関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

室蘭の漁業

社会学部 3回生

岸上 祐梨子

 

【目次】

はじめに

1.室蘭市の漁業と漁村

2.イタンキ漁港

3.イタンキのウニ・ホタテ・ナマコ

  (1)ウニ

  (2)ホタテ

  (3)ナマコ

4.結び

謝辞

参考文献

 

 

 

はじめに

北海道の南西部に位置する室蘭市は三方が海に囲まれ、太平洋側の津軽海峡を抜ける対
馬海流と噴火湾(内浦湾)側の千島海流の境目を持った栄養豊富な漁場に恵まれた地形をしている。室蘭市は「鉄の町」として有名であるが「製鉄だけじゃなくて、北海道の漁業といえば胆振地区¹!と言えるほど漁業もすごい。その胆振地区の中でも室蘭市のイタンキ漁港は一番魚が獲れる」とイタンキ漁港の漁業者は話す。本研究は、一番漁獲量が多く漁業者も多いとされる漁港、イタンキ漁港に焦点を当てた実地調査によって得られた情報を記述したものとなる。

 
胆振地区¹:胆振総合振興局のこと。北海道南西部に設置された北海道の総合出先機関。1948年制定の北海道支庁設置条例に基づき,胆振支庁として設立。2009 年制定の北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例に基づき,現名称となった。総合振興局所在地は室蘭市。所管区域は,室蘭市,苫小牧市,登別市,伊達市,豊浦町,洞爺湖町,壮瞥町,白老町,安平町,厚真町,むかわ町の 11 市町。

 

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胆振地区(赤色の
部分)

 

1.室蘭市の漁業と漁村

実地調査の焦点に当てたイタンキ漁港について記述していく前に、先ずは室蘭市全体の
漁業と漁村のことについて触れておく。北海道室蘭市にはイタンキ漁港の他に絵鞆漁港、追直漁港、崎守漁港(五十音順)の三つの漁港があり、全部で四つの漁港が存在する。平成 31年4月の現段階での室蘭漁業協同組合には正組合員 70 名、準組合員 15 名の計 85 名の漁師が存在する。漁業を行っている人の人数は漁港ごとに、イタンキ漁港 29 名、絵鞆漁港 25名、追直漁港5名、崎守漁港6名である。最年少の漁師は 27 歳で、一番ご高齢の方は 91 歳にもなる。個人事業主として漁師になってしまえば定年退職の概念はなくなるため、漁師は自分の好きなだけ続けることができる職業であると言える。早朝から仕事が始まることがほとんどの漁師の家は 60 軒ほどあり、自分が漁を行う漁港の近隣に住む人が多いようだ。漁港によっては室蘭漁協自営定置番屋という県外から来た漁師の方々が生活を送ることができる、シェアハウスのような施設がある。この番屋も漁港のすぐそばの場所に位置している。  室蘭の漁業と漁村についてはこれぐらいにして置き、これ以降は私が焦点を当てて現地調査を行ったイタンキ漁港について詳しく記述していく。

 

2. イタンキ漁港

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  室蘭市全体の地図(青い印がイタンキ漁港)


 イタンキ漁港は室蘭市の東側に位置している。レポート冒頭の“はじめに”も記載した通り、室蘭市内で一番の漁獲量を誇っており、漁業者の人数も一番多いのがイタンキ漁港だ。漁港のすぐそばに一家に一軒の組合漁業の賃貸倉庫があり、倉庫は漁を行うための道具を置く物置場としてだけではなく、ホタテの養殖に使う網の修理や捕獲したウニの大きさを測る選別作業を行う作業場としても利用されている。 年中仕事がある漁師の方々のお休み事情はというと、毎週日曜日が休みになっており、また、一年で 200 日以上漁業に従事するという規定を満たせば日曜日以外も休むことは可能だそうだ。やはり北海道は冬の時期は寒さや雪で漁を行うことが難しいようだ。私が現地調査を行った6月ではバフンウニ、むらさきウニ、ホタテ、ナマコの漁が行われていた。続いてそのウニ、ホタテ、ナマコを通してイタンキ漁港の漁の様子を記述していく。

 

3. イタンキのウニ・ホタテ・ナマコ
(1) ウニ イタンキ漁港では5月から6月末にかけてバフンウニとむらさきウニの二種類のウニが捕獲される。漁ができる時間、場所、獲れる量は規定されており、満潮は沖取(おきどり)、干潮は陸取(おかとり)という名前の獲り方を行っている。私は沖取の時期に偶然にも漁を終えた漁師の方々がちょうど漁港に帰ってくるというタイミングを訪れたので、以下の①~⑤までの一連の流れを目の当たりにすることができた。
 
① 車を使って船を陸にあげる
② 車に捕獲したウニを移す
③ ウニを乗せた車を倉庫まで運ぶ
④ ウニの大きさを選別する(画像1)
⑤ 市場へ持っていく
 
④のウニの選別というのは、ウニの大きさを7センチ以上のもの、5センチ以上のもの、5センチ以下のものの三種類に分ける作業である。ほとんどは漁師さんの熟練の目によって手際よく分けられるが、判断することが難しいサイズのものはウニ専用のものさしを使って確認される(画像2)。5センチ以上のウニは市場に運ばれるが、5センチ以下のウニは海に返す決まりになっている。  私が訪れた前日は陸取だったそうで口頭だがその漁の様子を知ることができた。陸取の時はスーツを着て素手でウニを獲るそうだ。船の上は基本的には女人禁制とされており、満潮時の漁は男性の漁師が船に乗って行うが、陸取は一家族に一人であれば女性も漁を行うことができるそうだ。

 

 
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③ウニの大きさ選別(画像1)           ものさしを使った大きさ調べ(画像2)
 
調査中に倉庫でゆっくりとウニの選別を行っているご夫婦がおり、話を伺っていると「せっかく遠方から来たから」と、獲れたてのバフンウニを試食させてくださった(画像3)。イタンキ漁港で獲れるウニはとてもクリーミーで濃厚な味わいだった。生まれて初めて食べたウニが室蘭市で獲れるバフンウニとはとても贅沢なひと時だった。ウニのえさは昆布だそうで、昆布がたくさんいる岸で獲れるウニがより良いものが多いということがわかった。 試食中、ウニの中には必ず5つ身が入っているということに気が付いた。市場へウニを運ぶ時間が迫っていたので当時はそのご夫婦に聞くことができず、関西に帰宅しなぜ5つなのか調べた。結果ウニは棘皮動物というグループにまとめられていて、生殖巣が房状に5つになっているからだということが分かった。自分の中の疑問を自分の力で解決するのも現地調査の醍醐味の一つだと感じた。
 

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とれたてのウニ(画像3)
 
(2)ホタテ
ホタテはイタンキ漁港だけではなく、絵鞆漁港、追直漁港、崎守漁港でも行われている。イタンキ漁港ではホタテを養殖する際に、「ざぶとん篭」という篭状の網を使用して稚貝を育てている。私は偶然にも倉庫でホタテの養殖に使う「ざぶとん篭」を修理している親子と出会い、お話を伺うことができた。 この「ざぶとん篭」を使ってどのように養殖するのかというと
 
① 5~6月に成貝が産卵し、ホタテの幼生が浮遊幼生²となって海中を漂い始める
② 産卵の時期を測らって「さいびょうき」を海に入れる
③ 浮遊幼生が「採苗器」に付着する
④ 「採苗器」に付着したも幼生貝を「ざぶとん篭」にうつす
⑤約8~9か月で稚貝ができる(画像6)
*③④⑤の間は、篭は海に下ろしたまま
 
「ざぶとん篭」を海に下ろす際は、あみ同士の接触によって網が傷つくことや、中に入っている貝に傷をつけないよう、海底に接触しないようにしなければならない。また、成貝にするためには「ざぶとん篭」から稚貝を取り、別の作業へと移行する必要がある。3年という長い期間はただ待つだけではなく貝を磨く作業や天敵から守る努力を続ける必要がある。長い時間をかけて育てるということは手間もかかれば、天災のリスクだってある。環境の変化に伴い成貝にすることが難しくなってきており、イタンキ漁港ではリスクを減らすためにも稚貝まで育てたものを売るという方法を主にとっている。そのイタンキ漁港で育てた稚貝を組合長の室村氏にご厚意でたくさんいただいたが、食べてみると身がぷりぷりしていて、ぎゅっとしまった歯ごたえあった。私が人生で食べてきた中で一番おいしいホタテだった。
 
浮遊幼生²:海水中を泳ぎ回るプランクトン生活をする幼生のこと
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「ざぶとん篭」(画像4)               「ざぶとん篭」修理現場(画像5)
 

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 ホタテの稚貝(画像6)
 
(3)ナマコ
ナマコは 10 月~6月半ばの間漁が行われている。ナマコはかつて低価格のものとして扱われていたが、現在は中国での需要が高まり高級品として扱われている。そのためイタンキ漁港でも盛んに漁が行われていた。環境や時代の変化に伴って獲れる魚、売れる魚が変化していくのは面白いなと感じた。 
 

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水揚げされたナマコ(画像7)

 

4.結び

以上、今回の実地調査によりわかったことは室蘭市が栄養分豊富で良質の良い魚が獲れ
る地形に恵まれており、そこには4つの漁港が存在しているということ。一番漁業者が多く、一番漁獲量が多いとされている私が調査において焦点を当てたイタンキ漁港では、6月にウニ・ホタテ・ナマコを中心に漁を行っているということだ。イタンキ地区の漁業者の方が最後に私にこう話した。
 
「昔高く売れていたカレイが今では安く、昔安く売れていたナマコが今では高く
売れています。環境の変化によって獲れる魚も当然変わってきます。今獲れる魚
達にも付加価値を付けて高く売り出していく、そんな知識を使いながら漁を行う
時代がそろそろやってくると私は思います」
 
ベテランの漁師でもあるその漁業者の長い目で見た漁業に対するこの見解は、これからの漁業を担っていく若い世代の漁師の方々に一日でも早く一人前になって頑張ってほしいというエールであった。まだない発見や環境や時代の変化に合わせた新たな発見が室蘭市にはあるだろう。
 
 
謝辞
今回現地調査を行う中でたくさんの方と出会いお話を伺ったが、室蘭の方々は誰もが温厚で親切でした。どこの誰なのかも分からない私を快く受け入れてくださり、ご飯をご馳走してくださった方も入れば、帰りは宿まで送り届けてくださった方もいました。こんな素敵な方々に獲ってもらえるのであれば、きっと魚も喜んでいるだろうと素直にそう思いました。そして、いつも当たり前のように食べている海で獲れる魚や貝がどれだけ大変な努力があって私たちの元に届けられるのかということを、たった三日間に渡る調査だが知ることが出来て本当に良かったと思います。きっとこれから海で獲れる生き物を見るたびに室蘭で出会った漁師の方々の顔や会話思い出し温かい気持ちになると思います。出会った皆様本当にありがとうございました。
 

新宗教の形成と現在―天照教の事例—

社会学部 3年 光田凌樹

 

 

【目次】

 

はじめに

 

1.天照教開教以前

 

2.天照教開教後

 

3.信者 今村清子氏

 

4.信者 寺下悦子氏

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

 

はじめに

天照教は 1953 年(昭和 28 年)に北海道の室蘭市で、教祖を泉波希三子、管⻑を泉波秀雄と して開かれた新興宗教であり、天照大御神、大国大神、恵美須大神を祀る神仏習合の宗教で ある。

 

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1. 天照教開教以前 助産婦であった泉波希三子と教師であった泉波秀雄が稚内で出会い結婚するが、管⻑が結核を患い、教員保養所が唯一あった洞爺湖へ行く。教祖は兄の勝男が住んでいた室蘭へ移住 する。当時教祖は不治の病とされた結核に対して、医療の面だけでなく、宗教の面でも助け を求めるようになり各地で様々な宗教に出会った。ある時、洞爺湖温泉に素晴らしい神の先 生がいると聞き、管⻑の見舞いに行く途中に御嶽教照浜教会を訪ねた。教会⻑の浜口テリは 教祖が訪れると、「あなたがここへ来ることはわかっていた。あなたが来たとき赤十字の帽 子をかぶっているのが見えた。あなたは神様にお仕えしなければならない人だ。」と言い、 それを聞いた教祖は感動し、管⻑とともに浜口テリのもとへ訪れる。そして、管⻑は前世か ら神様に仕える人であるから、教師でいるべきではないと神様が伝えようとしているのだ と言われ、二人は悩んだ末に浜口テリのもとで修行を始める。そして修行を始めて 4 日目、 管⻑に天照大御神からの口開きがあった。

 

「吾は姫神じゃ、姫神じゃ。今日から汝の守護神として、汝を守ろうではないか。汝に 力と徳を与えようぞ。ゆめゆめ忘るまいぞ。戦争に負けてしまい、神も仏もないという人が 多い世の中となった。全く真っ暗な世の中となった。何千年前から伊勢の神宮の神としてお 祀りされ、多くの人がお伊勢様としてお詣りをしてくれてはいるが、今こそ、トビラを開い てお願いするのだ。神代時代、天照大御神の時代にしてくれ、これが神の願いであり頼みで ある。この願いを聞いてくれれば何でもしてやるぞ・・・。」(櫻井義秀ほか 2003:55)

