社会学部3年生 福井 雄一郎
【目次】
はじめに
1章.日本製鋼所OB伏木晃氏
1-1.ライフヒストリー
1-2.伏木さんが語る戦時中の室蘭の様子
2章.新日鉄OB平井克彦氏
2-1.ライフヒストリー
2-2.新日鉄時代の生活
2-3.父のライフヒストリー
3章.新日鉄OB C氏
3-1.ライフヒストリー
3-2.当時のC氏の生活と、室蘭市の様子
3-3.オイルショックと室蘭新日鉄
結び
謝辞
参考文献
はじめに
室蘭市は北海道を代表する工業都市であり、北海道を代表する「鉄のまち」として有名である。
室蘭が鉄のまちとして有名になった背景に、井上角五郎という人物がいる。『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』には、「福沢諭吉の慶應義塾を卒業後、福沢の命を受けて朝鮮(現韓国)に渡り、国王殿下の顧問として、韓国新聞の発行に携わり、教育普及と殖産の必要性を説き、人民の生活安定が国力の増進であると奔走する。北海道へ渡り、北海道炭礦汽船を経営し、日本製鋼所や北炭輪西製鉄場(現在の新日鉄住金室蘭製鉄所)を創立し、両社は共に創立100周年を超えて、世界屈指の大企業を築いた偉大な人物である。」(伏木2016:1)と、彼を述べている。彼の活躍により、室蘭は北海道を代表する鉄のまちとして発展し、栄えていったのである。そして、イギリスのアームストロング社と提携し、アームストロング砲と呼ばれる大砲を日本国内で製造した。日本国内で大砲を製造したのは、これが初めてであり、この事から室蘭は軍事的にも重要な都市として発展した。
室蘭市は製鉄所と製鋼所の両方が存在する。製鉄所と製鋼所の両方を構えている都市は日本でも数少なく、岡山県倉敷市、千葉県君津市、そして室蘭市の計3市のみである。
製鉄所と製鋼所には相違点がある。製鉄所とは、銑鉄の製造から鋼製品の製造までの銑鋼一貫作業を行う製鉄工場のことである。一方製鋼所とは、製鉄所のように鉄や鋼材や鋼板といったものを製造するだけではなく、鉄や鋼材や鋼板を用いて切削、鋳込みといった加工をし、複雑な製品を作るところであり、かつては軍事関係のものも製造していた工場の事を指す。軍事関係のものを製造していたため、外部に工場内の情報を流すことが禁止されている。そのため、原則外国人労働者の勤務は許されていない。また、日鋼には今でも通常の社員でも入れない一画がある。
本レポートでは、製鉄所で働いていた方と、製鋼所で働いていた方にお話を伺って得た情報をもとに、室蘭の鉄鋼マンの生活と、当時の室蘭の様子について述べてゆく。
※新日鉄住金室蘭製鉄所は、2019年4月より日本製鉄室蘭製鉄所に社名変更している。
1章 日本製鋼所OB伏木晃氏
(1)ライフヒストリー
1942年5月、室蘭市母恋にて生まれる。1958年に中学を卒業してから、日本製鋼所室蘭製作所に入社する。父が日鋼の社員だった事が、日鋼入社への動機であった。父が日鋼を退職した年に日鋼争議が行われた。争議中の会社の資金は少なく、父の退職金はあまり出ず、社宅を出て自立する余裕がなかったから、子である伏木晃氏が日鋼に入社せざるを得なかったという入社背景がある。
しかし、日鋼への入社は一般的には難しかったようだ。日鋼は当時軍事関係のものを作っており、絶対に情報を外部へ流す事が許されなかったため、基本的には日鋼の社員の身内か、一部の優秀な日本人しか入社できなかった。外国人労働者は、当時断固として日鋼での労働を許されなかった。
日鋼入社後は、日鋼の養成校に入学する。午前中は学校で勉強し、午後は主に現場で仕事(技能職)をするのが、一日の流れであった。養成校には三年間通う事となった。
