関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

砂丘のムラに生きる―らっきょう農家に嫁いだ一女性のライフヒストリー―

井本佳奈

 

【要旨】

 本研究は、鳥取市福部町のらっきょう農家に嫁いだ香川佐江子氏のライフヒストリーに関して調査を行ない、同氏が砂丘地のムラでどのような人生を送ってきたかについて明らかにしたものである。
 本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1. もともと、福部町は日本海に面しており海が近いため、都会から海水浴に来る観光客が多かった。そのため、嫁いだ当時、香川氏も含め夏は周辺ほとんどの家が民宿を営んでいた。

 

2. 過酷な植え付け作業を工夫しながら行う年配の植え子さんの姿を見て、佐江子氏が農協や県の普及員に相談を持ち掛けたことが、腰に巻くバンドや植え付け作業衣「涼かちゃん」開発のきっかけとなった。

 

3. らっきょうの砂畑は標高も高く風が強いので、飛砂対策として網を張っている家もあるが、取り付けや回収が大変なので、佐江子氏はライ麦を蒔いて根を張らせて砂が動かないようにしている。刈ったライ麦は自家栽培しているスイカの日焼け対策に有効利用している。

 

4. 収穫の際、専業農家なら女の人がトラクターに乗る必要はないが、夫・恵氏が勤めに出ていたので、恵氏が退職するまでは佐江子氏が女性でありながらトラクターに乗っていた。当時は専業農家が多かったので、女の人がトラクターに乗るのは珍しいということで取材されるようになった。

 

5. 香川氏の家では、元肥ではなく、作条施肥という方法を肥料を手散布している。この方法は、保肥力が低い砂に適しているうえ、らっきょうに肥料が効率よく当たり肥料代も削減できるという利点がある。もともと元肥をする家が多かったが、佐江子氏が勉強会で意見を出すなどして、作条施肥をする家も増え始めた。

 

6. 現在では、らっきょう生産の規模が大きくなり、家族だけでは仕事を捌ききれないので、らっきょうを切る切り子さんや、収穫する掘り方さんを雇っている。

 

7. 女の人は自分が良いものを作りたいから他の人に聞いたり、逆にアドバイスもしたりするが、男の人はプライドがあり、あまり人に聞かないので、女の人が中心になって作る家は良いらっきょうができる。

 

8. らっきょう栽培は冬場は仕事がないので、らっきょうの早取りであるエシャロットを作り始める。そのグループ「エシャロット組合」の団結で、無名のエシャロットを広めていった。

 

9. 嫁いだ当時は、らっきょうと民宿に加えて、梨も栽培していた。しかし、梨は手がかかり台風の影響を受けやすいので、梨の代わりとしてメロン栽培をはじめた。

 

10. 佐江子氏は年代別グループ「若妻グループ」に所属しており、そのグループを通して恩師である元県知事の妻・るり子氏に出会い、「農業はアホじゃできん」と相談したことがきっかけとなり「農業婦人大学」がつくられた。そこで行なわれたリーダー研修が、のちに事を起こす際、声を上げ人を巻き込む佐江子氏に役立った。

 

11. 夫・恵氏が勤めに出ていたので、佐江子氏は義父母相手に自分がしないといけないという意識をもっていた。それと同時に、「若妻グループ」や「エシャロット組合」、「農業婦人大学」などさまざまなグループがあったことから、県や農協との繋がりもでき、さまざまな勉強ができた。

 

12. エシャロット組合でさまざまな話をするようになってから、らっきょうの価格暴落を繰り返す現状に危機感を抱き始めた。そこで、どうしたら若い人にもらっきょうを買ってもらえるか考えて生まれたのが、らっきょう漬け方講習であった。はじめは、浜湯山の二人で行なっていたが、その後各集落にも呼びかけ、現在は十人で漬け方講習を行なっている。

 

13. 漬け方には昔ながらの本漬けと、簡単に漬けられる簡単漬けという二つの漬け方があるが、今はとにかく若い人に漬けてほしいので、簡単漬けを推進して講習を行なっている。

 

14. 一時期、佐江子氏はメロンを出荷する箱に、らっきょうの花を添えて入れていた。その花が評判が良かったことから、エシャロット組合で協力して花を摘み、においが出ないよう試行錯誤もして『プリティアリウム』と名付けて出荷していた。

 

 

【目次】

序章 問題の所在とフィールドの概況
 第1節 問題の所在
 第2節 フィールドの概況  

第1章 らっきょう農家に嫁ぐ
 第1節 らっきょう
(1) 植え付け
(2) 灌水
(3) 飛砂対策
(4) 肥料
(5) らっきょう堀り
(6) 出荷とらっきょう切り
(7) 植え付け準備と反省会
(8) 種堀りと種の消毒
 第2節 エシャロット
 第3節 梨からメロンへ
(1) 梨
(2) メロン

第2章 農家の女性たち
 第1節 女性たちのグループ
  (1)若妻グループ
  (2)農業婦人大学
  (3)エシャロット組合
 第2節 らっきょう漬け方講習会
  (1)漬け方講習会
  (2)らっきょうの簡単漬け
  (3)人に教える
 第3節 らっきょうの花
  (1)『プリティアリウム』
  (2)らっきょうの花のおせんべい
  (3)鳥取市の花

結語
謝辞
文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 らっきょう栽培五集落 *国土地理院1:25,000地形図「鳥取北部」(2016年発行)、「浦富」(2018年発行)をもとに作成。

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写真2 植え付け作業衣『涼かちゃん』

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写真3 香川家の植え付け時のらっきょう畑の様子

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写真4 植え付けを行なう香川佐江子氏

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写真5 農業婦人大学の修了証書 (平成5年2月19日)

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、香川佐江子様をはじめ多くの方にご協力をいただきました。お忙しい中何度も訪れたにも関わらず、快くご自身の貴重なお話をたくさん聞かせて下さり、資料も提供していただきました香川佐江子氏。らっきょうの植え付けという貴重な体験もさせていただきました佐江子氏と旦那様の恵氏、並びに植え付けを教えて下さった植え子の皆様。そのほか情報提供をしてくださいました、農家の皆様。これらの方々のご協力なしには、本論文を執筆することはできませんでした。
 今回の調査にご協力いただいた全ての方々と佐江子氏との出会いに、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

商いの消長 ―豊中市服部にみる地域の変貌と商業の展開―

藪下華奈

 

【要旨】

本研究は、豊中市服部をフィールドに、この地で商いを展開してきた半田修二氏と上芝茂樹氏の2人のライフヒストリーをとりあげ、これを時代とともに変化する服部の町の様子と照らし合わせて解明したものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

 ①半田家は、先祖代々百姓だったが、戦前に与吉氏が周りに住む親族に田を任せ、商いを始めたことから修二氏の代まで商いが続いてきた。

 

②戦後、酒を売る免許の再申請が求められ、周りのほとんどの酒店が排除されたが、与吉氏と息子の喜一氏が経営していた「半田酒店」は、売り上げが安定していたため、商いを継続できた。昭和44年には、修二氏が新たに「半田屋」を服部阪急商店街に開業した。この頃、多くの文化住宅やアパートなどが周辺に建てられ、人口が増加しており、商店街を訪れる客数も年々増えていった。「半田屋」の売り上げも右肩上がりとなった。

 

③修二氏は、喜一氏とともに昭和56年に「株式会社 半田喜一」を設立し、酒店の店舗を増やしたり、飲食店、マンション、スーパーなどの経営も始めた。マンションやスーパーなどは、昭和後期から平成初期にかけて特に流行していたため、修二氏も始めてみようと決意したのであった。多くの事業を展開させてきたが、阪神淡路大震災によるスーパーの倒壊を契機に、「半田屋」に専念することにした。

 

