関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

樺太(海馬島)引揚げと小樽

樺太(海馬島)引揚げと小樽
大木 言葉

1.日本と樺太
1−1.樺太の歴史

 樺太は北海道のさらに北に位置する島で、面積は北海道よりも少し小さい。北緯50度を境界とし、南側を南樺太、北側を北樺太と呼ぶ。現在樺太にはロシア連邦サハリン州を置いている。北樺太は、国際法ロシア連邦の領地と認められているが、南樺太に関しては、いかなる国にも属していない。北海道とは兄弟のような関係であり、昔は樺太にも先住民の樺太アイヌが住んでおり、狩猟や漁労を中心とした生活を送っていた。また、大陸や中国とも関係を持っていた。日本と樺太の関係がはっきりと確認できるのは、江戸時代に作られた日本地図に樺太が含められていたという事である。
16世紀頃から、ロシア帝国は勢力を拡大し、19世紀までには北千島を勢力に収めた。樺太にも関心を持ち、ロシア領としたいと考えていた。樺太対岸地域の黒竜江左岸は中国の清王朝の領地であったが、のちにロシア帝国との共同管理地となり、黒竜江左岸のすぐ横に位置する樺太は、列強の脅威にさらされることとなる。日本にも、ロシア帝国が訪れ、通商を求めた。また、1855年には、日露和親条約が成立し、樺太の南部の日本人居住地は日本領であるということが成立した。しかし1866年には、武力を背景とした外交により日本の領地はロシアとの共同管理地となる。
1969年(明治2年)北海道と樺太の開拓促進のため、開拓使が設置された。だが、樺太は共同管理地であり、ロシア帝国に奪われかけの状態であり、明治政府は北海道の開拓を優先させている。その間にロシア帝国は、囚人や軍人小役人を樺太に送り込み、明治政府は樺太の管理は不可能と考える。1875年には、千島樺太交換条約により、北千島18島と引き換えに樺太はロシア領となった。だが、ロシア帝国にとって、樺太流刑地の役割しか果たしておらず、開拓や発展はしなかった。
1904年(明治37年)日露戦争により日本は樺太の奪還を進め、樺太全島を占領する。1905年(明治38年)に戦争終結のため日露講和会議が開かれ、日本は占領した樺太の北(北樺太)を露国へと譲渡し、正式には同年のポーツマス条約により、明確に北緯50度を境として日本領とロシア帝国の境界ができた。以後、シベリア出兵に伴い、一時期日本は北樺太をも占領するが、正当化できないなどの為、シベリア撤兵と同時に北樺太を放棄する。(大正14年)
こうして第二次世界大戦が終わるまでの約40年間までの樺太の姿が出来上がったのだ。




1−2.日本領として
  
1907年(明治40年)樺太庁が置かれ、樺太は日本の都道府県と同じ位置づけをされた。
樺太の地名も改称され南樺太の開拓は進んでいく。ポーツマス条約が結ばれた年(1905年)から、民間人は樺太へ渡るようになる。多くは北海道出身者、もしくは東北地方出身者と言われている。北海道の更に北に位置する樺太は、気候や風土も大変厳しく、遠隔の地として人口は簡単には増加しなかった。政府は樺太開拓を進めるため、樺太移住者への優遇政策を実施した。また、明治政府の調査から、森林資源と石炭資源が豊富であることが判明していた。森林資源はのちに、みだりに木を伐採したことにより衰退の予見がされていた。そこで次に炭鉱産業が目を付けられ、盛んになったとされる。森林資源に関しては、三井の傘下である王子製紙会社が、1910年頃に当時、東洋最大の能力があると言われた新聞紙用の工場を、北海道に建設した。それに続き、1914年樺太内、初めての製紙パルプ工場が大泊に建設される。この、パルプ工場と炭鉱により人口は大きく増加したとされる。 

1−3.戦前

戦前の樺太は、前にも書いた通り、炭鉱とパルプ、そして漁業を中心とした産業が発達した。鉄道も、樺太庁鉄道が走っており、豊原と真岡はもちろん、最も北は半田、南は大泊、内幌まで路線は伸びていた。また、鉄道と同様に移動手段として、稚内と大泊を結ぶ稚泊連絡船が、北海道と樺太を結ぶ重要な役割を果たしていた。片道は8時間で北海道の稚内へ移動可能であった。定期船は小樽や函館間も頻繁に利用されていた。豊原と真岡は中心都市として、多くの人々で賑わっていた。豊原は小札幌と言われ、町を作る際も、札幌に見合って碁盤の目状に作られ、南樺太全島民数はピークの際は約40万人いたそうだ。しかし当初、厳しい気候の樺太へは移住者がなかなか集まらず、樺太庁は手厚い優遇策をとり、炭鉱夫の給料は、他の土地の2倍はあったとされる。
 
