関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

宮古島の模合―西里大通り商店街の事例―

宮古島の模合―西里大通り商店街の事例― 
社会学部 0396 松尾朱莉

目次

序章
  第1節 模合とは
  第2節 西里大通り商店街
(1) 歴史
(2) 現在の概況

第1章 宮古島と模合
第1節 模合の歴史
(1) 戦前
(2) 戦後
  第2節 現在の模合
(1) 目的と種類
(2) 模合の運営
(3) 「上げ模合」

第2章 平良おみやげ品店 平良新弘さんの語り
  第1節 平良おみやげ品店の歴史
  第2節 西里大通り商店街の模合
  第3節 「下げ模合」

第3章 友利メガネ 友利夫婦の語り
  第1節 友利メガネの歴史
  第2節 模合との関わり

第4章 丸平せともの店 平良博彦さんの語り

結び


序章

第1節 模合とは
 本調査は、宮古島の西里大通り商店街をフィールドとし実地調査を行う事によって、宮古島に存在する「模合」という相互扶助制度の実態と、その存在意義の変化を明らかにしたものである。そもそも模合とは、複数の人々が共同で財あるいは労働力を調達し、平等な権利と義務を原則として、それらを相互に利用するという相互扶助制度のことである。鎌倉時代に始まり日本本土に幅広く存在する、頼母子講や無尽講のような講の一種だと捉えてよい。沖縄の模合の起源は、1733年の王府王史『球陽』にその記録があるため、そのころではないかと考えられている。それから日本本土でも模合は見られるようになったが、徐々に消滅していった。しかし沖縄では、依然として模合を幅広く観察でき、特に宮古島においてはその傾向が顕著である。(宮古の自然と文化を考える会、2008)

第2節 西里大通り商店街
(1) 歴史
 西里大通り商店街の起こりは、明治時代にまで遡る。明治中頃、張水港(現在の平良港)界隈に、那覇や宮崎県、鹿児島県、三重県からの寄留民が軒を連ね商いを行っていた。それが徐々に内陸部にまで広がり、現在の西里大通り商店街の原形となった。それからというもの、商いを行う人の数は年々増加していき、商店街は徐々に活性化していった。そして昭和58年9月に「通り会」を法人化し、現在の西里大通り商店街の姿に至る。

(2) 現在の概況
 西里大通り商店街は現在、30数店舗の商店が軒を連ね、平良市内で最も大きな商店街として存在している。離島の商店街としては珍しく、ほぼすべての業種の商店で構成されている点が特徴だ。地元住民はもちろん、観光客が買い物を楽しむ姿も多く見られた。近年は、郊外大型店舗の進出や消費者のニーズの多様化・個性化によって、客足がかなり減少している。組合員は壮年部・青年部・婦人部のそれぞれに分かれ、月に1度集まり交流を深めたり、活性化のために話し合いを行っている。


第1章 宮古島と模合

第1節 模合の歴史
(1) 戦前
 戦前の宮古島における模合の姿は、現在のものとは少し違ったものであった。特に農村部では、家や墓の新築、田畑の購入、結婚慶事、子供の進学、病気の療養、借金返済など多額の金銭を準備する必要に迫られた時に、隣人・親戚・知人・友人などが集められ、模合が開催されていた。調達されるものも、現在は金銭が一般的であるのに対し、当時は砂糖、米、労働力などといった多様なものであった。それらはそれぞれ、砂糖模合、米模合、人足模合と呼ばれていたが、現在はそのような模合が行われていないため死語となっている。大正6年にはじめて宮古島に銀行ができるも、庶民にとってはかけはなれた存在であったため、人々の資金調達は依然として模合か質屋が中心であった。

(2) 戦後
 1948年に琉球銀行が設立され、中央銀行としての役割を果たしたが、庶民レベルの資金ニーズには対応していなかった。その後、1949年無尽業の開始、1953年相互銀行法、1954年大衆金融金庫法、1956年沖縄銀行法と続いて金融政策が拡大するが、一般庶民と銀行の距離はまだまだ大きかった。そのため、この頃の庶民の資金調達は模合を中心に行われていた。戦前期は米や砂糖などの物資を媒介としたものが多かったが、徐々に金銭を媒介とした模合が主流になっていき、戦後期の主流は金銭をやりとりする模合であった。
 ここで、戦後期の特徴的な模合として「ゴロゴロ模合」が挙げられる。このゴロゴロ模合は、戦後から昭和40年代頃に宮古島全体でよく発生していたものであり、参加者の1人が落札した金銭を持ち逃げし、次回からの模合に現れなくなるといった事件である。1つの模合が破綻すると、他の模合も連鎖反応で次々と破綻していくという状況を例えて、ゴロゴロ模合と呼ばれるそうだ。特に、やり取りされる金銭の金額が大きい模合において多く発生しており、それらは建築業の社長や大きな商店の経営者間の模合であった。特に建築業関係者のゴロゴロ模合に関しては、宮古島において建築業の不安定な時期があったため、経営不振によって模合金を払えなくなり、なくなく夜逃げをする者もいた。西里大通り商店街においても以前、ゴロゴロ模合が発生していたという事実がある。そして現在は、簡単に銀行からお金を借りる事が出来るようになったため、わざわざ大きな金額の模合をしようとする者は極めて少なく、そのためゴロゴロ模合も起こらなくなっていった。