1962年、室蘭工業高校(定時制)へ編入する。当時は21歳であった。彼は2年生として入学し、3年間通う事となった。この頃から、技能職や技術職の資格を取ったりしていたという。資格を取るにつれ、社内での地位も上がり、地位に比例して社宅の質も向上したようである。そのため、資格の勉強は熱心に行っていた。
1965年、室蘭工業高校を卒業後、技術職につく。技術職とは、現場で図面を作る指導を行ったり、設計などを担当する職をさす。いわば現場の司令塔である。技術職に就く前は、技能職として働いていた。
1992年、日鋼九州支店(福岡)に営業職として赴任する。室蘭で友人と食事に行った時、地元の支店長に気に入られ営業を勧められた事が、営業職についた理由であった。このとき彼自身営業はしたくなかったが、上司からの勧めということもあり、断る事ができなかったという。単身赴任として福岡に渡り、天神で営業をしていた。もともとは3年契約で、九州で営業を行う予定であったが、実際には8年間九州で営業を行った。「本来ならば営業をしたくなかった」と語っていたが、実際に営業を行ってみると、営業が一番楽しい仕事であったという。年間で11億円の個人売り上げを取ったほどある。天神での営業が主であったようだが、三菱長崎、大分製鉄所、三菱下関、沖縄石油など、九州の至る場所で営業を行っていた。九州で親しくなった人とは今でも親交が深く、友人からマンゴーを貰ったり伏木氏が友人にサンマを送ったりしている。
2000年、伏木氏は室蘭へ帰任し、札幌支店後方支援をした。
2003年、日本製鋼所迎賓館「瑞泉閣」の館長を勤め、2009年に瑞泉閣を退職した。瑞泉閣は、『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』によると、「明治44年9月、当時東宮殿下であった大正天皇が室蘭に行啓された際、宿泊施設として建設された。」(伏木2016:104)大変歴史のある施設である事が分かる。
(2)伏木さんが語る戦時中の室蘭の様子
鉄鋼所があり、製鉄所もあった室蘭は、軍事的にも大変重要な場所であった。そのため、室蘭は戦時中に爆撃を受け、大きな被害が出たようである。市街地に被害が出る中、どうしても鉄鋼所と製鉄所は爆撃から守る必要があった。両者とも、爆撃から守るよう様々な工夫がなされたようである。
製鋼所は、武器や大砲をはじめとした軍事関係のものを主に製造していたため、特に守る必要があった。そのため、製鋼所の建物は少し特殊な形をしている。写真(下)をみるとわかるように、製鋼所の屋根はギザギザした特殊な形をしている。屋根をこのような形にした理由は、このような形にする事で工場内の明かりが上空から目視できなくなり、敵の爆撃を避けることができるからである。
製鉄所にも、爆撃から建物を守る工夫がなされていた。戦時中、室蘭が爆撃により被害が出ている最中、当時の室蘭の人々は製鉄所周りの道路に大量の燃料を撒いた。そして、その燃料に火をつけ、製鉄所周りを黒煙で囲った。そうする事で、敵は製鉄所を目視出来なくなった、もしくは爆撃後の場所だと勘違いし、製鉄所への爆撃を行わなかったそうである。製鋼所と違って、建物の構造上の工夫がなされた訳ではないが、人々の知恵とアイデアが製鉄所を守ったのである。
2章 新日鉄OB平井克彦氏
(1)ライフヒストリー
1953年、室蘭にて生まれる。父は新日鉄の人であった。1971年、室蘭栄高等学校を卒業する。地元では進学校であったという。当時大学の学生運動が激しく、大学に進学したところでまともに勉強できないだろうと考えていたため大学には進学せず、父の働いていた新日鉄(当時は富士鉄)に入社を決めた。
しかし、室蘭で鉄鋼マンとして働いていた期間は短く、鉄鋼短期大学選抜派遣システムにより、受験を経て、1973年に私立鉄鋼短期大学(のちの産業技術短期大学)に入学する。1975年、私立鉄鋼短期大学を卒業後に、新日鉄君津製鉄所に入る。平井氏は短大を卒業していたため、君津ではホワイトカラー職として働いていた。(短大に入学する前、つまり室蘭で働いていたときは、ブルーカラー職として主に現場で働いていた。)中国の上海宝山製鉄所へ行って、技術指導をしていたこともあった。
