関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽まつり―神社のまつりとまちのまつり

中川 保代

はじめに

 小樽市には約16の神社がある。毎年5月中旬から各神社で毎週のように例大祭が行われ、なかでも水天宮神社、龍宮神社、小樽総鎮守住吉神社例大祭は小樽三大祭りと呼ばれている。三大祭りのトリを務める住吉神社例大祭は毎年7月14日、15日、16日に行われ通称「小樽まつり」と呼ばれ世代を超えて多くの人でにぎわう。
一方で地域の活性化を目的として作られた「おたる潮まつり」は毎年7月の最終週の金・土・日曜日に行われ、こちらも小樽市を代表とするまつりとして毎年大きな盛り上がりをみせている。
本研究では、「小樽まつり」として古来より地域の守護安全を祈願し続けている神社のまつり「住吉神社例大祭」とまちのまつり「おたる潮まつり」について取り上げ時代のなかで変化するまつりとそこに携わる人々や環境を読み解いていく。

1章  小樽総鎮守住吉神社例大祭

(1)小樽総鎮守住吉神社の御由緒
 
 元治元年(1864年箱館八幡宮神主菊池重賢より「ヲタルナイ」「タカシマ」両場所の総鎮守として、住吉大神を勧請すべく箱館奉行所に出願し寺社奉行所掛合い済みの上、慶応元年6月ヲタルナイ運上屋の最寄りの地へ勧請奉祓する事を許された。慶応2年、本陣付近に適当な社地の下付方を願い出、幕府はヲタルナイ役所詰の幕吏に命じて小樽港へ入港する所船に賦役して本陣下の渚汀の埋立てを行い、社地を造成する事とした。明治元年御神体は社人加藤右京に譲られて箱館を発向し、同年8月3日到着、御鎮座祭ならびに「ヲタルナイ」「タカシマ」両場所の静謐記念祭を執行した。同年厳島社から量徳町二十八番地に移転、明治八年郷社に列格。従来、墨江神社と称していたが明治25年1月住吉神社と改称した。
 明治31年6月現地への遷座の許可を得て、翌32年造営がなった。明治39年11月県社に昇格、昭和30年神社本庁別表神社に指定され、同46年7月鎮座百年を記念して社殿を改築した。平成9年鎮座百三十年を記念して、道内最大級の神輿「百貫神輿」の修復をした。平成19年鎮座百四十年を記念して、神輿五基・馬車一台を奉安する神輿蔵を建設した。

 例大祭(通称 小樽まつり)
 明治、大正時代は札幌と函館とともに北海道三大例祭の一つに列された住吉神社例大祭
「五穀豊穣・産業繁栄・市内平安」を祈る例大祭は7月14日・15日・16日の3日間、全市的な盛り上がりの中、盛大に斎行される。特に神社周辺では数多くの露店が立ち並び、15日夜の「百貫神輿御幸渡御」や、明治21年から伝わる「太々神楽奉納」など老若男女氏子の心が一つとなり、小樽人魂を垣間見ることが出来る。
(以上は2010年9月15日訪問時にいただいた小樽総鎮守住吉神社のパンフレットより)

(2)なぜ「小樽まつり」と呼ばれたのか
 数多く存在する神社の例大祭の中でなぜ住吉神社例大祭が「小樽まつり」と呼ばれるようになったのだろうか。小樽総鎮守住吉神社へ訪問しお話しを伺った。

宮司星野昭雄氏の語りより

北海道開拓使の政策
当神社は北海道内の神社の社格としては第3番目の地位にあります。筆頭は北海道神宮、第2位は函館八幡宮です。昭和20年まで神社は国の管理下にありました。6月15日は北海道神宮、7月15日は当神社、8月15日函館八幡宮と北海道の一番良い時期6月から8月の15日に三大神社の例祭日を開拓使庁が意図的に当てたと思います。明治・大正時代、この3つの例祭を北海道三大祭りと称しておりました。
② 小樽経済状況による
明治大正時代の小樽市経済、年内で一番繁忙していたのが6月から7月にかけてといわれております。此れは、北前船が荷を降ろし、鰊から加工されたミガキ、油、糟などを積み込等、景気、取引売高が一番良い時期とも言われております。町として一番景気が良い時期に大規模の例祭を行うことが、また新たな社会純益をもたらすと考えがあったと思います。
③ 風俗的としての考え
その町を代表する例祭を「◎◎祭り」と称しております。(余市や岩内も)北海道神宮も昭和39年までは札幌神社でありました。必然的に町を代表する神社の例祭を、市町村の名前を取って言われたものと思います。