第2節 現在の模合
(1) 目的と種類
 前述の通り以前は、宮古島の模合は資金調達の手段として行われる金融模合としての側面が強かったが、現在は親睦を主な目的とする親睦模合としての側面が強い。この親睦模合は「遊び模合」とも呼ばれる。種類としては、同期生模合・郷友会模合・親族模合・同業者模合などがある。通常は食事会の中で模合が行われるのであるが、ゴルフやマラソンなどのスポーツ、清掃活動などのボランティアと一緒に行われるような、少し変わった模合も見受けられる。


(2) 模合の運営
 一般的に行われている模合では、その運営方法や進め方は基本的に自由であるが、必ず決めておかねばならない決まり事やルールは存在する。まず、模合を立ち上げる人を「座元」といい、その人がまず信頼のおける人を選び「幹事役」に任命をする。まずこの二人の間で、掛け金額、口数、加入予定者、口数、加入予定者の選定、開催日、入札方法、罰則などについて決定する。そして座元が加入予定者の家を訪問し協力を要請し、承諾を得たらそこでようやく第1回の模合である「発起会」が行われる。発起会は座元宅で開催され、幹事役が参加メンバー、会員数、掛け金額、諸手続、その他必要事項を報告し、承認されれば第1回の模合のはじまりである。
 このような制度的慣習は金融模合の際によく行われるが、親睦模合ではほとんど省略されている。それは親睦模合が、誰かが金銭を必要とした時に開催されるものでは無く、同窓会やイベントをきっかけとして交流を目的として開催されるからである。また場所も、座元の家では無くレストランや喫茶店、居酒屋などで行われる事が多い。平良市内の飲食店の中には、毎月の模合開催によって経営が成り立っている所もある。私が調査の途中でふと立ち寄った喫茶店の中にも、模合の開催をアピールするポスターが貼られていた。

  
写真1 喫茶店のポスター        

写真2 ゴルフもする模合グループ

(3)「上げ模合」
 現在、金融模合の際に最も行われているのが上げ模合である。これは、参加者のうちの誰かが多額の金銭の必要に迫られた時に開催される。やり方としては、設定金額より高い金額を参加者のそれぞれがオークション形式で提示していき、最終的に最も大きな金額を提示した者が、その回の金銭を落札できるといったものである。例えば、設定金額が10万円だとすると、10万5千円…10万8千円…11万円…といったように参加者同士が入札金額を提示していく。この場合、11万円以上の金額を提示する者がいなければ、11万円を提示した者が落札する。この時の参加者を10人とすると、落札者以外の9人×10万円と、自らの提示した11万円を合わせた101万円を、落札者は受け取る。この時落札した者はもう二度と落札をする事が出来ず、さらに次の回から最終回までずっと11万円を払い続けなければならない。つまり、早い段階で落札すればするほどトータルでの支払金額が大きくなり損をする事になる。逆に、最終回で落札する者は毎回設定金額の10万円しか出さなくてよく、さらにこれまでの落札者達が提示した金額と設定金額の差額分も受け取る事が出来るので、最も得をするという仕組みなのである。


第2章 平良おみやげ品店 平良新弘さんの語り

第1節 平良おみやげ品店の歴史
 平良新弘さんは池間島出身の77歳のおじいである。現在、西里大通り商店街でおみやげ屋を開いているが、若い頃は池間島でカツオ漁に携わる漁師であった。昭和34年に宮古島で宝石サンゴが発見されると、池間島でカツオ漁をしていた人々の多くはサンゴを採るようになり、平良さんもそのうちの一人であった。採れたサンゴをお土産用の製品にするためには加工しなければならなかったが、当時の池間島には電気が通っていなかったために、加工することは不可能であった。そのため、当時の宮古島で電気の通っていた平良市内へと移り、サンゴの加工を始めた。そこでは、当時最も観光客の多かった那覇市内のお土産品店へと製品を卸すためにサンゴの加工を行っていたのであるが、次第に那覇市内での需要が少なくなってきたため、卸売をやめた。そして昭和41年頃、サンゴの加工品を販売するおみやげ屋を西里大通り商店街に開くのであるが、それが現在の平良おみやげ品店である。

