関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

戦後八幡浜のマーケット ―新興マーケットから中央マーケットへ―

社会学部 3回生 織田怜奈

目次
はじめに
1章 新興マーケット
1-1 引揚者の出現
1-2 マーケットのようす
2章 中央マーケット
2-1 新興マーケットから中央マーケットへ
2-2 マーケットのようす
3章 マーケットの終焉
3-1 マーケットの閉鎖
3-2 商店街への移転
結び
謝辞
参考文献

はじめに
 戦後の日本では物が不足していたために、全国的にマーケットが栄えていた。愛媛県八幡浜市でも当時はマーケットが存在し、時代とともに新興マーケット、中央マーケットと変化しながら人々の暮らしを支えていた。本稿ではそのマーケットのようすを述べ、それが人々の間でどのような役割を果たしていたのかについて論じる。

1章 新興マーケット

1-1 引揚者の出現
 新興マーケットの始まりは戦後間もない頃である。満州や台湾、中国、朝鮮などからの多くの引揚者が八幡浜で働く場所を求めていた。マーケットのことをよく知る菊池昭自氏によると、酒六紡績株式会社様より地域復興の期待を込めて無償で提供していただき店を開くことができたという。出店希望者を募集し、紡績工場跡の土地を各店舗に割り当てた。敷地面積は248坪で、現在のスーパーホテル周辺である。
 出店希望者の中には、八幡浜出身の引揚者だけでなく、八幡浜出身の知り合いを頼りに他の地域から来た人もいた。働く場所を得た引揚者たちは割り当てられた土地にバラックを建設し、いわゆるヤミ市のような形で魚、肉、野菜や果物、惣菜などの食品や手芸用品などの生活必需品を売り出した。

1-2 マーケットのようす
 新興マーケットの形状は特殊であった。四角形の中に半円のようにバラックが並び、その間は通路になっていて、客が見て回りやすいようになっていた。店舗は計64軒で、マーケットに行けばなんでも揃うと言われるほど様々な物が売り出されていた。中央には卓球台も設置されていたという。

図1 新興マーケットの構造
 バラックは木造で、屋根は杉皮だったため、雨が降ると雨漏りをした。電気も現在のようには整備されていなかったため、よく停電になった。夜停電になった時は、ろうそくやカーバイドを使用して商売を続けていた。出店者たちはバラックの1階に店を構え、奥や2階で生活していた。2階といっても広さはなく、子供でも頭を下げなければいけないほどだったため、ほぼ寝るためだけに利用されていた。
 物は百姓や漁師が卸売りに来たものを購入したり市場から仕入れたりしていたが、他から手に入れることもあった。家電製品も普及していなかった時代、もちろん冷蔵庫もない。食料はその日に買うというスタイルで、マーケットは毎日買い物客でいっぱいだった。とにかく物が不足していたため、物を並べるとすぐに売れていった。長持ちする乾物や、衣服の修繕に使う糸やボタンなどもよく売れた。
 当時、八幡浜はイギリスの将校に占領されていた。勝手に商売することが許可されていなかったため、当初は警察による取り締まりが厳しかった。警察が取り締まりのためにマーケットに来るとマーケットの中で合図が出され、それを受けた出店者たちは売り物を隠して没収されないようにしていたのだという。売り物を没収されては生きていけないという声を受けて、菊池昭自氏の父が警察に直接交渉しに行ったということもあり、取り締まりはいくらか緩くなった。非合法だとしても餓死しないためには仕方のないことであった上、実際警察もヤミの物を購入して生活していたため、次第に黙認されるようになった。  
 マーケットの出店者たちはみな親しい付き合いであった。親は店が忙しく子供のことをずっとは見ていられなかったが、放課後に店の子供たちで集まって紡績工場の跡地や学校の近くの山で遊んでいた。秋祭りの時期には出店者たちが衣装を手作りし、商店街ごとの仮装行列に参加するなどのイベントもあった。仲間として協力し、助け合って日々生活していたのである。

