関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽に広がる銭湯文化

小樽に広がる銭湯文化

井谷 亜沙美

第1章 銭湯とは何か

 銭湯—その歴史は古く、約900年前の平安時代から存在し、現在のように街中に銭湯が出現したのは江戸時代のことであった。当時は蒸風呂式の“風呂屋”と、湯船に浸かる方式の“湯屋”の二種類の銭湯が存在していたが、後に主流となったのが“湯屋”で、現在はこちらが一般的に銭湯(一般公衆浴場)として認識されている。現在の銭湯とほとんど変わらない形式が整えられたのは、カラン(蛇口)が導入された昭和時代であり、銭湯文化の最盛期であった。
 しかしその後、戦後に入り内風呂が普及していったことで、徐々にその数を減らし続けた。現在の一般公衆浴場の数は2008年の時点で全国6,009施設であり、昭和55年の15,695施設と比べると半数以下に減少している1)。全国の公衆浴場数ランキングを見てみると、1位が青森県、2位に鹿児島県、3位に大分県、以下富山県大阪府、石川県、京都府、北海道、東京都、和歌山県と続く。
厚生労働省がまとめた資料に、『関東圏や近畿圏、北海道などでの「銭湯」創業者は、北陸4県(新潟、富山、石川、福井)出身者が多いという。特別な調査が行われた訳ではないが、関東・近畿等の公衆浴場業生活衛生同業組合役員には「北陸をルーツ」とする方が多い。北陸は、米作りを一毛作してきた経緯があり、水田は生活基盤を支える財産である。藩政時代に新田開発が終わり、田畑を長男一人に相続することで分散を防ぎ、次男以下は土地を離れることが必要となり、勤務先を求めて都市圏などに移住することになる。都市圏では既に人が溢れ、「公衆浴場業」や「豆腐製造業」など、長時間労働で営業時間の変則的な職種に就労して生計維持することが多かったという。勤勉で粘り強かったことから、徐々に経営者として独立していったものであり、更に血縁を頼って後継者が育成されていくことになる。』と記載されている。
 また、人々の『入浴』への意識もそれぞれの時代によって異なり、風呂に入るという習慣は元来“身を清める”という仏教に基づく宗教的行為であった。そこから江戸時代にかけて人々の“娯楽”へ、また昭和に入り娯楽と共に“衛生への配慮”へと変わっていった。
 以上を踏まえ、本研究では現地聞取り調査によって、上記の事実確認と共に、人々の銭湯への意識変遷について実証的研究を行う。研究対象とするフィールドは北海道小樽市、また大阪府大阪市中央区・東成区にそれぞれ存在する銭湯とする。

第2章 北陸から小樽へ

 北陸出身者が北海道へ移住した理由としては、第1章で記したように『北陸は、米作りを一毛作してきた経緯があり、水田は生活基盤を支える財産である。藩政時代に新田開発が終わり、田畑を長男一人に相続することで分散を防ぎ、次男以下は土地を離れることが必要となり、勤務先を求めて都市圏などに移住することになる』ということ、北海道開拓のために屯田兵として移住したこと、新たな漁場や農地を求めて移住したこと、などが挙げられる。
同様に、大阪府や東京都へも、農家の次男や三男が職を求め多くの人々が出稼ぎに出た。
 ではなぜこのような北陸出身者に銭湯の経営者が多いのだろうか。
銭湯を経営するのはとても大変な仕事で、経営者は比較的、忍耐強い北陸出身者が多い傾向にあった(小樽市博物館、2004)とされており、水害や豪雪により十分に作物が収穫出来ない年や、厳しい寒さに耐え乗り越えるという環境の中で、そのような気質を持つようになったのではないだろうか。
 今回研究対象とする小樽市は全国でも銭湯の数が多いと言われているが、開拓による労働者による需要が大きかったこと以外に、江戸時代から大正時代にかけて、小樽が日本随一の鰊漁獲量を誇っていたこととも深く関連している。港で働く漁業労働者似よる需要もまた、銭湯が繁栄した理由の一つとなった。

第3章 小樽に広がる銭湯の世界

(1)小樽における銭湯分布図
 小樽市内には、昭和時代には約70件もの銭湯が存在していたという。今回手に入れた資料によると、昭和42年の時点では58件であった(保健所年報/昭和42年/小樽市保健所)。
また現地調査によると、その数は21件に減少していた(2008年9月)。
ここでは、昭和42年に存在していた銭湯の分布図(図1)と、2008年9月に現存する銭湯の分布図(図2)を紹介する。

