関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

宮古島の呉服店・洋品店

宮古島呉服店洋品店


0477 藤本 祐也


目次

第1章.大見謝呉服店
第2章.やまこ百貨店
第3章.呉服まる紅
第4章.ブティックまつばら
第5章.その他の呉服店
結び



はじめに
今回の調査では、戦前から戦後にわたって、宮古島の家庭を支えてきた呉服店及び洋品店の歴史と商売について、主に調べてみた。



第1章.大見謝呉服店

第1節.店の歴史
 大見謝呉服店は今回聞き取り調査をさせていただいた大見謝政子さんの夫の父親の代(大正時代)に大見謝百貨店として創業した。戦前までは呉服に加えて、靴、鞄、傘、米等も店で販売していた。政子さんは1927年(昭和2年)に宮古島で生まれ、両親は共に那覇の出身である。
政子さんが嫁いで店で働き始めた1950年頃には、店名は大見謝呉服店となっていた。さらに、1976年頃には店名を大見屋呉服店に変更した。町の人からは“おおみじゃ”と呼ばれていた。
そして、2004年頃年齢による問題と近隣の道路拡張の関係から大見屋呉服店は閉店した。現在、店の跡地には自宅が建てられており、1階部分はテナントとして貸している。

第2節.店の営業
 営業時間は政子さんが嫁いできた当初は10時〜22時であったが、1980年頃からは10時〜18時になった。定休日は毎月15日であった。従業員は10名程度で平良の人が中心であったが、池間島や佐良浜から住み込みで働いている人もいた。
  大見謝呉服店は、本店と支店に分かれており、政子さんの夫の父親(兄)が支店、夫の父親の弟が本店を経営していた。本店については、戦後すぐ、洋品専門店に切り替わった。

第3節.仕入
 仕入れは月に二回、政子さんが従業員を一人引き連れて、2、3日泊まりがけで仕入れていた。呉服は、京都の「つかき」や「奥田商店」、浜松、久留米から、洋品は大阪の「寺内」、岐阜、東京から仕入れていた。

第4節.池間島伊良部島への出張販売
池間島伊良部島への出張販売は政子さんが嫁いできた時には、すでに始まっていた。これを始めたきっかけは、店に池間島伊良部島の人が買い物に来ており、島に出張して販売すれば、さらに売り上げを上げられると考えたからである。出張期間はハーリーとミャークヅツの直前一週間で、平良港から船(さばに)で島まで商品と共に移動していた。販売方法は島の港の近くの民家を借りて販売していた。商品の売れ行きは、ハーリーの頃は子供服、ミャークヅツの頃は反物と帯がよく売れていた。
この出張販売は年齢的に池間島伊良部島まで出張販売しにいくことが厳しくなったこと、池間島伊良部島から大見謝呉服店仕入れにくる人がいたこと等から1990年頃に終了した。
良浜に住んでいる人によると、ミャークヅツは晴れ着を着る年内唯一の機会で、宮古島の人々は一年間貯金をして、ミャークヅツの直前に良い反物を購入する習慣があった。そのため、伊良部島良浜呉服店がやってくると、店は大盛況となっていた。もし、売れ残った場合は平良に戻って販売したり、次の年に再度佐良浜で販売したりしていた。呉服店で購入した布については佐良浜の仕立屋が仕上げていた。
この出張販売は大見謝呉服店以外に、まるよし、やまいち、こばやし、やまこ百貨店、丸勝百貨店が行っていた。ただ、次の章で取り扱うやまこ百貨店については、戦前に出張販売を行っており、当時のことを知る人がいなかったので、詳しい話を伺うことができなかった。


写真1:現在の大見謝呉服店跡地



第2章.やまこ百貨店

第1節.店の歴史
 やまこ百貨店は今回聞き取り調査をさせていただいたMさんの曽祖父の代(明治時代初期)に宮里商店として創業した。ちなみに、曽祖父は那覇市垣ノ花出身である。その後1902年頃、宮里商店の経営難から当時小学校の教師をしていたMさんの祖父が教師を辞めて、店の後継となった。1926年にはMさんが誕生し、1932年には宮里酒蔵場を創業した。この宮里酒蔵場について後ほど説明する。
 だが、戦時中になると店舗は軍の兵舎となり、一家はMさんとMさんの父を残して九州に疎開した。その後終戦を迎え、1946年頃には、宮古島に戻ってきた父がやまこ宮里百貨店として店を再開した。そして、1956頃には、その当時琉球銀行本店に勤めていたMさんが店の後継となった。
 その後しばらくの間、経営は安定していたが、1980年頃に美容院が成人式や結婚式向けの貸衣装サービスを始めるようになると、次第に呉服の売り上げが減少していった。
 そして、店舗の老朽化、スーパーの進出によって、やまこ百貨店は2010年に閉店した。
現在、やまこ百貨店の跡地は駐車場になっており、そこから少し離れた場所に「やまこ」という雑貨屋が2011年より開店している。

