社会学部3回生
田中香帆
【目次】
はじめに
1.新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅
2.闇市から商店街へ
2.1 松浦日出光氏のライフヒストリ―
2.2 知利別町の話
3.あんぽんたんの木
3.1 植えられた経緯(成田氏の調査)
3.2 木にまつわる思い出
3.3 祟りの話
3.4 保存に向けて
結び
謝辞
参考文献
はじめに
北海道室蘭市は鉄鋼業が盛んな町である。中でも日本製鉄室蘭製鉄所は、日本製鋼所室蘭製作所と並んで特に大きな存在であり、昭和50年代後半まで知利別町にはその社宅が立ち並んでいた。今回私は、戦中から知利別社宅で生活してきた方のライフヒストリーを中心に、社宅街にはどんな暮らしがあったのか調査した。さらに、同じ社宅街の中にたたずむ一本の木をめぐる人々の思いや記憶、また地域にとってその木がどのような存在であるのか調査した。ただし企業名については、現在は「日本製鉄株式会社」に名称が変更されているが、今回の調査では「新日本製鐵株式会社(以降『新日鐵』とする)」という名称であった時代のお話を中心に伺ったため、本レポートではこの表記で記述する(北海道近代建築研究会,2004,『道南・道央の建築探訪』北海道新聞社)。
1.新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅
知利別社宅は昭和13年に、知利別町3丁目と4丁目で建築が始まった。構造は木造平屋である(北海道近代建築研究会 2004:154)。室蘭の大企業である栗林商会が所有する牧場であった土地を、新日鐵が譲り受けて社宅が建てられた。知利別社宅の主な居住者は幹部職員や熟練職工で、室蘭製鐵所(旧輪西製鐵所)の社宅の中でも高く位置づけられた(北海道近代建築研究会 2004:154)。通りを挟んで北側には職員の社宅や知利別会館などの福利厚生施設、南側には職工の社宅や商店街、配給所などがあった。知利別会館よりさらに山手には所長などの社宅があったという(図2)。「傾斜地である職員地区では、各住戸は南側に専用の庭を持ち、敷地が高く眺望が良い方から低い方に1級、2級、3級……と立ち並んでいた。つまり、職制が敷地高低差に反映された配置であった」(北海道近代建築研究会 2004:154)。
2.闇市から商店街へ
2.1 松浦日出光氏のライフヒストリー
知利別社宅で育ち、現在も同じ場所で暮らす松浦日出光氏にお話を伺った。日出光氏の父親は元々十勝でうどん製造をしていたが、「新日鐵に勤めていれば軍需工場に行かなくていい」という噂が十勝で広がり、昭和18年4月に家族で知利別町に引っ越してきた。日出光氏は引っ越してきた時のことを覚えていて、夜に到着し、新日鐵の煙突から赤々と火が上がっている様子を「当時はビルとかほかに明かりがないから火事だと思った」と話す。こうして松浦家は新日鐵の社宅に住み始めた。同じ社宅でも職工は四軒長屋の家だったが、役付きの人は通りを挟んで北側の敷地にある立派な一軒家に住んでいたという。地位が上がると引っ越しをして住むエリアが変わり、社宅街の中でもどの場所に住んでいるかで地位が分かるようになっていた。
昭和20年になり、日出光氏が小学2年生の頃、旭川にある母親の実家に疎開した。室蘭艦砲射撃の一週間前のことだったそうだ。艦砲射撃によって新日鐵の煙突が5本のうち2本倒れたという。その後疎開生活は4か月ほど続き、終戦を迎えた。
戦後は新日鐵の従業員とその家族のための配給所があり、従業員はカードを見せることで物を買うことができるというシステムであった。なお、この配給所があった場所には現在ホームストアというスーパーマーケット(写真1)がある。配給所では新日鐵の関係者以外の人は買い物ができなかったため、物資が行きわたらず、住民の間では不満が広がっていたという。しかし戦後の食糧難により、配給所だけでは新日鐵の従業員の分でさえもまかなえない状況になっていった。
