなのざしきびな)」で知られる愛媛県八幡浜市穴井・真網代の雛祭りについて、特にその起源がある穴井に焦点をあてて実地調査を行うことで、それが文化・社会とどのような関係性の中で形成・発展してきたか、現在の課題を含めて検討したものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。


1.「真穴の座敷雛」は真穴地区(穴井区と真網代区の総称)全体で見られる雛祭りで、畳16〜20畳程の座敷に天幕や照明をあて、盆栽や桜の花などを用いて雛人形を飾り上げる様子からメディアにつけられた造語である。「真穴の座敷雛」は江戸後期から徐々に発展していった「穴井の雛祭り」に起源をおき、その“穴井式”の様式が真網代全体に普及したのは昭和40年代に入ってからのことである。


2.“穴井式”雛祭りの形式は1783年に創設された穴井歌舞伎に影響されて整えられたものである。穴井歌舞伎の舞台関係者がその舞台技術や美的感覚を雛祭りに応用し、座敷を舞台風に仕立て上げたのが好評となり、周囲に浸透していった。穴井歌舞伎は雛祭りの基盤となっただけでなく、「棟梁」(雛様建ての総指揮)「下前」(棟梁の弟子)「建てる」(座敷を庭園風に仕立てて雛人形を飾ること)「雛様建て」(「建てる」作業の全行程)などの各呼称にも影響を与えた。


3.穴井の雛祭りは明治後半から昭和初期にかけて相次いだアメリカ移民によって、質的・構造的に変化した。それは、高価な雛人形アメリカ人形などの「飾り物」、雛祭りの様子を収める「カメラ」、雛様建ての手法や作風に影響した「庭師(ガーディナー)」の経験に象徴され、アメリカ様式の「家屋の構造」は結果的に大規模な雛祭りを可能にし、穴井人に“家屋の構造が雛祭りを左右する”という認識を定着させるきっかけとなった。


4.昭和30年代以降、近代的な手法や作風が凝らされた「穴井流」雛祭りが確立されていった。中でも【雛壇設置】でミカンの木箱や漁網を使うのはいかにもこの地域の人々の暮らしの中から生まれた方法で、今では豪華な雛祭りも欠かせない【桜の花びら】は坊さん家系が“華やかさを抑える”ために始めたものだった。


5.雛祭りは戦中に一時中断され、戦後生活改善のために規制が敷かれた。穴井ではその規制はほとんど意味を成さなかったが、真網代では様式や広さの規制、人形の一括購入の取り組みが昭和後期まで続けられた。


6.穴井・真網代が「真穴村」「真穴地区」とひとくくりにされながらも、雛祭りにおいて、それぞれ異なった歩みを見せているのは、その起源や歴史、産業構造の違いによって色濃く分けられた人々の性格に起因している。


7.雛祭りが真網代ではなかなか定着しなかった要因として、世代間の関心の隔たり、戦後の生活改善グループによる規制があげられる。“後発”である真網代では雛祭りに関心を寄せるはずの大正・昭和世代より、戦後に生まれた世代の関心がより強く、家族・親族の協力がものを言う“穴井式”の開催は難しかった。(穴井には“穴井流”の手伝い方というのもある。)


8.家屋の建築様式によって雛様建てがもたらす生活への支障は大きく、特に道幅が狭く、傾斜が急な真網代では作業する側と見物する側両方の不便を解消する「倉庫雛」の軒数が増加している。


9.少子高齢化は「真穴の座敷雛」の継続を危うくしている。特に穴井では就職口がないために若者が県外に進学後そのまま就職・結婚する場合が多く、それによって初雛をする・しないの“選択”をしなければならない状況がうまれてしまった。(伝統的に長女が生まれたら初雛をするのが当たり前の認識であった。)


10.ミカン農家が大半を占める真網代では“高齢化するミカン業の助っ人”と銘打って「ミカンアルバイター事業」が創始されたが、実は“未来の奥さん探し”という思惑もあり、都会の若者のニーズと見事に合致して、少子化対策に確かな手ごたえを講じている。“本家”であるはずの穴井は少子化の流れを食い止める手立てがなく、雛祭りは現在真網代の台頭によって支えられている面は否定できない。


11.「真穴の座敷雛」が全国的に認知されていく中で、自分たちの雛祭りが「座敷雛」であることを知り、その希少価値を認識するに至ったが、それは雛祭りのさらなる発展に影響した一方で、棟梁間・各家の競争心をエスカレートさせ、結果的に家主の経済的・精神的負担を増加させた。また、観光化の中で生じた問題の一つ「“出前型”座敷雛」は棟梁間の意識の隔たりを浮き彫りにし、雛祭りの本来の意義や価値を再考させる起因となった。


12.文化財として後世に残していくべく、両地区で「様式の統一化」をはかり、認識の隔たりを埋めていこうという動きがあるが、一方で観光化の中で絶えず客足を掴んでおくべく、各棟梁の流儀と新たな手法が施された「個性化」も進んでいる。


13.棟梁の役割はかつてない程高度化し、後継者の育成は容易ではなくなった。少子化によって初雛の軒数自体が減少している昨今では下前として経験を積む機会もなかなかない。



【目次】

序章 問題と概況――――――――――――――――――――――――――――1
 第1節 問題の所在‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1
 第2節 穴井・真網代の概況‥‥‥‥‥2
  (1)穴井・真網代八幡浜‥‥‥‥2
  (2)穴井の起こり‥‥‥‥‥‥‥‥4
  (3)生業‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5
 第3節 穴井・真網代の雛祭り‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6
  (1)雛祭りの起源‥‥‥‥‥‥‥‥6
  (2)雛祭りの方法‥‥‥‥‥‥‥‥8