2章 中央マーケット

2-1 新興マーケットから中央マーケットへ
 かなり栄えていた新興マーケットであったが、時代の変化により、徐々に景気が悪くなっていった。そのため、マーケットから撤退し、違う場所で個人的に店舗を構えるようになった人もいた。建物の老朽化が進んでいたこともあり、1960年に大々的に建て替えが行われ、名前も新興マーケットから新しく中央マーケットに変わった。マーケットの建設は共同出資だったが、費用の関係などで撤退する店舗もあり、半分以下の22軒まで減った。建て替えのタイミングで、多くの人が大阪や東京、松山などの、景気が良く働き口がある都市に出ていったのである。残った店舗で千代田食品商業協同組合が結成され、新興マーケットの時は個人所有だった土地や建物を、組合で所有することになった。初代の組合長は菊池昭自氏の父が担ったが、亡くなられた後は各店舗が順番に組合長をした。
 建て替え後は以前の活気が戻り、再び多くの買い物客で賑わうようになった。マーケットのすぐ前がバス停だったこともあり、近くの人だけでなく、佐田岬半島や大洲などほかの地域の人も買い物に訪れた。

2-2 マーケットのようす
 バラックだったものが、長屋状の建物になった。奥行き約4mの木造長屋2棟が向かい合うように並び、その間が幅2mの通路になっていた。新興マーケットの時と変わらず1階が店舗、2階が住居だった。

図2 中央マーケットの構造
 マーケットには様々な食品店舗が入っていたが、当時特にトロール漁が栄えていたため、魚屋だけで5軒もあった。また、マーケットの近くには飲み屋が多く、夜寝ていても電話がかかってきて配達を頼まれることも度々あった。昼も夜も繁盛していたためほぼ休みなく店を開け続けたが、年に数回は休みをつくり、マーケットの出店者たちで旅行に行ったり花見をしたりしていた。マーケットの形態は変化しても、出店者たちの関係は変わらず続いた。店の子供のソフトボールチームもあり、強かったという。現在でも八幡浜では大人のソフトボールチームがいくつか活動していると話に聞いたが、それはこの頃の名残ではないだろうか。

写真1 中央マーケットの入り口(『愛媛新聞』2009年5月22日,より)

写真2 中央マーケットの前の通り(八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017年,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」より)

3章 マーケットの終焉

3-1 マーケットの閉鎖
 1970年代以降、スーパーの勢力が拡大し、マーケットはかつてほどの賑わいを見せなくなった。対面で世間話をしながらの商売が時代に合わなくなったことや冷蔵庫が各家庭に置かれるようになったことで、毎日食料を買うという習慣がなくなった。それまでマーケットを訪れていた人々は、きちんと包装され保存の効く商品を購入するためにスーパーに流れた。また、八幡浜から保内町などほかの地域に行くことができるトンネルが開通し、人々が車を利用して行動範囲を広げたことも、マーケットから客足が遠のいた原因のひとつだろう。
 さらに高齢や後継者不足などの理由で閉店が相次ぎ、活気は失われていく一方だった。建物の耐震性や老朽化などを考慮し、当時組合長だった菊池昭自氏が売却先を検討、2009年に千代田食品商業協同組合が解散されると共に、長年親しまれてきたマーケットは閉鎖された。

3-2 商店街への移転
 マーケット閉鎖後の土地をドコモが買い取り、そこにはスーパーホテルが建設された。最後まで組合に残っていた14店舗に売却金は分配され、それぞれの店舗は近くの商店街などに移転した。それらも時代の流れと共に閉店していき、いまでも営業を続けているのは藤川商店、田中鮮魚店、上野ボタン店の3店舗のみだという。

結び
 八幡浜で半世紀以上栄えたマーケットは、多くの人々の生活を支えていた。ただ物を売買するだけの場所ではなく、そこには出店者たちのコミュニティや、出店者と買い物客との間の会話が存在していた。今では感じることのできない人情味、そして数々の物語がそこにはあったのだ。そのような点でマーケットは八幡浜の人々にとって非常に重要な役割を果たしていたといえるだろう。

謝辞
 この実習報告の作成にあたり、多くの方々にご協力いただきました。菊池昭自さん、宇都宮吉彦さん、藤川商店さん、田中鮮魚店さん、上野ボタン店さんをはじめ、多くの方々から貴重なお話を聞かせていただき、理解を深めることができました。突然の訪問にもかかわらず、快く対応してくださったこと、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」
(http://www.minatto.net/archives/6332,2018年8月18日にアクセス).
愛媛新聞,2009年5月22日刊行
八幡濱民報,2009年5月2日刊行