(2)小樽の銭湯
 小樽には古くからの銭湯が多くみられ、今回は調査に行くことができなかったが、その中でも信香町の小町湯は道内でも屈指の歴史を誇っている。
ここでは現地調査で話を聞くことが出来た5件の銭湯を紹介する。

◎ 柳川湯(稲穂町) 田中 康弘さん
柳川湯という名前は、銭湯が面している“柳川通り”が由来となっている。現在はカウンター式となっているが、10年前までは番台があったそうだ。残念ながら鰊漁の繁栄との関わりや北陸出身者との関わりはわからなかったが、昼までも絶えず客の姿が見え、近くに住む住民に愛されている銭湯であった。

◎ だるま湯(花園町) 高村 悦子さん
名前の由来はダルマの如く、どっしりとかまえていたいという願望からなのでは(かたりつがれる町 小樽/小樽道新販売所会)と記事にあったように、水色ののれんがなびき、堂々とした建物であった(写真1)。昭和6年に開業したそうで、中に入ると立派な番台があり、また湯船は円形であった。
また花園銀座商店街に面し、飲食店やバーなどが多いため、かつてはそこで働く女性が多く利用していたそうだ。現在の客は地元の高齢者が多く、特に一人暮らしの高齢者にとっては、家のお風呂を沸かすよりも銭湯の方が便利なため、愛用されている。
しかし、近年の重油価格の高騰や設備の老朽化などの理由で、2008年10月に閉店となってしまった。80年近い歴史があるだけに、北海道新聞に取り上げられるなど、常連客に惜しまれた。

◎ 神仏湯温泉(住ノ江町) 大畑 満眞さん
オーナーの大畑満眞さんは小樽公衆浴場商業協同組合の理事長を務める。
明治の中頃よりあった“如神湯(じょしんゆ)”を昭和5年に先代が譲り受け“住ノ江湯”と改名し営業を始めた。その後昭和11年に木造3階建てになり、信仰心のあつさから“神佛湯”と命名された。昭和62年に1300mの堀削により温泉が湧き出た。平成元年に現在の鉄筋コンクリートの3階建て(写真2)になり“神仏湯温泉”となった。

また、先代が石川県の和島から移住してきたそうで、小樽に北陸出身者が多いのは開拓期が重なったからなのではないかということ、さらに大正時代、手宮鉄道が現役だった頃は鰊漁も盛んで、銭湯も栄えていた、という話を聞くことが出来た。

◎ 潮の湯(勝納町) 松原 ヒデ・良勝さん
昭和六年に佐藤さんという方が浴場経営を始め、10年から堀さん、そして16年から松原さんに引き継がれた。名前の由来は、昔この地帯は砂地で海が近かったため、最初に開業した人が潮の湯と命名したのだそうだ(かたりつがれる町 小樽/小樽道新販売所会)。
松原さんの先代もまた北陸の福井県から移住してきたらしい。昔はすぐ横に木工所があり(現在は家電量販店)、そこの労働者が月極で利用していたり、近くの高校の下宿生、また漁船で働く労働者や小樽進駐軍の軍人などの利用も多かったそうだ。
さらに小樽には新潟県佐渡からの移住者が多いようで、松原さんの記憶によると“佐渡県人会”という札を掲げている家が昔よく見られたそうだ。
潮の湯は100%井戸水を利用しているために塩分が多く含まれているそうで、実際に入らせてもらったところ、身体が芯から温まり、開放的な浴槽は身体も心も癒してくれた。
また番台も現役で、何十年も使い続けているマッサージチェア(写真3)なども味のある雰囲気を醸し出していた。

滝の湯温泉(色内町) 八田 航治さん
先代は福井県から移住してきたそうで、初めは道内で農業を、その後昭和25年に親が開業した。近くには商店街もあり、人通りが多く、商店街を抜けた川沿いに位置している(写真4)。

3・4年前までは地下に温泉があり大人気であったが、安全上の問題などから廃止され、それと同時に番台もなくなり、今はカウンターになっている。
八田さんもまた、「石川や福井の人は我慢強い」と話しており、「鰊漁で栄えた頃にやはり銭湯も繁栄していたが、戦後の内風呂の普及に伴いその需要が減ってしまった」と、銭湯の経営を続けていく厳しさを教えてくれた。
しかし、最盛期の頃は1日に1、000人もの人が訪れていたらしく、5・6年前までは、担任付き添いのもと小学校のクラス単位で銭湯に来ていたらしい。これは銭湯に入るマナーを覚えるためのものであった。八田さんは“コミュニティの場・教育の場”としての銭湯を大事にしており、その存在意義を語ってくれた。
さらに、八田さんの兄妹が大阪で銭湯を経営している、ということを教えてくれた。