 

この他管⻑を通じての神様と教祖のやり取りは数日間繰り返され、そのやり取りから二人 は信仰に身を捧げる決意をする。口開きにあった言葉は教祖がノートに書き留め、布教して 周る際のおみくじとしてまとめていた。そして二人は北海道内各地へと天照大御神の教え を布教して周る。しかしその途中で、神様から教祖へ初めてのお告げがあった。「死んだ病 人を生き返す力を授けよう。主人を北海道外へ『行』に出すこと。」(櫻井義秀ほか 2003:57) 稚内の天理教徒の町で育った管⻑は奈良の天理教本部へと 4 ヶ月間の修行に行くが、心の 拠り所をつかむことができず、照浜教会へと戻った。その後も教祖と管⻑は布教を続け、 1953 年の 5 月 1 日には大国大神、恵美須大神からもお告げがあり、自分たちが仕えるべき 神様を理解したことで修行と布教により専念するようになった。この日を立教宣言の日と

して、天照教としての第一歩を踏み出した。

2. 天照教開教後 立教してまもなく、五月十日に神からのお告げで三週間の「行」が、十月には第二回の「行」 として 21 日間、翌年の八月には第三回の「行」が終わり、それぞれの「行」で、剣、お鏡、 曲玉の三種の神器を神様から心の中へと授けられた。それ以後も二人はおみくじをもって 道内各地で本格的な布教活動を始めた。当時はお金が無く、駅のホームで寝泊まりすること もあった。そして神様のお告げを受けて、信仰の拠点を室蘭に置くことにした。神様から室 蘭を拠点にと言われた際、教祖は管⻑の身を案じて神様に、「室蘭は工業都市で空気が悪い から管⻑の体のことも考えて、室蘭はおやめください。」とお願いをしたところ、「室蘭にい ても管⻑の病気が悪くならないようにしよう。」と言われ、実際に結核が悪くなることは無 かったという。室蘭にある教祖の兄の家の六畳一間と押入れを仮神殿とし、その当時の信徒 の数は 5 人だった。開教の翌年の 2 月 1 日には天照教初の月次祭が行われた。その後 1955 年 4 月 6 日に宗教法人「天照教会」と認証され、「おしえどころ」と呼ばれる集会所や布教 所はこの頃から開設され始めた。同月の 20 日には本輪⻄に新たな本部神殿が建立され、こ の頃から天照教の教えを伝える信徒が布教師として養成され、各地に分教会が建てられる ようになった。1971 年には現在の本部が柏木町に移された。1982 年には、泉寿園という名 前の軽費老人ホームが開園し、始めの頃は教祖の親戚などが住んでいた。そして立教 35 年 の年である 1988 年には北島三郎に同行し、ブラジル日本移⺠ 80 周年記念式典に出席し、 困窮する人々を見た教祖はブラジル布教を開始した。三日間の講演が大盛況に終わり、ブラ ジルサンパウロ支部が開設され、1997 年にはブラジルサンベルナルド分教会も設立された。 ブラジル布教開始から 3 年目の 1991 年にブラジル政府から文化功労賞、ブラジル国侯爵 章、ブラジル国王冠章を受章した。そして同年の 11 月 15 日に初代管⻑である泉波秀雄が 逝去した。教祖の娘の泉波希久子の夫、泉波孝幸が 2 代目管⻑に就任し、立教 40 周年の 1993 年の 5 月 1 日に泉波希久子が教主に就任した。45 周年の年に、教団五十年史の編纂へ と取り掛かり、50 周年の年に教団史を作り上げた。その後、平成20年 1 月 1 日に教祖である泉 波希三子が逝去した。そして現在に至る。

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3. 信者 今村清子氏

1950 年生まれの二世信者である今村氏は、幌別町で生まれ育ち、現在は学童保育の預かり 所で働いている。親の入信時期は不明だが、病気関係ではなく子供への心配からの入信であ る可能性が高いと語った。今村氏の天照教への入信経緯は、何となく信じるようになったの が 15 歳のころだと語った。その当時、兼業教会⻑がよく自宅へ訪問していて、8 人兄弟が 教会⻑を囲って話を聞いていた。今村氏は神様を信じておらず、当時は吃音症だったために、 教会⻑に話しかけられるのも嫌だったという。そんな今村氏を見た教会⻑は不信心を見抜 き、「神様を分かるようにしてあげる。君は学校に行く時足を痛めるから 1 週間塩払いしな さい。」と言われた。今村氏は気味が悪いと感じたがそれを実践することなく本当に足を痛 めてしまい、そこから母親と一緒に教会へ通うようになった。当時はまだ何となく信じるだけで、家にいても拝むほどでは無かったが、高校受験の時偏差値の高い学校に受かるために、 朝 6 時半の電車で教会へ通い無事に合格することができた。また就職においても、当時家 が裕福でないにも関わらず、銀行に就職が決まった。今村氏は「自分と一緒に面接を受けた 美人は落ちたのに自分は受かったから、神様のおかげだと思えた。」と語った。今村氏は何年か時間をかけて、神様という存在を信じるようになった。また今村氏は自分が体験した息 子との不思議な経験も語ってくれた。ある時今村氏がいつものように拝んでいると、上にか けてある丸い鏡に逆三角形のような⻲裂が入っているように見えた。しばらくすると鏡は 丸い形に戻ったが、不吉な何かを感じた。そして息子が仕事をしている時に工場で事故があ り、レンズのガラスのほぼ全てが目に刺さってしまった。事故をした日は、仕事がいつもよ り早く終わり、いつも自分の仕事を手伝ってくれている人の仕事を手伝っていたら事故が 起こったという。すぐに日鋼病院に連れて行かれ、今村氏は本部へ向かいご祈祷をした。教 主に慌てておみくじを見てもらうと、「心配ない。本人が一週間本部に通ってお祈りすれば失明はしない。」と言われた。今村氏は教主の言葉通り、息子に一週間通わせた。代々目が 見えにくい家系であったが、今村氏と今村氏の親の信仰心で息子が失明することは逃れら れた。今村氏は宗教について、「宗教は常識の最高。不思議な力もあると信じていて、その 有無は信じるか信じないかで変わる。」と語った。

4.信者 寺下悦子氏

1951 年生まれの二世信者である寺下氏は、室蘭で生まれ育ち小学校低学年の時に天照教に 入信した。入信経緯は五人兄弟で育った寺下氏の姉が病気であり、親が心配して色んな教会 をまわっているうちに天照教へたどり着いたからであった。教祖は寺下氏の姉を見て、教会 で住み込みで働かせた。そして病気が良くなり教祖と管⻑と各地を歩いて回るうちに姉は 教会⻑にまでなったという。他にも、寺下氏は夫が腰を病気で悪くした時や、子供の病気を 助けてもらうなど、他にも天照教に救われていると語った。夫が腰を悪くした時、病院では 手術を勧められたが、教祖は手術をすることを否定した。結果、教会に通う選択をした寺下 氏の夫は腰が良くなり、同じ病気で手術をした人は働けなくなったと語った。また、寺下氏 が天照教を信仰してきた中で経験した不思議な出来事を1つ語ってくれた。それは寺下氏 が夢を見た話であった。夢の中で、現実で亡くなった寺下氏の姉の夫が、「自分の母恋の教 会を〇〇してくれ」、という夢だった。寺下氏は〇〇の部分をよく覚えておらず、本人も結 婚して東京に行くつもりであったため悩んでいた。そして教祖にそれを伝えたところ、「そ ういうことだからそうしたほうがいい」と言われ、夫に相談したところ、何故かは分からな いが返事一つで承諾してくれたという。当時横浜に家を買って借金もあったが、教祖が伊勢 の帰りに寺下氏の姉と教主の三人でその家に訪れたところ教祖が、「この家は売れるから大 丈夫」と一言言うと、本当に売れたという。そして寺下氏は夫と北海道に家を建て、教会で 働いていた。しばらくすると教祖から「その土地に居続けるのは良くないから引っ越しな」 と言われた。しかし家も買っていたので教祖からの言葉を聞かず、そこで生活していると、 夫が母恋の教会をやめてサラリーマンに戻ると言い始めた。一度そう言ってしまうとどうにもならないので、寺下氏はその当時、「やっぱり教祖にしたがって別の所に行けばよかったと思った」と語った。

 

5.結び

天照教は 2019 年で立教 66 周年を迎える。66 年間の歴史で様々なことがあったが、それで も地域に根付き、全国各地に信者を増やしてこれたのは、教祖と初代管⻑の働きによるもの が大きいと考えた。

 

謝辞

本論文の作成にあたって、塚越様、成田様をはじめとする天照教に関わる全ての方々、室蘭市民の皆さま、大変貴重なお話を聞かせて頂きました。室蘭で天照教について学び、レポートの作成を終えることが無事に出来たのも、皆様のおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

参考文献

櫻井義秀・本野里志・佐藤寿晃,2003,,『天照教五十年史』山藤印刷株式会社.

霊泉と不動明王ー室蘭市・天神山不動尊清瀧寺の事例ー

社会学部 3年 平江 真紀

 

【目次】

はじめに

1.天神山不動尊清瀧寺

2.霊泉の発見と再発見
 ⑴霊泉の発見

 ⑵霊泉の再発見

3.清瀧寺の建立と展開
 ⑴清瀧寺が現在に至るまで

 ⑵清瀧寺の現在

4.火と水のコスモロジー

結び

謝辞

参考文献

 

 

はじめに
 天神山不動尊清瀧寺は霊泉をもとに生まれた真言宗醍醐派の寺院である。私は北海道室蘭市で行われた社会調査実習において、この寺院について調べた。本レポートそれらの内容をまとめたものである。

 

1.天神山不動尊清瀧寺
 真言宗醍醐派 天神山不動尊清瀧寺は北海道室蘭市天神町19番25号に所在する寺院であり、市民の間では「清瀧不動尊」として親しまれている。開基者は沖本妙道師で、現在は長谷川翠芳師が住職代務を務められている。明治14年に湧き水が発見され、それが霊泉として人々に伝わり、そこに不動尊を祀ったのが清瀧寺の発祥であり、その湧き水は現在でも多くの人に利用され愛され続けている。(保健所の水質検査において飲用として合格している。) そして、清瀧寺は北海道八十八ヶ所霊場,北海道三十六不動尊霊場とされているだけでなく、四国八十八ヶ所すべての御仏像が鎮座しており、宗教宗派を問わず毎日多くの人々が参拝に訪れている。
 また、清瀧寺の各所在は以下のとおりである。天神町を通り抜ける、北海道道107号室蘭環状線の山側にまず、島木・額束などのない清瀧寺大鳥居がある。鳥居をくぐり約70~80メートルほど歩くと清瀧寺の境内に着き、石の狛犬が参道入口の両側に据え置かれている。そのまま歩き進めると左手に本堂があり、右手には丘の下に弘法大師石像、脇には慈母観世音菩薩、延命地蔵菩薩などの石仏が立ち並び、丘の道には八十八体の佛たちが静かに立っている。そしてそのまま奥へ進むと、本堂の奥の院に通ずるところに百度石(百日間の日拝を一日で参詣する場所)が建てられており、突き当たりに室蘭岳を発祥の地とする清瀧寺の霊泉がある。

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清瀧寺の位置(googlemapより)

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(写真1)清瀧寺大鳥居

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(写真2)参道入口

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(写真3)参道入口2

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(写真4)本堂玄関(きよたきのおふどうさんブログより)

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(写真5)清瀧寺八十八ヶ所霊場 御本尊

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(写真6)奥の院

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(写真7)清瀧寺の霊泉

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(写真8)清瀧寺の霊泉 看板

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(写真9)清瀧寺の霊泉 水質検査結果

 

2.霊泉の発見と再発見
⑴霊泉の発見
 明治14年10月のある日、旧仙台藩角田領石川家家中で同郷の3名(高橋要吉,島田平三郎,浅川亀之助)が栗拾いに出かけ、道路を外れて雑草やクマ笹を掻き分け進むうちに小さな沢を見つけ、上流を辿ると小さな瀧に至った。
 当時の生活では、薪の煙で眼を傷めることが多々あったのだが、たまたま同地居住で眼病に悩んでいた高橋辰之助(栄作)がこれを聞きつけ、眼病治癒の為に湧き出る浄水で目の洗浄に通い勉め、ついに治癒した。
 大変喜んだ高橋辰之助(栄作)は長年信仰していた不動尊を自ら刻み、その清らかな小瀧に祀った。(この時の不動明王碑は奥の院に現存している。)
⑵ 霊泉の再発見
 その後時は流れ、大正5年のある夜、母恋在住の行者であった沖本妙道師(のちに開基住職となる人物)が夢のお告げで、東方の山に湧き出る霊水の場所を知らされた。霊水の湧き出る小瀧にたどり着いた沖本妙道師は、そこを修験道場と定め、京都より不動尊像を迎え、簡素な建物(囲炉裏)を建て弟子の養成にあたり、信者や行者をもつようになった。

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(写真10)清瀧不動明王碑 高橋栄作刻 明治14年 (きよたきのおふどうさんブログより)

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(写真11) 清瀧不動明王碑 大正9年8月15日

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(写真12)[1]が高橋栄作氏が自ら刻んだ"不動明王碑"、[ 2 ]は後年に設置された"清瀧不動明王碑"(きよたきのおふどうさんブログより)