 権禰宜川端克征氏の語りより
「明治中期ごろに地域の人々から自然と小樽まつりと言われるようになったと思われます。それほど例大祭は当時の人々にとって馴染み深いものだったと思います。」

 以上の語りに加え様々な文献などの情報からも同様の内容を読み取ることができ、昔から市民の人々にとって住吉神社例大祭は「小樽を代表するまつり」として親しまれていたようである。
そこで市民約30人に「小樽まつり」のことについてお話を伺った。私が「小樽まつりについて伺いたい」と尋ねると驚くべきことに必ず人々の一言目が
「おたる潮まつり」のことですか?
という返答が返ってきた。話しを進めると、おたる潮まつりは花火やイベント、観光客も多く非常に盛り上がる夏の風物詩の一つになっているとのことであった。住吉神社例大祭のことを伺うと「住吉さん」や「例大祭」などおっしゃられて、通称とされている「小樽まつり」という言葉を聞くことはなかった。更に話を進めていくと、以下のような語りがあった。

「昔はよく行ったけど、今はあまり行かない。昔の例大祭に比べて今はどこか寂しくなった気がする。おたる潮まつりは毎年市外からたくさんの人が来てイベントとかしていて非常ににぎやかだね。」(80代女性)
「今の例大祭より昔の例大祭の方がとてもにぎやかで楽しかった。潮まつりは毎年花火が上がったりして毎年孫が楽しみにしている。」(70代女性)
 ここで2つの疑問が浮かんだ。1つは、現在、市民にとっての「小樽まつり」とはおたる潮まつりの認識が強いのではないだろうか。そしてもう1つは昔の例大祭を知る人々の意見から、昔と現在の例大祭には一体どのような違いがあったのだろうか。そこで、2章では戦前から現代まで時代に沿って住吉神社例大祭の変遷を辿り、研究を進めることにする。

2章 時代とともに変化する住吉神社例大祭

(1)戦前(明治初期〜1945年ごろまで)
 小樽住吉神社例大祭の特徴は「御神輿、奴行列、御神馬」である。御神輿は大正時代中期に作成された百貫神輿(重さ約375キロ以上、幅が約1.6m、高さは約2m)、海上神輿と2基の宮神輿があった。当時小樽ではニシン漁が盛んだったため、人夫などの力に自信がある人が中心に神輿を担いでいた。なかでも海上神輿は特徴がある。ハシケと神輿に4つの足をはめる仕掛けがあり波が来ても固定され渡御出来るようになっている。そして神輿をハシケに乗せて、銭函張碓の沿岸で、7月14日の夕方から16日までの3日間行われた。ハシケで色内を出発し、祝津を経由し、銭函のお旅所で1泊する。15日は張碓に向けて出発し、その後朝里、東小樽、手宮と渡御、手宮のお旅所で1泊し、16日は再乗船してオタモイの幸町まで行った。海上神輿を通して神様に豊漁を感謝し、祈願していたようである。また陸上渡御では各町内会の若者が担い、ある町内会から次の町内会へと神輿が受け継がれて小樽市の隅から隅まで神輿渡御を行った。

(鄯)当時の住吉神社例大祭の参加者―越後久司氏の語り
 また住吉神社の近くにある花園町では当時「喧嘩神輿」が行われ町神輿を担ぎ例大祭の筆頭を飾っていた。当時「喧嘩神輿」に参加されていた越後久司氏に当時のお話を伺った。