④修二氏は、「半田屋」を営業しながら、売り上げを継続することと服部に貢献したいという思いでさまざまな会の役割も担当した。しかし、平成に入ってから、空港騒音問題を要因とする文化住宅などの立ち退きによる人口減少や、スーパーやコンビニなどの進出によって、売り上げは減少した。「半田屋」は平成21年に閉店し、「株式会社 半田喜一」も現在はもうない。しかし、修二氏を知る人は多く、服部の町づくりや、商店街について現在も相談を受けることがある。

 

⑤上芝家の商いは、定次郎氏が服部で商いを始め、その後、常一氏と百合子氏の夫妻が昭和25年に服部天神駅前で「のせや」といううどん屋を開業したことに始まる。その後、親族のなかに服部天神駅周辺で店をはじめる者が現われるようになった。

 

⑥「のせや」を開店した当時、周りに同業者はおらず、隣町からの出前注文も受けていたこともあり、売り上げが安定していた。昭和36年には、駅から徒歩5分圏内の土地を買い、「孔雀荘園」という文化住宅を建て、経営を始めた。

 

⑦昭和30年代前半に一族も駅前で商いを始めた。上芝家の親族たちの店はすべて、駅前に密集して建っていたため、店が混みあったり、仕込みが間に合わない際などは互いに助け合っていた。

 

⑧常一氏は、昭和39年に「喫茶店 ピーコック」を開業した。この頃、東京オリンピックが開かれ、東京だけでなく、大阪も盛り上がっており、売り上げが向上した。「中央営繕」という不動産屋も始めたり、昭和50年には、「ピーコック 西店」を駅の西側に新たに開店するなど商いを展開させていった。

 

⑨昭和53年に常一氏が亡くなり、茂樹氏が継いだ後、「珈琲豆専門店 ピーコック2」を開業した。茂樹氏の長男、英司氏が「喫茶店 ピーコック」を継ぐことになり、茂樹氏は「珈琲豆専門店 ピーコック2」で自家焙煎を行なうなど、時代の変化に合わせて営業を継続している。

 

⑩「珈琲豆専門店 ピーコック2」は、3年後に駅前整備のため立ち退きとなる。「ピーコック 西店」の場所に移動するとのことだが、今後どのように展開していくのかはわからない。

 

【目次】

序章 問題の所在とフィールドの概況

 第1節 問題の所在

 第2節 フィールドの概況

第1章 半田家と商い

 第1節 穂積村での商い

  (1)与吉氏と商い

  (2)喜一氏と商い

  (3)修二氏と商い

 第2節 商いの拡大

  (1)服部阪急商店街

  (2)株式会社 半田喜一

 第3節 さまざまな会

  (1)酒販組合

  (2)服部阪急商店街振興組合

  (3)服部をよくする会

第2章 上芝家と商い

 第1節 駅前での商い

  (1)常一氏、百合子氏と商い

  (2)一族と商い

 第2節 さまざまな事業の展開

  (1)常一氏と事業

  (2)茂樹氏と事業

 第3節 服部の現在と上芝家

  (1)英司氏

  (2)親戚たちとその後

  (3)茂樹氏

結語

 総括

 謝辞

 参考文献

 

 

【本文写真から】

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写真1 服部阪急商店街の位置 ※服部バルMAPをもとに作成

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写真2 服部西町に現存する文化住宅

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写真3 酒販新聞に載る「半田屋」

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写真4 上芝家が商いを展開した駅前の一角 ※服部バルMAPをもとに作成

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写真5 「喫茶店 ピーコック」

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写真6 「珈琲豆専門店 ピーコック2」

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 ご多忙の中、ライフヒストリーをお話してくださった半田修二氏、上芝茂樹氏、上芝英司氏。服部阪急商店街についてお話を聞かせてくださり、様々な貴重な資料を提供してくださった鳥羽伸美氏、山下順朗氏、前野雅文氏。

 これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

民俗学者の形成 ―北海道民俗学者阿部敏夫のライフ・ヒストリー―

山田彩世

 

【要旨】

本論文は、ある一人の民俗学者に焦点を当て、在野のフィールドワーカーとして生活の当事者の目線で研究するとはどういうことなのか、ということを阿部敏夫という一人の学者を取り上げて明らかにしたものである。

本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

①少年期

秋田県出身の父と北海道栗山町出身の母のもとに生まれ、経済的に貧しかった家庭環境の中で北海道栗山町という自然豊かな土地で兄弟姉妹たちに囲まれながら育った。

②青年期

中学・高校・大学では金銭面に苦しみながらアルバイトに勤しむ日々を送った。また、中学時代にキリスト教と出会い、大学1年生の時に洗礼を受けクリスチャンになった。

③国語教師時代

牧師になるか、教師になるか迷った末、教師人生を選択した。生徒との葛藤もあり挫折したこともあったが、周囲の助けと教師としての喜びを心の支えにして乗り越えてきた。

④採訪の日々

古典教材の作成をきっかけに民間説話に出会い、同僚の先生や大学時代の先生との関わりの中で最終的に民俗学に出会うこととなる。その後、高校教師の傍ら自らもフィールドワーカーとして民間説話の採集に出かけていくようになり、厚別の龍神さんや北広島市の大蛇神社の伝説など北海道民間説話の事例研究をこれまで行なってきた。

⑤民俗学者になる

高校教師を退職後、大学教授としてこれまで集めた民間説話の資料の分析や集約に取り組んだ。阿部は、「北海道には民俗の原初的な姿が見られる」として、北海道から日本や世界の文化を見ていきたいと展望している。また、今後の課題として、北海道におけるまちづくりのなかの民間説話を中心とした歴史編さん、民俗研究に取り組みたいと考えている。

 

【目次】

序章 研究の意義

 はじめに

第1章 少年期

 第1節 両親のルーツ

  (1)鉄五郎

  (2)みのり

 第2節 栗山町で育つ

第2章 青年期

 第1節 中学・高校時代

 第2節 大学時代

  (1)アルバイトと大学生活

  (2)クリスチャン

第3章 国語教師として生きる   

 第1節 牧師と教師

  (1)牧師になる夢

  (2)教師として生きる

 第2節 葛藤の日々

  (1)教師人生の挫折

  (2)支えと喜び

第4章 採訪の日々

 第1節 民俗学との出会い

 第2節 フィールドワーカーとして

 第3節 厚別の龍神さん

 第4節 北広島市「大蛇神社」伝説

第5章 民俗学者になる

 第1節 博士論文執筆

  (1)大学教授時代

  (2)国際的な交流活動(中国・大連と韓国・ソウル)

  (3)『北海道民間説話〈生成〉の研究―伝承・採訪・記録―』

 第2節 阿部敏夫の民俗学

結語

 総括

文献一覧

 

【本文写真から】 

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写真1 高校教員時代の授業風景 ※『栗山ふるさと文庫15―栗山の史実・民話―記憶から記録へ』より

 

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写真2 1982年7月24日の御神像遷座奉告祭の様子(麻生氏の所蔵写真より) 前列左には調査をしている阿部が写っている。



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写真3 阿部敏夫氏(2019年10月4日撮影)

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 お忙しい中、ご自身のライフ・ヒストリーを語ってくださったうえ、文献や貴重な資料をたくさん提供してくださいました、阿部敏夫氏。

 「厚別の龍神さん」に関する貴重なお話を聞かせてくださり、さらに資料の提供や「金沢農場」跡地まで車で案内してくださいました、麻生大八郎氏。

 「大蛇神社」の伝説に関するお話を聞かせてくださり、たくさんの資料を提供してくださいました、荒木順子氏。

 皆様のご協力がなければ、本論文は完成しませんでした。ご多忙の中、お時間を割いていただき、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

学術交流協定締結(関西学院大学世界民俗学研究センター・華東師範大学民俗学研究所)

関西学院大学世界民俗学研究センターは、2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所(徐赣丽所長)と学術交流協定を締結しました。

華東師範大学民俗学研究所は、2012年に同大学社会発展学院の中に設立された研究所で、専任教授3名、兼任教授2名、専任准教授2名、専任講師2名、専任研究員1名、博士研究員6名、所属大学院生48名(博士課程25名〔留学生4名〕、修士課程23名)によって組織される、中国における民俗学研究の一大拠点です。