1−4.戦後の樺太

1945年(昭和20年)2月に、ロシアと国境を隔てる樺太には防衛のために樺太師団が結成される。しかし同年の8月9日、ソ連は日ソ中立条約を無視し、樺太へと侵略を始める。この年の夏頃から南樺太の北にある恵須取付近では、ソ連軍による飛行機の往来が激しくなって、偵察されているようであったと言う。敗戦の色が濃くなってくると、北の南樺太の住民は危険を感じて、内地へ避難する人が現れ始める。本土と同様に防空壕が掘られ、人々は防空頭巾を被り、警戒体制が続いた。8月9日に侵略を開始したソ連は徐々に南下を進め、日本が無条件降伏をした15日までに北に位置する町は爆撃を受け、ソ連軍は進行していた。住民は南を目指して逃げまとった。15日の降伏により戦争は終わったとされるが、ソ連樺太の占領は絶対とし、日本が送った停戦の使者を殺してしまい、以降も戦争を続けた。日本で地上戦が唯一行われたのは沖縄だというのは間違いで、樺太も地上戦があったのだ。20日にはソ連軍は20日に真岡から上陸を開始する。上陸時、真岡郵便局の9人の女性たちは、少しでも長く緊急事態を伝えようと電話交換業務を続けていた。避難許可は出ていたものの彼女らは逃げずに通信を続け、「さようなら、さようなら」との通信を最後に、毒を飲んで集団自決を行い亡くなっていった。この話は真岡郵便局事件として世に知られ、若くして亡くなった9人の乙女達の慰霊碑は、稚内の公園に建てられている。このような、集団自決は、様々な場所でも行われていたようだ。看護婦であった女性もまた、逃げまとった末に最後に30人ほどで病院の薬を飲み、自決を図ったと『北の海を渡って−樺太引揚者の記録』(昭和51年 創価学会青年部反戦出版委員会)の記述が残っている。運良く、8月の避難時に樺太から宗谷海峡をわたって日本に帰れた人もいたが、多くは昭和22年に引揚げが再開されるまでの間、ソ連による統治下のもとに生活することを余儀なくされた。同年の8月23日ソ連軍の代表が、豊原市に到着し本格的な占領が始まったとされる。全てのソ連兵が、金品を奪ったり乱暴をしたりはなかっただろうが、そのように、手荒な扱いを受け、ソ連に対して反抗的な態度を取ると逮捕されたり、不当な理由により多くの犠牲者が出た。また、ソ連兵は日本人の家に住み、一番良い部屋に案内させて、家主ら家族は台所で寝ていたという証言もあり、やはり辛い生活に追いやられていたことは明らかだ。樺太の小学校も、ソ連の子供と日本の子供の教室に分けられ、大変仲が悪かったらしい。

1−5.引揚げ

ソ連軍の進行により樺太の住民は、引揚げ船をもとめて、大泊などの大きな港がある街を目指した。しかし、ソ連軍の進行は早く22日にスターリンが、停戦を命じるまでの間に、引揚げられた人は多くない。また、樺太に一番近い稚内には人が収容しきれなくなり、小樽や函館などにも多くの引揚げ船が向かった。だが引揚げ船にも悲劇は起きたのである。ソ連軍の潜水艦が引揚げ船を攻撃。小笠原丸、第二新興丸、秦東丸の3隻の内、第二新興丸以外の2隻は撃沈。第二新興丸も大破し多くの犠牲者が出た。その数は1700人以上とされる。引揚げ後の生活も、苦労を極めた。小樽市では、経済的に交流の深かったため、約1000人の親戚や身寄りのない人々を受け入れたとされる。しかし、引揚者収容施設として使われた建物は古く、生活環境は好ましくないものだったと北海道新聞は記事を掲載している。衛生状態が悪く、部屋は窮屈。周辺住民からは、建物は防火の面でも不十分であり、火災の危険性も高いことから、改善の声が上がっていた。昭和41年度引揚者収容施設廃止の5カ年計画により、入居者は徐々に、市の公営住宅などに移転していき、収容施設は姿を消していった。

2.海馬島
 2−1.海馬島とは

 正式名称を、樺太本斗海馬村と称する。地形は山岳地帯のようで、ほとんど平地は見られない。現在は無人島。
しかし、樺太と同様に終戦の秋頃まで人々が生活をしていた。海馬村を形成し、人口は約750人であったとされる。13の集落が点在し、中心は最大集落の北古丹であった。島民のほとんどが漁業関係者であり、海産物の本当に豊かな島であった。小学校も2つあり、郵便局や役場なども存在するが自然の豊かな村であった。戦後の引揚げ以後、現在に至るまで無人島となっている。手つかずの自然の宝庫として近年注目される。