以上が今回の調査で得た情報で、その結果、①鰊漁の繁栄と銭湯の繁栄は関連性があった、②北陸からの移住者による銭湯経営は確かであった、③また小樽から大阪への移住もあった、ということがわかった。
そこで、小樽での調査後、滝の湯の八田さんの兄妹が経営している、大阪府の銭湯を訪ねることにした。

第4章 小樽から大阪へ

◎ 松の湯(東成区大今里) 松山利枝さん、山西順子さん
八田さんの姉(松山利枝さん)がもとよりあった銭湯を引き継ぎ、現在は妹夫婦(山西順子さん)が経営している(写真5)。

これより前は生野区で銭湯を経営していたらしく、昔の経営者は銭湯を転々としていたらしい。
十数年前までは近くに小樽出身者による銭湯がいくつかあったらしいが、今では皆辞めてしまったそうだ。小樽から移住した経緯については、身内や知人を頼ってきたのだろうとのことであった。
昔ながらの商店街を曲がった住宅街にあるため、客層は地元のお年寄りが多いという。午後3時からの営業だが、インタビュー中も客が絶えず、地元住民に愛されている様子がうかがえた。

◎ 清水湯(中央区西心斎橋) 八田 計三さん
17歳の時に小樽の滝の湯を改装し、その後大阪へ移り昭和38年にもとよりあった公衆浴場を買い取り清水湯を開業した。周囲には大手百貨店やアメリカ村などがあり、若者も多い。現在の建物は昭和61年にリニューアルオープンしたもので(写真6)、3階建ての造りになっており、1階はエントランス、エスカレーターを上がると番台と脱衣所、さらにエレベーターで3階へ上がると浴場に到着するといった、一般的な“銭湯”のイメージとは少し違った、斬新な造りになっている。この斬新な設計は全てオーナーの八田計三さんのアイデアによるもので、視覚的魅力よりも、より利便性を追求した機能制重視の設計となっている。

さらに八田オーナーは“今までの銭湯”より“これからの銭湯”を常に考えており、朝風呂・サウナの導入・ラドン風呂の導入・温度差のある湯・エレベーターの設置など、多くの独創的なアイデアを取り入れた。この経営努力に伴い、昭和43年には「清水湯愛好者の会」が発足した。また多くの銭湯経営者が清水湯へ見学に訪れ、そのアイデアを学んだという。その中の一人が後に、今や全国展開している“スーパー銭湯”を展開した。今のスーパー銭湯があるのはこの清水湯があってこそだと言っても過言ではない。
八田オーナーは銭湯の客離れは時代のせいだけではなく、経営者側の努力の問題でもあるとし、今後さらに新しい“何か”を提供していかなければ、と話してくれた。

第5章 まとめ

 今回の調査により、
①銭湯の経営者に北陸出身者が多いのは、その生活環境(雪国の厳しさ)により、忍耐強く我慢強い気質を持っているため、銭湯の経営に向いていたのではないか。
②小樽に銭湯が多い(多かった)のは、鰊漁の繁栄と関連があった。
③大阪への移住は、そこで成功した身内や知人を頼ってという場合が多いのではないか。
④銭湯は地域の人々とのコミュニティの場であると共に、子供達がマナーを身につける大切な教育の場である。
ということがわかった。
 各時代、各銭湯によりその歴史は様々であるが、港や漁船で働く労働者、スナックで働く女性、マナーを学ぶ子供達、そして一人暮らしの高齢者、習慣となった地元の人々、家族や仕事帰りのサラリーマンなど、それぞれの時代にそれぞれの需要があることは確かである。
今後、いち利用者として、銭湯がどのように変化していくのか、人々の意識がどのように変化していくのかを見守りたい。

謝辞

本研究を進めるにあたり、多くの方々にご協力いただきました。
小樽市立図書館の皆様、小樽市総合博物館の石井直章先生、聞取り調査に協力してくださった大畑満眞さん、田中康弘さん、高村悦子さん、松原ヒデさん、松原良勝さん、八田航治さん、八田計三さん、山西順子さん、松山利枝さん、そして論文構成などの指導
をしてくださった島村恭則教授、本当にありがとうございました。