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(写真13)開基住職 沖本妙道師

 

3.清瀧寺の建立と展開
⑴清瀧寺が現在に至るまで
 その後、篤き篤志家であった中田仁三郎翁(初代主管)の力により現在の本堂が建立されたのだが、昭和18年 太平洋戦争中で神社および佛閣は、宗教団体法(昭和十四年法律七九号)により、国家の保護と統制を受けなければならず、宗教法人として千葉県成田山不動院に所属し、成田山清瀧寺として独立した。この年に、中田仁三郎翁は、室蘭へ移住後、家業の業績も好調に推移したことを日頃信仰の不動尊の御利益によるものと考え、奥の院の御堂や玉石垣並びに霊水池の新設設備をし、成田山より不動明王像を迎え、当寺に奉納安置をされた。だが、昭和22年、太平洋戦争後には、新憲法のもとで法律も変わり、宗教の自由が原則保障され、宗教関係の規則の改廃になったため、従前の天神山清瀧寺として旧に復し独立することとなった。
 昭和29年には山内に、四国八十八箇所を模し、札所1番「霊山寺」釈迦如来像が建立奉納された(昭和54年に札所88番「大窪寺」薬師如来像が建立され、八十八箇所すべての御仏像が安置された)。そして昭和30年3月、旧地名は山城宇治の古義真言宗醍醐寺派に所属し天神山不動尊清瀧寺として再発足し今日に至っている。
⑵清瀧寺の現在
 清瀧寺は現在まで初代主管である中田仁三郎翁の子孫らが総代として続いてきたが、次の後継者はいない状態である。そして、初代住職の中田妙純師は初代主管の中田仁三郎翁の子だが、その後の住職は1代限りで選ばれており、決して世襲制ではない。そのため、今後の住職も未定であり、その都度その時々で繋いでいる。
 清瀧寺の大きな特徴は信者の寄付で成り立っており、皆で協力して大きくしてきた寺であるということだ。本堂には、壁一面に寄付者の名が記してある木札が掲げてあり、いかに多くの人々が清瀧寺を支えてきたのかということが一目で窺うことができる。清瀧寺は檀家のいない、信者で成り立っている寺なのである。

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(写真14)歴代主管と院代

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(写真15)初代住職と歴代院代

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(写真16)歴代住職

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(写真17) 本堂 御本尊・お不動様

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(写真18)本堂 御本尊・お不動様 2

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(写真19)寄進者芳名表

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(写真20)寄進者芳名表2

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(写真21)寄進者名簿(本堂外)

 


4.火と水のコスモロジー
 清瀧寺は不動明王を祀る寺であり、みなから「お不動さん」と親しまれる不動尊は火の神である。悪を働く者を懲らしめ、神仏の方へ抜けるよう働きかけてくれ、どんなに悪い者でも救ってくれる、力を貸してくれる、そんな存在であるという。鉄のまちとも呼ばれる室蘭には製鉄・製鋼の工場があり、"火"を扱うことが多いことも、不動尊が長年にわたり慕われている理由のひとつであると考えられる。流れ出る湧き水や、岩はだを伝い落ちる清水のところには、諸刃の不動尊の剣が数本たてかけられているのであるが、この剣も不動信仰を示すものである。そのため日本製鉄などの火を日常的につかう方々をはじめとして、火の神である不動尊の剣を奉納される方が多いのだという。(本堂にもたくさん納められている。) たてかけられた不動尊の剣は御神水である、清瀧寺の霊水を守っているのだ。そして、霊水のとなりには龍神様が祀られている。龍神は不動尊のつかいであり、水のあるところに住むとされている。
 住職代務である長谷川翠芳師は「水が清いところには山があり、水があるところには不動明王や龍神がいらっしゃって(大日如来の分身として水があるところには不動明王がいる)、守られている。」と話された。また、「湧き水の空間にいるといろいろなものが離れていくような気持ちがしてすっきりし、自分が持っている嫌なものを落とすことができ、パワー(元気や気)がもらえる。水は浄化する力を持っており、手を洗うこと,洗濯することなどのいろんなものが自然と厄払いになっている。自分が元気でいい気を持っていろんな人たちといい出会いをするためにはその出会いを全て受け入れてくれるような自分でいないといけないため、悪いものは全て落とした方がいい。お水の力はすごい。」と続けられ、清瀧寺における火(不動尊)と水(霊泉)の関係性が窺われた。

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(写真22)不動尊の剣

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(写真23)不動尊の剣2

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(写真24)湧き水(霊泉)と不動尊の剣

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(写真25)清瀧不動明王

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(写真26)龍神様



-結び-
 清瀧不動尊は霊泉をもとに生まれ、檀家はいないが、信者や地域の者など皆に親しまれ守られてきた寺である。その背景として鉄鋼で栄えた室蘭と火の神である不動明王の関係性、地域の者の生活の一部となって愛されている室蘭岳からの湧き水が挙げられる。室蘭という北の地で、なかなか四国をまわれない者のために四国八十八箇所を模し、どの宗派の者でも受け入れ、みなの心の拠り所として存在する清瀧寺と、清瀧寺を守るために度々寄付でそのご恩を返す人々は互助的な関係性を持っていると私は考える。

 

-謝辞-
 今回の調査にあたり、清瀧不動尊の方々には大変お世話になりました。特に現在、住職代務を務められている長谷川翠芳さんには三日間に渡りインタビュー調査をさせていただき、貴重なお話を聞かせていただきました。そしてその中で私自身の心も和やかにそして清らかになっていくのを感じました。ぜひまた訪れたいと思っています。本当にありがとうございました。

 

-参考文献-
・室蘭地方史研究会,1999,『茂呂欄-室蘭地方史研究33号-』.

・きよたきのおふどうさん(室蘭市天神山不動尊清瀧寺ブログ)

http://blog.livedoor.jp/hanamaru_1/,2019年9月26日にアクセス)

新宗教の形成と展開ー天照教の事例ー

社会学部3回生

前 綾華

【目次】

はじめに

1.教祖・泉波希三子

 1-1.立教以前

 1-2.立教後

 1-3.霊能力

2.信者からの聞き取り

 2-1.野本氏の語り

 2-2.小松政夫氏・真澄美氏の語り

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに
 天照教は北海道室蘭市に本部を置く宗教法人である。昭和28年に初代管長である泉波秀雄(以降管長と表記)と、その妻である教祖・泉波希三子(以降教祖と表記)とともに立教された。天照大御神・大国大御神・恵美須大御神の3柱、そして阿弥陀如来を祀っており、神仏習合が特徴である。成立時期が新しいことから、新興宗教に分類される。今回の調査では天照教本部に伺い、本部神官の方、信者の方から聞き取りを行った。

f:id:shimamukwansei:20190929145328j:plain(写真1) 天照教本部

 

 1.教祖・泉波希三子

1-1.立教以前
 天照教教祖である泉波希三子(旧姓、泉澤キサ)は、大正11年5月10日、北海道島牧郡島牧村に8人兄妹の次女として誕生した。昭和21年に看護婦と助産婦の資格を取得後、助産婦として働き、稚内で管長と出会い結婚した。しかしその後管長は結核を発症し、洞爺湖温泉町教育保養所に入院することになった。教祖は救いを求めて洞爺湖にある御嶽教照浜教会の教会長・浜口テリ氏(以降浜口氏と表記)を訪ねた。部屋に入った途端、教祖は浜口氏に「あなたは、神様にお仕えしなければならない星を持って生まれて来た人ですね」と言われたという。その後、管長とともに3日間、浜口氏から不思議な話を聞き、浜口テリ、茂三郎両氏の弟子として修行することを決心した。修行を始めてから数日後、管長に口開きがあった。教祖は管長の口を通して伝えられたご神言を書き取り「神様からのおたより(現在はおみくじ)」と名付け、これを持って洞爺湖周辺を中心に布教を始めた。そして昭和28年5月1日に立教宣言をした。この「おみくじ」は現在も残っており、運勢や社会情勢を占うのに使われている。

1-2.立教後
 立教後、教祖はおみくじを持って道内各地で本格的な布教活動を始めた。当時はお金がなく、駅で寝泊まりすることもあったという。そして各地を回る内に、おみくじの評判が口伝えで広まり、「良く当たる先生がいるらしい」と聞きつけた人々が、教祖の行く先々に集まるようになったという。そこから信仰の道に入る人々も出てくるようになった。昭和28年に教祖と管長は神からのお告げを受け、室蘭の教祖の兄・泉沢勝男が経営する自転車店の2階の押し入れを神殿として御神霊を祀り、信仰の拠点とした。その後、本輪西に独立の神殿を建立し、昭和46年には柏木町に本部神殿を移転して現在に至る。

f:id:shimamukwansei:20190929145412j:plain(写真2)当時の泉沢自転車店(『天照教五十年史』より)   

f:id:shimamukwansei:20190929145829j:plain(写真3)本部神殿 外観
 天照教では「神の道」「仏の道」「人の正しい道」の3つの道を説いているが、教祖は管長から「神の道」を学び、古い信者達から良識・礼儀・教養など「人の道」を、無縁仏との関わりから「仏の道」を学んだという(2-2に詳しく記載)。また、教祖は贅沢をせず、質素な生活をしていたという。赤いセーターにズボンという格好が多く、信者からは親しみを込めて「女先生」と呼ばれていたそうだ。教祖を知る信者曰く、教祖にはいかにも「偉い人」というような近寄りがたい雰囲気は全くなく、気さくで親しみやすかったという。教祖が来ると信者達が自然と教祖の周りに集まり、和気藹々としたそうだ。
 天照教では毎月15日に感謝祭という行事があり、信者が集まる。管長は平成3年11月15日、ちょうど感謝祭が行われる日に逝去したため、月命日は感謝祭と併せて行われているそうだ。管長の死後、教祖は「私はお参りの日に死ぬ、管長先生と同じ日に死ぬから」と言っていたという。本部神官の塚越氏が理由を尋ねると、自分の月命日と管長の月命日を別日に行うのは大変だから、と答えたのだそうだ。そして、その後教祖は平成20年1月1日に逝去した。天照教では毎月1日に月次祭という行事がある。教祖は管長と同じ日ではなかったが、ちょうど行事があり、信者が集まる日に逝去した。

1-3.霊能力
 教祖は霊的な力を持っており、憑霊や予言をしたという。夕張郡由仁町の由仁布教所が開設したばかりの頃、そこに度々「お化け」が出たそうだ。塚越氏曰く、由仁布教所は、かつて「飯場」で、喧嘩をして死んだ労働者の男性2人が土葬されている場所だったのだという。由仁布教場のお化けの正体はその男性2人で、教祖によって「田中」と「竹浦」という名前がつけられたそうだ。そしてそのうち、田中・竹浦は教祖に憑依するようになったという。憑依された教祖の言葉づかいや態度は普段とは一変し、「酒持ってこい!」「俺は白雪(日本酒の名称)じゃなきゃ飲めねぇんだ」などと大声で叫ぶこともあったそうだ。『風雪の日々』によると、教祖に憑依した田中・竹浦は、「オレは由仁の親方であるぞ!」と大声を張り上げ、あぐらをかいて供えられた酒を一升全部ラッパ飲みでがぶがぶと飲むのだという。教祖はこの田中・竹浦の供養を行い、この経験から「仏の道(浮かばれない仏の思いや、先祖供養の大切さ)」を学んだという。「仏の道」は信仰の基本理念となり、現在の天照教の教えに繋がっている。田中・竹浦は本部が現在の場所に移ってからも度々教祖に憑依していたそうだが、立教45周年を迎える頃に、教祖に憑依して「もう旅に出るから」と言ったきり、一切出てこなくなったそうだ。
 教祖は度々予言をし、その予言はよく当たったという。山岸一徳の『あなたは神のお告げを聞いたか』には、教祖が昭和40年に室蘭で起きたタンカーの火災を予言したことや,昭和52年の有珠山噴火を予言したことなどが記されている。また、信者曰く、教祖は富士製鐵(現・日本製鉄)が新日本製鐵に名称を変更した際、「せっかく縁起の良い名前(富士)だったのに残念だね」と苦言を呈し、新日鉄はこれからさびれていくだろうと言っていたそうだ。そして教祖の言葉通り、その後鉄鋼業界の不況により新日鉄は衰退した。

 