今後、世界民俗学研究センターとの間で、研究情報の交換、研究者交流をはじめ、さまざまな研究交流が行なわれることになっています。

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左:徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)  右:島村恭則

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華東師範大学民俗学研究所講演「民俗学的視角とは何か―ディオニュソスとヴァナキュラーを中心に―」

2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所において講演「民俗学的視角とは何かーディオニュソスとヴァナキュラーを中心にー」 (何谓“民俗学视角”——以狄奥尼索斯与vernacular为中心)を行ないました。

当日は、同研究所で学ぶ約50名の大学院生が集まり、講演終了後も民俗学の理論をめぐって活発な討論が続きました。講演の機会を与えてくださりました徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)に深くお礼申し上げます。

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第10回国際都市社会フォーラム 華東師範大学社会発展学院

第10回国際都市社会フォーラム
華東師範大学社会発展学院
2019 年10月25–27日

日本からの招待講演者は、徳丸亜木教授(前日本民俗学会会長・筑波大学)、菅豊教授(東京大学)、島村恭則(関西学院大学)。

島村恭則「ディオニュソス的なるものと民俗学」

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蚌埠市博物館講演(2019年10月29日、安徽省蚌埠市)

蚌埠市博物館講演(2019年10月29日、安徽省蚌埠市)
「治水をめぐる伝承と信仰―日本列島の事例―」

安徽省蚌埠市は、中国最古の王朝「夏」を創始した帝王、禹王に関わる遺跡が発掘された場所です。中国において禹王は治水英雄として知られており、今回の講演では、日中の学術・文化交流促進の観点から、日本にも存在する禹王に関する文化遺産(治水神として祭祀されている事例など)を紹介しつつ、治水をめぐる伝承・信仰の日中間の異同について解説しました。講演には、150名を超えるが蚌埠市民が集まり、講演後も活発な質疑応答が続きました。

今回の講演にお招きくださった中国社会科学院考古研究所研究員の王吉懐先生、蚌埠市博物館の季永館長はじめ博物館の皆さま、貴重な資料をご提供くださった中国大禹文化研究中心安徽分会副会長・秘書長の高群先生はじめ、現地の皆さまに深く御礼申し上げます。f:id:shimamukwansei:20191102143024j:plain

 

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蚌埠市禹会村遺跡・塗山(大禹王伝承地)調査

蚌埠市禹会村遺跡・塗山(大禹王伝承地)調査
2019.10.30 安徽省蚌埠市

https://mp.weixin.qq.com/s/WCKe6tQAgAsu9feQccOnhQ

安徽省蚌埠市は、中国最古の王朝「夏」を創始した帝王、禹王に関わる遺跡が発掘された場所であり、今回は、禹王にまつわる遺跡・伝承とそれを活用した国家遺跡公園の建設プロセスについてその実態を調査しました。

現地をご案内いただいた中国社会科学院考古研究所研究員の王吉懐先生、蚌埠禹会村遺跡国家考古遺跡公園管理処主任の王海軍先生をはじめ、現地の皆さまに深くお礼申し上げます。

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労働者のまち・室蘭のやきとり

【目次】

はじめに

1.鳥よし(輪西)

2.浜勝(母恋)

3.吉田屋(室蘭)

4.鳥竹(東室蘭)

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに

北海道室蘭市は「鉄のまち」といわれている。夕張等の空知管内で採取された石炭を、明治25年に敷かれた鉄道で室蘭まで運び、室蘭の港で石炭を積み、室蘭は本州まで送る石炭の積み出し港として発展した。多くの石炭が室蘭に運びこまれ、その石炭によって室蘭に製鉄所と製鋼所の2大工場が誕生した。昭和40年頃、室蘭はそこで働く労働者やその家族が住み、夕方には仕事終わりの労働者が飲食街や繁華街に繰り出し、呑み屋ややきとり屋で飲み食いして帰っていたようだ。

そんな北海道室蘭市は全国的に見ても圧倒的にやきとり屋の数が多い。平成12年11月時点ではやきとり専門店は67店存在し、人口一万人当たりに換算すると6.4店になる。

そんな室蘭市のやきとり屋では室蘭やきとりが売られている。しかし、室蘭やきとりは一般的な焼き鳥とは違う。室蘭やきとりには3つの特徴がある。

1つ目は、鶏肉でなく豚肉を使っている点である。焼き鳥と同じ作り方をしているが、鶏肉を使っていないことからひらがなで「やきとり」という表記が使われている。昭和初期に豚のモツや野鳥(スズメなど)が屋台で串焼きにして多く食べられていたようだ。また、昭和15年には、軍需品の量産や食料用増産のために、豚が飼育されていた。鶏肉よりも安く手に入った豚肉が室蘭やきとりに使われたようだ。

2つ目の特徴は一般的な焼き鳥では長ネギを使用するところが多いが、玉ねぎを使用する点。玉ねぎは北海道が産地であり、長ネギよりも安く手に入り、豚肉との相性が良いため定着した。

最後は洋からしにつけて食べる点である。これは諸説あるが、もともと室蘭やきとりをおでんと食べることが多く、そのおでんのからしにやきとりをつけて食べたことが始まりという話がある。

今回、室蘭やきとりを調査するにあたり、やきとり屋が多く存在する室蘭市の輪西、母恋、室蘭、東室蘭に室蘭やきとりが深く根付いていると考え、この四つの地域にあるやきとり屋を調査することにした。

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写真1.室蘭やきとり

 

1.鳥よし(輪西)

輪西は現・日本製鉄室蘭製鉄所の企業城下町といわれている。製鉄所の労働者の住む長屋社宅は輪西に存在していた。

製鉄所で働く労働者は7:00から15:00、15:00から22:00、22:00から7:00の三つの時間帯に分かれて3交代制で働いていた。そんな製鉄所の労働者は仕事が終わると製鉄所の通用門という出入口から出てきて輪西の商店街に繰り出し呑み屋や、やきとり屋で飲み食いして家に帰っていたそうだ。

昭和50年頃にはアジアやほかの製鉄所の方が安いことから室蘭の製鉄所がなくなってしまうのではないかとうわさされた。製鉄所の労働者は支社に転勤することになったり、新たな労働者が雇われることがなくなったりした。そのため、社員の数を減らしたことで社宅に住む人も減少し、製鉄所の会社も社宅自体を維持することが困難な状況であった。また、長屋社宅は社有地の面積をとり、家庭風呂が付いていない等の企業側にも・住民側にもそれぞれ不便な点もあった。そこで、土地のあまった東室蘭に鉄筋アパ―トを建設し、そこへ移り住んだ。また、昭和40年・50年頃には持ち家制度が導入され、各自の家を建てた。その結果、1980年代には輪西に長屋社宅は少なくなり、製鉄所の労働者は東室蘭へ移り住んでいった。

室蘭は製鉄所や製鋼所、関連会社の労働者を相手に商売を行っていたため、「鉄冷え」や人の移動と同時に商店街も栄えず町の景気が下がってきた。

また、輪西の商店街の店はぷらっと・てついちという複数商業施設に場所を移し、シャッターを下ろす商店もあった。

輪西のやきとり屋として、鳥よしを調査した。鳥よしは室蘭市内で一番古いやきとり屋である。鳥よしが始まったきっかけは昭和8年にまでさかのぼる。現在の鳥よし店主である小笠原光好さんの父、小笠原連之介さんは活版印刷業をしていた。昭和8年、連之助さんは仕事のために母恋から帯広へ出張に出かけた際に旅館の近くにあった「鳥よし」というやきとり屋を見つけた。帯広には軍隊があり、そこから出る残飯で豚を育てており、豚を使ったやきとりが帯広で売られていた。そこで、やきとりの修業を経て、室蘭に「やきとり」を持って帰ってきたことが鳥よしのはじまりである。当時、室蘭にはやきとり屋はなかったため、室蘭のやきとりのはじまりでもあるのだ。