当時、日出光氏の母親は闇市で店を出しており、一軒ずつ仕切られた片屋根の店で靴や瀬戸物を売っていたという。闇市は現在楽山公園(写真2)がある場所にあった。その闇市の店の人々が、物資の不足問題を解決するため新日鐵に交渉したところ、土地を安く貸してもらえることになった。そして昭和24年に、闇市からの店を中心とした約20軒の店が集まり、借りた土地に商店街を作った。
これを機に、日出光氏の母親が闇市に出していた店を商店街に移して「松浦靴かばん店」を構えた。その際父親も、十勝でうどん製造をする前に呉服屋で丁稚奉公をしていて商売の知識があるため、勤めていた新日鐵を希望退職して家族で店を営むことになった。そして自宅も社宅から引っ越し、商店街へ移った。日出光氏は持ち家になってから初めて自分の家に蛇口があった記憶があるといい、それまで社宅では共同の水道で、小学5年生くらいの時に水くみの手伝いをしていたのを覚えているという。
商店街ができたことによって住民は自由にものを買うことができるようになった。日出光氏は当時の商店街について、「とにかく流行って流行って流行って…」と話す。室蘭市内で10本の指に入る魚屋のうち4軒か5軒はこの商店街の中にあったといい、「新日鐵の所長さんはじめお偉方の奥さん方がみんな高級魚買うわけさ。だから市場から帰ってくるトラックをみんな待って、並んで買い物をしてくれた」と活気のあった商店街の様子を懐かしそうに話してくださった。
日出光氏は昭和31年に高校を卒業後、両親の店で働き始めた。この頃にはだんだんと客の要望する商品が増えてきていたが、借りた土地の中で店ごとに与えられたスペースは小さかったため商品を置ききれず、店を大きくすることもできなかった。そこで昭和35年に、これからは小さい店ではなく個人の店としてやっていかないといけないという父親の考えにより、商店街から通りを挟んですぐの場所にある現在の自宅場所に店と家を移した(図2)。しかし新しい店と家を建てた翌年に父親が亡くなり、日出光氏の兄が店の社長に、日出光氏は専務となった。
昭和56年、日出光氏が46歳の時に兄との共同経営を辞めて独立し、昭和58年に「有限会社松浦」という名前になった。昭和60年代後半から平成8年までの間は最大で6店舗を経営していたという。
しかし靴の流通センターがあちらこちらにでき、洋服だけでなく靴やかばんも安い値段で豊富に揃うしまむらなどの大型店も増え、さらにはデフレが重なっていたこともあって日出光氏は先の不安を感じ始めた。そんな時に、2番目の兄が経営していたペットショップを譲りたいという話が出た。兄は昭和43年に金魚と熱帯魚の店を始めたが、同年に起きた十勝沖地震の際に魚を飼育する水槽が多く被害を受けたことで愛好者が減り、店は犬や小鳥も扱うペットショップになっていた。結局、ペットショップは日出光氏の次男が勤めていた会社を辞めて継ぐことになり、ペットショップの経営を覚えるために次男は6年間日出光氏の兄の下で修業した。
平成8年に日出光氏の兄がペットショップ経営から退き、店を譲る際に「社長をやってやれ」と兄に言われたことで、日出光氏が社長、次男が専務として店を継ぎ、「有限会社ペットショップ松浦」となった。ペットショップ経営を始めたことをきっかけに、大型店の勢いに不安を感じていた靴とかばんの店を少しずつたたんでいった。そして平成14年には靴とかばんの商売を完全に辞め、ペットショップ一本となった。現在、日出光氏は取締役会長という立場で中島町にあるペットショップ経営を支えている(写真3)。
2.2 知利別町の話