2.信者からの聞き取り
 三名の信者から聞き取りを行った。

2-1.野本氏の語り
 野本氏は22歳の時に当時白老にあった布教所(現在はなくなっている)の2代目の方と結婚したことがきっかけで、天照教に触れることになったという。野本氏の実家には神棚や仏壇はあったものの、教えなどは特になかったため、嫁いできて初めて信仰というものに触れたという。そしてそこでいろいろな手伝いをしながら古い信者達から天照教の教えや信仰について学んだそうだ。
 野本氏は天照教の神様に実父の病気を治してもらった経験があるという。野本氏が26歳の頃、実父が病気を患い、医者からは助かる見込みがないと宣告されたそうだ。しかし、義父に「神様に頼んで助けてあげる」と言われ祈祷してもらったところ、病状が回復したという。この経験がきっかけで、野本氏の実家でも天照教を信仰するようになったそうだ。また、野本氏がより深く信仰するようになったのは実母の死がきっかけであるという。野本氏が春の大祭の準備のために本部に来ていた際、実母が事故に遭い病院に搬送されたと連絡が入った。連絡を受け、急いで本部から病院へ向かおうとしたとき、教祖が「わしも一緒に行く」と言い、病院までついてきてくれたのだという。結局実母はそのまま息を引き取ったが、その事故が介護に疲れた実父によって引き起こしたのではないかという疑いをかけられ、実父が取り調べを受けることになったそうだ。教祖はその間も、野本氏の側にいて声をかけ続けてくれたという。その後、実父の疑いは晴れ、検死から実母の遺体が戻ってきて、なんとか葬儀を執り行うことが出来たそうだ。野本氏は自分が一番大変で落ち込んでいた時に教祖に助けられ、感謝していると述べている。そして、教祖に恩返ししなければならないと思ったそうだ。それまでは本部に行くことはあまりなかったそうなのだが、本部の方にも頻繁に奉仕に訪れるようになり、信仰も深まったという。
 天照教では、入信届けなどがなく入信するのもやめるのも自由だという。また、信徒になるための特別な条件や厳しい戒律もないそうだ。だからこそ自分の心で感じ、信仰することが大事であると野本氏は述べている。
 
2-2.小松政夫氏・真澄美氏の語り
 小松政夫・真澄美夫妻は現在、札幌福神支部に在任しており、政夫氏は神官を務めている。政夫氏が天照教を信仰するようになったきっかけは彼の父親にあるという。政夫氏の父親は元々漁師の網元であったが、ニシンの不漁のため、分家して八雲町に引っ越してきた。父親は冬に室蘭へ出稼ぎに行っていたので、おそらくその時に教祖と出会い信者になったのだろうという。そして、教祖に「そこにいたら兄弟がばらばらになる。室蘭に来なさい」と言われ、一家全員で室蘭に移住した。政夫氏は若い頃は熱心に信仰していなかったそうだ。しかし、ある日胃痛で苦しんでいた際に、神棚にあげてあった水を飲んで手を合わせ祈祷したところ、胃痛が治まったという経験から、神の存在を認め、信仰するようになったという。二世信者である政夫氏に対して、真澄美氏は結婚するまで、天照教のことは知らなかったそうだ。挙式を本部で挙げるということになって、初めて天照教のことを知ったのだそうだが、信仰心を持つことはなかったという。しかし、その後長男の病気をきっかけに信仰するようになる。かつて、当時3,4歳だった長男が髄膜炎で意識をなくし、危篤状態になったことがあるという。その際に親族の「こんな時こそ神様に頼もう」という提案で、天照教へ電話し祈祷を頼むことになったのだそうだ。姉が政夫氏の代わりに病室の外まで電話を掛けに行き、政夫氏は病室内で待っていたそうなのだが、姉が電話をかけ「お願いします」と言っているのが病室内にも聞こえていたという。そして、姉が電話を切り病室に戻ってくる足音が聞こえた瞬間、長男の意識が戻ったのだそうだ。真澄美氏は当時、次男産後一週間であったためその場にはいなかったそうなのだが、後にこの話を聞いて、信仰するようになったと述べている。
 また、2人は不思議な夢を見ることがあるという。真澄美氏は、稀に教主(泉波希久子氏)が夢に出てくることがあるそうだ。自分や家族に大きな異変があるときにだけ、事前に夢の中でお知らせをしてくださることがあるという。真澄美氏はこのような不思議な夢は滅多に見ないのだそうだが、政夫氏は頻繁に不思議な夢を見るという。聞き取りを行う1ヶ月ほど前、政夫氏は脳梗塞で入院していたそうなのだが、脳梗塞を早期に発見できたのは不思議な夢のおかげでもあるという。一ヶ月ほど前、政夫氏はひどい目眩がしたため、病院で点滴を打ってもらったそうだ。医者から再度受診することを勧められていたそうなのだが、当初はそのつもりはなかったという。しかし、その晩の夢に「壁掛け時計が頭に落ちてきた人」と「首がない人」が出てきたという。政夫氏は夢見が悪いと思い、心変わりをして再度受診をしたところ、脳梗塞と診断され即入院することになったのだという。その後、真澄美氏が自宅に戻り神棚に手を合わせようとしたところ、神棚の鏡が奥の御堂側に寄りかかるように倒れていたという。これがもし手前側に倒れていたら、供えてあった水などを巻き込んで大変なことになっていただろうと述べている。2人はこの出来事を、神様が守ってくれているということを分かりやすく教えてくれたのだろうと解釈しているという。
 2人は現在の天照教について、2代目管長や教主と信者の距離が近く、直接話すことができ、相談に乗ってもらうこともできるので、天照教の信者は恵まれていると述べている。また、昔から今も変わらず、家族的であると述べた。

 

 結び
 今回の調査で、教祖・泉波希三子氏は人々を引きつける魅力を持っていたということが分かった。また、天照教の特徴として、入信届けなどがなく入信するのもやめるのも自由、厳しい戒律がない、他の宗教を否定しない、教団のトップと信者との距離が近いという点があげられ、自由度の高い教団であるということが分かった。
 聞き取りや資料などから教祖が優れた霊能力を持っていたということが分かったが、それだけではなく、教祖自身の人柄が多くの信者の心を引きつけ、天照教の発展に繋がったのではないかと推察する。

 

【謝辞】
 今回の調査にあたり、快く受け入れてくださった天照教本部の皆様、並びにお話を聞かせてくださった信者の皆様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献
・櫻井義秀監修,本野里志・佐藤寿晃編,2003,『天照教五十年史』天照教.
・泉波希三子,1980,『風雪の日々 天照教史空知支部編』天照教.
・泉波希三子,1994,『ノストラダムスの予言は回避できる』ハート出版.
・泉波希三子,1988,『天照大御神様のお告げ』,天照教.
・山岸一徳,1991,『あなたは神のお告げを聞いたか 未来を予言し福を呼びこむ天照教のすべて』現代書林.
・天照教HP(https://www.tenshokyo.net/,2019年8月24 日にアクセス)

工都室蘭の鉄鋼マン

社会学部 3年 宮本 悠花

 

【目次】
はじめに
1章 日本製鋼室蘭製作所(日鋼)OB 伏木晃氏
1-1 技術職につくまで
1-2 営業の仕事
1-3 郷土史家としての現在
2章 日本製鉄室蘭製鉄所OB 山中克美氏
2-1 新日鉄高等工業学校時代
2-2 新日鉄での仕事
3章 日本製鉄室蘭製鉄所OB Ⅽ氏
3-1 最盛期の室蘭
3-2 仕事と寮
結び
謝辞


はじめに
 鉄の町として1970年頃に大きな盛り上がりを見せた北海道室蘭市には、町を支えた多くの鉄鋼マンがいる。日本の成長を支えた重厚長大産業で働いた鉄鋼マンのライフヒストリーを通して、室蘭という町が鉄鋼マン、そして室蘭の人びととどのような関わりを持っていたのかについて調査した。製鉄と製鋼の違いについて、製鉄は鉄鉱石から銑鉄(鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして作る)を製造する工程、製鋼とは銑鉄から鋼を製造する工程を言う。

 

1章 日本製鋼室蘭製作所(日鋼)OB 伏木晃氏

 

1-1 技術職に就くまで
 昭和17年、室蘭市母恋町に生まれる。母恋町は現在のJR母恋町から500mほどの距離にあるエリアでかつて中心地であった室蘭駅とも非常に近い。日鋼も目と鼻の先にあり、室蘭港フェリーターミナルや日鋼記念病院などがあるエリアである。中学卒業後の16歳で日本製鋼室蘭製作所(以後、日鋼)に入社し、以後52年間勤続した。伏木氏は「養成校」の8期生で3年間通っていた。「養成校」とは日鋼の中にある私立の工業高校で、中学卒業後に日鋼に入社した人が通った。伏木氏もこの養成校で午前は学校で座学を勉強し、午後は機械仕上工として現場で働いていた。養成校卒業後、そのまま現場で数年勤務した伏木氏は21歳のときにさらに多くを学ぶため、室蘭工業高校(当時4年間)に編入して2,3,4年生の3年間設計を学んだ。設計を学んだ後は仕上げ工に戻るが、当時の部長から「設計を募集しているから、室蘭工業高校で設計を学んだならどうか」と言われ設計部門へ移る。機械仕上工は技能職、設計部門での仕事は計画書や図面を作成する技術職(=今の総合職)であったため、伏木氏は日鋼の中でもめずらしく技能職と技術職(=総合職)の両方を経験した。伏木さんの家系は祖父、父、伏木さんと3代鉄鋼マン、日鋼では戦時中からの名残で情報が外に漏れないように、身元が知れている人は採用されやすかった。

 

1-2 営業の仕事
 平成4年、伏木氏が50歳の時に、朝突然所長室に呼ばれ九州支店のある福岡天神町へ営業職として移動するように言われる。当時伏木氏は、九州石油で技術指導しており、福岡支店長とも付き合いがあったため、専務から直接支店長に推薦された。営業の仕事は、室蘭で生まれ暮らしていた伏木氏にとって、人脈が広がり大きな分岐点となった。営業の仕事として長崎の三菱重工で発電機のローターの営業や、大分製鉄所、三菱下関等を回るものなどがあり、福岡支店の年間売上高の半分を売り上げたこともあった。伏木氏は、単身で赴任後も福岡の市内を室蘭ナンバーの車で走っていた。そこで出会った人たちといまだに付き合いがあり、沖縄の知り合いとはマンゴー(沖縄)⇔さんま(北海道)の送りあいをしている。

 

1-3 郷土史家としての現在
 8年間営業の仕事を務め、福岡から室蘭へ戻って札幌支店を経た伏木氏は、日本製鋼所迎賓館の「瑞泉閣」の館長を6年間66歳まで務める。瑞泉閣は当時皇太子であった大正天皇が室蘭に行啓された時に宿泊施設として建築された。67歳で館長を退職すると、国内旅行業務取扱管理者の資格を取得、さらに観光ツアーガイドの会を立ち上げ、室蘭の工場夜景の案内等を行っている。しかし、JXTGエネルギー室蘭製造所が2019年3月31日で事業所化したことで工場夜景の今後は未定である。そのほかにも知り合いにパソコン教室を頼まれ、隔週でパソコン指導も行っている。伏木氏は私家本を書かれている。私家本第五作では、『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった井上角五郎翁』を制作、井上角五郎(福沢諭吉に弟子入りし同じ思想を持っていたとされる)が製鉄・製鋼事業を起こし、室蘭を鉄の町にしていったか、製鋼所設立の経緯にあたりイギリス工場の視察や歴史、また製鋼所の福利厚生、現在の小学校の社会科の授業での鉄の町の生い立ちなどの内容が記されている。現在は、東京都町田市在住の方からの執筆の依頼で、戊辰戦争時の官軍参謀・世良修造について書いた「~怨讐を超えて~ 官軍参謀 世良修蔵」を執筆したところである。さらに伏木氏は、大学で開かれる研究フォーラムシンポジウムで講演を行ったり、「朝日新聞×HTB北海道150年室蘭を鉄の街にした男」のテレビ取材を受けるなど、現在も郷土史家として幅広い活動を行っている。

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伏木氏が編集・印刷・製本した私家本


2.日本製鉄室蘭製鉄所OB 山中克美氏

 

※現在の正式な社名は「日本製鉄株式会社」であるがライフヒストリーなので当時の社名を使って「新日鉄」と呼んでいる
平成31年になって、戦前の「日本製鐵」と区別するためと、鐡という字にこだわりがなくなり日本製鉄となった(それまでは鉄は金を失う、と書くため好まれていなかった)
ライフヒストリーでは一般的に使われていた「新日鉄」を使用する

 

2-1 新日鉄工業高校時代
 昭和27年、当麻に生まれる。当麻は北海道上川郡にあるエリアで旭川都市圏の東の玄関口と呼ばれている。山中氏は、中学三年生の11月、富士製鐵室蘭高等工業学校のテストを受け合格。テストの倍率は7倍であった。中学卒業後、富士製鐵高等工業学校に入学。山中氏の学年では、一学年は43人おり、普通科と工業化のどちらの内容も学ぶため夏休みが短いことが特徴であった。当麻から室蘭へ移り、一,二年生は富士製鐵の学生寮、その後学校寮の収容人数が少ないことから、三年生になると近い人は自宅通学、遠方からきている生徒のうち一部の人は市内の高砂町にある緑が丘寮(社員寮)に移り入社後も同じ寮で生活する。製鐵会社の社員寮は天神町には桜が丘寮、知利別会館のあたりには大卒社員の如水寮があったが、今は輪西寮に高卒・大卒・女性社員が集約されている。二年生の頃、実習で3交代(当時から製鐵会社は24h稼働)職場の製鋼工場の現場へ入った。三年生の2・3学期は、製鐵所内で保全業務の実習も行った。新日鉄工業高校には、山中氏のように地方から出てきた人が多く、室蘭市内から入学した生徒は少なかった。学校を辞めた人以外はほとんどが昭和45年に富士製鐵から新日鉄へ変わり新日鐵の卒業一期生として入社した。

 

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如水寮

 