例大祭が行われる3日間はもうドンチャン騒ぎでした。この3日間は神様と人間が一緒になり、神様が乗っている神輿をまつり好きの力自慢が集まって全力で担ぎました。また町内では町内会への寄付金が少ない人や消極的な人の家の前に神輿を置いたり、神輿を回したりして困らせ、寄付金を払わせたりしました。そうすることで町内を清めていました。本当ににぎやかだったのですが怪我人も出ました。神輿の上に乗るなどして神様に罰が当たるような行為をした人にはひどい怪我をしていましたが、そんなことをしなければ無茶をしても不思議とそこまでひどい怪我はなかったんです。きっと神様が守って下さっていたのだと思います。私にとって神輿を担ぐことは本当に誇りを持っていました。また奴行列ではお化粧した奴さんや行列の道案内役に天狗の面を付けた猿田彦、そして御神馬は幕を張っている商店に入って1年の繁盛を祈ったり、馬が境内の階段を駆けあがったりと日常生活とは全く違う世界が広がっていました。例大祭は1年の中での楽しみでした。」

 当時を振り返りながらとても楽しそうに話されている姿に、当時の楽しそうな雰囲気を想像することができ、感じることが出来た。またお話しの中には当時の神様に対する市民の敬意を表す行動を伺うことが出来た。
「当時、渡御のときに自分たちの家の前に来ると市民は神様を見下ろすことのないように2階にいる人は下に降りて神様より低い位置で見ていました。しかし、時代の変化とともにマンションなど高層建造物が増えそのような習慣は自然になくなり神様や神輿に対する人々の関心が昔に比べ薄くなったように感じます。また喧嘩神輿で使われていた神輿(四神神輿)も担ぎ手が不足し破損もひどく住吉神社へ町会から寄贈しました。」

 当時の人々にとって神様は身近な存在であり例大祭は1年の中で特別な日であった。また神輿を担ぐことに誇りを持ち盛大に行われていたようである。当時の例大祭を知る市民の方にもお話しを伺った。

「昔は露店が非常に多かった。歩いても歩いてもどこまでも続いてる気がしていて本当に楽しかった。」(80代女性)
「1年の中で例大祭の日は気持ちが高ぶって本当に楽しみで、家に食事と寝に帰るくらいでずっと外に出て露店を楽しんでいた。また歩いているとたくさんの人々に会えることが嬉しかったし楽しみだった。」(70代女性)

 以上のことから、当時の人々にとって住吉神社例大祭は神様に感謝をする大切な行事であった。そして神輿を担ぐことで町内を清める重要な役割を果たし町内の活性化をも担っていた。また神輿以外にも露店やにぎやかな雰囲気は1年の中で人々の楽しみの一つだったことを感じることが出来た。

(2)戦後(1945年〜1975年ごろ)
GHQ神道指令により神道が廃止され住吉神社も影響を受け、神輿を担ぐ環境などが失われた。更に戦後の小樽市内の人口、経済の動きが著しく変化し例大祭に大きな影響を及ぼすことになる。また、海上渡御は1963年から行われなくなり各町内会で行っていた陸上渡御もトラックへ変更され、露店も交通規制などの影響で縮小された。このように例大祭は時代とともに大きく変化をしていく。研究を進めていく中でわかった主な変化を以下にまとめる。

(鄯)小樽から札幌へ―人、モノ、金の流動
 戦後、小樽の人口、モノ、金が徐々に札幌へと移り変わっていく。終戦により、小樽の経済基盤が回復したが戦後の太平洋岸重視の政策により経済が日本海側から太平洋側へと移る。1956年ごろから在樽商社などの撤退が始まり、1961年には八行の都市銀行等が撤退した。そして特に1963年ごろから列車が札幌起点になった影響により札幌移動が始まった。このように経済が動き始めると人の動きも次第に動き始めた。小樽市の人口の変化は
1955年は18万8448人、1960年19万8511人、1963年20万6660人、1965年19万6771人、1975年18万4406人(小樽市史:1993:20、1994:26参照)
と1963年をピークに減少傾向に変化したのである。