第2節 西里大通り商店街の模合
 平良さんは、現在はもう模合に参加していないが、昔は西里大通り商店街における、商店の経営者間の模合に参加していた。平良さんが参加していた模合は、1年で1周して終わるように12名のメンバーで構成されていた。昔は銀行が簡単に金銭を貸してくれなかったため、商店の経営者達はまとまったお金が必要になると、模合をしようと近くの商店に話を持ちかけて回った。信用されていた人はすぐに参加者が集まり模合を開催することができたが、そうでない人は参加者を集めるのにたいへん苦労したという。設定金額が20万円程の高額な模合も商店街ではよく行われ、そこではよくゴロゴロ模合が発生していたようだ。しかし、平成10年頃に制定された利息制限法によりこの状況は一変し、ゴロゴロ模合はほとんど発生しなくなったという。

第3節 「下げ模合」
 西里大通り商店街で最も一般的に行われていたのは「下げ模合」と呼ばれる模合である。これは、入札金額をどんどん下げていき、最も小さい金額を提示した人がその回の取り分を取るやり方である。例えば、参加人数12人の設定金額3万円の模合だとすると、2万8千円…2万7千円…2万5千円…といったように入札金額が提示されていき、この場合、2万5千円よりも低い金額を提示する者がいなければ、その人が落札できる事になる。落札者以外の11人は、設定金額と落札金額の差額を受け取ることができるので、この場合は5千円を受け取ることになる。
一方で落札者は、2万5千円×12人=30万円に、差額の5千円を足した30万5千円を受け取る。そして一度落札をしてしまうと、それ以降の回はずっと毎回3万円を払い続けなければならず、一切、設定金額と落札金額の差額を受け取ることは出来ない。つまりこの下げ模合も、早い段階で落札すればするほどトータルでは損をすることになり、逆に、最後の回で落札する者は、得をするという仕組みなのである。

       
      写真3 現在の西里大通り商店街

      
      写真4 平良おみやげ品店
       
       写真5 平良おみやげ品店の中

       
       写真6 平良さんが加工したサンゴ


第3章 友利メガネ 友利夫婦の語り

第1節 友利メガネの歴史
 西里大通り商店街にある友利メガネは、友利シゲノブさんと友利ハツ子さんの夫婦で営まれている。お二人とも下崎部落の出身であり、シゲノブさんが21歳の頃に結婚された。当時、シゲノブさんは宮古文化放送で働き、ハツ子さんの方は農業に携わっていた。しかしシゲノブさんが40歳くらいの頃に、肉体労働であった放送局での仕事を辞め、平良市内に移り「友利メガネ」を開き、現在に至る。

第2節 模合との関わり
 以前は、シゲノブさんは西里大通り商店街の模合に参加していたが、現在は参加していない。一方でハツ子さんは現在、模合に参加している。その模合は、還暦同窓会をきっかけに、毎月集まって交流することを目的とし始めた。やはり同期生模合ということで、気心が知れて信頼できる人ばかりであるそうだ。以前は20名程の人数であったが、現在は10名程に減ってしまった。設定金額は1万円で、毎月お金を積み立てておき、年末になるとそのお金を参加者の皆で平等に分配する。そのお金はお年玉や旅行に使われるそうで、「遊び模合」の一例だと言える。開催される場所は誰かの家ではなく、近くの喫茶店やレストランなどである。以前は資金調達のための金融模合が主流であったが、現在はこのように親睦を深めることを目的とする遊び模合が主流であり、若者の間でも盛んに行われているようだ。

       
       写真7 友利メガネ


第4章 丸平せともの店 平良博彦さんの語り
 平良博彦さんは、西里大通り商店街で商店を営む63歳のおじいである。丸平せともの店の歴史は約60年である。博彦さんは以前3つの模合に参加していたが、現在は西里大通り商店街の模合に、1つだけ参加している。約20年前に誘われて参加することになり、15名のメンバーと毎月の模合を楽しんでいる。設定金額は1万円であり、「西里」の地名にちなんで毎月24日に開催される。昔は資金調達のために行われていたが、現在は「遊び模合」である。その模合に参加するかどうかは、参加者を見て、信頼できる人ばかりであるかどうかを考え、判断するそうだ。



       
       写真8 丸平せともの店


結び
 本調査では、宮古島の西里大通り商店街をフィールドとし実地調査を行う事によって、宮古島に存在する「模合」という相互扶助制度の実態と、その存在意義の変化を明らかにした。調査によって分かったことは以下の4点である。1点目は、模合の目的はもともと相互扶助であり、貧しい人や大金が必要な人達の資金調達の手段であったが、現在は、親睦や交流を主な目的としているということである。2点目は、模合には様々な種類があるが、代表的なものは「上げ模合」「下げ模合」であるということである。3点目は、模合の歴史は戦前にまで遡るということである。4点目は、設定金額が高額な模合が行われていた背景には、庶民にとって銀行が遠い存在であったという事実があったということである。


参考文献
1. 宮古の自然と文化を考える会,2008,『宮古の自然と文化〈第2集〉ミラクルに輝く八つの島々』,ボーダーインク
2. 「西里大通り商店街振興組合」
http://www.ocnet.or.jp/okishinren/o-nisizato.html
3. 『宮古毎日新聞』,2011/1/12,朝刊,「あたらすムヤイザー」