関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

労働者のまち・室蘭のやきとり

【目次】

はじめに

1.鳥よし(輪西)

2.浜勝(母恋)

3.吉田屋(室蘭)

4.鳥竹(東室蘭)

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに

北海道室蘭市は「鉄のまち」といわれている。夕張等の空知管内で採取された石炭を、明治25年に敷かれた鉄道で室蘭まで運び、室蘭の港で石炭を積み、室蘭は本州まで送る石炭の積み出し港として発展した。多くの石炭が室蘭に運びこまれ、その石炭によって室蘭に製鉄所と製鋼所の2大工場が誕生した。昭和40年頃、室蘭はそこで働く労働者やその家族が住み、夕方には仕事終わりの労働者が飲食街や繁華街に繰り出し、呑み屋ややきとり屋で飲み食いして帰っていたようだ。

そんな北海道室蘭市は全国的に見ても圧倒的にやきとり屋の数が多い。平成12年11月時点ではやきとり専門店は67店存在し、人口一万人当たりに換算すると6.4店になる。

そんな室蘭市のやきとり屋では室蘭やきとりが売られている。しかし、室蘭やきとりは一般的な焼き鳥とは違う。室蘭やきとりには3つの特徴がある。

1つ目は、鶏肉でなく豚肉を使っている点である。焼き鳥と同じ作り方をしているが、鶏肉を使っていないことからひらがなで「やきとり」という表記が使われている。昭和初期に豚のモツや野鳥(スズメなど)が屋台で串焼きにして多く食べられていたようだ。また、昭和15年には、軍需品の量産や食料用増産のために、豚が飼育されていた。鶏肉よりも安く手に入った豚肉が室蘭やきとりに使われたようだ。

2つ目の特徴は一般的な焼き鳥では長ネギを使用するところが多いが、玉ねぎを使用する点。玉ねぎは北海道が産地であり、長ネギよりも安く手に入り、豚肉との相性が良いため定着した。

最後は洋からしにつけて食べる点である。これは諸説あるが、もともと室蘭やきとりをおでんと食べることが多く、そのおでんのからしにやきとりをつけて食べたことが始まりという話がある。

今回、室蘭やきとりを調査するにあたり、やきとり屋が多く存在する室蘭市の輪西、母恋、室蘭、東室蘭に室蘭やきとりが深く根付いていると考え、この四つの地域にあるやきとり屋を調査することにした。

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写真1.室蘭やきとり

 

1.鳥よし(輪西)

輪西は現・日本製鉄室蘭製鉄所の企業城下町といわれている。製鉄所の労働者の住む長屋社宅は輪西に存在していた。

製鉄所で働く労働者は7:00から15:00、15:00から22:00、22:00から7:00の三つの時間帯に分かれて3交代制で働いていた。そんな製鉄所の労働者は仕事が終わると製鉄所の通用門という出入口から出てきて輪西の商店街に繰り出し呑み屋や、やきとり屋で飲み食いして家に帰っていたそうだ。

昭和50年頃にはアジアやほかの製鉄所の方が安いことから室蘭の製鉄所がなくなってしまうのではないかとうわさされた。製鉄所の労働者は支社に転勤することになったり、新たな労働者が雇われることがなくなったりした。そのため、社員の数を減らしたことで社宅に住む人も減少し、製鉄所の会社も社宅自体を維持することが困難な状況であった。また、長屋社宅は社有地の面積をとり、家庭風呂が付いていない等の企業側にも・住民側にもそれぞれ不便な点もあった。そこで、土地のあまった東室蘭に鉄筋アパ―トを建設し、そこへ移り住んだ。また、昭和40年・50年頃には持ち家制度が導入され、各自の家を建てた。その結果、1980年代には輪西に長屋社宅は少なくなり、製鉄所の労働者は東室蘭へ移り住んでいった。

室蘭は製鉄所や製鋼所、関連会社の労働者を相手に商売を行っていたため、「鉄冷え」や人の移動と同時に商店街も栄えず町の景気が下がってきた。

また、輪西の商店街の店はぷらっと・てついちという複数商業施設に場所を移し、シャッターを下ろす商店もあった。

輪西のやきとり屋として、鳥よしを調査した。鳥よしは室蘭市内で一番古いやきとり屋である。鳥よしが始まったきっかけは昭和8年にまでさかのぼる。現在の鳥よし店主である小笠原光好さんの父、小笠原連之介さんは活版印刷業をしていた。昭和8年、連之助さんは仕事のために母恋から帯広へ出張に出かけた際に旅館の近くにあった「鳥よし」というやきとり屋を見つけた。帯広には軍隊があり、そこから出る残飯で豚を育てており、豚を使ったやきとりが帯広で売られていた。そこで、やきとりの修業を経て、室蘭に「やきとり」を持って帰ってきたことが鳥よしのはじまりである。当時、室蘭にはやきとり屋はなかったため、室蘭のやきとりのはじまりでもあるのだ。