2-2 新日鉄での仕事・楽しみ
 官営製鉄所と聞くと多くの人が八幡製鐵所を思い浮かべるが、戦後の財閥解体により、旧日本製鉄は八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社に分けられた。高度経済成長の景気や朝鮮戦争の景気に支えられ、富士製鐵は重厚長大産業として大きくなった。この八幡製鐵と富士製鐵二社の合併により新日鉄が発足した。この合併は山中氏の入社の前年、昭和45年の出来事である。会社では、保全業務を行う「整備課」(40∼50人ほど配属)で働いていた。会社に保全課ができたのは昭和29年であった。整備課は各工場にずっと張り付いて日常的にずっといるといった勤務形態で、突然トラブルで呼び出しがあることもあったという。呼び出しは月1ペース、多い人で2,3回ある人もおり、自分の時間を過ごしていても呼ばれるとすぐにタクシーで向かった。そのため、誰かに呼び出しがかかることがあるため職場で旅行に行くときは近場が多かった。山中氏は高砂にある緑が丘寮(第一、第二)に住まれていた。寮の後は港北町の社宅、その後家を購入した。新日鉄ではある一定の年齢になると社宅の家賃が上がるようになっており、現在は会社自体が社員に持ち家させる制度がある。昭和60年前後に室蘭製作所が縮小し転勤するひとが多くいたという。当時の転勤は数年おきに転勤するというものではなく、北海道から千葉、愛知、大分などへ場所を変え仕事の内容も変えるといったものであった。これは当時の鉄鋼マンにとって大きな悲哀であった。中島本町に新日鉄系列のお店「ビアキャビン」がありそこでよく宴会が行われ、ジンギスカンなどをしたという。

  

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ビアキャビン


3.日本製鉄室蘭製鉄所OB Ⅽ氏

 

3-1 最盛期の室蘭
 C氏は昭和27年、室蘭から150キロほど離れた空知地方の岩見沢で生まれる。高校3年生の夏休みに、学校の斡旋で高校卒業後に室蘭製鉄所への入社が決まる。C氏は昭和45年に新日鐵一期生として入社、新日鉄は43年から45年頃、人を多く採用しており室蘭の人口も18万人ほどいたという。親も鉄鋼マンが多い日鋼とは異なり、新日鉄は室蘭外からも多く採用が行われ、いろいろな地域の学生が室蘭へ集まっていた。C氏もその一人であった。入社当時は人力しかなく、「仕事は腕」を粋に感じて、皆が主体的に働いていたという。新規の工場が増え、今は一機になってしまった高炉も当時は四機あったため栄えていた。当時、仕事は見て覚える時代であり人とのつながりをとても大切にしていたそうだ。当時と比べ、現在の飲食店の数は半分ほどに減少、室蘭は鉄鋼の町として栄えたが、鉄鋼の力に頼りすぎたと感じることもあった。新日鉄では、スポーツが盛んで軟式野球には百チームほどあった。寮対抗運動会なども行われたが、現在チームの減少により行われなくなった。

3-2 仕事と寮
 当時は東室蘭駅よりも東の輪西・室蘭エリアが最も栄え、ボーリングがはやった時はみんなでやった。C氏は桜ヶ丘寮に入っており、輪西で飲み会をしたときはそこからタクシーで天神町にある桜ヶ丘寮に帰った。毎日の通勤で新日鉄には各寮から出るバスで通っており、急な呼び出しにはバスで向かったという。寮以外にはスーパー「ARCS中島店」のあたり一帯に木造の社宅があった。白鳥台のあたりが最初にニュータウンになり家を買う人もいた。当時、登別に「山水荘」という会館があり安く使うことができたため、利用することもあった。また、中島本町の「ビアキャビン」にもよく行っていた。やはり、新日鉄で働く鉄鋼マンに愛された店であることがわかる。さらに当時は、輪西駅で降りると赤雪が舞い鉄のにおいがしていた。赤雪は鉄粉が舞ったものが雪のように見えることから赤雪と呼ばれ、それほど活気ある鉄の町だったことを表している。新日鉄は工場が24h稼働のため三交代制(甲乙丙番)であった。乙番は15時から22時半までの担当であった。C氏は、高炉で働いていたのちに設備部の電気関連の仕事へ、その後出向して数年後新日鉄に戻る。60歳で退職し、65歳までの五年間シニアで働いた。

 

結びに
 今回の調査では3人の鉄鋼マンにお話を伺った。この調査を通して、以下のことが分かった。
・井上角五郎の尽力により室蘭という地が鉄の町として発展した。
・新日鉄は八幡製鉄と富士製鉄の合併により発足した。
・鉄鋼マンになった経緯は人によってさまざまである。
・会社に、企業内工業高校があった。

 

謝辞
 本論文の作成にあたって、多くの室蘭の方々にお話を伺いました。お話を伺った皆様にこの場でお礼を申し上げます。
お忙しい中、私の質問に丁寧に答えてくださり、室蘭を案内していただいた日鋼OBの伏木様、新日鉄OBの山中様、C様、お話を伺うために知り合いの方に連絡を取ってくださった居酒屋『まんまる』店主 丸山様、皆様の温かいご協力に感謝申し上げます。初めての室蘭という地で論文を作成できたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

 

室蘭の座敷わらし

 社会学部 3年 山木 麻椰

 

【目次】

 はじめに

1 座敷わらし

2 東北地方との比較

 2-1 東北地方の座敷わらし

 2-2 東北地方との比較

むすび

謝辞

参考文献

 

はじめに

 今回お話を伺った室蘭のある飲食店では従業員の間で共有されている不思議な話がある。この飲食店は室蘭の繁華街に位置している。お店の方によると、お店を設計する時には方角に気をつけ、開店する時にはご祈祷とお祓いもしたということだった。そして、このお店の従業員の中には霊感が強い人が多いことも特徴で、不思議なお話をたくさん伺っていく中である発見をすることができた。

 

1 座敷わらし

 いきなりではあるが、このお店には子どもの霊が存在する。従業員の方々は座敷わらしのようなものとして捉えていると、いくつかの話を教えてくださった。

 1つ目は、元の従業員も現在の従業員も霊感のある人は皆見ているという子どもの霊で、5番のテーブルににこにこ笑っている男の子がいるというものだ。5番のテーブルというのはお店が開店した当初から変わらずにある唯一のテーブルで、一本の木からできているテーブルであることが特徴である。一本の木から作られているということもあり、その木自体についているではないかという話も出ていた。他には4番のテーブルでも男の子を見たという話もあったが、5番のテーブルにいることが多いということがわかっている。

 この男の子はにこにこ笑っていることが一番の特徴かと思われる。幽霊というと怖いイメージがあるが、にこにこ笑った男の子がそのテーブルにいるのを想像すると、どこか可愛らしいイメージが湧くかもしれない。その子にとっては5番のテーブルはお気に入りの大好きな場所なのであろう。

 2つ目は、ある従業員の方の持ち場の洗い場からお店の通路が見えるようになっているのだが、その通路を小さい男の子が走っていったというお話である。この方は霊感があり、2回その男の子が走っていくのを見たそうで、楽しそうだから遊びに来たのではないかという感覚だったと教えてくださった。男の子の年齢は5歳から6歳くらいの身長だったという。

 3つ目は、1組の家族が入店した時のお話で、ある従業員の方がその入店した家族を見た時、父・母・息子・娘の4人家族だったはずが、その家族がついたテーブルに行くと、女の子はおらず、トイレに行ったのかと思ったが、家族に直接聞くと、3人家族だったという。この従業員の方も霊感が強いためこの女の子が見えたのだろう。この女の子は大体3、4年生くらいだったということもお話を聞いてわかっている。この3人家族について入ってきた霊なのか、お店に遊びに来た霊なのか、もともとお店にいた霊なのかはわからないが、このお話で初めて女の子の霊も存在することがわかった。

 4つ目は、このお店の料理長が体験したお話で、このお店には二階に上がると壁に鏡がついているのだが、ある日ふと料理長がその鏡を見ると小さい男の子がうつっていたという。料理長も霊感が強いため、その子を見たとき怖さは全くなく、どうした?お腹空いたの?という感覚だったという。料理長は「その子が名札でもつけて、そこにどうして欲しいのかも書いてくれたら何かしてあげるかもしれないけどね」と冗談交じりにおしゃっていた。

 私は霊は見たことはないが、何度か怪奇現象を経験したことはあり全て何かを伝えるために起きていたものだったため、このお店に現れる子どもたちの霊は何を伝えるでもなく、何かいたずらをする訳でもなく、霊感のある人には姿を見せるというのは不思議だった。この子どもたちの霊はなぜこのお店に留まっているのだろうか。また、店主はこの子どもたちの霊はお店の守り神として捉えていると教えてくださった。

 

<座敷わらし話>

 1, 4番と5番のテーブルに男の子がいる

 2, お店の通路を男の子が走っていた

 3, 4人家族のお客さんが娘のいない3人家族だった

 4, 二階の鏡に男の子がうつった

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▲資料1 4番のテーブル

 

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▲資料2 5番のテーブル

 

2 東北地方との比較

2-1 東北地方の座敷わらし

 私が知る座敷わらしは東北地方の家に現れる小さい子どもの霊で家の守り神のような存在でもあり、人の目に触れるとその家が傾くと言われているが、最近ではテレビで座敷わらしの存在を放送しているのが印象的である。

 川島(1999:226)によれば、座敷わらしの特徴は、常には目に見えないもので、神像や神体として視覚化して崇めることもしないものであるという。座敷わらしが目撃され、出現する場所は東北地方で民家の奥座敷と呼ばれるところで、祝儀や不祝儀などの非日常的な時に使われ、他には客を迎え入れ泊める公的な空間であるとしている。また、座敷わらしのわらしというのは男女問わず子どものことを示すという(川島1999:232-233)。私は北海道出身のためわらしが子どもというのは北海道の方言でもあることで知っていたが、どこに出現するかという詳しい場所までは知らなかった。現代の家で言えば仏壇が置かれる仏間やお客さんが泊まる床の間というイメージであろう。

 座敷わらしの目撃者としては、その家の人が目撃することはほとんどないが、「家のおばあさん」が座敷わらしを目撃することがあり、その「家のおばあさん」とは、イタコと同様な巫女的な役割を果たしていると考えられ、いわば家の者と座敷わらしの媒介者であったと思われるとしている(川島1999:241)。イタコとは簡単に言えば東北地方に存在する口寄せができる人である。

 そして、座敷わらしは人の目に触れないのが一番なのである。川島(1999:254)によれば、「ザシキワラシに限らずに、東北地方では、ある家の繁栄を支えていたものが人の目に見えるようになるとその家が没落するという言い伝えがある」という。しかし、現在、座敷わらしに会える旅館や場所が存在し、その中での怪奇現象や存在を示すようなテレビの放送、ネットの書き込みがあり、座敷わらしのあり方が変化していることは一目瞭然であろう。今では座敷わらしを見ると幸せになれるとされている。

 岩手県遠野市にある早池峰神社では年に一度「ざしきわらし祈願祭」が行われており、川島(1999:257)によれば、「一年に一度のこの祭日には、ザシキワラシが居ると感じた家で、早池峰神社から以前に授けてもらった『ザシキワラシ人形』を持ち寄り、神職から魂を入れ替えてもらうことを主眼としている」という。遠野市観光協会の公式サイトによると、今年は4月29日に開催されている。この祭りでは座敷わらしの人形を作り、座敷わらしを視覚化していることがわかる。

 このように、もともとは人の目に触れるとその家が没落すると言われていた座敷わらしが、現在では見えると幸せになれるや人形という目に見える形で表されている。座敷わらしに会える場所は早池峰神社も含めパワースポット化していると言えるだろう。もはや、家の守り神でもあり、幸福をもたらす神でもあるのだろう。

 

2-2 東北地方との比較

 東北地方の座敷わらしの特徴を見るとこのお店に現れる子どもの霊との共通点があることがわかる。

 このお店の子ども霊が目撃される場所はお店の中の様々な所ではあるが、従業員全員に見えるわけではではなく霊感の強い人に見え、従業員の間で小さい子どもの霊の話が共有されていることを見れば、この霊感の強い人たちがこのお店の従業員と座敷わらしの媒介者であるということだ。現れる頻度も常にというわけではない。そして、早池峰神社の座敷わらしの人形のようなものを置くことはしていないし、そのように視覚化して崇めることもいていない。また、お店の守り神としてこの子どもの霊を捉えている点から東北地方にもともと伝わる座敷わらしの存在と類似する。

 このお店に子どもの霊が現れることは従業員の間でしか知られていないが、これがお客さんをはじめ様々な人に伝われば現代の座敷わらしの特徴である座敷わらしに会える場所としてパワースポット化することは間違いないであろう。

 そして、このお店の従業員の方々は子どもの霊が姿を見せても祓うことはせず居させてあげていることが子どもの霊にとっては居心地が良い理由の1つなのであろう。悪さをしないから祓う必要がないともおっしゃっていたが、それが結果としてお互いに守り合っているように思われた。そのため、子どもの霊が見えたからといってお店が没落することはなく、いつも明るく賑わっているのは、守り神としての役割を果たしているのかもしれない。

 このように東北地方との類似点を見ればこのお店に現れる子どもの霊は北海道の座敷わらしと言えるのではないだろうか。

 

むすび

 今回お話を伺うことで、北海道の室蘭にも座敷わらしがいることを発見することができた。このお店に現れる座敷わらしは守り神としてお店の繁栄を少しでも支えているのかもしれない。このお店の座敷わらしが居続けているのは、このお店がお客さんにとって居心地が良いように、座敷わらしにとっても居心地が良いからであろう。お店に入ると明るくて、活気にあふれ、美味しそうな香りが漂っている、そんな雰囲気につられて一緒に楽しんでいるのではないのだろうか。そしてお話を伺って、このお店の店主、奥さんをはじめ、従業員の方々の人柄の良さがこの世だけでなくあの世からも愛されるお店である理由であることがわかった。「座敷わらしからも愛される飲食店」ますますの繁盛は間違いない。

 

謝辞

 今回協力していただいた皆さんありがとうございました。皆さんにとっては日常茶飯事のお話だったため「たいした話じゃなくてごめんね」とおっしゃっていましたが、私にとってはとても貴重なお話でした。たくさんのお話ありがとうございました。そしてゼミ生一同大変お世話になりました。益々の繁栄を心よりお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献

川島秀一,1999『ザシキワラシの見えるときー東北の神霊と語りー』三弥井書店.