その後、リアカーのような屋台で転々とやきとりを売ることから始め、昭和12年には光好さんの母、小笠原ハツヨさんが人の多い輪西にやきとり屋を構えた。しばしば警察に注意されることもあったが、昭和12年7月3日に警察の許可を得て正式に店舗でやきとり屋を始めることになったのである。

製鉄業が盛んだった頃、輪西には260店舗ほど様々な店舗が存在しており、とても賑わっていた。鳥よしが店舗を構えている通りでは10店舗ほどやきとり屋が営業していた。当時、鳥よしの客層は製鉄所やその関連会社の労働者がよく出入りしていた。鳥よしは三交代の7;00~15;00、15:00~22:00で働く労働者の仕事帰りに合わせて、15:00~23:00で営業していた。

鳥よしに通っていた労働者は鳥よしでその日に会社で起こったことや愚痴を語り合い、上司が注意し、労働者は反省し、失敗や嫌な気持ちを持ち越さずに、次の日の仕事を頑張ろうと意気込んでいたようだ。最後は上司がすべてのお金を払って帰っていく。当時の労働者にとって居酒屋ややきとり屋は話をする場として大切な場として存在していたようだ。

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写真2.鳥よし

 

2.浜勝(母恋)

母恋は日本製鋼所室蘭製作所の企業城下町であった。輪西と同じく母恋には製鋼所の労働者の社宅があったが、高度経済成長期には持ち家制度が生まれ、社宅は(※抜け?)

製鋼所の労働者は、3交代制でA番:8:00から16:00、B番:16:00から24:00、C番:24:00から8:00をローテーションして働いていた。

母恋のやきとり屋としては、浜勝を調査することにした。浜勝は昭和44年に創業したやきとり屋である。浜勝屋の現店主の父はサラリーマンであり、今の浜勝の建物をお寿司屋など他の店に貸していた。サラリーマンを辞めてからは、現店主の母と一緒に今の浜勝の建物でやきとり屋をはじめたのがきっかけである。そこから、今の店主が2代目として店を継いでいる。

製鋼所から正門を通って家に帰る途中のA番、B番で働く労働者の仕事帰りに合わせて、浜勝は16:30から27:00で営業していた。開店までは豚の内臓をゆで、食材を切り、豚肉や食材を串にさして仕込みをしていた。当時浜勝に来る客は製鋼所で働く労働者ばかりで女性や子供は来ることはなかった。席数は40席だったが、常に席は埋まる。5人客でくれば、酒と60本のやきとりを食べるように、やきとりとビールを注文する人が多かった。帰りは、家で待つ製鉄所の労働者の家族にお土産としてやきとりを買っていく人もいたようだ。

浜勝に入るとすぐに席に着き、やきとりとビールが来ると、ビールで乾杯する。最初は野球や車などの娯楽の話をしてその日の仕事のことを忘れようとする。しかし、次第にお酒に酔ってくると、仕事の愚痴をこぼす。上司は酒を飲まずに、部下の愚痴を聞いて帰っていく。

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 写真3.浜勝

 

3.吉田屋(室蘭)

中央町・海岸町辺りの蘭西地域を総称して市民は「室蘭」と呼ばれる。室蘭は室蘭市の中心の町であり、室蘭は市役所や中島屋などのデパートだけでなく、パチンコや映画館などの娯楽施設があり、行政的にも商業的にも栄えていた。そのため、平日の仕事帰りには労働者が職場のある町の商店街で呑み屋ややきとり屋へ寄っていたが、休日になると、室蘭市民は室蘭に繰り出していた。ARCSという大型スーパーの向かい側は、今から50年ほど前までラーメン屋ややきとり屋が屋台を出店し賑わっていたが交通整備をする時に撤去されてしまった。

室蘭のやきとり屋として、吉田屋を調査することにした。昭和21年に現店主の夫の御両親が創業した。今は場所がかわり、三代目の店主が一人で吉田屋を営業している。室蘭が栄えていた当時に吉田屋が店を構えていた通りは飲食街で、近くには繁華街もあり、周囲は飲食店ややきとり屋、人であふれかえっていた。どんな店でも「やきとり」を売っていないと客が入ってこないほど、室蘭に住む人々によってやきとりは人気な食べ物であった。

当時は仕込みが忙しく、吉田屋では豚をさばき、豚の内臓を洗ったり、ゆがいたりして、一日に800本のやきとりを仕込む。仕込みの時は人を雇って3人から5人で9:00から13:00の時間で行い、開店時間の17:00まで睡眠をとって、17:00から吉田屋を営業していた。鳥よしや浜勝は製鉄所や製鋼所の3交代の時間に合わせて営業をしていたが吉田屋は3交代の制度とは関係なく、17:00から21:00で営業をしていた。市役所で働く人々、職工(造船会社や製鋼所で働く人々)といった客層が吉田屋に通っていた。17:00から市役所で働いた人が、18:00以降は仕事終わりの職工が吉田屋に訪れた。夜遅くにはパチンコをした客が、吉田屋に来る。やきとりとビールや日本酒といった酒を売り、多いときにはすべてのやきとりが売れ切れた。

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資料4.吉田屋

 

4.鳥竹(東室蘭)

市の面積が狭く平地が少ない室蘭は昭和50年代になると持ち家の増加等に伴い、さらに狭小地となっていった。人々にとって車社会が一般的になってくると、駐車場が必要となるために丸井百貨店や長崎屋などの大きなデパートは室蘭ではなくたくさん土地がある東室蘭へと移店して駐車場付きの百貨店やデパートが建設された。この大きなデパートの移店によって室蘭市の中心は室蘭から東室蘭へ変わり、室蘭市の人々は室蘭ではなく東室蘭に買い物をしに来るようになった。また、東室蘭にも製鉄所の社宅が存在していた。

東室蘭のやきとり屋として、鳥竹を調査することにした。

店主は20歳まで働いていた親戚のパン屋さんをやめ、雑貨屋を営んだが大きなデパートに勝てないと感じ、丸井が東室蘭に移動すると同時に店主の兄と東室蘭で鳥竹を創業した。

鳥竹では9:00から室蘭市の隣の登別まで豚肉を仕入れに行き、そこから店に戻って仕込みをし、17:30から27:00まで営業していた。製鉄所の労働者や市役所で働く人々が客として通っていた。やきとり屋だけではなくスナックも多い。スナックではお金を払わずツケる人が多かったため、スナックの店主たちは製鉄所の正門で待ち伏せをしていたという話もある。

鳥竹に通う客も出張の人と飲みに来て仕事の話をしていたようだ。

 

結び

今回、輪西、母恋、室蘭、東室蘭におけるやきとり屋の調査を行った。

輪西のやきとり屋では製鉄所の労働者、室蘭のやきとり屋では諸役所で働く人や職工、などそれぞれの場所によって客の対象が違うことが分かった。また、営業する時間も対象としている客のライフスタイルや仕事時間に合わせて営業していた。

やきとり屋で行われる客の会話から、室蘭の労働者にとってやきとり屋は仕事から離れることのできる場所でもあり、翌日の仕事へマイナスな感情を持ち込まないように、その日の仕事の失敗や愚痴を話すことのできる場所であったようだ。やきとり屋は室蘭の労働者にとってなくてはならない場所であったと考える。

しかし、現代では車社会によってバスや電車で仕事に向かい、家に帰ることが多くなり、仕事が終わってもやきとり屋で酒を飲みながら仕事や娯楽について話して帰る人達は少なくなってきた。車に乗るために飲酒をすることができないからである。やきとり屋や居酒屋に寄って帰らずに仕事が終わるとそのまま帰る労働者が多くなった。このことからやきとり屋は衰退しているといえるのではないだろうか。また、室蘭の労働者にとっても仕事や趣味の話ができる時間や場所が少なくなり、仕事仲間や上司とのコミュニケーションがとりづらくなっているのではないかと考える。

 