その後、リアカーのような屋台で転々とやきとりを売ることから始め、昭和12年には光好さんの母、小笠原ハツヨさんが人の多い輪西にやきとり屋を構えた。しばしば警察に注意されることもあったが、昭和12年7月3日に警察の許可を得て正式に店舗でやきとり屋を始めることになったのである。

製鉄業が盛んだった頃、輪西には260店舗ほど様々な店舗が存在しており、とても賑わっていた。鳥よしが店舗を構えている通りでは10店舗ほどやきとり屋が営業していた。当時、鳥よしの客層は製鉄所やその関連会社の労働者がよく出入りしていた。鳥よしは三交代の7;00~15;00、15:00~22:00で働く労働者の仕事帰りに合わせて、15:00~23:00で営業していた。

鳥よしに通っていた労働者は鳥よしでその日に会社で起こったことや愚痴を語り合い、上司が注意し、労働者は反省し、失敗や嫌な気持ちを持ち越さずに、次の日の仕事を頑張ろうと意気込んでいたようだ。最後は上司がすべてのお金を払って帰っていく。当時の労働者にとって居酒屋ややきとり屋は話をする場として大切な場として存在していたようだ。

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写真2.鳥よし

 

2.浜勝(母恋)

母恋は日本製鋼所室蘭製作所の企業城下町であった。輪西と同じく母恋には製鋼所の労働者の社宅があったが、高度経済成長期には持ち家制度が生まれ、社宅は(※抜け?)

製鋼所の労働者は、3交代制でA番:8:00から16:00、B番:16:00から24:00、C番:24:00から8:00をローテーションして働いていた。

母恋のやきとり屋としては、浜勝を調査することにした。浜勝は昭和44年に創業したやきとり屋である。浜勝屋の現店主の父はサラリーマンであり、今の浜勝の建物をお寿司屋など他の店に貸していた。サラリーマンを辞めてからは、現店主の母と一緒に今の浜勝の建物でやきとり屋をはじめたのがきっかけである。そこから、今の店主が2代目として店を継いでいる。

製鋼所から正門を通って家に帰る途中のA番、B番で働く労働者の仕事帰りに合わせて、浜勝は16:30から27:00で営業していた。開店までは豚の内臓をゆで、食材を切り、豚肉や食材を串にさして仕込みをしていた。当時浜勝に来る客は製鋼所で働く労働者ばかりで女性や子供は来ることはなかった。席数は40席だったが、常に席は埋まる。5人客でくれば、酒と60本のやきとりを食べるように、やきとりとビールを注文する人が多かった。帰りは、家で待つ製鉄所の労働者の家族にお土産としてやきとりを買っていく人もいたようだ。

浜勝に入るとすぐに席に着き、やきとりとビールが来ると、ビールで乾杯する。最初は野球や車などの娯楽の話をしてその日の仕事のことを忘れようとする。しかし、次第にお酒に酔ってくると、仕事の愚痴をこぼす。上司は酒を飲まずに、部下の愚痴を聞いて帰っていく。

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 写真3.浜勝

 

3.吉田屋(室蘭)

中央町・海岸町辺りの蘭西地域を総称して市民は「室蘭」と呼ばれる。室蘭は室蘭市の中心の町であり、室蘭は市役所や中島屋などのデパートだけでなく、パチンコや映画館などの娯楽施設があり、行政的にも商業的にも栄えていた。そのため、平日の仕事帰りには労働者が職場のある町の商店街で呑み屋ややきとり屋へ寄っていたが、休日になると、室蘭市民は室蘭に繰り出していた。ARCSという大型スーパーの向かい側は、今から50年ほど前までラーメン屋ややきとり屋が屋台を出店し賑わっていたが交通整備をする時に撤去されてしまった。

室蘭のやきとり屋として、吉田屋を調査することにした。昭和21年に現店主の夫の御両親が創業した。今は場所がかわり、三代目の店主が一人で吉田屋を営業している。室蘭が栄えていた当時に吉田屋が店を構えていた通りは飲食街で、近くには繁華街もあり、周囲は飲食店ややきとり屋、人であふれかえっていた。どんな店でも「やきとり」を売っていないと客が入ってこないほど、室蘭に住む人々によってやきとりは人気な食べ物であった。