文献一覧

小樽市博物館
 2004 「小樽の銭湯いまむかし 〜のれんのむこうはパラダイス〜」
小樽観光大学校
 2006 「おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック」
西村雄郎
 2008 「大阪都市圏の拡大・再編と地域社会の変容」ハーベスト社
総務省統計局
 2008 『社会・人口統計体系』
総務省   
「事業所・企業統計調査」
厚生労働省 
「衛生行政報告例」
 2009 「公衆浴場業の実態と経営改善の方策」
全国生活衛生営業指導センター
      「生活衛生関係営業ハンドブック2008」
小樽市
 1990 「小樽市史 10巻 社会経済編」
日本電信電話公社
 1972 「後志地方 職業別電話帳」
小樽市保健所
 1966 「保健所年報」
北海道新聞
 2009 「北海道新聞2009年9月13日」
小樽道新販売所会
      「語り継がれる町 小樽 第1号〜7号」
 
http://www.seiei.or.jp/advice/doukou/05.html

http://www.tonashiba.com/ranking/pref_livingspace/store_p/10020011

1小樽と和菓子 2小樽と精米事業

1小樽と和菓子
外村 美里
第1章
(1) 研究動機
  事前調査の段階で小樽には和菓子屋・餅屋が多いということがわかり、これに疑問をもった。何故小樽という港町においてそのような店が現在多く存在するのか。現地でのフィールドワークはこれをテーマに調査を行った。 
また、和菓子に関連付けて米について調べていたが、これについて明らかになったことは続いてレポート2「小樽精米事業―共成株式会社の発展―」に分けてまとめた。
  

(2) 小樽地理―北限の栗林―

日本における北限の栗林について引用
手宮公園内の栗樹は自然林で天然記念物でもあります。樹齢100年から150〜200年以上の巨木、老樹です。この樹林地帯は積丹半島から余市高島と続いて密生した純然たる栗樹地帯でしたが、暴伐、山火事等の被害のため滅失し、手宮公園において一部被害はあったのですが免れた栗樹が残存しています。昭和17年5月、第二次世界大戦の際、小樽市防空のため、防備隊により高射砲の視界を遮蔽するという理由で大樹数十本伐木しました。(『小樽案内人』79 81 166 177)(資料 手宮公園史より)

 
この北限の栗話について小樽和菓子店新倉屋の方から伺ったお話を以下にまとめた。



まず、小樽においてはその開拓と、これら栗林が深く関わっている。積丹半島余市、小樽朝里地帯は開拓前、人が通ることのない原始林であり広範囲にわたって栗林地帯を形成していたといわれる。また北海道開拓が遅れた原因の一つに神威岬通過の禁制が考えられており、当時この岬から北への和人の永住、婦女子の通行は禁じられていた。
 昔、梨本弥五郎という者が妻を伴って北辺防備のためこの岬を通過。それ以降、妻子を伴って北海道各地に移住するものが増え、小樽方面の定住者の増加により鰊漁が飛躍的に発展したといわれている。また『小樽案内人』(小樽観光大学校運営委員会編 30)には安政2年1855年、それまで禁止されていた神威岬以北への通行が可能になったことも記されている。このことによって、中でも積丹半島周辺、小樽、余市、石狩の各地は急速に和人が増えた。また小樽を含むこの一帯は漁獲物を加工するのに必要な平坦地も適度にあり鰊漁は特に盛んであった。
大漁期が続き定住者が増え、家事や鰊粕製造用に木が次々切られほとんど禿山になり保安林の役割を果たせないほどになる。これを何とかしようと、森林に等級がつけられた。1,2等級のものは伐採が禁止されたが盗伐が相次ぎ徐々に森林は縮小されていった。小樽公園、奥沢、長橋、朝里、の森林は2等級に認定されていたためこれをのがれ、現在に残っているという。小樽公園の中には他の場所から移されて来た栗樹もあり、秋には実をつけ、市民はこれを楽しむそうである。

第2章
(1) 鰊漁と米

1章(2)において小樽で鰊漁が飛躍的に拡大した背景を述べた。1855年まで通行禁止とされていた神威岬以北を婦女子も通過可能となり、これによって家族同伴で移り住むものが増えた。それに伴いこれらの地域に定住する者も増加、鰊漁は飛躍的に発展することとなるのである。

また鰊漁に関して増毛、余市、仁木などにりんごの木が今数多く存在する理由について話を伺ったので記しておく。
当時これらの地域においても漁が非常に盛んで、大量の漁家が進出していった。それは小樽を含む後志地方が他地域と比べて長い間安定した漁穫保っており、その間は魚肥の需要が高かったことが理由としてある。地理的条件の良さと活発な漁によって資金、設備を蓄え成長し、漁場が北へと移動すると、漁をするだけでなく遠隔地の漁場も確保し、資金や道具を貸し出し、産物を集めるようになったという。この北へと移動する際、漁で上げた鰊は陸に揚げられる。その時の鰊かすの腐ったものが自然に蓄積したため土壌が肥沃になり、りんごやさくらんぼ、ぶどうといった果物を豊富に実につける一帯になったという。
確かに調べてみると、例えば仁木町は「果物とやすらぎの里」として町を大きく紹介しており、観光スポットとして巨大施設「フルーツパークにき」がある。その他、増毛、余市においても豊富に果物がとれるようである。