 伴天や提灯などまつりに使用される道具等を製作し、戦後の小樽や神輿の復活、またおたる潮まつりなどに携わっておられる旗イトウ製作所伊藤一郎氏にお話しを伺った。

「1年の楽しみといえば、お正月、盆暮れ、花見、運動会、まつりでした。例大祭は市民全体が交流する場であったしまた戦後は引揚者の市場や備蓄米や生ゴム、バナナを運ぶハシケの浜人夫さんも多く本当にたくさんの人でにぎわいました。そのようなにぎやかな雰囲気が戦争で傷ついた人々の癒していた部分もあったと思います。また小樽は戦時中大きな爆撃にあっておらず成り金がまだ健在で、そのせいか露天商が全国から集まり花園から奥沢へ国道5号線沿いに立ち並び恐ろしいくらい威勢が良く、小樽全体が元気でした。しかし、経済が札幌へ移ると人口も移動するようになりました。1963年頃は集団就職で1000人程、毎年小樽に迎えていたのに翌年から1000人単位で見送る側になりました。」

 お話しを伺うなかで、まつりが人々に癒しを提供し、戦後のまちを元気づけ1年の中でとても大切な行事であることを感じた。同時に当時の人口の移り変わりの激しさを実感した。

(鄱)監視の強化と露店の減少
 経済の衰退とともに周りの制度や環境も変わっていく。商店街で小樽酒商たかのを営んでおられ、当時から例大祭やまちの変化を見てこられた高野泰光氏は語る。

「1975年ごろから学校などが子どもへの教育にうるさくなり始めたように思う。昔からまつりには喧嘩や酔っ払いがいることが普通であったし、それがまつりの付物みたいなところがあった。しかし、夜回りなど警備が厳しくなると昔のようなにぎやかさは無くなっていったのではないかな。また子どもたちの娯楽が昔はまつりぐらいしかなかったけど今はゲームやカラオケなど娯楽施設も多くなったために子どもたちのまつりへの関心も昔に比べて薄くなってきていると感じる。交通規制や警備の強化から露店の出店場所も国道から境内へ移動し縮小したし色々なことからまつりのにぎやかさは失われたように感じます。」

 1975年ごろから学校改正が活発になる小中校長会、教頭会、PTA全国協議会など八団体が「日本教育会」を結成し、「教育の正常化」を提唱で、今まで以上に親や教師が教育を厳しくし始めた。またかつては例大祭の日は学校の休日であったのが無くなり、また夜回りなどの監視や警備も強化し始めた。更に露店は交通規制等で減少していく。時代の変化から今までまつりの楽しみとされていた部分が消えていってしまったようである。

 そして主催者側の視点から当時の例大祭について星野氏に伺った。

「人口や経済の動きは例大祭にも大きく影響しました。人々が札幌に流れ人口の減少から町内会が機能しなくなり港の衰退で力が強い人夫さんも減少しました。その影響から渡御が人の手では出来なくなりトラックに神輿を乗せて渡御をするようになりました。」

 人口の減少は例大祭に大きく影響したようである。日程を人が集まる週末に変更されないのか伺うと

「我々にとって例大祭はあくまで神様のためであり簡単に変更することは出来ない。」

と断言された。
 私の人が集まりさえすれば例大祭が昔のように行われるという考えは浅はかだった。私は研究を進めていく中でいつの間にか例大祭の周りで起こっている環境の変化しか見ることが出来ず、例大祭の本来の意味を見失っていた。時代の変化で周りの環境は変化していくがいつの時代も本来の意味である「神様」への祝祭であることは変わらないのである。


(鄴)現代(1975年以降〜)
 これまでのお話しや研究から戦後の例大祭は時代の大きな変化により戦前のような盛り上がりは失われまた小樽市全体の活気も無くなっていった。また人々の神様や神輿への想いも昔に比べ関心が薄くなってしまったようである。このような状況の中で市民の人々が自分たちで小樽を盛り上げたいという想いから地域活性化を目指しておたる潮まつりが企画され、そのおたる潮まつりで1982年には戦後担がれず眠っていた百貫神輿が担がれるようになった。当時を伊藤氏は語る。

「たくさんの人々の担ぎ手が全道から集まって復活しました。担いでいる人たちの衣装は柔道着や伴天などバラバラでしたし、神輿も修理を条件に貸出して頂きました。」

 この後に百貫神輿の修復作業が行われ1997年に完全復活を遂げた。神輿に使用されている飾りは小樽の神仏具職人の方々が精魂こめて作られ磨きをかけるなど立派に再生された。現在は例大祭に全道からみこし会や例大祭の参加者が担ぐ。毎年例大祭住吉神社での行事等を運営や支援していらっしゃる住吉神社氏子青年会会長小西誠一氏は語る。

