関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

文献解題

島村ゼミ3回生によるフォークロア研究文献解題


【解説担当者より】
 論文を選ぶにあたり解説担当者が以前より宗教・宗教的儀礼と人々との関わり、それらが人々の暮らしにどのような影響を与えているかに興味を持ちそれらに関連する二つの論文を選んだ。もうひとつは解説担当者が差別と民俗との関わりにも関心を持っていたので、関連した研究はないかと探したところ先行研究があったので取り上げた。(仲森裕樹)


■高見寛孝「五島列島宇久島荒神信仰」『日本民俗学』195号,1993

(1)著者について
高見寛孝 1960年宮崎県生まれ。熊本大学文学部にて民俗学を専攻。成城大学大学院博士課程にて民俗学の研究を続けるとともに、宗教人類学を学ぶ。現在、二松学舎大学文学部および國學院大学文学部兼任講師。

(2)対象
五島列島宇久島荒神信仰をする人々

(3)フィールド
五島列島宇久島

(4)問題設定
座敷の荒神が盲僧によってもちこまれたかどうか。宮司が住民の荒神観に影響を与えたかの解明。 

(5)方法
現地での聞き取り調査、文献

(6)ストーリー
五島列島宇久島では荒神信仰というものがある。荒神祭祀に関与している宗教者は盲僧、宮司である。宇久島荒神として祭られている対象として竈の荒神(現地の人はクドと呼ぶ)座敷の荒神(現地の人はサンボウダイコウジンと呼ぶ)荒神塚の荒神がある。それぞれの荒神に対して祭りが行われるのだが、その祭りは地区によって変わっている。それらの違いを説明していき、荒神に対する住民・宗教者が各荒神をどのような神格として捉えているか言及していく。最後に問題設定に対して結論を出していく。
 
(7)結論
座敷の荒神が盲僧によって持ち込まれたのではないかという推定は今回の調査によってより確実になった。宮司に比べ盲僧のもつ荒神観は明確であること、座敷の荒神棚に対する祭祀は盲僧が司っていたことなどが裏付けとなっている。盲僧が減少したことにより宮司も座敷の荒神祭りに関与していくこととなる。宮司が住民の荒神信仰に影響を与えたかどうかだが影響をあまり与えていないと考えられる。なぜなら宮司荒神観が明確でないこと、座敷の荒神ホムスビ・オキツヒコオキツヒメの三体と考える考えが住民には浸透していないからである。
    
(8)読み替え
どのグループに所属するかその違いによって同じ信仰対象を持っていたとしても祭りの様式が変わってくる。今回の事例の一例だと竈の荒神の信仰を持つ住民の祭りは地区ごとによって若干様式が変わっている。またグループの変遷によって新たな価値観が生まれる。荒神を火の神として考えた盲僧の荒神観に対して、住民の中にはそういった考えはなかった。これらは盲僧の荒神観に影響されたと考えられる。


■宮本袈娑雄 「被差別部落の民俗と民族調査」『日本民俗学』252号,2007

(1)著者について
宮本袈娑雄  1945年長野県生まれ。1973年東京教育大学大学院日本史学専攻中退、同大助手、77年筑波大学歴史人類学系助手、80年専任講師。85年武蔵大学教授。在職中に逝去。主な著書に『里修験の研究』『天狗と修験者 山岳信仰とその周辺』等がある。

(2)対象
被差別部落の民俗

(3)フィールド
栃木県大平町、長野県小諸市の部落

(4)問題設定
被差別部落の民俗を明らかにすることによりこれまでの民俗研究が見落としてきた民俗を浮き彫りにする可能性もあるだろう。

(5)方法
現地での聞き取り調査,文献

(6)ストーリー 
戦後にかけて被差別部落に対する同和対策事業の施行によって、部落の生活環境は大きく変貌してきている。しかし民俗調査研究を実施すれば同和対策事業以前の劣悪な生活環境に直面することになる。そういったことにも配慮しながら部落の民俗の一端を検討していく。

(7)結論
被差別部落にはある程度の共通性が見られる。また職業も安定的な仕事とはいえず季節や経済の好不況や世相の文化に影響されやすい仕事を選ばざるをえなかった。長野小諸市荒堀は都市型の生活で職種は様々であるが日雇い労働に従事した人がおおかった。栃木県大平町の生業は農業におかれた。また被差別部落の中にも家格があり、本家・分家などの階層差が見られた。今回焦点を当てたのは部落の生活の悲惨さではなく被差別部落の人々を含めた庶民の生活・知恵である。平均的なものばかり焦点を当てると多様性、特に低階層の人々の習俗を切り捨てることにもつながる恐れがある。

(8)読み替え
フォークロア研究において研究対象は様々であるが平均的なものばかりに焦点を当てずに多角的に物事をみていくとういう姿勢が大切である。


■加藤正春 「焼骨と火葬―南西諸島における火葬葬法の受容と複葬体系―」『日本民俗学』228号,2001

(1)著書について
加藤正春 1950年生まれ。ノートルダム清心女子大学人間生活学部教授。1973年、国際基督教大学教養学部卒業。主な研究として奄美沖縄研究、民俗信仰 (葬墓制・霊魂観念・神観念)、 文化人類学等がある。

(2)対象
奄美、沖縄の火葬儀礼

(3)フィールド
奄美・沖縄

(4) 問題設定
奄美・沖縄で火葬葬法の受容過程の初期に報告された「焼骨」・「火葬」と呼ばれる死体の処理方法と火葬葬法の定着後の沖縄で行われた「火葬骨の洗浄」という儀礼行為を取り上げその意味を検討する。

(5)調査方法
現地での聞き取り、文献

(6)ストーリー
かつて奄美・沖縄では伝統的な葬送儀礼体系として、多くの土地で洗骨(骨に水を振り掛けるなどの行為)・改葬をともなった複葬(二重葬儀体系)が行われてきた。それは第一次葬儀において死者を墓に納め、骨化するのを待ち第二次葬儀(洗骨・改葬)行うものである。沖縄においては死体を墓内の空間に安置し、多くの場合一年以降数年以内に、棺を取り出し洗骨・改葬を施していた。奄美では近代以降土葬が行われ埋葬後数年たってから棺を掘り起し洗骨・改葬を施していた。しかし明治以降になると伝統的な葬法がある奄美・沖縄に火葬が取り入れられるようになる。火葬という文化が取り入れられるにあたって奄美・沖縄の伝統的な葬法に変化がみられる。それらは遺骨を焼く「焼骨」、洗骨が火葬骨に対して行われる等である。二つの新しく取り入れられた儀礼行為の意味を文献、聞き取り調査で検討していく。

(7)結論
火葬の導入は集落外の火葬場という施設で専門の職員の手によって行われる、集落の人々の手を離れた儀礼行為である。火葬の導入は葬儀儀礼の外部化を促した。それゆえ自らの墓所で自らの手によって骨を焼く焼骨行為は儀礼の外部化の流れに抗う動きと見れる。焼骨や火葬骨は火葬と伝統的な体系とを調和させようとする試みである。

(8)読み替え
伝統や儀礼というものはずっと変わらずに伝わっていく場合もあるが、今回の葬儀方法の変遷のようにグループの変遷、新たな価値観・方法論の導入によって少しずつ形が変わっていく場合もある。