鰊漁では大勢の漁夫が漁家、親方によって雇われており、食事付き、白米をたらふく食べさせてもらうことが雇用の条件であった.親方は漁夫のために大量の米を内地から取り寄せていた。漁期の来る何ヶ月も前から米の手配をし、この準備ができるかどうかは親方の権威にも繋がるものであったという。内地から取り寄せられていた米は貴重なものであり、鰊漁においても米の需要は高かったのである。米の需要の高まりと稲作発展の背景の一つに参考にできる文章を次に引用した。
 
   
稲作のほとんど行われない北海道において米は貴重なものであった。米作りの発達とその理由については、移入してきた内地の者に稲作技術があったこと、米そのものの需要の高まりと、稲作による副産物の需要が高かったことが理由とされる。副産物とは主に稲作ででる藁を使った草鞋、蓑、畳、であり、また屋根の材料としても活用されていた。(矢島 叡1986 112)

つまり食用としてだけの稲作だけではなく、生活に欠かせないこれらの副産物も手に入れることができるものとして重要視され、移入者を中心に徐々に技術が広まり、定着していったと考えられる。小樽は鰊製品だけでなく、漁網や藁製品などの漁具を扱う商人も多くいた。藁工品ではむしろ、かます、縄、草鞋などが主力で、石川、福井、新潟などから移入してきた人が商品にしていたという.(『小樽観光案内人 38』)

(2港湾労働者と餅

漁夫の雇用条件は白米の食事を付けることであったと述べた。次に港湾労働者と餅との関係についてであるが、この時湾での荷下ろし作業をする荷役達に食べられていたのが餅である。餅は握り飯より日持ちするため重宝された。力仕事をするため糖分を必要とし、餅はこれを補うためのものでもあった。また漁期が来る頃には大漁を祈って祝いをし、この際も縁起物として餅を使ったという。米は港湾労働者に白米という形としてだけでなく、保存の利く餅にしても食されていた。小樽市総合博物館の学芸員の方にお話を伺ったところ、餅が広く食されていた理由に、小樽が各地の積荷が集積される場所であったことも理由のひとつに考えられている。内地から取り寄せられる大量の米、小豆はおもに十勝・帯広から入ってきていた。このように必要な材料は全て手に入ったということも、後に餅作りから餅屋和菓子屋等に変わっていった主な要因として考えらる。

また餅作りには大量の水が使われる。北海道で米が本格的に作られるようになったのは明治中期になってからとされるが、その以前から移入した米を精米するために水車を設置して水力を利用してきた経緯がある。この水を利用する技術と「小樽の水」は現在の餅屋の発展に大きく影響してきた。
さらに小樽の貿易に非常に重要な役割を果たしていた北前船。その経路は西回りで京阪・北陸・越中・越後 日本海側の分化が流入し、京阪地帯の菓子職人が移住してきたことも大きな要因であると考えられる。


(3)縁起物としての餅・和菓子
漁期前には大漁を祈って祝いをし、このときも縁起物として餅を使ったと記した。主に漁家と雇い夫などが餅をつき大漁を祈ったとされる。『日本の食生活全集①北海道編』(矢島 叡1986)にはこの時に作る餅を「大漁もち」と呼んだとある。また他にも漁夫達が沖へ持っていく弁当に餅を添える際は「凶」の意味を持つ「黒」色に見えるあんこははみ出さないよう丁寧に「大漁」表すとされる縁起の良い「白」餅にくるんだとある。漁家の中には縁起物として菓子屋に魚の形をした「らくがん」を作らせ、ひびなどが入っていると親方に怒られたという。(矢島 叡1986)

第3章
(1)和菓子屋への発展
 港で重宝された餅は、多くはそれぞれの漁家で作っていた。ではどのようにして餅屋・和菓子屋となっていったのか。それは餅作りの機械を揃えるだけの資金があったかどうかだという。お話を伺った小樽花園にある「新倉屋」は食品雑貨商として味噌や醤油を扱ったのが始まりで、昭和20年頃には餅菓子を扱い、今の新倉屋となっている。すでに100年を超える老舗である。
 明治5,6年ごろから菓子の開業者が現われたのは小樽の発達がそのころを急激に上昇し、漁業だけでなく各種の商業が発展したことによるものである。このように菓子業者の続出によって製菓にも工夫が凝らされ、これが小樽の菓子をさらに質の良いものにしていったとされる。