謝辞

今回、室蘭やきとりを調査するにあたって、鳥よし様、浜勝様、吉田屋様、鳥竹様、室蘭市役所経済観光課のO様、室蘭民俗資料館の津川様に大変お世話になりました。皆様のおかげで室蘭やそれぞれのやきとり屋の歴史、室蘭やきとりについての貴重なお話を深く伺うことができました。本当にありがとうございます。これからの皆様のご繁栄を心から祈っております。

 

参考文献 

室蘭観光情報サイト (最終閲覧日2019年9月13日)

http://muro-kanko.com/eat-buy/yakitori.html

 

現代の番屋 -室蘭漁協自営定置番屋の事例-

 社会学部 3回生 今井美希

 

【目次】

1.室蘭漁協自営定置番屋(追直漁港)

2.船頭夫妻

2-1船頭

2-2船頭の妻

3.番屋の漁師たち

4.番屋での暮らし

4-1間取り

4-2食事

4-3休日の過ごし方

結び

謝辞

参考文献

 

 

はじめに

 番屋とは漁師が泊まる小屋のことである。北海道では漁が盛んだったため、漁夫住宅である番屋が多く存在した。「ニシン漁で繁栄した日本海沿岸には、一般的に豪壮で、土間を挟んで親方の家族と漁夫のすまいを一体とし」(駒木定正 2015:178)ていた。その例として小樽市にあり、現存する最古の番屋である旧白鳥家番屋があげられる。この番屋では、漁夫は寝泊まりするだけであり、住み込んでいたわけではなかった。一方で「道南の渡島では、マグロ・イワシ漁が盛んであり、切妻・平入に軒を出桁として玄関脇に洋風の出窓を設ける事例が多くみられる」(駒木定正 2015:178)。このように番屋といっても地域によって形態や造りが異なっていることがわかる。では現代の番屋ではどのような形態がとられているのだろうか。そこで実際に利用されている室蘭漁協自営定置番屋に足を運び調査を行った。

 

1.室蘭漁協自営定置番屋(追直漁港)

 北海道室蘭市の漁港の一つである追直漁港には室蘭漁協自営定置番屋がある。そこには1隻の船"北漁丸"で漁をする8人の漁師と住み込みで働く船頭の奥さんが暮らしている。

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写真1:室蘭漁協自営定置番屋

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写真2:北漁丸

 この番屋の仕組みは、漁協に雇われる形で、漁協が提供する番屋に住み込み、漁協が提供する船"北漁丸"に乗って漁をするというものである。つまり漁協に雇われていない者は番屋には住むことが できず、実際に室蘭市にある自宅から漁をする方を何人か見かけた。また、室蘭市にある、イタンキ漁港、崎守漁港、絵鞆漁港にも番屋が存在しているが、番屋同士の関わりはない。

 この漁港では9月〜12月の初め頃に定置網によりサケを捕り、その漁が終わり次第"解散"、4月の漁までは各々自宅に戻り休暇を過ごす。"解散"によって、番屋の荷物は全て片付ける。もう一度番屋に戻るかどうかはその人次第だが、ほとんどの者は信頼関係により戻ってくる。

 

2.船頭夫妻

2-1船頭

 "北漁丸"の船頭である橋本さんは、今年3月17日に青森県の六ヶ所村にある六ヶ所村漁業協同組合から追直漁港にやって来た。元々橋本さんは前船頭に4年前から"北漁丸"の次の船頭にならないかと声をかけられていたが58歳で地元である青森を離れ室蘭に出稼ぎにいくことに抵抗を感じ、断り続けていた。しかし、昨年9月末に橋本さんが北海道に旅行に来ていた際、前船頭に会っておりその次の日に前船頭が亡くなられたことが契機となり、「何か感じる」「運命」である、と"北漁丸"の船頭になることを決意した。橋本さんは「漁師は"つながり"や"縁"が大切」であると語ってくださった。

 青森の六ヶ所村にある六ヶ所村漁協で船頭をしていた橋本さんは、橋本さんが30代の頃からついて来ていた44歳の方に船頭を任せた。六ヶ所村には番屋があるが室蘭とは違い、住み込みではなくご飯を食べる場、休憩の場として番屋を使用していた。そのため橋本さんは自宅から通いで漁をしていた。また、六ヶ所村の番屋にも漁協が関係しており、橋本さんは38年間漁をしていた六ヶ所村の漁協での所属を辞め、現在は室蘭の漁協へ所属している。ほとんどの漁港に漁協があり、ほとんどの者が所属している。

 橋本さんが漁をしていた六ヶ所村と追直漁港では漁の種類が異なり、漁の時間や時期全てが変わったため、初めの頃は慣れることが大変であったと教えてくださった。追直漁港は深夜での作業がほとんどで、夕方の6時には就寝、次の日の2時出航出港という生活をしている。また、船頭は周りを常に意識し、指示を出さなければならない。六ヶ所村と勝手が違うためストレスを感じでいた。しかし、追直漁港の漁師は真面目で良い人が多いため橋本さんもここでの生活に慣れていったとおっしゃっていた。

 

2-2船頭の妻

 船頭の妻である和枝さんは室蘭漁協自営定置番屋で住み込みで働いている。和枝さんもまた、六ヶ所村にある番屋で23年間働いていた。橋本夫妻は19歳で結婚し、橋本さんが漁師になったため、番屋で働く漁師の妻としての生活が始まった。青森では漁師が多いため、漁師の妻として生活することへの抵抗はなかったそう。しかし、六ヶ所村にある番屋では通いで昼ごはんのみを作る仕事で、室蘭漁協自営定置番屋での住み込みの仕事には少し抵抗があったと仰っていた。

 住み込みといっても漁協での決まりで月に3回の休みが設けられており、自由に選択できる。しかし漁師と休みを同時に取るようにしている。漁師と異なる日にすると、漁をしている日に休むことで、「食事を作らないといけない」と思ってしまうため、同じ日にしたほうがいいと橋本さんの提案によって決まった。この食事はこの番屋では大事にされており、漁以外で漁師が唯一全員揃うということで「ご飯の時間は大切」と和枝さんは語ってくださった。食事の用意は朝昼晩3回分で、和枝さんも漁師と同じように次の日が早ければ夕方6時に就寝、次の日の3時に起床し、漁を終わって帰ってくる漁師のために5時半頃に食事を出す。漁師の食事が終わってから和枝さんは一人で食事をする。 食事のときはスマートフォンやテレビなどをみて寂しさを紛らわしていると教えてくださった。それが終わると掃除、洗濯など家事を着々とこなす。それが和枝さんの1日である。

 休暇は、漁は天候に左右されることもあり、その前日、当日に急に決まることがある。橋本さんから電話やLINEで知らされる。そのため遠出や泊まりは出来ず、橋本さんと共に東室蘭などに車で買い物に行くことが多い。また、初めの頃は周辺を散歩していたが、行き尽くしてしまったそう。住み込みということもあり、一人の時間が貴重で、慣れない頃は一人でボーッとすることも多かったと語る和枝さん。周りに女の方もいないため、私のことを快く歓迎してくださった。

 

3.番屋の漁師たち

 船頭が次の船頭を連れてきて漁を任せ、次の船頭が番屋にやってくる。基本、漁協ではなく、現船頭が次の船頭を選び、他の漁協から引き抜いてくる。その船頭に、元々漁をしていた漁港の弟子が2、3人付いてきて、新しい漁港、つまり追直漁港に拠点を移す。また、この番屋の前船頭が違う拠点に移動するとなると、前船頭に番屋での弟子が付いていく。 このような仕組みによって、この番屋のメンバーが形成されている。現在は前船頭が亡くなられたということで、前船頭についていた方々も番屋に残っている。面白いことにこの番屋で働く者は青森県出身であった。室蘭出身や北海道出身の者はおらず、青森からの出稼ぎのために「出稼ぎ手帳」というとものを使用してこの番屋に来ていた。船頭とその弟子以外は知り合いではなく、また、同じ青森出身であっても、青森の津軽や六ヶ所村などさまざまなところから集まってきている。そのため漁師同士の関わりは、1日3回の全員揃っての食事を中心として、休憩時間などはそれぞれで過ごしていた。この食事はチームワークを築く場となっているように感じた。3月に船頭が来たばかりということで親睦会を兼ねて5月頃に飲み会やカラオケに行ったという話も伺った。同じ船に乗り漁をすることは信頼関係が大切であるため、漁師同士は決して仲が悪いわけではなく、お互いのプライベートを大事にしている印象であった。