社宅街だった頃の知利別町は、どのような町であったのだろうか。ここまで松浦日出光氏のライフヒストリーをたどってきたが、今回の調査では、波満屋という和菓子屋(写真4)の社長の浜長隆氏にもお話を伺った。波満屋は松浦氏の両親が店を出したのと同じ商店街にあり、現在も商店街に残っているのはこの一軒だけだという。ほかの店は店主が亡くなってしまったり、歳をとって辞めていったそうだ。現在はシャッターが下りていて、空き地になっている場所もあった(写真5)。長年、共に同じ商店街で商売をされていたお二人は、昔の知利別町について当時の様子を思い出しながら語ってくださった。
昔の知利別町はとても賑やかで、松浦氏が蘭東中学校(現在の桜蘭中学校)に通っていた昭和28年頃は、55~60人のクラスが7クラスあったといい、そこから10年ほど後に浜長氏が通っていた頃は15クラスもあったという。
松浦氏は商店街に住んでいた頃、仕事終わりに商店街の若者4,5人で輪西町までハイヤーで飲みに行っていたこともあったと話す。知利別町や隣の中島町にはあまり飲み屋がなく、輪西町の飲み屋やキャバレーが流行っていたそうだ。また昭和30~40年頃までは新日鐵の構内に多くの下請け企業があり、職場の近くに住んでいた従業員らも輪西町の飲み屋まで行っていたという。
人が多くにぎやかだった知利別町の活気のピークは昭和40年前後で、昭和50年頃から室蘭製鐵所では人員統制が始まり、年に300~400世帯が対象となった。そして対象となった世帯は、大分や君津、釜石などほかの製鐵所がある場所へ団体で引っ越していった。社宅から引っ越しをする際、団体でまとまって行くために、従業員家族は荷造りが終わってから出発の日まで、社宅街の中にある知利別会館(当時の名称は職員倶楽部)で生活することになっていた。この会館は、普段は来賓の宿泊や会議等に使われた新日鐵の施設である(写真6)。出発までの仮住まい中の食事は会社が用意し、何日か経つと2日か3日に分けて、〇日の〇時に150世帯、残りは〇日の〇時というように決められて、バスや汽車等で引っ越していった。その年に対象にならなかった従業員やその家族も、ひょっとしたら次は自分たちかもしれないという不安があったそうだ。
人員統制が進むにつれて知利別町の人口は減り、空き地が増えて、開発業者(現在の日鉄興亜不動産)によって社宅が分譲されるようになった。20年以上更地の状態が続いた場所もあり、5年ほど前から現在並んでいるような新しい家が建てられるようになったそうだ(写真7)。最盛期には18万人いた室蘭市の人口は、8万人ほどにまで減ったという。
これまでのお話を伺っている時、松浦氏と浜長氏はあんなこともあった、こんなこともあったと懐かしそうに昔の話をしてくださった。松浦氏のライフヒストリーをお聞きした時には、改めてご自身の人生を振り返る中で、戦中、戦後の時代の生活を思い出し「こんなこと息子にも話したことないよ」と何度か口にされていたのがとても印象的であった。人口が減り、住む人も変わって社宅街から新興住宅地へと町の性質を変えても、にぎやかで活気にあふれた暮らしは人々の記憶の中で色褪せず、いつまでも生き続けているのであろう。
3.あんぽんたんの木
知利別会館前の坂道を下ったところに、一本のクロマツが立っている。その名も「あんぽんたんの木」である。なんともおかしみのある名前であるが、木が立っている場所を見ればその名前に納得がいくだろう。なぜなら、この木は道路のど真ん中に立っているからである。
今回の調査では、この木について詳しく調べられたことのある成田弘氏と、Facebook上で作られた「あんぽんたんの木を見守りたい人達の会」という会の副会長で、木の見守り活動をされている平井克彦氏のお二人にお話を伺った。
3.1 植えられた経緯(成田氏の調査)