(2)小樽の餅 べこもち
べこもちとは北海道だけの節句菓子である。調査中見て回ったどの店でも必ず売られていた。黒(茶)と白の2色が交ざった模様をしており、これは黒砂糖と白砂糖で作られているためである。このことから「べっこう」のような色をしたもち、あるいはべこ(牛)が蹲って寝ている様子に似ているため、白黒模様の乳牛、ホルスタインに似ているからこう名づけられた、という説もある。(牛のことを、東北から北海道の方言で「べこ」という)しかし正確に由来を知る人はいないようだった。




(3)引き出物としての和菓子
また伺ったお話では、昔小樽の葬儀の通夜には夜食として簡単な食事を出す習慣があったそうだが、これは食事を用意する者にとって大変な作業だった。この習慣を変えたのが夜食のかわりに菓子折を用いたことであった。この方法が客から広まり一般にも広まったのだという。


第4章
まとめ
小樽において餅が発達した理由をまとめると、まず小樽が、各地から来る物資の集積地であったこと。米だけでなく、小豆、砂糖など餅には欠かせない材料が十分に手に入る環境にあったのである。そうして作られた餅は湾での荷下ろし作業をする荷役たちに食べられていた。握り飯より日持ちし、手軽に食べられ腹もちする餅は忙しく働く者にとっては便利だった。
餅作りには大量の水を必要とする。小樽の水はこれに欠かせないものであった。餅作りだけでなく小樽の水を使用する産業は多い。今回の調査で歩いた勝内川流域にも精米・ゴム・かまぼこ・酒造会社などがより集まっていた。小樽の港に集まるのは物資だけではない。各地域から職人が集まり様々に活躍していった。菓子や餅においても京阪神からの職人の移住によって刺激を受けた結果洗練された技術と美味しさを生みだし、今日の菓子作りに生かされているのである。

参考文献
 

『日本の食生活全集49 日本の食事辞典Ⅰ素材編』
 農産漁村文化協会編・発行 1993

『日本の食生活全集49 日本の食事辞典Ⅱ作り方・食べ方編』
 農産漁村文化協会編・発行 1992

『日本の食生活全集①北海道編』
 矢島 叡著  農文協会発行 1986

『全集日本の食文化』
 石川 寛子監修  小山閣出版 1996

『和菓子の系譜』
中村 孝也著   淡交新社 1967
 
北前船・寄港地と交易の物語』
加藤 貞二著 無明舎出版  2002

『事典・和菓子の世界』
中山 圭子著 岩波出版 2006

『小樽案内人』
小樽観光大学校  2007  

参考URL
仁木町役場HP
http://www.town.niki.hokkaido.jp/
増毛町役場HP
http://www.town.mashike.hokkaido.jp/
余市町役場HP
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/

2小樽と米
外村 美里 
第1章  
(1)研究動機
研究テーマ1「小樽と和菓子」に関連して、材料の米、小樽の穀物・精米事業について調べていたところ、小樽市奥沢に製薬会社の共成製薬株式会社が存在し、さらに同社が精米業社であった共成株式会社を前身とするものであることがわかった。当時の精米事業の様子と製薬会社に至るまでの経緯を知るため、共成製薬株式会社の方に伺った。
    
(2)米と鰊漁
小樽の地形は海岸線まで山地が迫り農地は狭く、主にその発展を支えたのは鰊業など漁労による。では鰊漁において、いかに米が重要な役割を果たしていたかを記す文章が『日本の食生活全集①北海道編』矢島 叡著 1986)にある。  

鰊漁においても米は非常に重要なものであり、漁期に雇う漁夫のために大量の米を内地から取り寄せていた。というのも彼らの雇用条件が、白米をたらふく食べさせてやることだった。親方は漁夫のために漁期の来る何ヶ月も前から米の手配をし、この準備ができるかどうかは親方の権威にも繋がるものであった。
(矢島 叡1986 109)

稲作のほとんど行われない北海道において米は貴重なものであった。米作りの発達とその理由については、移入してきた内地の者に稲作技術があったこと、米そのものの需要の高まりと、稲作による副産物の需要が高かったことが理由とされる。副産物とは主に稲作ででる藁を使った草鞋、蓑、畳、であり、また屋根の材料としても活用されていた。(矢島 叡1986 112)
  