「毎年13日から準備を始め当日は渡御や神輿の組み立て等と忙しくしています。14日は四神神輿を一般人の希望者約150人が自由に担ぐのですが最近は海外の人もたくさんおられます。また15日は百貫神輿を全道から約500人のみこし会の人々によって担がれます。どこのみこし会かわからないほど非常に多くの人々が集まり皆さん本当にまつり好きでにぎやかです。時代が変化し、昔に比べて世代の変化から神様や神輿が昔に比べ人々との距離があるように感じています。しかし現在は例大祭を通して多くの人が神輿と触れ合うことで町と神社との仲介役としてこれからも大切にしていきたいですね。」

 戦前・戦後を経て小樽市が人、モノ、金で大きく変化し、また例大祭も大きな影響を受けた。戦前は市民が神様や神輿へ特別な想いがあったが、戦後になると例大祭を支えていた人々が減少し渡御も人からトラックになるなど神様や神輿と人々との関係は戦前に比べて薄くなりつつあった。しかし市民自らが小樽を元気にさせたいという想いから百貫神輿が復活し今では毎年多くの人によって担がれている。
そしてこれまでの話しでも多く取り上げられたおたる潮まつりも市民自らの声などで誕生し地域活性化を目的にしたまつりである。3章ではまちのまつり「おたる潮まつり」の背景を追っていく。

3章 おたる潮まつり

(1) おたる潮まつり誕生までのイベント史

(鄯)みなと小樽商工観光まつり
昭和31年の北海道博覧会小樽会場での成功から今後の小樽の活性化と観光事業の振興を図るための方策を検討すべき声が多かった。従来夏の行事として「港まつり」(昭和25年第1回)「復活全国花火大会」(昭和28年第1回)「北海道工業品共進会」(昭和25年第1回)、また「物産展」など外来客誘致のシーズンである盛夏に集中して実施する声が多く企画されたのがこの祭りであり昭和34年から昭和41年まで8回連続続き、小樽の商工業の宣伝に貢献した。
(鄱)みなと小樽商工観光まつりの反省と再出発―潮まつりへ
しかし市民の総体的評価は「総花式の行事のオンパレード」「小樽の特徴が生かされていない」などきめ手を欠いたまつりに批判の声も多かった。
小樽商工観光まつりの準備委員会でも転機を乗り越えようという意見で一致し、マンネリ化した頭を切り替える必要があるとして、「潮まつり」が開催された。
(鄴)おたる潮まつり
趣旨は、小樽市は三方を山に囲まれた天然の良港によって、繁栄の基礎が築かれてきたが、今日急速な時代の進展に即応して、港は新たな体制を整えることによって、将来に向かって一大飛躍を遂げるものであると考えられる。
「潮まつり」はこうした時点にたって、小樽の経済発展の原動力となる海への20万市民の限りない感謝の心を、誇りと願いを率直に表す祭りとするとともに、海、山、温泉と多彩な観光資源に恵まれているわがまち小樽を内外に大々的に宣伝し、多くの観光動員を図ることである。構想は小樽の特異性を生かし、長期的な発展を期することができるもの、行事は総花的でなく、「潮まつり」を中心行事に決定して焦点に置く。街ぐるみ、老若男女20万市民が一体となって楽しめるもの。以上3つの観点を基本にまつりの構想をまとめた。
名前の由来は海に育ち、海に生きる小樽市民の燃えるような意気と気概を「潮」のしぶきのイメージで表現したもので、動的な流れ、いわば躍進する郷土の明日のために考えついた名称である。
小樽市総合博物館でいただいた資料と伊藤氏の語りより)