第1章 穴井歌舞伎から雛祭りへ―――――――――――――――――――――18
 第1節 伊勢踊り‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥18
  (1)穴井の伊勢踊り‥‥‥‥‥‥‥18
  (2)伊勢踊りの形態・方法‥‥‥‥19
  (3)伊勢踊りの現在‥‥‥‥‥‥‥20
 第2節 穴井歌舞伎‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥21
  (1)穴井歌舞伎の始まり‥‥‥‥‥21
  (2)芝居小屋としての公民館‥‥‥23
 第3節 歌舞伎から雛祭りへ‥‥‥‥‥24

第2章 アメリカ移民と雛祭り――――――――――――――――――――――32
 第1節 アメリカ移民と穴井‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥32
  (1)移民送出の歴史‥‥‥‥‥‥‥32
  (2)密航の開始‥‥‥‥‥‥‥‥‥34
  (3)穴井の海外渡航‥‥‥‥‥‥‥35
  (4)萬歳講‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥37
  (5)アメリカからの帰国‥‥‥‥‥39
 第2節 雛祭りへの影響‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥48
  (1)飾り物‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥48
  (2)家屋の構造‥‥‥‥‥‥‥‥‥51
  (3)庭師‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥53
  (4)カメラ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥54

第3章 戦後の雛祭り――――――――――――――――――――――――――63
 第1節 戦中の中断と戦後の再生‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥63
 第2節 穴井と真網代‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥64
 第3節 棟梁制の確立‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥68
 第4節 「穴井流」の確立‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥70
 第5節 倉庫雛の発生‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥74
 第6節 初雛の選択‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥75

第4章 観光化の中の雛祭り―――――――――――――――――――――――81
 第1節 「座敷雛」の発見‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥81
 第2節 雛祭りの文化財化‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥82
 第3節 見せるための雛祭り‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥84
  (1)様式の統一化と個性化‥‥‥‥84
  (2)見やすさの追求‥‥‥‥‥‥‥87
 第4節 継承をめぐる課題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥89

結語―――――――――――――――――――――――─――――――――――96
文献一覧―――――――――――――――――――─――――――――――――100




【本文写真から】


穴井部落全景


平成23年の雛祭り(穴井)


大正3年の雛祭り(現存最古、親族がアメリカ移民)


穴井歌舞伎の公演の様子(穴井公会堂にて)


【謝辞】

 本研究は八幡浜・穴井を中心とした地元の方々の協力のおかげで無事に進めることができました。特に、第1回・第2回にわたり時間の許す限り筆者の研究にお付き合い頂いた菊池勝徳氏。菊池氏の存在なくしては穴井に辿りつくことさえできませんでした。第1回でお世話になった宮本洋平氏、西中智子氏、八幡浜本舗の皆さん。皆さんの町を思う情熱と気さくで温かい人柄に心動かされました。西中智子氏と旦那様に連れて行ってもらった八幡浜ちゃんぽんの味が恋しくてたまりません。穴井に初めて訪れた日に坂本恵・孝子夫妻と出会うことができたのは運命としか言いようがありません。貴重な資料やアメリカ土産、ディサービスに通うおじいちゃんおばあちゃんとの会話の中から多くのことを発見しました。恵氏、孝子氏、そして娘さんとの楽しい晩酌は忘れられません。薬師神郁子氏には終始面倒を見て頂きました。寝床の調整、食事の準備に資料提供、子網代・真網代方面に取材に行く際にもつなぎ役を買って出て下さいました。敬篤氏、奥様、愛らしい嘉則くん、何度もご自宅に上がらせてもらい、最終日に送別ディナーにも呼んでもらいました。井上為雄・サヨコ夫妻にも大変お世話になりました。為雄氏は故二宮伝蔵氏を「穴井の生き字引」と呼ばれていましたが、私にとっては為雄氏が生き字引といえる存在です。サヨコ氏がふるまう郷土料理はどれも本当においしく、特にあの団子のレシピはぜひとも伝授してもらわねばなりません。好見ミユキ氏と姉妹のように仲の良い水地イワ子氏とのお茶会、餃子パーティは時間を忘れるほど楽しく、有意義でした。ミユキ氏のライフストーリーは研究の貴重な材料になっただけでなく、私の人生においても多くの教訓を得ました。山下重徳氏は穴井文化を代弁する一人であり、座敷雛研究会会長として穴井の雛祭りの継承を誰よりも考えている人です。ご自慢の「GONZO」に乗船させてもらい、宇和海に出ました。そこから見た絵に描いたような真穴の街並み、三崎半島に沈む夕日は今も脳裏に焼き付いています。そのほか、

須賀利昌氏、須賀久磨子氏、薬師神良昭氏、山内氏、中田菊男夫妻、山下重徳氏奥様、中田テル子氏、坂本輝子氏、高田夫妻、小家野直一氏、小家野佐津子氏、二宮長治氏、富永鶴光氏、中広光孝氏、薬師神速雄氏、水地嘉代子氏、古能美鶴氏、山内泰幸氏、井上キワ氏、井上五郎氏、三好律氏、薬師神カネ氏、柿内睦美氏、藤原和香子氏、藤原貞枝氏、藤原ツルコ氏、藤原福久氏、松浦有毅氏、矢野哲氏、穴井天満宮、福高寺、和田屋、朝日錑子工場、真穴地区公民館、穴井区公民館、長命会、真穴カルタ会、真穴座敷雛保存会・研究会、真穴青果共同農業組合、JAまあな、八幡浜市立図書館、穴井消防団、カラオケ同好会(水曜会・木曜会)、婦人会の皆様にもご協力頂きました。

この場を借りて、関わった全ての方々に心より感謝申し上げます。