つまり食用としてだけの稲作だけではなく、生活に欠かせないこれらの副産物も得られるものとして重要視され、移入者を中心に徐々に技術が広まり定着していったと考えられる。またレポート1「小樽と和菓子」にも述べたが、鰊漁期には大量の米が使われ、同時湾での荷下ろし作業をする荷役達に食べられていたのが餅である。餅は握り飯より日持ちするため重宝された。力仕事をするため糖分を必要とし、餅はこれを簡単に補うためのものでもあった。また漁期が来る頃には大漁を祈って祝いをし、このときにも縁起物として餅を使ったという。米は湾口労働者に白米という形としてだけでなく、保存の利く餅にも使われた。


第2章
精米業社の登場

(1)沼田喜三郎と共成株式会社
明治24年当時、北海道ではほとんど稲作がおこなわれておらず、本州から玄米を運び、石臼でついて白米にしていた。ここに着目したのが富山県出身の沼田喜三郎であり、小樽市有幌町で精米精麦業の共成株式会社を設立、水車を用いた精米事業をスタートさせた。当時小樽と高島の群境だったオコバチ・妙見川畔にあった水車は、冬は凍って夏は水枯れと能率が悪かった。沼田喜三郎はこれを改良し、水に浮かべるだけの水車から、水を上からかけることで動力を十分に得る方法をあみだした。(資料1「共成物語」)    
同社の創業者であり、社長を含め22年間取締役に在任したが、一方で沼田町開拓者として名が残っている。また現在の沼田町に開墾委託会社を設立し、開拓事業にも力を注いだ人物でもあり、現在の雨竜郡沼田町は沼田喜三郎にちなんでつけられている。
(脇 哲 小樽豪商列伝 1992)(資料1「共成物語」)

(2)共成株式会社の発展
急激に人口が増す当時の北海道で、その中心として発展する小樽に合わせるようにして新会社は急速に拡大、創業10年後の明治34年には、道内各地に支店や精米場を持つ規模に拡大しており、その頃既に東京以北で最大の米穀会社となっていた。
この資料からも共成株式会社の当時の規模を窺うことができる。奥沢村、花園、朝里町にあった共成株式会社精米所工場が最も大規模であった。

また小樽における精米精麦事業が稲穂,奥沢,入船に集中していたことについて次のように記されている。

精米精麦工場は、水車を用い水力を動力として開始された関係上、自然落流のある河川の近くに立地している。奥沢村や稲穂町に精米精麦工場が多いのは水力を利用できる土地が選ばれたためである。
「小樽新聞」(「共成株式会社大株主」)に掲載されている株主名簿によると田口梅太郎、大河原勝太郎、沼田喜三郎、上野勘助、山口宗次郎、南嶋商行、井尻静蔵、京坂興三太郎、横山彦市、町野清太郎、遠藤又兵衛、佐々木静二、が有力株主として名を連ねている。(『近代都市の創出と再生産―小樽市における階層構造を中心に―』)引用

                   

また、その他に当時の共成株式会社繁栄の様子がうかがえるのが、明治45に建築された有幌町のレンガ造りの本社である。この建物は現在では小樽市の歴史的建造物として指定され、「小樽オルゴール堂」として多くの観光客で賑わっている。建物入り口横には同社についての説明が表示されている。メルヘン交差点に位置し、石造りの建物が多かった中では珍しいレンガ造りになっている。家具店などを経て現在のオルゴール専門店に再活用されている。

第3章
製薬会社への移行

(1)共成製薬株式会社
(聞き取り調査)
 
小樽の穀物・精米事業に関して調べていたところ、小樽市奥沢に製薬会社の共成製薬株式会社が存在し、さらに同社が精米業を営んでいた共成株式会社を前身とするものであることがわかった。当時の精米事業の様子と製薬会社に至るまでの経緯を知るため聞き取り調査をし、お話を伺った。