遠野市観光協会公式サイト,2019,「遠野のイベント」,

(https://tonojikan.jp/event/0429-5/, 2019年8月30日にアクセス).

島村ゼミ4回生 研究旅行

島村ゼミ4回生 研究旅行

2019.18-20 和歌山県熊野地方

2019.9.18
・東牟婁郡太地町(太地町立くじらの博物館)
2019.9.19
・東牟婁郡那智勝浦町(熊野三所大神社=浜の宮王子跡、補陀洛山寺、熊野那智大社、青岸渡寺)
・西牟婁郡白浜町(白浜温泉)
2019.9.20
・田辺市(旧田辺城下町、闘雞神社、南方熊楠顕彰館・南方熊楠邸)

【勉強した本】
・五来重『熊野詣:三山信仰と文化』講談社学術文庫、2004年
・豊島修『死の国・熊野:日本人の聖地信仰』講談社現代新書、1992年
・鶴見和子『南方熊楠』講談社学術文庫、1981年
・熊野太地浦捕鯨史編纂委員会編・橋浦泰雄著『熊野の太地 鯨に挑む町』平凡社、1965年

 

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鉄のまち室蘭の鉄鋼マン

社会学部3年生 福井 雄一郎

 

【目次】

 

はじめに

 

1章.日本製鋼所OB伏木晃氏

1-1.ライフヒストリー

1-2.伏木さんが語る戦時中の室蘭の様子

 

2章.新日鉄OB平井克彦氏

2-1.ライフヒストリー

2-2.新日鉄時代の生活

2-3.父のライフヒストリー

 

3章.新日鉄OB C氏

3-1.ライフヒストリー

3-2.当時のC氏の生活と、室蘭市の様子

3-3.オイルショックと室蘭新日鉄

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

はじめに

 室蘭市は北海道を代表する工業都市であり、北海道を代表する「鉄のまち」として有名である。

 室蘭が鉄のまちとして有名になった背景に、井上角五郎という人物がいる。『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』には、「福沢諭吉の慶應義塾を卒業後、福沢の命を受けて朝鮮(現韓国)に渡り、国王殿下の顧問として、韓国新聞の発行に携わり、教育普及と殖産の必要性を説き、人民の生活安定が国力の増進であると奔走する。北海道へ渡り、北海道炭礦汽船を経営し、日本製鋼所や北炭輪西製鉄場(現在の新日鉄住金室蘭製鉄所)を創立し、両社は共に創立100周年を超えて、世界屈指の大企業を築いた偉大な人物である。」(伏木2016:1)と、彼を述べている。彼の活躍により、室蘭は北海道を代表する鉄のまちとして発展し、栄えていったのである。そして、イギリスのアームストロング社と提携し、アームストロング砲と呼ばれる大砲を日本国内で製造した。日本国内で大砲を製造したのは、これが初めてであり、この事から室蘭は軍事的にも重要な都市として発展した。

  室蘭市は製鉄所と製鋼所の両方が存在する。製鉄所と製鋼所の両方を構えている都市は日本でも数少なく、岡山県倉敷市、千葉県君津市、そして室蘭市の計3市のみである。

 製鉄所と製鋼所には相違点がある。製鉄所とは、銑鉄の製造から鋼製品の製造までの銑鋼一貫作業を行う製鉄工場のことである。一方製鋼所とは、製鉄所のように鉄や鋼材や鋼板といったものを製造するだけではなく、鉄や鋼材や鋼板を用いて切削、鋳込みといった加工をし、複雑な製品を作るところであり、かつては軍事関係のものも製造していた工場の事を指す。軍事関係のものを製造していたため、外部に工場内の情報を流すことが禁止されている。そのため、原則外国人労働者の勤務は許されていない。また、日鋼には今でも通常の社員でも入れない一画がある。

 本レポートでは、製鉄所で働いていた方と、製鋼所で働いていた方にお話を伺って得た情報をもとに、室蘭の鉄鋼マンの生活と、当時の室蘭の様子について述べてゆく。

 

※新日鉄住金室蘭製鉄所は、2019年4月より日本製鉄室蘭製鉄所に社名変更している。

 

1章 日本製鋼所OB伏木晃氏

 

 (1)ライフヒストリー

  1942年5月、室蘭市母恋にて生まれる。1958年に中学を卒業してから、日本製鋼所室蘭製作所に入社する。父が日鋼の社員だった事が、日鋼入社への動機であった。父が日鋼を退職した年に日鋼争議が行われた。争議中の会社の資金は少なく、父の退職金はあまり出ず、社宅を出て自立する余裕がなかったから、子である伏木晃氏が日鋼に入社せざるを得なかったという入社背景がある。

 しかし、日鋼への入社は一般的には難しかったようだ。日鋼は当時軍事関係のものを作っており、絶対に情報を外部へ流す事が許されなかったため、基本的には日鋼の社員の身内か、一部の優秀な日本人しか入社できなかった。外国人労働者は、当時断固として日鋼での労働を許されなかった。

 日鋼入社後は、日鋼の養成校に入学する。午前中は学校で勉強し、午後は主に現場で仕事(技能職)をするのが、一日の流れであった。養成校には三年間通う事となった。

 1962年、室蘭工業高校(定時制)へ編入する。当時は21歳であった。彼は2年生として入学し、3年間通う事となった。この頃から、技能職や技術職の資格を取ったりしていたという。資格を取るにつれ、社内での地位も上がり、地位に比例して社宅の質も向上したようである。そのため、資格の勉強は熱心に行っていた。

 1965年、室蘭工業高校を卒業後、技術職につく。技術職とは、現場で図面を作る指導を行ったり、設計などを担当する職をさす。いわば現場の司令塔である。技術職に就く前は、技能職として働いていた。

 1992年、日鋼九州支店(福岡)に営業職として赴任する。室蘭で友人と食事に行った時、地元の支店長に気に入られ営業を勧められた事が、営業職についた理由であった。このとき彼自身営業はしたくなかったが、上司からの勧めということもあり、断る事ができなかったという。単身赴任として福岡に渡り、天神で営業をしていた。もともとは3年契約で、九州で営業を行う予定であったが、実際には8年間九州で営業を行った。「本来ならば営業をしたくなかった」と語っていたが、実際に営業を行ってみると、営業が一番楽しい仕事であったという。年間で11億円の個人売り上げを取ったほどある。天神での営業が主であったようだが、三菱長崎、大分製鉄所、三菱下関、沖縄石油など、九州の至る場所で営業を行っていた。九州で親しくなった人とは今でも親交が深く、友人からマンゴーを貰ったり伏木氏が友人にサンマを送ったりしている。

 2000年、伏木氏は室蘭へ帰任し、札幌支店後方支援をした。

 2003年、日本製鋼所迎賓館「瑞泉閣」の館長を勤め、2009年に瑞泉閣を退職した。瑞泉閣は、『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』によると、「明治44年9月、当時東宮殿下であった大正天皇が室蘭に行啓された際、宿泊施設として建設された。」(伏木2016:104)大変歴史のある施設である事が分かる。

 

(2)伏木さんが語る戦時中の室蘭の様子

  鉄鋼所があり、製鉄所もあった室蘭は、軍事的にも大変重要な場所であった。そのため、室蘭は戦時中に爆撃を受け、大きな被害が出たようである。市街地に被害が出る中、どうしても鉄鋼所と製鉄所は爆撃から守る必要があった。両者とも、爆撃から守るよう様々な工夫がなされたようである。

 製鋼所は、武器や大砲をはじめとした軍事関係のものを主に製造していたため、特に守る必要があった。そのため、製鋼所の建物は少し特殊な形をしている。写真(下)をみるとわかるように、製鋼所の屋根はギザギザした特殊な形をしている。屋根をこのような形にした理由は、このような形にする事で工場内の明かりが上空から目視できなくなり、敵の爆撃を避けることができるからである。

 製鉄所にも、爆撃から建物を守る工夫がなされていた。戦時中、室蘭が爆撃により被害が出ている最中、当時の室蘭の人々は製鉄所周りの道路に大量の燃料を撒いた。そして、その燃料に火をつけ、製鉄所周りを黒煙で囲った。そうする事で、敵は製鉄所を目視出来なくなった、もしくは爆撃後の場所だと勘違いし、製鉄所への爆撃を行わなかったそうである。製鋼所と違って、建物の構造上の工夫がなされた訳ではないが、人々の知恵とアイデアが製鉄所を守ったのである。

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資料1 日本製鋼所室蘭製作所


       

2章 新日鉄OB平井克彦氏

 

(1)ライフヒストリー

  1953年、室蘭にて生まれる。父は新日鉄の人であった。1971年、室蘭栄高等学校を卒業する。地元では進学校であったという。当時大学の学生運動が激しく、大学に進学したところでまともに勉強できないだろうと考えていたため大学には進学せず、父の働いていた新日鉄(当時は富士鉄)に入社を決めた。

 しかし、室蘭で鉄鋼マンとして働いていた期間は短く、鉄鋼短期大学選抜派遣システムにより、受験を経て、1973年に私立鉄鋼短期大学(のちの産業技術短期大学)に入学する。1975年、私立鉄鋼短期大学を卒業後に、新日鉄君津製鉄所に入る。平井氏は短大を卒業していたため、君津ではホワイトカラー職として働いていた。(短大に入学する前、つまり室蘭で働いていたときは、ブルーカラー職として主に現場で働いていた。)中国の上海宝山製鉄所へ行って、技術指導をしていたこともあった。

 1988年に、新日鉄を退社する。退社後は、自分のしたいことをしていたという。日本語教師を目指し、札幌まで行って勉強をしていたこともあったという。

 

(2)新日鉄時代の生活

  新日鉄は三交代制の労働システムであった。甲乙丙番で、甲番が7:00〜15:00、乙番が15:00〜23:00、丙番が23:00〜7:00であった。鉄鋼マンの家族は、この三交代の時間に合わせて生活を送ることが大変であった。福利厚生は充実しており、2DK、3DKの間取りの社宅の家賃が月5000円ほどであった。給与も悪くなく、生活するには一切困らなかった。

 新日鉄時代の娯楽は、何だったのだろうか。室蘭で働いている時は、仕事終わりに輪西でよく飲んでいた。現在では室蘭市の中心街は東室蘭周辺となっているが、当時輪西は室蘭市内の屈指の飲屋街として、かなり栄えていた。当時の東室蘭は、何もない場所であった。18〜20歳の青年期は、よくボウリングに通っていた。当時室蘭市内にはボウリング場が8つもあり、どこのボウリング場も大変栄えていた。休日は、2時間待ちなどはザラであったという。ボウリングを投げた後、コーヒーやビールを飲みによく喫茶店や居酒屋などに通っていた。

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資料2 輪西周辺地図 google mapより

この地図の右端にある、中島町付近が東室蘭駅周辺である。

 

(3)父のライフヒストリー

  大正13年生まれ。小学校を卒業した後、13歳で輪西製鉄(のちの新日鉄)に就職する。技術員養成部へいく。

 太平洋戦争勃発後、飛行機の整備兵となる。軍に所属していた時は、最終的に軍曹の地位までのぼりつめた。本当は戦闘に加わりたかったみたいだが、目が悪く戦場に行くことはなく終戦をむかえた。

 

3章 新日鉄OB C氏

 

(1)ライフヒストリー

  1952年、岩見沢市にて生まれる。父は国鉄の社員であった。1970年に新日鉄に入社した。高校からの斡旋で高3の夏に入社が決定し、高校卒業後すぐに新日鉄に入社した。「新日鉄のような大手に入ると、生活も安定するだろう」という考えがあったようである。C氏の入社した年は、会社名が富士鉄から新日鉄に改名した年でもあった。

入社後は、高炉で働いていた。高炉の開口機を手動で開く仕事を任されていた。肉体的に大変な仕事であり、なおかつ危険の伴う仕事であったため、働いていた当初は3年で辞めようと考えていたが、結局高炉で長く働いたのだという。現場での仕事は大変過酷であり、55歳で満期を迎えると同時に、亡くなられる方が多かったという。C氏はこの現象を「満コロ」と呼んでいた。