 
 2−2.海馬島の始まり
 
 明治37年留萌の資産家、五十嵐億太郎が、仲間50人と共に無人島であった海馬島に上陸する。彼らの目的は鰊漁であった。莫大なお金を賭けて島を巡る道や、鰊漁の漁師が住む家などの建設を始める。人口も増え続け、のちに鰊により資本が出来ると、村役場や郵便局、寺院に小学校なども出来上がり、海馬島は発展していった。

 2−3.海産物の豊な島

 海馬島は海産物の宝庫であった。1923年(大正12年)の記録によると漁獲量は1万5000石とされており、大正末期まで豊漁が続いていた。鰊の大群が去って行った後でも、島は磯漁に転換しウニや昆布、鰊以外の魚などが豊かで、容易に生計は立てられたとされる。また、どれもこれも美味で立派なものだったと言う。オットセイの繁殖期になると、浜にはオットセイが大群で押し寄せ、その騒音は眠りを妨げる程であった。

 2−4.戦後

 終戦後も、しばらくはソ連軍の進行は無かったとされる。しかし、いずれやって来るだろう恐怖から、島民は脱出を早くから望んだ。各集落で船を手配したり、稚内の兄弟に船を要請したりのおかげで奇跡的にも、全島民の引揚げが成功したとされている。
南古丹では、ソ連兵と10日ほど一緒にいた方々もいるが、シベリアに送られる寸前に脱出を成功し、無事に逃げることができたようだ。

 2−5.引揚げ

 最も多くの人々が引揚げたのは、一番近くの利尻や稚内である。また、南樺太と同様に小樽、函館に移った方も多い。稚内は行き先のない人々が大勢詰めていた。海馬島も、着の身着のまま脱出した人々ばかりである。
島で得てきた財産は全て手元を離れてしまい、皆が無一文からのスタートを切る事となった。

3.海馬島引揚者 山崎商店のライフヒストリー
 3−1.山崎商店さんの歴史

 正式名称「株式会社 山崎商店」北海道小樽市色内2丁目18番13号に店を構える。創業1908年(明治41年)。今年で創業102年目となる(2010年現在)。海産問屋・珍味製造卸を手掛ける。現在の社長は山崎照弥さん。照弥さんの祖父、彌作さんが、海馬島にて山崎商店を創業。海馬島では漁業(特に鰊漁)を中心としていたが、様々な日用品も取り扱っていた。海馬島においては、船を2艘所有していた。終戦の引揚げ時に使用される重要な役割をはたす。戦後、山崎さん一家は海馬島から小樽へ引揚げ、場所を移し再スタートを切る。現在の場所よりも少し違った位置に店を構えており、土地の整備により現在の場所に至る。
当時は現在よりも広い土地に、海産物の倉庫として石蔵が建てられており、最も鰊が栄えていた時期には現在の3倍程度の広さであった。

 3−2.山崎彌作さん

1891年(明治24年)農家の次男として生まれる。福井県出身。当時、農家の次男や3男は、開拓に行く、もしくは丁稚奉公に行くことが普通であった。彌作さんも樺太開拓民として、樺太を目指すが、途中で船が難破。偶然にも海馬島にたどり着く。
当時の海馬島は、ほとんど無人島状態であり、彌作さん達一行は海馬島にて0からのスタートを始めた。
海馬島では、主に漁業を中心に生計を立てていた。海馬島は海産物が、大変豊かな島であり、現在日本の昆布ではラオスが日本1とされているが、海馬島の昆布は更に立派なものであったと言う。彌作さんは漁場を持ち、のちの山崎商店の基礎を作っていく。また、海馬島の村長を務め、山崎商店では海産物からタバコまで幅広い品物を置き、島の中心を支えていた。戦時下の食糧統制時代になると、山崎商店は、配給所としての役割も担った。そして、1945年(昭和20年)8月15日終戦を、海馬島にて迎える。
上記にも、記したように海馬島は全島民が避難をしたと言われている。確かな日にちは分かっていないが、同年の秋頃に彌作さん一家も、小樽へ引揚げたとされる。その際、彌作さんの所有する船が引き揚げ船として使用されたと言う。
小樽へ引揚げてからは、彌作さんにかわり、息子の利秀さん夫婦が闇市を始め、1955年(昭和30年)頃からは利秀さんに社長が譲られる。海馬島の会の会長を務め、1977年(昭和52年)に亡くなられる。


 












3−3.山崎利秀さん
  
 1921年(大正10年)海馬島に生まれる。海馬島にて、少年時代を過ごし徴兵で昭和17年島を離れたが終戦後、小樽へ引揚げる。引揚げの際、いくらか家の資産を持ってきたはずであったが、戦後のゴタゴタにより、資産となるものは一切なく小樽で0からのスタートを切る。闇市から商売を始め、のちに以前から、親密であった友人に土地を譲り受け、小樽にて山崎商店を始める。
利秀さんは、小樽博覧会のために、「海馬島慕情」という歌を作詞する。「海馬島慕情」は6番まであり、披露会で披露したところ好評となり、3番にまでまとめた「嗚呼海馬島」を発表したと言う。平成10年まで、海馬島の会の会長を務め、年に1.2回の会合を開いていた。会は海馬島への訪問も2度実現し、利秀さんは行かなかったものの、5つ下の弟さんは現サハリンを経由し、2度の訪問を実現した。