沼田喜三郎は、奥沢村の勝内川沿いに八基の臼を並べた水車小屋から精米事業を始めている。(『小樽商工名録』昭和25年版 1950)1891年明治24年に資本金6万円の合資会社・共成として設立されて以来、共成株式会社の精米精麦事業は発展、規模を拡大していったが、大正に入ってからは徐々に工場数が減り、昭和30年には全事業から撤退、解散している。(資料1「共成物語」)
共成製薬株式会社での聞き取り調査をまとめると、前身であった共成株式会社は昭和10年頃になると日本の戦時体制への取り組みが高まり、米統制がおこなわれるようになったことで米穀事業も圧迫されはじめた。事業の多角化が求められた会社が目を付けたのが北海道には豊富にあったが、それまで使われることのなかった海藻である。 
昭和12年頃から函館高等水産(北海道大学水産学部の前身)の教授の指導等を得て、函館の実験場で昆布などの海藻からアルギン酸・沃度などの抽出をはじめた。昭和16年には小樽奥沢にアルギン酸工場を建設。工業用、食品用に開発が進められ、製造されたアルギン酸ナトリウムは、主にアイスクリームやかまぼこ用の粘性安定剤として利用されたという。しかし戦争の本格化により原料の海藻を手に入れることが困難になり研究だけがおこなわれるという時期が続く。
戦後、昭和22年このアルギン酸の医薬への応用に当時の厚生省から医薬品製造の許可が下り初めて医薬品としての治療剤を開発する。これが共成株式会社の製薬部門の始まりとなり後の共成製薬株式会社につながっていくこととなるが、事業が圧迫された共成株式会社を支えるまでには至らなかった。共成株式会社は昭和30年に製薬部門を切り離し、全事業から撤退、昭和32年10月に解散した。この昭和30年に独立した製薬部門が発展したのが、現在の共成製薬株式会社である。

(2)共成製薬株式会社の発展
(聞き取り)
共成株式会社製薬部門の事業を受け継ぎ昭和30年独立した後、現在の小樽奥沢で本格的に医薬品開発を進めていく。なお奥沢に本社を構えたのはこの土地が共成株式会社所有のものであったためである。ここ奥沢には奥沢水源地から流れる勝内川が南北に走り、本社および工場はこの川のすぐ横に位置する。























以来北海道では数少ない製薬企業として各大学、研究機関、医療機関と共同研究に取り組み、X線バリウム造影剤、発泡剤、局所止血剤などを開発してきた。これらの医薬品は関係会社の株式会社カイゲン(本社大阪、1972年に提携している)を通じて、全国の病院、医療機関に販売されている。風邪薬で知られるカイゲンであるが、売り上げの90%は病院や医療機関向けの医薬品や医療機器によるものであり、特に消化管造影剤をはじめとする消化器系薬剤販売が専門分野となっている。
なお、共生製薬株式会社は他に、堺化学工業株式会社、堺商事株式会社提携している。日本で使用されるレントゲン用バリウムの半分を堺グループが生産しており、そのバリウム原石の産出国内最大なのが小樽松倉鉱山である。

第4章
まとめ

本州から玄米を運び石臼でつき白米にしていた点に着目し、水車を用いた精米事業を展開したことは当時、画期的なものであった。これは当時の北海道における精米を効率的にし、稲作業を活性化させることにも大きく貢献した。資本金6万円の共成株式会社であるが、伺った話によれば、6万円といえば現在にして約3億円であり、当時の同社の北海道精米精麦事業における規模がいかに大きなものであったかがわかる。事実、当時の北海道においてその規模は1,2位を争うものであったという。
米統制によって事業継続が厳しくなった際に、同社が着目したものが海藻、主に昆布であった。この昆布から抽出された成分が、アイスクリームやかまぼこ用の粘性安定剤として利用されていたという点に注目すべきである。氷菓、かまぼこはどちらも小樽における主要産業に含まれる。 
小樽は海運関係者と穀物業者が高納税者であったといわれる。今回の調査では、そのの中でも最も大規模であった共成株式会社の起こりと発展、さらにその後を継ぎ独自に発達してきた共成製薬株式会社について調べるに至った。

謝辞
本稿の調査にあたっては小樽市私立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生の多大なご協力を賜りました。聞き取り調査にご協力頂きました新倉屋本店の稲船玲子様、共成製薬株式会社の佐藤伸也様、小樽市立図書館の皆様ありがとうございました。また訪問いたしましたたくさんの和菓子店の皆様ご協力ありがとうございました。


参考文献
『小樽豪商列伝』続  
  里舘 昇著 市立小樽図書館出版 1992
  市立小樽図書館所蔵

『小樽歴史年表』
  渡辺 真吾著
  土屋 周三編 特定非営利活動法人 歴史文化研究所 2006.4
  市立小樽図書館所蔵

『小樽商工名録』昭和25年版
  小樽商工会議所編纂 1950
  市立小樽図書館所蔵

『近代都市の創出と再生産―小樽市における階層構造を中心に―』
  日本女子大学・社会移動研究会 発行

資料1「共成物語」
  共成製薬株式会社保管資料

資料2『小樽小工業統計書』(第13回)の「区内工場調」一覧表
  
資料3「共成株式会社社屋写真」
  小樽市史編纂室 市立小樽図書館資料 刊行年不明
  市立小樽図書館所蔵