 

4.番屋での暮らし

4-1間取り

 2階建である。1階にはリビング、キッチン、船頭の部屋と和枝さんの部屋があり、2階に漁師の8人分のそれぞれの部屋がある。部屋の中には備え付けのベッドや収納スペースがあり、一人暮らしの部屋のようであった。浴室や洗面所、トイレは共同で1階2階それぞれにある。

 車を駐車するスペースもあり、八戸(青森)ナンバーの車が何台か止まっていた。

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写真3:リビング、食卓



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写真4:キッチンで食事の支度をする和恵さん



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写真5:1階にある洗面台と浴室

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写真6:1階にある船頭の部屋

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写真7:2階の廊下 漁師それぞれの部屋がある

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写真8:2階の共同洗面所

 

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写真9:駐車する車

 

4-2食事

 その日に捕れた魚を使って料理することもあり、バランスの良い食事が考えられている。食事の用意ができると和枝さんが2階にいる漁師に知らせるためベルを鳴らし、それを聞いた漁師が食事をしに降りてくるという仕組みである。大きな器に食事を盛り、小皿にそれぞれが自分の量をとっていくスタイルで、まさに大家族の食事のようであった。ご飯は各自が茶碗に好きなだけ盛り自然と決められた各自の場所に座る。終わった人から部屋に戻る。食事を必ず番屋で食べなければならないわけではなく、前もって和枝さんに伝え、外で食事をする方もいらっしゃった。

 

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写真10:夕食

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写真11:食事の様子

 

4-3休日の過ごし方

 確定した休日が無いということで遠出は少なく、車の洗車や部屋の片付け、買い物など、各々好きなことをしている。今年のGWは6日間休みが取れたため、実家に帰省したり、家族と遊んだりしていたそう。また、12月の"解散"から3月までは長期休暇のため全員帰省する。

 

結び

 冒頭で述べたように、ニシン漁の番屋では「土間を挟んで親方の家族と漁夫のすまいを一体とし」ていたが、この室蘭漁協自営定置番屋でも親方と漁夫が同居しており、親方の住まいと漁夫の住まいが区切られていた。しかしこの番屋では、漁夫とされる漁師一人一人に部屋があり、旧白鳥家番屋とは異なり寝泊まりだけではなく住み込んでいた。また親方の家族は六ケ所村の家に住んでおり、番屋で暮らしているのは親方の奥さんでありこの番屋で働く和枝さんだけであった。かつての番屋と異なる点は、親方には家があるが、漁の時期になると他の漁師と同じく番屋に住み込みで従事していることである。

 このように漁師が利用する番屋は、各自の部屋が設けられていることなど、時代の移り変わりと共に、より快適で利用しやすい環境へと変化していった。

 

参考文献

駒木定正,2015,「北海道における漁家住宅の歴史・地域的特性を活かすための研究-歴史的漁家住宅の遺構調査にもとづくまちづくりへの関与と発展」『住総研研究論文集』41(0),169-179

 

謝辞

 今回の調査にあたり、橋本さんご夫婦をはじめとする室蘭漁協自営定置番屋の皆様、室蘭漁協の皆様、室蘭の皆様には大変お世話になりました。調査を快く受け入れてくださり、貴重なお話を聞かせいただくことができたことを心から感謝申し上げます。ぜひまた室蘭に訪れたいと思います。本当にありがとうございました。

 

 

 

社宅街のくらしと記憶 ―新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅の事例―

社会学部3回生

田中香帆

 

 

【目次】

はじめに

1.新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅

2.闇市から商店街へ

2.1 松浦日出光氏のライフヒストリ―

2.2 知利別町の話 

3.あんぽんたんの木

3.1 植えられた経緯(成田氏の調査) 

3.2 木にまつわる思い出

3.3 祟りの話

3.4 保存に向けて

結び

謝辞

参考文献

 

 

 

はじめに

 北海道室蘭市は鉄鋼業が盛んな町である。中でも日本製鉄室蘭製鉄所は、日本製鋼所室蘭製作所と並んで特に大きな存在であり、昭和50年代後半まで知利別町にはその社宅が立ち並んでいた。今回私は、戦中から知利別社宅で生活してきた方のライフヒストリーを中心に、社宅街にはどんな暮らしがあったのか調査した。さらに、同じ社宅街の中にたたずむ一本の木をめぐる人々の思いや記憶、また地域にとってその木がどのような存在であるのか調査した。ただし企業名については、現在は「日本製鉄株式会社」に名称が変更されているが、今回の調査では「新日本製鐵株式会社(以降『新日鐵』とする)」という名称であった時代のお話を中心に伺ったため、本レポートではこの表記で記述する(北海道近代建築研究会,2004,『道南・道央の建築探訪』北海道新聞社)。

 

 1.新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅

 知利別社宅は昭和13年に、知利別町3丁目と4丁目で建築が始まった。構造は木造平屋である(北海道近代建築研究会 2004:154)。室蘭の大企業である栗林商会が所有する牧場であった土地を、新日鐵が譲り受けて社宅が建てられた。知利別社宅の主な居住者は幹部職員や熟練職工で、室蘭製鐵所(旧輪西製鐵所)の社宅の中でも高く位置づけられた(北海道近代建築研究会 2004:154)。通りを挟んで北側には職員の社宅や知利別会館などの福利厚生施設、南側には職工の社宅や商店街、配給所などがあった。知利別会館よりさらに山手には所長などの社宅があったという(図2)。「傾斜地である職員地区では、各住戸は南側に専用の庭を持ち、敷地が高く眺望が良い方から低い方に1級、2級、3級……と立ち並んでいた。つまり、職制が敷地高低差に反映された配置であった」(北海道近代建築研究会 2004:154)。

 

 2.闇市から商店街へ

2.1 松浦日出光氏のライフヒストリー

 知利別社宅で育ち、現在も同じ場所で暮らす松浦日出光氏にお話を伺った。日出光氏の父親は元々十勝でうどん製造をしていたが、「新日鐵に勤めていれば軍需工場に行かなくていい」という噂が十勝で広がり、昭和18年4月に家族で知利別町に引っ越してきた。日出光氏は引っ越してきた時のことを覚えていて、夜に到着し、新日鐵の煙突から赤々と火が上がっている様子を「当時はビルとかほかに明かりがないから火事だと思った」と話す。こうして松浦家は新日鐵の社宅に住み始めた。同じ社宅でも職工は四軒長屋の家だったが、役付きの人は通りを挟んで北側の敷地にある立派な一軒家に住んでいたという。地位が上がると引っ越しをして住むエリアが変わり、社宅街の中でもどの場所に住んでいるかで地位が分かるようになっていた。

 昭和20年になり、日出光氏が小学2年生の頃、旭川にある母親の実家に疎開した。室蘭艦砲射撃の一週間前のことだったそうだ。艦砲射撃によって新日鐵の煙突が5本のうち2本倒れたという。その後疎開生活は4か月ほど続き、終戦を迎えた。

 戦後は新日鐵の従業員とその家族のための配給所があり、従業員はカードを見せることで物を買うことができるというシステムであった。なお、この配給所があった場所には現在ホームストアというスーパーマーケット(写真1)がある。配給所では新日鐵の関係者以外の人は買い物ができなかったため、物資が行きわたらず、住民の間では不満が広がっていたという。しかし戦後の食糧難により、配給所だけでは新日鐵の従業員の分でさえもまかなえない状況になっていった。