 当時を伊藤氏は語る。
「今まで例大祭は特定の篤志家が盛り上げてくれていたが、時代と共に小樽が衰退していくと、神社側から地域を盛り上げるという部分が弱くなっていました。1966年、小樽青年会議所OBが中心となり本州各地の復活祭やリオのカーニバルを分析し、市民の総力をあげた商業イベント型の潮まつりが考案されました。」
 2010年で44回目を迎えたおたる潮まつりは毎年7月の最終週の金・土・日曜日と人が集まりやすい日程に設定されている。内容は多様なイベントやコンサート、そしてメインの「潮ねりこみ」では小樽市内外の企業や団体などでチームを結成し、市街地を「おたる潮音頭」「潮おどり唄」を踊りながら練り歩き参加者は約6,000人(2009年)にも上る。
また約2500発の花火も打ち上げられ新たな小樽のシンボルとして毎年にぎわっている。来場数はここ10年間での最高は2006年の約125万人で2009年は最高には届かないまでも約94万人が訪れた。
市民の方におたる潮まつりについて伺った。
「毎年たくさんの人が訪れて花火も上がるしイベントもたくさんあるし本当に盛り上がる。」(50代男性)
「おたる潮まつりは夏の風物詩の一つで休日だから多くの人が来る。1年の中でも小樽が元気になる行事だね。」(40代男性)

「盛り上がる」「たくさんの人が来る」お話しを伺う中で皆さんが共通しておっしゃられていた言葉である。おたる潮まつりは市民にとって小樽市の欠かせない夏の風物詩になっており、小樽を代表とするまちのまつりであると感じることが出来た。そして今後のおたる潮まつりについて伊藤氏は語る。

「毎年多くの人が訪れて44年間続けることが出来た。しかし一方でマンネリ化とも聞くが、潮まつりは日々『新』を大切にしておりその伝統を毎年受け継いでいる。今後、新たなイベントを若者の英知を駆使しながらどんどん発信し実現してもらいたい。そして次世代により楽しいおたる潮まつりを受け継いでほしい。」

 まつりは時代の変化を受けやすい。そのなかでおたる潮まつりは今後どのように発展していくのだろうか。今後の動きに是非期待したい。

4章 まとめ
(1) 「小樽まつり」は小樽代表のまつりを表し、市内最大の神社である住吉神社例大祭の通称として明治の中期から呼ばれるようになった。しかし時代が変化し、新たに「おたる潮まつり」が誕生し夏の風物詩になると現代人には「おたる潮まつり」も「小樽まつり」であるという考えが定着したのではないかと考える。
(2) 2、3章から、まつりは人、モノ、金といった時代背景で大きく変化することを研究を通して実感した。しかし、まつりは形や内容が変化しながらもいつの時代でも市民にとって「楽しみの場」であり大切な行事である。

住吉神社例大祭」「おたる潮まつり」発祥や趣旨は異なる。しかし、今回の研究を通して「小樽を代表するまつり」であるこの2つのまつりは小樽の人々にとって「楽しみの場」になっており大きな支えになっているのである。

謝辞
本研究にあたり、小樽総鎮守住吉神社宮司星野昭雄氏、権禰宜川端克征氏、住吉神社氏子青年会会長小西誠一氏、旗イトウ製作所伊藤一郎氏、越後久司氏、小樽酒商たかの高野泰光氏、小樽市総合博物館石川直章先生、関西学院大学島村恭則教授、TAとして同行してくださった関西学院大学・大学院佐野市佳氏その他協力してくださった多くの方々に心よりお礼申し上げます。お忙しい時間を縫って、長時間にわたり親切に対応してくださり誠にありがとうございました。<参考文献>
小樽観光大学校(2006)『おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック』
柳田国男(1942)『日本の祭』弘文堂書房
松平斉光(1998)『祭』平凡社
小樽市(1963)『小樽市史 第二巻』
   (1993)『小樽市史 第七巻 行政編(上)』
   (1994)『小樽市史 第八巻 行政編(中)』
   (2000)『小樽市史 第十巻 社会経済編』
おたる潮まつり公式ウェブサイト http://otaru.ushiomatsuri.net/
北海道神輿協議会 http://www.h-mikoshi.jp/member/member.html
小樽ジャーナル(2009/04/07)http://otaru-journal.com/2009/04/0407-4.php
(2010/07/14)http://otaru-journal.com/2010/07/0714-2.php