当時は仕込みが忙しく、吉田屋では豚をさばき、豚の内臓を洗ったり、ゆがいたりして、一日に800本のやきとりを仕込む。仕込みの時は人を雇って3人から5人で9:00から13:00の時間で行い、開店時間の17:00まで睡眠をとって、17:00から吉田屋を営業していた。鳥よしや浜勝は製鉄所や製鋼所の3交代の時間に合わせて営業をしていたが吉田屋は3交代の制度とは関係なく、17:00から21:00で営業をしていた。市役所で働く人々、職工(造船会社や製鋼所で働く人々)といった客層が吉田屋に通っていた。17:00から市役所で働いた人が、18:00以降は仕事終わりの職工が吉田屋に訪れた。夜遅くにはパチンコをした客が、吉田屋に来る。やきとりとビールや日本酒といった酒を売り、多いときにはすべてのやきとりが売れ切れた。

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資料4.吉田屋

 

4.鳥竹(東室蘭)

市の面積が狭く平地が少ない室蘭は昭和50年代になると持ち家の増加等に伴い、さらに狭小地となっていった。人々にとって車社会が一般的になってくると、駐車場が必要となるために丸井百貨店や長崎屋などの大きなデパートは室蘭ではなくたくさん土地がある東室蘭へと移店して駐車場付きの百貨店やデパートが建設された。この大きなデパートの移店によって室蘭市の中心は室蘭から東室蘭へ変わり、室蘭市の人々は室蘭ではなく東室蘭に買い物をしに来るようになった。また、東室蘭にも製鉄所の社宅が存在していた。

東室蘭のやきとり屋として、鳥竹を調査することにした。

店主は20歳まで働いていた親戚のパン屋さんをやめ、雑貨屋を営んだが大きなデパートに勝てないと感じ、丸井が東室蘭に移動すると同時に店主の兄と東室蘭で鳥竹を創業した。

鳥竹では9:00から室蘭市の隣の登別まで豚肉を仕入れに行き、そこから店に戻って仕込みをし、17:30から27:00まで営業していた。製鉄所の労働者や市役所で働く人々が客として通っていた。やきとり屋だけではなくスナックも多い。スナックではお金を払わずツケる人が多かったため、スナックの店主たちは製鉄所の正門で待ち伏せをしていたという話もある。

鳥竹に通う客も出張の人と飲みに来て仕事の話をしていたようだ。

 

結び

今回、輪西、母恋、室蘭、東室蘭におけるやきとり屋の調査を行った。

輪西のやきとり屋では製鉄所の労働者、室蘭のやきとり屋では諸役所で働く人や職工、などそれぞれの場所によって客の対象が違うことが分かった。また、営業する時間も対象としている客のライフスタイルや仕事時間に合わせて営業していた。

やきとり屋で行われる客の会話から、室蘭の労働者にとってやきとり屋は仕事から離れることのできる場所でもあり、翌日の仕事へマイナスな感情を持ち込まないように、その日の仕事の失敗や愚痴を話すことのできる場所であったようだ。やきとり屋は室蘭の労働者にとってなくてはならない場所であったと考える。

しかし、現代では車社会によってバスや電車で仕事に向かい、家に帰ることが多くなり、仕事が終わってもやきとり屋で酒を飲みながら仕事や娯楽について話して帰る人達は少なくなってきた。車に乗るために飲酒をすることができないからである。やきとり屋や居酒屋に寄って帰らずに仕事が終わるとそのまま帰る労働者が多くなった。このことからやきとり屋は衰退しているといえるのではないだろうか。また、室蘭の労働者にとっても仕事や趣味の話ができる時間や場所が少なくなり、仕事仲間や上司とのコミュニケーションがとりづらくなっているのではないかと考える。

 

謝辞

今回、室蘭やきとりを調査するにあたって、鳥よし様、浜勝様、吉田屋様、鳥竹様、室蘭市役所経済観光課のO様、室蘭民俗資料館の津川様に大変お世話になりました。皆様のおかげで室蘭やそれぞれのやきとり屋の歴史、室蘭やきとりについての貴重なお話を深く伺うことができました。本当にありがとうございます。これからの皆様のご繁栄を心から祈っております。

 

参考文献 

室蘭観光情報サイト (最終閲覧日2019年9月13日)

http://muro-kanko.com/eat-buy/yakitori.html