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▲写真1 配給所があった場所にあるホームストア

 当時、日出光氏の母親は闇市で店を出しており、一軒ずつ仕切られた片屋根の店で靴や瀬戸物を売っていたという。闇市は現在楽山公園(写真2)がある場所にあった。その闇市の店の人々が、物資の不足問題を解決するため新日鐵に交渉したところ、土地を安く貸してもらえることになった。そして昭和24年に、闇市からの店を中心とした約20軒の店が集まり、借りた土地に商店街を作った。

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▲写真2 闇市があった場所にある楽山公園

 これを機に、日出光氏の母親が闇市に出していた店を商店街に移して「松浦靴かばん店」を構えた。その際父親も、十勝でうどん製造をする前に呉服屋で丁稚奉公をしていて商売の知識があるため、勤めていた新日鐵を希望退職して家族で店を営むことになった。そして自宅も社宅から引っ越し、商店街へ移った。日出光氏は持ち家になってから初めて自分の家に蛇口があった記憶があるといい、それまで社宅では共同の水道で、小学5年生くらいの時に水くみの手伝いをしていたのを覚えているという。

 商店街ができたことによって住民は自由にものを買うことができるようになった。日出光氏は当時の商店街について、「とにかく流行って流行って流行って…」と話す。室蘭市内で10本の指に入る魚屋のうち4軒か5軒はこの商店街の中にあったといい、「新日鐵の所長さんはじめお偉方の奥さん方がみんな高級魚買うわけさ。だから市場から帰ってくるトラックをみんな待って、並んで買い物をしてくれた」と活気のあった商店街の様子を懐かしそうに話してくださった。

 日出光氏は昭和31年に高校を卒業後、両親の店で働き始めた。この頃にはだんだんと客の要望する商品が増えてきていたが、借りた土地の中で店ごとに与えられたスペースは小さかったため商品を置ききれず、店を大きくすることもできなかった。そこで昭和35年に、これからは小さい店ではなく個人の店としてやっていかないといけないという父親の考えにより、商店街から通りを挟んですぐの場所にある現在の自宅場所に店と家を移した(図2)。しかし新しい店と家を建てた翌年に父親が亡くなり、日出光氏の兄が店の社長に、日出光氏は専務となった。

 昭和56年、日出光氏が46歳の時に兄との共同経営を辞めて独立し、昭和58年に「有限会社松浦」という名前になった。昭和60年代後半から平成8年までの間は最大で6店舗を経営していたという。

 しかし靴の流通センターがあちらこちらにでき、洋服だけでなく靴やかばんも安い値段で豊富に揃うしまむらなどの大型店も増え、さらにはデフレが重なっていたこともあって日出光氏は先の不安を感じ始めた。そんな時に、2番目の兄が経営していたペットショップを譲りたいという話が出た。兄は昭和43年に金魚と熱帯魚の店を始めたが、同年に起きた十勝沖地震の際に魚を飼育する水槽が多く被害を受けたことで愛好者が減り、店は犬や小鳥も扱うペットショップになっていた。結局、ペットショップは日出光氏の次男が勤めていた会社を辞めて継ぐことになり、ペットショップの経営を覚えるために次男は6年間日出光氏の兄の下で修業した。

 平成8年に日出光氏の兄がペットショップ経営から退き、店を譲る際に「社長をやってやれ」と兄に言われたことで、日出光氏が社長、次男が専務として店を継ぎ、「有限会社ペットショップ松浦」となった。ペットショップ経営を始めたことをきっかけに、大型店の勢いに不安を感じていた靴とかばんの店を少しずつたたんでいった。そして平成14年には靴とかばんの商売を完全に辞め、ペットショップ一本となった。現在、日出光氏は取締役会長という立場で中島町にあるペットショップ経営を支えている(写真3)。

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▲写真3 ペットショップ松浦

 

2.2 知利別町の話

 社宅街だった頃の知利別町は、どのような町であったのだろうか。ここまで松浦日出光氏のライフヒストリーをたどってきたが、今回の調査では、波満屋という和菓子屋(写真4)の社長の浜長隆氏にもお話を伺った。波満屋は松浦氏の両親が店を出したのと同じ商店街にあり、現在も商店街に残っているのはこの一軒だけだという。ほかの店は店主が亡くなってしまったり、歳をとって辞めていったそうだ。現在はシャッターが下りていて、空き地になっている場所もあった(写真5)。長年、共に同じ商店街で商売をされていたお二人は、昔の知利別町について当時の様子を思い出しながら語ってくださった。

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▲写真4 現在も商店街で営業を続けている波満屋

 昔の知利別町はとても賑やかで、松浦氏が蘭東中学校(現在の桜蘭中学校)に通っていた昭和28年頃は、55~60人のクラスが7クラスあったといい、そこから10年ほど後に浜長氏が通っていた頃は15クラスもあったという。

 松浦氏は商店街に住んでいた頃、仕事終わりに商店街の若者4,5人で輪西町までハイヤーで飲みに行っていたこともあったと話す。知利別町や隣の中島町にはあまり飲み屋がなく、輪西町の飲み屋やキャバレーが流行っていたそうだ。また昭和30~40年頃までは新日鐵の構内に多くの下請け企業があり、職場の近くに住んでいた従業員らも輪西町の飲み屋まで行っていたという。

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▲写真5 現在の商店街の様子。左側に波満屋があるのが見える。

 人が多くにぎやかだった知利別町の活気のピークは昭和40年前後で、昭和50年頃から室蘭製鐵所では人員統制が始まり、年に300~400世帯が対象となった。そして対象となった世帯は、大分や君津、釜石などほかの製鐵所がある場所へ団体で引っ越していった。社宅から引っ越しをする際、団体でまとまって行くために、従業員家族は荷造りが終わってから出発の日まで、社宅街の中にある知利別会館(当時の名称は職員倶楽部)で生活することになっていた。この会館は、普段は来賓の宿泊や会議等に使われた新日鐵の施設である(写真6)。出発までの仮住まい中の食事は会社が用意し、何日か経つと2日か3日に分けて、〇日の〇時に150世帯、残りは〇日の〇時というように決められて、バスや汽車等で引っ越していった。その年に対象にならなかった従業員やその家族も、ひょっとしたら次は自分たちかもしれないという不安があったそうだ。

 人員統制が進むにつれて知利別町の人口は減り、空き地が増えて、開発業者(現在の日鉄興亜不動産)によって社宅が分譲されるようになった。20年以上更地の状態が続いた場所もあり、5年ほど前から現在並んでいるような新しい家が建てられるようになったそうだ(写真7)。最盛期には18万人いた室蘭市の人口は、8万人ほどにまで減ったという。

 これまでのお話を伺っている時、松浦氏と浜長氏はあんなこともあった、こんなこともあったと懐かしそうに昔の話をしてくださった。松浦氏のライフヒストリーをお聞きした時には、改めてご自身の人生を振り返る中で、戦中、戦後の時代の生活を思い出し「こんなこと息子にも話したことないよ」と何度か口にされていたのがとても印象的であった。人口が減り、住む人も変わって社宅街から新興住宅地へと町の性質を変えても、にぎやかで活気にあふれた暮らしは人々の記憶の中で色褪せず、いつまでも生き続けているのであろう。

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▲写真6 知利別会館

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▲写真7 現在、商店街のすぐ近くには新興住宅が立ち並んでいる。


3.あんぽんたんの木

 知利別会館前の坂道を下ったところに、一本のクロマツが立っている。その名も「あんぽんたんの木」である。なんともおかしみのある名前であるが、木が立っている場所を見ればその名前に納得がいくだろう。なぜなら、この木は道路のど真ん中に立っているからである。

 今回の調査では、この木について詳しく調べられたことのある成田弘氏と、Facebook上で作られた「あんぽんたんの木を見守りたい人達の会」という会の副会長で、木の見守り活動をされている平井克彦氏のお二人にお話を伺った。

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▲写真8 道路の真ん中に立っているあんぽんたんの木

 

3.1 植えられた経緯(成田氏の調査)