1988年に、新日鉄を退社する。退社後は、自分のしたいことをしていたという。日本語教師を目指し、札幌まで行って勉強をしていたこともあったという。
(2)新日鉄時代の生活
新日鉄は三交代制の労働システムであった。甲乙丙番で、甲番が7:00〜15:00、乙番が15:00〜23:00、丙番が23:00〜7:00であった。鉄鋼マンの家族は、この三交代の時間に合わせて生活を送ることが大変であった。福利厚生は充実しており、2DK、3DKの間取りの社宅の家賃が月5000円ほどであった。給与も悪くなく、生活するには一切困らなかった。
新日鉄時代の娯楽は、何だったのだろうか。室蘭で働いている時は、仕事終わりに輪西でよく飲んでいた。現在では室蘭市の中心街は東室蘭周辺となっているが、当時輪西は室蘭市内の屈指の飲屋街として、かなり栄えていた。当時の東室蘭は、何もない場所であった。18〜20歳の青年期は、よくボウリングに通っていた。当時室蘭市内にはボウリング場が8つもあり、どこのボウリング場も大変栄えていた。休日は、2時間待ちなどはザラであったという。ボウリングを投げた後、コーヒーやビールを飲みによく喫茶店や居酒屋などに通っていた。
この地図の右端にある、中島町付近が東室蘭駅周辺である。
(3)父のライフヒストリー
大正13年生まれ。小学校を卒業した後、13歳で輪西製鉄(のちの新日鉄)に就職する。技術員養成部へいく。
太平洋戦争勃発後、飛行機の整備兵となる。軍に所属していた時は、最終的に軍曹の地位までのぼりつめた。本当は戦闘に加わりたかったみたいだが、目が悪く戦場に行くことはなく終戦をむかえた。
3章 新日鉄OB C氏
(1)ライフヒストリー
1952年、岩見沢市にて生まれる。父は国鉄の社員であった。1970年に新日鉄に入社した。高校からの斡旋で高3の夏に入社が決定し、高校卒業後すぐに新日鉄に入社した。「新日鉄のような大手に入ると、生活も安定するだろう」という考えがあったようである。C氏の入社した年は、会社名が富士鉄から新日鉄に改名した年でもあった。
入社後は、高炉で働いていた。高炉の開口機を手動で開く仕事を任されていた。肉体的に大変な仕事であり、なおかつ危険の伴う仕事であったため、働いていた当初は3年で辞めようと考えていたが、結局高炉で長く働いたのだという。現場での仕事は大変過酷であり、55歳で満期を迎えると同時に、亡くなられる方が多かったという。C氏はこの現象を「満コロ」と呼んでいた。
仕事を先輩や上司から教えてもらう事はあまりなく、“仕事は見て覚えるもの”であったという。自分から行動を起こさなければ何も得られなかったため、社内の人々といかにコミュニケーションをとるかが、現場で仕事をする上では重要であった。
オイルショックの影響で高炉が減少したのちは、設備部へ異動し、電気関連のメンテナンスのお仕事をされていたそうである。
(2)当時のC氏の生活と、室蘭市の様子
初めて東室蘭を訪れたときは、町の様子を見て大変驚愕したようである。汽車で室蘭に向かうと、東室蘭に近づくにつれ、赤く黒い黒煙がはっきりと見えるようになっていったそうだ。輪西駅に到着すると、鉄の匂いが充満していた。汽車を降りると、すぐにその匂いがわかった。輪西を歩いていると、金色のラメのようなものが体に付着した。当時の全盛期の室蘭は、町に鉄粉が舞っていたのだという。彼は、町に鉄粉が舞っている事の例えとして、「輪西は冬場に赤い雪が降る」と語っていた。当時の室蘭がいかに栄えた鉄のまちであったかが容易に想像できる。この頃は、室蘭の人口も多かったようである。