あんぽんたんの木はいつからこの場所に立っているのだろうか。室蘭地方史研究会会員の成田弘氏は、過去にこの木の歴史と場所の関係を詳しく調べられたことがある。成田氏によると、この場所が社宅街になる以前の明治39年7月、栗林商会が牧場を創業した際に、スギ、マツ、ヒノキ、落葉樹などを植林したという内容の記述が栗林商会の年史にあり、知利別会館やあんぽんたんの木の場所一帯はその植林が行われた場所であると考えられるという。そして、平成28年8月の台風10号で知利別会館の庭のトドマツが倒れた際、成田氏がその木の年輪を調べたところ約100重であった。そのため成田氏は、樹齢と場所から推察して、このトドマツは明治39年の植林の際に植えられたものであり、同じくあんぽんたんの木もその時に植えられたマツのうちの一本ではないかと考えている。
あんぽんたんの木が立っている道は、昭和15年に知利別会館が建てられた際、近くの道路と会館をつなぐために作られたと考えられている。成田氏の推察ではその時あんぽんたんの木はすでに今の位置にあったということになるが、場所が道の真ん中というだけに、会館ができたタイミングで伐採されても不思議ではなかった。この時木を残す理由になったと考えられることがある。成田氏によると、木の周囲は新日鐵の土地で知利別会館も近くにあるため、地域の人は木の立っている道も会社用地であると思い込んでいたというが、実際は国の内務省の管轄であった。そのため会社側が勝手に切ることはできなかったのである。その道も現在は室蘭市に移管されているが、成田氏は「もし新日鐵の会社用地だったらとっくに切られていたかもしれないね」と笑いながら話されていた。
3.2 木にまつわる思い出
あんぽんたんの木は、何十年もの間住民とともに生きてきた。成田氏は木の近くに昔住んでいたことのある人から話を聞いたことがあり、昔は木の周りに大きな石が置いてあって、学校の帰りにはその石に腰かけて長い間喋ってから家に帰ったそうだ。
また木から800mほど離れたところにある桜蘭中学校では、昔からマラソン大会や運動部のランニングの際の折り返し地点として親しまれていて、木まで一往復するのを「一本松」、二往復するのを「二本松」と呼んでいるという。この木が今も地域の日常に溶け込んでいることが分かるエピソードである。
3.3 祟りの話
インターネットでこの木について調べていると、奇妙な話が度々目に留まる。「木の立地から過去に何度も伐採の話が出るも、そのたびに良くないことが起きて中止になった」、「木を切ろうとした者はみんな亡くなった」、「木を切ると祟りがある」、「木自体ではなく木の生えている付近のどこかの家に霊がいる」「死者が木の下に幾体も埋まっている」など、木を切ることで何かが起こるというものや、死に関するものがいくつか見られた。
これらの書き込みはあいまいな表現が多く、具体的なことが書かれていないのが特徴である。今回の調査でお会いした人の中にも、祟りがあるといった話を実際に聞いたことのある人はいなかった。成田氏によると、子どもたちが「木を切ったら赤い血が流れるんだよ」などとふざけて言うことはあったということだが、地域で広まるほどではなかったようである。
周辺の社宅があった場所には現在新興住宅が立ち並んでおり、そこに住んでいるのは別の場所から引っ越してきた人ばかりだそうだ。昔から木の近くで生活していた人に出会えなかったことは残念であるが、インターネットで見られたような祟りの話が地元の人から聞かれなかったのは、住む人の変化によるものもあるかもしれない。
3.4 保存に向けて
道路の真ん中という立地にもかかわらず今の場所で生き延びてきたあんぽんたんの木であるが、過去に伐採の危機にさらされたことがある。2017年7月、周囲の宅地開発が進み、市有地であった同道路の市道認定が検討されたことから伐採が決定した。そのことが同年8月24日の室蘭民報に掲載されると、市に対してメールや電話による問い合わせが26件寄せられたといい、その中には現在は室蘭市を離れている人からの声もあったそうだ。8月29日にはすでに伐木祈願も行われていたというが、このような反応を受けて市は伐採について再検討する考えを示した。9月末に近隣の桜蘭中学校で開催された学校祭では、長年ランニングの折り返し地点となっていることもあり、多数のクラスが伐採反対を訴える壁新聞を発表したという。