第2節.店名の由来
 「やまこ」の店名の由来はMさんの祖父が、「小を積んで山となす」という店の経営方針に基づいて「山小」の屋号を発案したのがきっかけである。そもそも、戦前の店の正式名称は宮里商店であったが、その頃からすでに町の人々は店のことを“やまこう”と呼ぶようになっていた。
 そして、終戦直後、父の姉が那覇の平和通でタオル販売の商売を始めるにあたって、店名に「やまこ」を用いたことがきっかけとなって、宮古島の店の正式名称にも「やまこ」を用いるようになった。

第3節.店の営業
 営業時間は10時〜19時で、定休日は元々月曜日であったが、周りの多くの店が日曜定休であった関係から日曜定休に変更となった。従業員は多い頃には20〜30人程おり、住み込みで働いている人もいた。
 戦前までは呉服以外に米や雑貨や食用油などを販売していた。また、1960年頃までは、宮古島の一般の織手から宮古上布を買い取り、京都の卸業者に販売していた。
 店の営業において特徴的なことは祖父の代の頃、その当時主流であった駆け引き商売をやめて、宮古島で最初に現金正札商売(注1)を導入したことである。終戦後しばらくの間は社会混乱のため、再び駆け引き商売に戻るが、1960年頃に宮古島の他のどの店よりも早く現金正札商売を再開した。

第4節.仕入
 戦前は大阪にある父の弟の卸屋から仕入れ、戦後は大阪や京都から仕入れていた。仕入れの頻度は、多い時は月に二回仕入れに行っていた。終戦後から本土復帰までの間は、本土へ仕入れに出る際、父の姉が経営するやまこに泊まり込んでいた。また、泊まり込みの小屋のそばに那覇の卸屋があったので、そこから仕入れることもあった。
 あと、1975年頃までは池間島伊良部島からやまこに仕入れに来る人もいた。

第5節.やまこから独立した店
 平良の町の中には、戦前に宮里商店で従業員として働いた後、戦後になって独立した店がある。
まず、一つ目は呉服まる紅である。この呉服まる紅については次の章で取り扱う。二つ目は、丸勝百貨店である。丸勝百貨店の創業者はもともと伊良部島の出身で、戦後やまこ百貨店から独立して、百貨店とホテルを経営していた。この百貨店は宮古島において、食品スーパーの先駆けとなる存在であったが、1980年頃に宮古島初の大型倒産をした。倒産後はホテルのみを経営している。三つ目は、伊佐さんである。伊佐さんはやまこ百貨店から独立後、1960年頃に料亭鶴丸を経営し始めた。現在、料亭鶴丸は存在しておらず、閉店時期も定かではない。四つ目は、野津さんである。野津さんは戦前、宮里商店の従業員として働き、1932年に宮里酒造場の番頭(注2)となり、酒造場を創業した。戦後は、トヨタの代理店を経営し、現在はカラオケやレンタルビデオ屋に土地を貸している。

第6節.写真で見る店の変遷


写真2:明治時代の宮里商店

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写真3:明治〜昭和初期の宮里商店

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写真4:昭和12年頃の宮里商店

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写真5:戦後のやまこ百貨店

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写真6:現在のやまこ百貨店跡地


写真7:新しくオープンしたやまこ

(注)やまこ百貨店Mさん提供



第3章.呉服まる紅
第1節.店の歴史
 呉服まる紅は今回聞き取り調査をさせていただいた仲本正雄さんが、1964年にベビー洋品専門店として創業したのが始まりである。
那覇市久茂地出身の両親のもとに1924年に生まれた正雄さんは、もともと宮古島で生まれ育ち、幼いころは丁稚奉公として呉服店で働いていた。
まず、1939年〜1940年の間は山田呉服店に丁稚奉公していた。山田呉服店とは、和歌山県御坊市出身の人が戦前に宮古島で経営しており、戦況の悪化に伴って、本土に引き揚げていった呉服店である。仕入れは京都の市原亀之助商店や大阪から行っていた。
その後1940年〜1943年の間、宮里商店へ丁稚奉公し、戦後やまこ百貨店から独立して、呉服まる紅を創業した。もともとはベビー洋品専門店であったが、資金に余裕ができ始め、1965年には呉服を取り扱うようになり、1966年からは呉服専門店になった。
しかし、1991年頃になると呉服が売れなくなって、暇ができ、店を妻一人に任せるようになった。そして、その時間で寺社を巡るようになり、庭師の仕事を覚えて、造園業を開始した。翌1992年には、呉服まる紅は閉店した。