 あんぽんたんの木はいつからこの場所に立っているのだろうか。室蘭地方史研究会会員の成田弘氏は、過去にこの木の歴史と場所の関係を詳しく調べられたことがある。成田氏によると、この場所が社宅街になる以前の明治39年7月、栗林商会が牧場を創業した際に、スギ、マツ、ヒノキ、落葉樹などを植林したという内容の記述が栗林商会の年史にあり、知利別会館やあんぽんたんの木の場所一帯はその植林が行われた場所であると考えられるという。そして、平成28年8月の台風10号で知利別会館の庭のトドマツが倒れた際、成田氏がその木の年輪を調べたところ約100重であった。そのため成田氏は、樹齢と場所から推察して、このトドマツは明治39年の植林の際に植えられたものであり、同じくあんぽんたんの木もその時に植えられたマツのうちの一本ではないかと考えている。

 あんぽんたんの木が立っている道は、昭和15年に知利別会館が建てられた際、近くの道路と会館をつなぐために作られたと考えられている。成田氏の推察ではその時あんぽんたんの木はすでに今の位置にあったということになるが、場所が道の真ん中というだけに、会館ができたタイミングで伐採されても不思議ではなかった。この時木を残す理由になったと考えられることがある。成田氏によると、木の周囲は新日鐵の土地で知利別会館も近くにあるため、地域の人は木の立っている道も会社用地であると思い込んでいたというが、実際は国の内務省の管轄であった。そのため会社側が勝手に切ることはできなかったのである。その道も現在は室蘭市に移管されているが、成田氏は「もし新日鐵の会社用地だったらとっくに切られていたかもしれないね」と笑いながら話されていた。

 

3.2 木にまつわる思い出

 あんぽんたんの木は、何十年もの間住民とともに生きてきた。成田氏は木の近くに昔住んでいたことのある人から話を聞いたことがあり、昔は木の周りに大きな石が置いてあって、学校の帰りにはその石に腰かけて長い間喋ってから家に帰ったそうだ。

 また木から800mほど離れたところにある桜蘭中学校では、昔からマラソン大会や運動部のランニングの際の折り返し地点として親しまれていて、木まで一往復するのを「一本松」、二往復するのを「二本松」と呼んでいるという。この木が今も地域の日常に溶け込んでいることが分かるエピソードである。

 

3.3 祟りの話

 インターネットでこの木について調べていると、奇妙な話が度々目に留まる。「木の立地から過去に何度も伐採の話が出るも、そのたびに良くないことが起きて中止になった」、「木を切ろうとした者はみんな亡くなった」、「木を切ると祟りがある」、「木自体ではなく木の生えている付近のどこかの家に霊がいる」「死者が木の下に幾体も埋まっている」など、木を切ることで何かが起こるというものや、死に関するものがいくつか見られた。

 これらの書き込みはあいまいな表現が多く、具体的なことが書かれていないのが特徴である。今回の調査でお会いした人の中にも、祟りがあるといった話を実際に聞いたことのある人はいなかった。成田氏によると、子どもたちが「木を切ったら赤い血が流れるんだよ」などとふざけて言うことはあったということだが、地域で広まるほどではなかったようである。

 周辺の社宅があった場所には現在新興住宅が立ち並んでおり、そこに住んでいるのは別の場所から引っ越してきた人ばかりだそうだ。昔から木の近くで生活していた人に出会えなかったことは残念であるが、インターネットで見られたような祟りの話が地元の人から聞かれなかったのは、住む人の変化によるものもあるかもしれない。

 

3.4 保存に向けて

 道路の真ん中という立地にもかかわらず今の場所で生き延びてきたあんぽんたんの木であるが、過去に伐採の危機にさらされたことがある。2017年7月、周囲の宅地開発が進み、市有地であった同道路の市道認定が検討されたことから伐採が決定した。そのことが同年8月24日の室蘭民報に掲載されると、市に対してメールや電話による問い合わせが26件寄せられたといい、その中には現在は室蘭市を離れている人からの声もあったそうだ。8月29日にはすでに伐木祈願も行われていたというが、このような反応を受けて市は伐採について再検討する考えを示した。9月末に近隣の桜蘭中学校で開催された学校祭では、長年ランニングの折り返し地点となっていることもあり、多数のクラスが伐採反対を訴える壁新聞を発表したという。

 その後、市から依頼を受けた樹木医の診断で木の健康状態は良好であることが確認された。さらに交差点角地の地権者から10㎡を無償で借地することで、木を回避して車が通行できるスペースを確保した。また開発業者の協力により、住民の安全確保のために木の前後にはクッションドラムも設置されることになった(写真9)。そして市は10月6日に、木を現状のまま保存する方針を明らかにした。こうしてあんぽんたんの木は無事に伐採を免れたのである。

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▲写真9 木の両側を安全に通行できるよう整備されている。

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▲写真10 GoogleMapでは整備される前の様子が確認できる(2019年9月9日現在)。


 Facebookの「あんぽんたんの木を見守りたい人達の会」は伐採が再検討されることが発表された頃に発足し、今回調査に協力してくださった平井氏はこの会の副会長をされている。会のメンバーは70人を超え、タイムラインにて日常の木の様子を報告する内容の投稿をしている。

 平井氏は伐採の危機を乗り越えたあんぽんたんの木をこれからも守り続けていくために、室蘭市の保存樹木に指定してもらいたいと考えている。現在指定されているのは高砂町にある室蘭屯田兵入植記念のシンジュ、幌萌町にあるエゾヤマザクラの2本である。平井氏は、全国巨樹巨木の会の会員でもある成田氏とも協力し、活動を進めていくそうだ。

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▲図1 知利別社宅配置図

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▲図2 本論文で記述した場所の位置関係


結び

 社宅街では職制による地位が住環境に関係していた。そして知利別社宅では、戦後は物資が不足したため闇市の店が中心となって商店街が作られた。戦後を生き抜くための人々の結束は力強いものだったであろう。松浦日出光氏は移転後に両親の店を継ぎ、時代の流れに合わせて経営を続けてきた。にぎやかな時代を社宅街で暮らしてこられた方々のお話は、とても貴重で興味深いものであった。なお、ライフヒストリーは個人の記憶の語りを記述したものであるため、必ずしも年代等が正確なものとは限らない。

 また、あんぽんたんの木はこの地が社宅街になる前から100年近い年月を同じ場所で生きてきたと考えられる。木を取り巻く怪異については現地でお話を聞くことはできなかったが、住民の声と市の柔軟な対応によって伐採の危機を乗り越えたこの木は、現在も地域のシンボルとして愛されていることが分かった。

 

謝辞

 最後になりましたが、本論文作成にあたって室蘭市の方々には大変お世話になりました。突然の訪問にもかかわらず丁寧に対応してくださり、貴重なお話をしてくださった松浦日出光様、浜長隆様、成田弘様、平井克彦様、調査にご協力いただいた全ての皆様に感謝申し上げます。皆様の温かいご協力がなければ、今回の調査を行うことはできませんでした。お忙しい中時間を作ってくださり、快く調査にご協力いただきまして、感謝の念に堪えません。今後の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈りしております。本当にありがとうございました。

 

参考文献

社宅研究会,2009,『社宅街 企業が育んだ住宅地』株式会社学芸出版.

成田弘,2018,「あんぽんたんの木は五朔松と呼ぶが相応しい」『茂呂瀾 室蘭地方史研究』52:6-11.

北海道近代建築研究会,2004,『道南・道央の建築探訪』北海道新聞社.

北海道Likers,2018,「室蘭市の愛されクロマツ『あんぽんたんの木』」(https://www.hokkaidolikers.com/articles/4718,2019年9月9日にアクセス).

室蘭市・北海道新聞社,2012,『室蘭の記憶―写真で見る140年』北海道新聞社.

室蘭民報WEB NEWS,2017,「室蘭・知利別町の道路の真ん中に立つクロマツ伐採へ」(http://www.muromin.co.jp/murominn-web/back/2017/08/24/20170824m_01.html,2019年9月9日にアクセス).