その後、市から依頼を受けた樹木医の診断で木の健康状態は良好であることが確認された。さらに交差点角地の地権者から10㎡を無償で借地することで、木を回避して車が通行できるスペースを確保した。また開発業者の協力により、住民の安全確保のために木の前後にはクッションドラムも設置されることになった(写真9)。そして市は10月6日に、木を現状のまま保存する方針を明らかにした。こうしてあんぽんたんの木は無事に伐採を免れたのである。
Facebookの「あんぽんたんの木を見守りたい人達の会」は伐採が再検討されることが発表された頃に発足し、今回調査に協力してくださった平井氏はこの会の副会長をされている。会のメンバーは70人を超え、タイムラインにて日常の木の様子を報告する内容の投稿をしている。
平井氏は伐採の危機を乗り越えたあんぽんたんの木をこれからも守り続けていくために、室蘭市の保存樹木に指定してもらいたいと考えている。現在指定されているのは高砂町にある室蘭屯田兵入植記念のシンジュ、幌萌町にあるエゾヤマザクラの2本である。平井氏は、全国巨樹巨木の会の会員でもある成田氏とも協力し、活動を進めていくそうだ。
結び
社宅街では職制による地位が住環境に関係していた。そして知利別社宅では、戦後は物資が不足したため闇市の店が中心となって商店街が作られた。戦後を生き抜くための人々の結束は力強いものだったであろう。松浦日出光氏は移転後に両親の店を継ぎ、時代の流れに合わせて経営を続けてきた。にぎやかな時代を社宅街で暮らしてこられた方々のお話は、とても貴重で興味深いものであった。なお、ライフヒストリーは個人の記憶の語りを記述したものであるため、必ずしも年代等が正確なものとは限らない。
また、あんぽんたんの木はこの地が社宅街になる前から100年近い年月を同じ場所で生きてきたと考えられる。木を取り巻く怪異については現地でお話を聞くことはできなかったが、住民の声と市の柔軟な対応によって伐採の危機を乗り越えたこの木は、現在も地域のシンボルとして愛されていることが分かった。
謝辞
最後になりましたが、本論文作成にあたって室蘭市の方々には大変お世話になりました。突然の訪問にもかかわらず丁寧に対応してくださり、貴重なお話をしてくださった松浦日出光様、浜長隆様、成田弘様、平井克彦様、調査にご協力いただいた全ての皆様に感謝申し上げます。皆様の温かいご協力がなければ、今回の調査を行うことはできませんでした。お忙しい中時間を作ってくださり、快く調査にご協力いただきまして、感謝の念に堪えません。今後の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈りしております。本当にありがとうございました。
参考文献
社宅研究会,2009,『社宅街 企業が育んだ住宅地』株式会社学芸出版.
成田弘,2018,「あんぽんたんの木は五朔松と呼ぶが相応しい」『茂呂瀾 室蘭地方史研究』52:6-11.
北海道近代建築研究会,2004,『道南・道央の建築探訪』北海道新聞社.
北海道Likers,2018,「室蘭市の愛されクロマツ『あんぽんたんの木』」(https://www.hokkaidolikers.com/articles/4718,2019年9月9日にアクセス).
室蘭市・北海道新聞社,2012,『室蘭の記憶―写真で見る140年』北海道新聞社.
室蘭民報WEB NEWS,2017,「室蘭・知利別町の道路の真ん中に立つクロマツ伐採へ」(http://www.muromin.co.jp/murominn-web/back/2017/08/24/20170824m_01.html,2019年9月9日にアクセス).