今となっては寂れたシャッター街となった室蘭駅周辺や、輪西周辺は、当時は大変人口が多かった。デパートのマルイも当時は室蘭に店を構えていたほどである。
C氏は、輪西で仕事終わりにお酒を飲む事が一番の楽しみであった。C氏は乙番勤務であったため、23:00ごろに退勤したのち、仲間と輪西で深夜から朝にかけて飲んでいたと語っていた。飲んだ後、タクシーで自宅まで帰り、午前中は睡眠をとって昼から会社にいって働くというライフスタイルであった。
(3)オイルショックと室蘭新日鉄
C氏が働いていた頃(1970〜1973年)は、室蘭の新日鉄には高炉が4基あったが、1973年、1979年に渡る二度のオイルショックにより高炉の数は減少していき、現在
は高炉の数は1基にまで減った。オイルショックが原因で、高炉以外に人員にも影響が出始めた。オイルショックを機に人員が余るようになり、室蘭にいる従業員は全国の新日鉄に異動した。それの影響もあり、室蘭市の人口は激減した。オイルショック以前はおよそ18万人いたが、現在の人口はおよそ8〜9万人である。
オイルショックは、室蘭の活気が失われた大きな理由の一つであったのである。
結び
今回の研究では、3人の鉄鋼マンOBの方からお話を伺ったが、3人のお話から、鉄鋼マンの生活史のみならず、室蘭の時代背景も把握する事が出来た。3人それぞれのライフヒストリーがあり、もちろん生き方や考え方も異なっていたが、同じ室蘭市に住んでいる人たちとして、共通する事はたくさんあったように思う。また、室蘭の鉄鋼業に従事していた人々は、ずっと室蘭にいたわけではなく、様々な社会的背景を要因に、全国様々な場所で働かれていた事も明らかとなった。
単に、室蘭の事やその人達の生活史のみを知る事が出来ただけではなく、その方の価値観や人生観も会話中に垣間見る事が出来た。私たちと共通している面もあれば、当然異なる面もたくさんあり、時代や環境が人々の価値観や人生観を形成している事を実感した。
現地の方々のお話を伺う事によって、その地の文化や変遷を細かく立体的に把握する事ができる。「室蘭市」「鉄鋼業」のような外枠をみるだけでなく、その地に住んでいる人々といった内枠をみる事によって、本当の室蘭の姿が浮かび上がってくるのではないか。
謝辞
本論文の執筆にあたり、伏木晃様、平井克彦様、C様には、誠にお世話になりました。
伏木様、インタビューに協力して頂いただけでなく、室蘭市内を隅々にまで案内してくださり、調査するにいたって大変有意義な時間を過ごす事が出来ました。車で室蘭を一周したり、室蘭名物であるカレーラーメンをご馳走してくださった事は、大変良い思い出となりました。
平井様、私たちの調査のために様々な資料やお話を用意してくださり、誠にありがとうございました。平井様のお話は大変わかり易く、ご自身のライフヒストリーに加えて、室蘭の鉄鋼所や製鉄所の詳細を隅々まで教えてくださり、それは興味深い内容ばかりでした。
C様、お時間が厳しい中、私たちのためにお時間を割いてくださり、誠にありがとうございました。C様のお話は、当時の思い出やライフヒストリーを鮮明に話してくださり、鉄鋼マンの生活の様子を色濃く知る事が出来ました。励ましのお言葉などもかけてくださり、本当に貴重な時間を過ごす事が出来ました。
伏木様、平井様、C様に出会う事ができるようなご縁があり、私は本当に幸せです。伏木様、平井様、C様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。どうかお体にお気をつけて、ご健康にお過ごしなさって下さい。本当にありがとうございました。
参考文献
・伏木晃, 2016, 『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』