第2節.店の営業
 営業時間は平成に入るまでは8時半〜22時であったが、平成に入ってからは労働基準法の関係から8時半〜20時となった。定休日は毎月15日で、従業員は3人であった。
 10月〜12月の間は月に一度、琉球銀行や沖縄中央相互銀行などの二階部分を借りて呉服の展示会を行っていた。また、過去には二度、大島紬(注3)だけを取り扱った「大島紬展」を行った。

第3節.仕入
 仕入れは正雄さんのおじの会社である大阪の仲本商事から呉服や大島紬仕入れていた。ちなみに、「まる紅」という店の名前は、このおじが名づけたのである。


写真8:呉服まる紅の外観


写真9:大島紬

(注)呉服まる紅 仲本正雄さん提供



第4章.ブティックまつばら
第1節.店の歴史
 ブティックまつばらは今回聞き取り調査をさせていただいた松原ヨシ子さんが1969年に下里公設市場で洋品店を創業したのが始まりである。ヨシ子さんは1930年に宮古島の久松で生まれ、夫も久松出身である。また、夫婦ともに先祖は宮古島生まれである。
 1995年に下里公設市場から現在の場所に移転して、営業を続けている。

第2節.店の営業
 公設市場時代は8時〜18時で営業しており、定休日は第2日曜日であった。店は夫婦と息子の嫁で経営しており、公設市場時代には小・中・高の制服や運動着も販売していた。
公設市場の二階の北側に店があり、当時の公設市場には他にも約20店舗呉服店があった。

第3節.仕入
仕入れは平日に那覇牧志公設市場(新天地市場)の朝市で仕入れていた。朝市に参加するために前日には那覇入りしていた。かつての朝市は欲しいものを奪い合うほど活気があった。公設市場時代には月に一度仕入れに行っていたが、現在は夏と冬の二回だけ仕入れに行っている。


写真10:現在のブティックまつばら



第5章.その他の呉服店
第1節.きよし屋衣料品店
 きよし屋衣料品店は今回聞き取り調査をさせていただいた伊良部ヒデさんが、夫とともに終戦後すぐに創業した店である。ヒデさん自身は1923年に久松で生まれ、先祖も久松出身である。仕入れは那覇の公設市場で行い、客の要望に応じて仕入れ先を変更していた。
 店名は夫、伊良部清の“きよし”に由来している。


写真11:現在のきよし屋衣料品店


第2節.呉服のみやび
 呉服のみやびは今回聞き取り調査をさせていただいた間いく子さんが1979年に創業した店である。いく子さん自身は1919年に宮古島で生まれ、店を創業するまでは、東京の呉服店で派遣として働いていた。仕入れは東京人形町にある岡松から仕入れていた。
 過去には一度、よろず屋という呉服店と共同で佐良浜に出張販売を行った。移動はフェリーで行い、2,3日公民館を借りて、展示会方式で呉服を販売した。
 しかし、いく子さんが病気になったため、2009年で呉服のみやびは閉店した。

第3節.県外からの出張販売
1972年以降、京都や大阪や九州など沖縄県外からの業者が宮古島に呉服や洋服を売りにきており、これは現在も行われている。販売方法は年に二度程度、平良のホテルの催事場を4、5日借りて販売している。


結び
今回の調査では、平良の呉服店洋品店の歴史や商売を調査することによって、かつての平良の町における呉服店というものの存在や店舗ごとの関わりを明らかにした。調査によって分かったことは、次の5点である。
1.大見謝呉服店、やまこ百貨店は、かつて百貨店と呼ばれるほど多くの種類の商品を取り扱って、繁盛し、平良の人々の生活の基盤を支えていた
2.池間島伊良部島への出張販売はかつて行われており、大変繁盛した
3.平良の町には戦前から続く老舗呉服店と戦後に創業した呉服店があり、戦後創業の呉服店の中には、やまこ百貨店から独立して創業した呉服店もあった
4.現在は戦後に創業した呉服店のみが営業を続けている
5.沖縄県外からの出張販売は、現在も年に二度程度、ホテルの催事場で行われている

(注1)現金正札商売とは、あらかじめ商品の値段を店側が決めておいて、駆け引きなしで行う商売のことを指す。
(注2)ここでの番頭は店の最高責任者のことを指す。
(注3)大島紬とは鹿児島県奄美大島の特産品である綿布のことを指す。


参考文献
野口武徳,1972,『沖縄池間島民俗誌』未来社