 仕事を先輩や上司から教えてもらう事はあまりなく、“仕事は見て覚えるもの”であったという。自分から行動を起こさなければ何も得られなかったため、社内の人々といかにコミュニケーションをとるかが、現場で仕事をする上では重要であった。

 オイルショックの影響で高炉が減少したのちは、設備部へ異動し、電気関連のメンテナンスのお仕事をされていたそうである。

 

(2)当時のC氏の生活と、室蘭市の様子

 初めて東室蘭を訪れたときは、町の様子を見て大変驚愕したようである。汽車で室蘭に向かうと、東室蘭に近づくにつれ、赤く黒い黒煙がはっきりと見えるようになっていったそうだ。輪西駅に到着すると、鉄の匂いが充満していた。汽車を降りると、すぐにその匂いがわかった。輪西を歩いていると、金色のラメのようなものが体に付着した。当時の全盛期の室蘭は、町に鉄粉が舞っていたのだという。彼は、町に鉄粉が舞っている事の例えとして、「輪西は冬場に赤い雪が降る」と語っていた。当時の室蘭がいかに栄えた鉄のまちであったかが容易に想像できる。この頃は、室蘭の人口も多かったようである。

 今となっては寂れたシャッター街となった室蘭駅周辺や、輪西周辺は、当時は大変人口が多かった。デパートのマルイも当時は室蘭に店を構えていたほどである。

 C氏は、輪西で仕事終わりにお酒を飲む事が一番の楽しみであった。C氏は乙番勤務であったため、23:00ごろに退勤したのち、仲間と輪西で深夜から朝にかけて飲んでいたと語っていた。飲んだ後、タクシーで自宅まで帰り、午前中は睡眠をとって昼から会社にいって働くというライフスタイルであった。

 

 

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資料3 室蘭新日鉄の様子

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資料4 現在の室蘭市内の商店街の様子

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資料5 栄えていた頃の室蘭市内の商店街の様子

(3)オイルショックと室蘭新日鉄

  C氏が働いていた頃(1970〜1973年)は、室蘭の新日鉄には高炉が4基あったが、1973年、1979年に渡る二度のオイルショックにより高炉の数は減少していき、現在

は高炉の数は1基にまで減った。オイルショックが原因で、高炉以外に人員にも影響が出始めた。オイルショックを機に人員が余るようになり、室蘭にいる従業員は全国の新日鉄に異動した。それの影響もあり、室蘭市の人口は激減した。オイルショック以前はおよそ18万人いたが、現在の人口はおよそ8〜9万人である。

 オイルショックは、室蘭の活気が失われた大きな理由の一つであったのである。

 

結び

 

 今回の研究では、3人の鉄鋼マンOBの方からお話を伺ったが、3人のお話から、鉄鋼マンの生活史のみならず、室蘭の時代背景も把握する事が出来た。3人それぞれのライフヒストリーがあり、もちろん生き方や考え方も異なっていたが、同じ室蘭市に住んでいる人たちとして、共通する事はたくさんあったように思う。また、室蘭の鉄鋼業に従事していた人々は、ずっと室蘭にいたわけではなく、様々な社会的背景を要因に、全国様々な場所で働かれていた事も明らかとなった。

 単に、室蘭の事やその人達の生活史のみを知る事が出来ただけではなく、その方の価値観や人生観も会話中に垣間見る事が出来た。私たちと共通している面もあれば、当然異なる面もたくさんあり、時代や環境が人々の価値観や人生観を形成している事を実感した。

 現地の方々のお話を伺う事によって、その地の文化や変遷を細かく立体的に把握する事ができる。「室蘭市」「鉄鋼業」のような外枠をみるだけでなく、その地に住んでいる人々といった内枠をみる事によって、本当の室蘭の姿が浮かび上がってくるのではないか。

 

謝辞

 

 本論文の執筆にあたり、伏木晃様、平井克彦様、C様には、誠にお世話になりました。

 伏木様、インタビューに協力して頂いただけでなく、室蘭市内を隅々にまで案内してくださり、調査するにいたって大変有意義な時間を過ごす事が出来ました。車で室蘭を一周したり、室蘭名物であるカレーラーメンをご馳走してくださった事は、大変良い思い出となりました。

 平井様、私たちの調査のために様々な資料やお話を用意してくださり、誠にありがとうございました。平井様のお話は大変わかり易く、ご自身のライフヒストリーに加えて、室蘭の鉄鋼所や製鉄所の詳細を隅々まで教えてくださり、それは興味深い内容ばかりでした。

 C様、お時間が厳しい中、私たちのためにお時間を割いてくださり、誠にありがとうございました。C様のお話は、当時の思い出やライフヒストリーを鮮明に話してくださり、鉄鋼マンの生活の様子を色濃く知る事が出来ました。励ましのお言葉などもかけてくださり、本当に貴重な時間を過ごす事が出来ました。

 伏木様、平井様、C様に出会う事ができるようなご縁があり、私は本当に幸せです。伏木様、平井様、C様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。どうかお体にお気をつけて、ご健康にお過ごしなさって下さい。本当にありがとうございました。

 

参考文献

 

・伏木晃, 2016, 『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』

 


 

 

                               

 

民間宗教者と北海道岩木山神社 ―神霊感師 仁和美枝氏―

目次

 

はじめに

1.北海道岩木山神社について

2.神霊感師 仁和美枝氏

 2-1.生い立ちと能力の取得

 2-2.室蘭に至る

 2-3.北海道岩木山神社との出会い

 2-4.神社との繋がり

 簡易年表

3.巫儀の現場

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに

 春学期に実施された北海道室蘭市での調査実習において、私は室蘭市内の神社について調べた。特にその中でも今回は、北海道岩木山神社及びそこの民間宗教者である仁和美枝氏についての調査を行った。

 

1.北海道岩木山神社について

 北海道岩木山神社は北海道室蘭市にある岩木山神社の摂末社の一つである。岩木山神社とは青森県弘前市にそびえ立つ岩木山の麓に位置する神社で、主に青森の人々による信仰が盛んである。

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写真1:弘前市(右下)と岩木山(左上)Google mapより

 室蘭市には現在二つの岩木山神社の摂末社が存在している。室蘭市は新日本製鐵室蘭製鉄所(新日鉄)のお膝元であり、鉄鋼業で発展した工業都市である。かつてそこには「津軽衆」と呼ばれる青森から室蘭市へ出稼ぎに来た労働者が数多くおり、一時期は室蘭市の人口の実に約三分の一を占めていた。しかし当時は出稼ぎで故郷を離れた寂しさ故か、津軽衆同士の間で喧嘩や争いごとが絶えなかったという。そこで津軽衆達の心の拠り所として、青森の人間にとって馴染み深い神社である岩木山神社を室蘭市内に建てたのが室蘭市の岩木山神社の始まりである。

 こうして津軽衆らの手によって、室蘭八幡宮の裏手にある室蘭岩木山神社、輪西地区にある北海道岩木山神社、本輪西八幡神社内にある岩木山神社の計三つの神社が建てられ、津軽衆らによる管理や祭祀が盛んに行われた。しかし戦後の不況で鉄鋼業が衰退するにつれ、津軽衆の中にも地元へ帰る人間が出始め、津軽衆自体の数が減り始めた。その結果津軽衆間の繋がりが弱くなり、津軽衆減少による岩木山神社自体への意識の低下などから祭祀や神社の管理自体も難しくなっていった。その結果2013年には室蘭岩木山神社が廃社となり、現在は二社が残存している状況にある。(金子,2016,258頁)

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写真2:室蘭市内にある岩木山神社三社の位置関係。Google mapより

 しかし室蘭市の岩木山神社が衰退している中、昭和26年に建てられた北海道岩木山神社(写真2:右側)は例外的で、現在でも比較的盛んに活動が行われている。これには昭和38年から神社と関わりを持っている民間宗教者である仁和美枝氏の存在が強く影響していると考えられる。

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写真3:北海道岩木山神社社殿

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写真4:鳥居の裏側 仁和美枝氏の名前が記されている

 

2.神霊感師 仁和美枝氏

 仁和美枝氏は北海道岩木山神社の婦人部長であると同時に特異な力を持つ民間宗教者で、周囲からは「カミサマ」と呼ばれている。「カミサマ」とは青森県の津軽地方における、「神仏と直接的に関わる能力によって祈祷や占いなどを行う人」(村上,2017,4頁)のことを指す。

 

2-1.生い立ちと能力の取得

 仁和氏は如何にしてカミサマとしての能力を持つに至ったのだろうか。彼女は1940(昭和15)年に青森県十和田市で生まれた。彼女は生まれつき目が見えなくなる病を患っており、この病を治すために彼女の母はまだ幼い彼女を連れて日本各地の病院や神社仏閣を訪ねて回っていた。この時点で既に彼女には神に呼ばれるような感覚があり、寝ている間に枕元に白い着物を着て髭を生やした老人が枕元に現れて金縛りに遭うようなこともあった。金縛りは父と一緒に寝ると起きなかったので、彼女は父とばかり寝ていた。彼女自身、自分の目が見えないのは神が仕組んだことで、神が自分を呼びに来ていたのではないかと感じているという。

 そんな旅の最中、仁和氏が4歳の頃のことである。彼女の母が電車の中に居合わせた老婆に病のことを話したところ、板柳にある高増神社と呼ばれる神社に行くといいと言われた。その老婆もまたカミサマであった。その高増神社でお参りを行うと、仁和氏は人を助けるために生まれてきた存在であるから修行をするようにということを告げられた。そうして彼女は八戸にある下沢という場所で修行をすることになった。

 修行を行ううちに一時的ではあるが目が見えるようになったが、まだ完全に見えるようになったという訳ではなく、見える時期と見えない時期とを繰り返すようになった。目が見えるようになって以降は学校にも通うようになったが、当時はいつまた目が見えなくなるのかと内心不安だった。その不安から自殺未遂もするようになり、線路の上に寝そべっていたところを駅員に見られ怒られ叩かれるようなこともあった。

 転機が訪れたのは仁和氏が17歳の夏休みのことであった。当時出会ったセンセイと呼ばれる老婆に岩木山の側にある赤倉山という場所で修行を行うと目が見えるようになると言われ、彼女はそこで修行をすることになった*1。行きは彼女の母とセンセイに連れられて修行場に向かったが、着いた先で21日経つまで帰ってくるな、帰りは一人で帰ってこいと言われ、彼女はそれからの21日間一人きりで赤倉での修行を行った。ひたすらご祈祷をし、辺りが暗くなる度に地面に笹を刺して日数を数え、朝に草木に付く朝露のみを口にする日々が続いた。そして来る21日目、朝日が昇ると目の前が急に明るくなり、遂に目が完全に見えるようになった。彼女は喜びのあまり急いで下山し、母に真っ先にその旨を伝えたという。以来彼女は神と繋がることのできるカミサマとしての能力を身につけた。

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写真5:岩木山の北側に位置する赤倉山(右上) Google mapより

 

2-2.室蘭に至る

 仁和氏は高校卒業後、民謡団の重役であった彼女の父親が取引していた劇団に入り、20歳の頃(昭和35年)に劇団の公演のため室蘭に渡ることになった。当時の彼女には劇団内に想いを寄せる人がいた。しかし劇団内での恋愛は固く禁じられており、恋愛関係が発覚した場合は男女ともに劇団を追い出されることになっていた。そのため彼女はその人に迷惑が掛からないよう、想いを伝えることなく単身で劇団を抜け出し、以降は室蘭で生活していくことになった。

 最初の五日間ほどは東室蘭の駅内の重油ストーブの焚いている側で寝泊まりをしつつ三味線を弾き歌い歩くことで生活していたが、スナックで三味線を演奏した際に親しくなったママに部屋を貸してもらい、それから10年間ほどそのスナックで働くようになった。それと同時期にトヨタの自動車工場にも入社して車の塗装作業もするようになった。自らの能力を用いた占いはこの頃から始めていたという。

  その当時まだ若く世の中のことをよく分かっていなかった彼女は、ある時ミシン会社の集金屋に印鑑と印鑑証明書を渡してしまった。その後数年の間に印鑑は悪用され、やがて東京から1000万円以上の借金を取り立てに人が来るようにまでなってしまった。あまりのことに気が動転した彼女は取り立てに来た人物の滞在する建物に火を点けようした。車を走らせ建物の前まで赴きガソリンを蒔いて、ライターで点火させようとした。しかしどういう訳か、煙草のために常に携帯しているはずのライターが一向に見つからなかった。彼女はその時、神にライターを盗られたのだと感じたという。結局放火を諦めた彼女はそのまま洞爺湖まで向かい、その先で老夫婦の営む旅館に泊めてもらった。老夫婦は憔悴しきった様子の彼女を気遣い、快く泊めてくれたという。借金は後に額を正確に計算し把握した上で、東京で事業をしていた母方の叔父にお金を貸してもらうことで無事に返済することができた。

 