*「嗚呼海馬島」 歌詞全文*
 作詞 山崎利秀
 作曲 竜鉄也 「山の駅」のメロディー

 1番
 日本海は最果の 利尻の北の浪の上 青い島影故郷は 幼き思いの糸車
 ああいつの日に帰いる 母の島
 2番
 のぼる朝日の三島や いか釣る夜の灯台明り 鷗沢の村祭り 夏は「昆布」で光る浜 
 ああ涙にくもる 母の島
 3番
 山で魚取る大沢の 薫る「ハマナス」帆掛岩 「オロロン」群がる磯浦に しのぶ鰊場
 沖揚音頭 ああ見る夢も悲し 母の島
 4番
 君の便りは暁丸の 気笛なつかし中の島 出舟入舟「うす」の湾 
 ああ想出も悲し 母の島
 5番
 かもめ賑わう烏帽子岩 飲んでうれしい「あね子湾」 祈る夕日は釣鐘岩や 
 ああ瞼に浮かぶ 母の島
 6番
 吹雪の夜は「カルタ」とり 共に暮らした「ランプ」の明かり 戦のために征きし友
 英霊(みたま)の帰る里はなし ああ涙にうるむ 母の島
 
[遥かなる海馬島P9−10引用]

 3−4.山崎照弥さん
 
1955年(昭和30年)小樽市に生まれる。山崎商店3代目社長。生まれも育ちも小樽。
幼少期に祖父の彌作さんから、海馬島の話を聞いて育つ。山崎商店の創業年について昭和21年からとしていたが、海馬島の昔の写真を見ると、山崎商店と書かれたハッピを着た人が、写っていることに気付き、創業年を祖父の彌作さんが、海馬島に着いたとされる明治41年と変更する。海馬島に関する話を知ってらっしゃる数少ない方である。


 3−5.海馬島の会
 
 海馬島からの引揚者により結成。自然と人が集まり1974年(昭和49年)頃に結成されたという。会員は1989年当時約250人いた。
全国に会員はおり、特に利尻や礼文島に多くの引揚者の方々がおられた。年に1.2回の会合を開いては故郷の事を語り合った。本部として、山崎商店さんに海馬島の会、本部の看板が下げられていた。会は2004年、会員の高齢化の為に解散される。がしかし、その間に二度の訪問を実現し、記念誌として小林與一郎さんが『遥かなる海馬島』を制作した。

 3−6.小樽の街とのつながり
 
 小樽には、樺太から引揚者が大勢来た。小樽の人口がピークになった1964年(昭和34年)小樽全体の人口が20万7000人に対し、引揚者の人口は1万人いたとされる。山崎商店さんのように、以前から仕事で取引があった人もいたが多くは見知らぬ土地へ引揚げることなった人々である。現在も三角市場には、自身は樺太で生まれてすぐに引揚げてきた方や、祖父母の代は樺太にて商いをしていた方々など、実際に樺太に住んでいた記憶を持つ人を見つけることは困難であったが、子孫の方々から樺太に関しての貴重なお話を聞くことができた。また、戦前は小樽と樺太間には定期船があり、樺太の人々が買い物に来たという。

4.まとめ
 樺太は、日本とロシアの中間地点として、昔から領地が争われ続けていた。それは、近代になればなるほど激化し、樺太に住んでいた原住民はもちろんのこと、多くの被害者が出ているのは間違いない。今現在は、ロシアのサハリン州が置かれているが、戦前の建物がそのまま現存しており、歴史の跡がはっきりと残っている。帰りたいと思う人は沢山いるし、これからも樺太については、考えていかなければならない問題である。

*レポートの制作に関して、小樽市の皆さん、加藤薫さん、海馬島に関しては山崎照弥さんに多大なるご協力を頂いたことに深く感謝申し上げ、ここに謝辞とさせて頂きます。2010年1月12日 大木言葉

文献一覧
三木理史
 2006年 『国境の植民地・樺太塙書房
井澗裕
 2007年 『ユーラシア・ブックレートNo108 サハリンのなかの日本』東洋書房。
創価学会青年部反戦出版委員会
 1976年 『戦争を知らない世代へ⑱北海道編 北の海を渡って 樺太引揚者の記録』第三文明社
小林與一郎
 2004年 『遥かなる海馬島』。
高橋是清
 2008年 『絵で見る樺太史』太陽出版。