2-3.北海道岩木山神社との出会い

 仁和氏が北海道岩木山神社と関わり始めたのは室蘭での生活を始めて3年経った昭和38年のことである。仁和氏が夜の室蘭を歩いていると、子供を背負った母親が自殺をしようとしている現場に遭遇した。仁和氏は女性を引き止めてその訳を聞こうとしたが、女性はただ助けてと力なく呟くばかりであった。仁和氏はそんな女性を叱咤激励し、警察に連れて行き保護させた。やがてこの事が新聞や口頭などの手段で知れ渡ると、そのことや以前から行っていた占いのことを知った津軽衆が仁和氏の元にやってきた。津軽衆は彼女が赤倉山で修行をしたカミサマであることを知ると、すぐさま彼女を北海道岩木山神社に連れて行き、その先で仁和氏にカミサマとして神社を守っていってもらえないかと頼みこんだ。津軽衆達は衰退しつつあった神社を仁和氏のカミサマとしての能力を用いて再興させようとしたのである。こういったわけで仁和氏はなし崩し的に北海道岩木山神社と関わっていくことになった。

初め仁和氏は毎月一日にのみ神社に赴いて、そこで占いを行った。この頃の仁和氏は17時まで車の工場で働き、そこから20時までカミサマとしての占いを自宅で行い、23時までスナックで働き、2時までは家で日本人形を作るといったように、カミサマの仕事のみならず複数の職業を平行して行っていた。後に彼女は神社の婦人部長になり、それによって神社との結びつきはより強いものになっていった。昭和42年には神社を現在の社名に改名をし、同時に神社は独自の宗教法人として登録された。

神社で行っていた占いによって神社の信仰者は徐々に増えていった。そのため昭和47年には、窮屈になりつつあったそれまでの旧社殿から現在の新社殿へと神社の場所を移動させた。昭和63年には弘前の岩木山神社本山からのキャラバン隊を招き、逆にこちらも15~6人でキャラバン隊を作り本山へ向かうというような活動を始めた。また岩木山信仰に則った津軽太鼓や登山囃子を祭祀で披露するなど精力的に活動を続け、現在に至っている。

また神社の運営に必要となる資金は仁和氏自身が賄っている。そのため現在でも着物の着付けや舞踊などの様々な職業に就いている。

 

2-4.神社との繋がり

現在の神社には津軽衆がいたという名残はほとんど残っていない。現在いる50名程度の氏子達は津軽ではない他府県の出身の人がほとんどである。仁和氏の人柄や占いをしてもらったことによって信仰者となった方ばかりであり、偶然飛行機で仁和氏の隣の席だったことがきっかけでこの神社に参拝している方もいる。かつては津軽衆たちの心の拠り所として建てられた北海道岩木山神社だが、津軽衆達の繋がりはもう存在しておらず、代わりに今はカミサマである仁和氏を中心とした繋がりが形成され、その集団のもとで行われる宗教的な実践によって神社は維持されているといえる。

  

 *1 赤倉山は厳密に言えば山ではなく、岩木山の北麓の赤倉沢を中心とした台地のことを指す。(村上,2017,143頁)

 

【簡易年表】

・昭和15年:仁和氏、青森県十和田市に生まれる。

・昭和17年:2歳の頃から既に神に呼ばれるような感覚あり。

・昭和19年:4歳の頃、各地の病院を巡っていた最中カミサマと出会い高松神社へ。八戸の下沢で修行を行ったところ、一時的ではあるが目がみえるようになる。これを期に学校にも通い始める。以降様々な場所で修行を行う。

・昭和26年:北海道岩木山神社旧社殿が青森県人会によって建てられる。

・昭和32年:17歳の夏休みに赤倉山にて21日間に及ぶ修行を行い、目が完全に見えるようになる。同時にカミサマの能力を習得。

・高校卒業後、父親が取引していた劇団に所属。

・昭和35年:20歳の頃、所属していた劇団の公演で室蘭へ向かうが後に単身で劇団を抜け、以降室蘭での生活を始める。

五日間程度東室蘭駅で寝泊まりした後、スナックやトヨタの自動車工場で働き始める。この頃から既に占いを行っていた。またこの頃に印鑑をミシン会社に貸してしまう。

・印鑑を貸してから数年後に1000万の借金を請求される。

・昭和38年:23歳の頃、自殺しようとしていた女性を介抱したことを知った津軽衆に連れられ北海道岩木山神社と関わり始める。後に神社の婦人会会長になり神社との関わりが深くなる。

・昭和42年:北海道岩木山神社に社名を改名。

・昭和47年:信仰者の増加から神社を現在の場所に移動、新社殿設立。

・昭和63年:岩木山神社本山からキャラバン隊を招くようになる。

 

3.巫儀の現場

 6月8日に聞き取りを行った際、実際に仁和氏に占いをしていただいた。映像の録画や音声の録音をすると託宣の効果が無くなってしまい良いことが全くないということで、占いの儀式の間の撮影録音は一切禁止であった。占いの形式は仁和氏の身体に岩木山の神が降臨し、彼女の身体を介しての託宣を行うというものである。

占いの流れとしては、まず仁和氏が神社の本殿の前に座り祈祷を行う。その際に岩木山の神以外にも天照大神や秋田三吉神社の神など様々な神格の名前が登場する。祈祷を始めてからしばらくすると、彼女が身体を左右に小刻みに揺らし始める。この状態になると神の託宣が始まる。声を放っているのは仁和氏の身体であるが、話をしているのは岩木山の神である。託宣が終わってからは神への御礼などを再び行い、儀式は終了する。

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写真6:正面から見た本殿の様子。

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写真7:社殿内の様子。祭事に用いる津軽太鼓などが置かれている。

 儀式の後で仁和氏に伺ったところによると、託宣を行っている最中は記憶や意識などは一切無く、自身が何を言っているかも直接には分からない。ただ言っている内容が映画の映像のように頭の中を駆け巡るような感覚があり、それと後で客の述べた託宣の内容を踏まえることで、自身の身体が述べた内容を知ることができるということである。また祈祷の間には身体を龍神が締めつけるような感覚があり、やがてその龍神が彼女の頭に噛みついた時に意識が無くなって託宣が始まるのだという。

 占いの時以外にも神からのお告げが来ることはよくあるという。例えば夜寝ている間に夢の中に神が現れて、近々彼女の元を訪れる人の身なりや性格などが告げられ、そしてお告げの後はその特徴と一致した人が必ず訪れるそうだ。また修行で石神山に訪れた際は髭を生やした老人に、カミサマに男は要らない、結婚をしても相手がすぐに早死にするので結婚はしない方がいいと言われ、事実その通りになったということもあった。他にも10年間働いたスナックを辞めた際に神社でお参りをしたところ、神が「よく来た」と言って点いていた蝋燭を龍のような形に変化させたということもあるなど、仁和氏の持つカミサマの能力は非常に興味深いものである。

f:id:shimamukwansei:20190915132449j:plain写真8:神が仁和氏に見せた不思議な現象。蝋燭が昇龍のような形に変化している。

 

結び

 室蘭市にある北海道岩木山神社は、かつて新日鉄に出稼ぎに来た津軽衆達の心の寂しさを紛らわす心の拠り所として建てられた神社であるが、今現在津軽衆たちのつながりはすでに存在していない。代わりにカミサマである仁和美枝氏と彼女の持つ特異な力によって彼女を中心とした新たなつながりが生まれ、その集団のもとで宗教的な実践が行われていることがわかった。

 

謝辞

 今回の調査を行うにあたり、多くの方々にご協力を賜りました。突然の訪問にも関わらず快く応じてくださった仁和美枝様、お忙しい中お集まりいただき、手厚くもてなしてくださった北海道岩木山神社の皆様には大変お世話になりました。このレポートを無事書き終えることができましたのも、ひとえに皆様のお力添えによるものと、深く感謝しております。この場を借りてお礼申し上げます。誠にありがとうございました。

 

参考文献       

・村上晶,2017,『巫者のいる日常―津軽のカミサマからスピリチュアルセラピストまで』,春風社

・金子直樹,2016,『岩木山信仰の伝播についてー主に信仰圏の背景と北海道への展開を中心にしてー』,E-journal GEO Vol.11

 

 

2019 民俗学 サマー・セミナー

関西学院大学世界民俗学研究センターでは、「2019 民俗学 サマー・セミナー」を開催しました。

2019 民俗学 サマー・セミナー

2019年9月2日(月)10:30 ~19 : 00
関西学院大学大阪梅田キャンパス

全体テーマ:「民俗学をいかにつくるか」

開設記念講演

 講演1 島村恭則(関西学院大学教授) 「民俗学をいかにつくるか」

 講演2 山 泰幸(関西学院大学教授) 「哲学カフェと民俗学」

若手シンポジウム「民俗学をいかにつくるか」

第1部 基調報告「民俗学をいかにつくるか」
 三隅貴史(関西学院大学大学院) 「批評とはどのような行為か」
 孫 嘉寧(関西学院大学大学院) 「理論とのつきあい方」
 宮澤早紀(佛教大学大学院) 「現在と向き合う」

第2部 研究実践報告「研究の現場から」
 倉田健太(総合研究大学院大学) 「行為から意識へ―新居浜太鼓祭りにおける喧嘩の変遷―」
 雷 婷(東京大学大学院)   「ローカル芸術としての中国・金山農民画」
 李 軒羽(関西学院大学大学院) 「中国の現代伝説―研究史を中心に―」
 坂元美咲(関西学院大学大学院) 「災害の記憶継承をめぐる民俗学的検討―福井地震(1948)を経験した永平寺町を事例に―」
 市東真一(神奈川大学大学院)  「フィールドとの対話と発見―松本市街地での体験を通して―」
 渡 勇輝(佛教大学大学院)   「日本における民俗学知の形成―大正期の「国民道徳」研究との関連から―」
 山﨑 遼(立命館大学大学院)  「欧米現代民俗学の一例―スコットランドの少数民族トラベラーの研究―」

講評・総括  桑山敬己(関西学院大学教授)

第3部 若手交流会(懇親会)

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招待講演「ディオニュソスとヴァナキュラー: 民俗学的視角とは何か」

2019年7月6~7日に韓国・翰林大学校で開催された国際シンポジウム「ポスト帝国の文化権力とヴァナキュラー:民俗学から日常を問う」で招待講演「ディオニュソスとヴァナキュラー: 民俗学的視角とは何か」を行ないました。

このシンポジウムは、翰林大学校、実践民俗学会、日常と文化研究会の共催、韓国政府教育部、韓国研究財団等の後援により、ドイツ・アメリカ・中国・韓国・日本の研究者が、ポスト・コロニアル状況における文化権力をめぐって、ヴァナキュラーの視点から議論することを目的に開催されたものです。

日本からは、岩本通弥東京大学教授、周星愛知大学教授、山泰幸関西学院大学教授、田村和彦福岡大学教授、門田岳久立教大学准教授、東京大学大学院博士後期課程の川松あかりさんが参加しました。f:id:shimamukwansei:20190708170657j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170703j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170728j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170802j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170842j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170912j:image

地元紙で調査実習の様子が紹介されました。

『室蘭民報』2019年6月11日付朝刊より

 関西学院大学(兵庫県西宮市)社会学部の学生たちが、社会調査実習のため7日から10日まで室蘭市内に滞在し、労働者文化や信仰、風習などについて調査した。市民の協力を得ながら声を聞き取り、飛び込みの取材を重ねて「室蘭像」を浮かび上がらせた。
 現代民俗学が専門の島村恭則教授のゼミに所属する3年生の男女11人。室蘭は鉄鋼や製鋼、造船などの現場で働く労働者が形成した文化が息づき、伝統的な信仰が受け継がれ、戦後は新たな宗教が生まれた地。研究対象となるテーマが揃ったまちとして、地方都市研究の舞台に初めて選んだ。学生らは1人または2人で聞き取り調査し、労働者の生きざまや、地域の歴史を記録した。
 B級グルメとして定着した「室蘭やきとり」が労働者にどう受け入れられ、食べられていたかをテーマに、市内の焼き鳥店をはしごして調査した岩渕香奈さん(20)は「同じ室蘭の焼き鳥店でも地域によって客層や営業形態が違う点が面白い」と感じた。
 8日の夕方、輪西町の八条通りにある老舗焼き鳥店「鳥よし」。すべての焼き鳥を1品ずつ頼み、ソフトドリンクとともに味わいながら店主の小笠原光好さん(81)に質問を繰り返す岩渕さんの姿があった。約1時間の取材で、工場の交代勤務に合わせて営業していたことや、仕事で失敗しても上司が「ここでおしまい」と翌日に持ち越さない場になっていたことなどを丁寧に聞き取った。
 職場でも住居でもない「第3の場所(サードプレイス)」として独自の発展を遂げた焼き鳥店は室蘭を象徴する場所のひとつ。島村教授は「近代の社会は非合理なものをできる限り排除してきたが、サードプレイスやお化けといった非合理なものを人間はなくすことはしなかった。非合理なものをモザイク状に重ね合わせると、まちが立体的に見えてくる」と話す。
 その上で「実習は過去の記憶の蓄積を発掘する術(すべ)を身に付ける練習になる。学生の多くは西日本の地方都市出身。古里に戻ったとき、視野が変わる」と狙いを話した。
 実習の成果は、ストーリー性を持たせたレポートにまとめ、協力者に事実確認をした上で、ゼミのホームページ上に公開する。(野村英史)

http://www.muromin.co.jp/murominn-web/back/2019/06/11/20190611m_03.html

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