関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

桑山敬己ゼミ・山泰幸ゼミ・島村恭則ゼミ 大学院合同ゼミナール

 桑山敬己ゼミ・山泰幸ゼミ・島村恭則ゼミ 大学院合同ゼミナール

2018年12月21日

文献講読

孫 嘉寧(博士課程後期課程)

・高 丙中「日常生活の未来民俗学についてのアウトライン」

・田村和彦「高論文に対するコメント」

『日常と文化』42017

 

呉 松旆(博士課程後期課程)

・呂 微「民俗学のデカルト的省察―高丙中『民俗文化と民族生活』をめぐる論考―」

・西村真志葉「解題 呂微「民俗学のデカルト的省察 ―高丙中『民俗文化と民族生活―』をめぐる論考」

『日常と文化』42017

 

鄭 喜先(博士課程後期課程)

・南 根祐 「韓国のセマウル運動と生活変化」

『日常と文化』52018

f:id:shimamukwansei:20181223222346j:plain

f:id:shimamukwansei:20181223222435j:plain

f:id:shimamukwansei:20181223222508j:plain


 

八木透ゼミ・島村恭則ゼミ 大学院合同ゼミナール

八木透ゼミ・島村恭則ゼミ 大学院合同ゼミナール

2018年12月6日、関西学院大学

岡本真生(関西学院大学大学院博士後期課程)

「ヴァナキュラー宗教の民俗誌ー集団A会の事例から」

中西仁教授(立命館大学産業社会学部)

「神輿場はなぜ荒れたのかー柳田國男『祭礼と世間』から考えるー」

f:id:shimamukwansei:20181207170656j:image

f:id:shimamukwansei:20181207174330j:image

カンカカリヤ 浜川綾子氏によるウガン

カンカカリヤ 浜川綾子氏によるウガン(御願)

2018年11月26日、宮古神社境内のイビ(威部)にて。

浜川綾子さんは、宮古島の著名なカンカカリヤ(シャーマン)の一人で、故谷川健一氏が中心となって1994年に結成された「宮古島の神と森を考える会」には設立当初から深く関わってこられた。

写真は、11月26日に行なわれた、同会の設立25周年を神に感謝する儀礼。

呪詞の朗唱ののち、神歌が歌われている。

参列を認めていただいた浜川氏に感謝申し上げます。

f:id:shimamukwansei:20181126152126j:image

f:id:shimamukwansei:20181126162149j:image

f:id:shimamukwansei:20181126154741j:image

f:id:shimamukwansei:20181126154749j:image

 

f:id:shimamukwansei:20181127075009j:plain

f:id:shimamukwansei:20181127075024j:plain

f:id:shimamukwansei:20181127075038j:plain

f:id:shimamukwansei:20181127075053j:plain

 

講演「現代と伝承ー『無形文化遺産』の視点からー」

講演「現代と伝承ー『無形文化遺産』の視点からー」

2018年11月25日、宮古島の神と森を考える会、

宮古島市(伊良部島伊良部)

f:id:shimamukwansei:20181125221147j:image

f:id:shimamukwansei:20181125221156j:image

f:id:shimamukwansei:20181125221203j:image

f:id:shimamukwansei:20181125221724j:image

f:id:shimamukwansei:20181125221800j:image

f:id:shimamukwansei:20181125221900j:image

f:id:shimamukwansei:20181125222335j:image

【講演要旨】 

  本講演では、伊良部島の祭祀の今後のあり方について、伝承論、無形文化遺産論の観点から検討する。

1.祭りや神話、伝説など、これまでいわゆる民俗、民間伝承、伝承などと呼ばれてきたものは、近年、世界的に、「無形文化遺産」(Intangible Cultural Heritage)の名で再概念化されるようになってきている。

2.「無形文化遺産」は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が制定した「無形文化遺産の保護に関する条約」(無形文化遺産条約)において、次のように定義されている。「無形文化遺産とは、慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるものをいう。この無形文化遺産は、世代から世代へと伝承され、社会及び集団が自己の環境、自然との相互作用及び歴史に対応して絶えず再創造し、かつ、当該社会及び集団に同一性及び継続性の認識を与えることにより、文化の多様性及び人類の創造性に対する尊重を助長するものである」。

3.この定義の中で注目されるのは、「無形文化遺産」は、「伝承(transmit)」されるものであると同時に、「絶えず再創造される(constantly recreated)」ものだという理解が示されている点である。

4.この「絶えざる再創造」という考え方は、本日のシンポジウムのテーマである「伊良部島の祭祀の復活をめざして」を考える際、大きなヒントになる。「無形文化遺産」(あるいは、民俗)とは、過去の状態を忠実に守り伝えるという意味での「伝承」のみをさした概念ではない。現地の人びとによる「再創造」自体も、「無形文化遺産」の中に含めて捉えられるものとなっている。

5.この観点からすると、伊良部島の祭祀も、伝承すべきだと考えられる部分は伝承し、同時に、「再創造」させるべきところは、多少、大胆に思われても、「再創造」させることによって、その生命力を維持、活性化することができるだろう。ツカサについてのきまり(選任基準、選出方法、組織構成、禁忌、任期など)、祭祀の回数や内容などは、まさに「伝承と再創造」の観点から、議論すべきテーマである。

 

 

 

 

八木透ゼミ・島村恭則ゼミ 大学院合同ゼミナール

2018年11月9日、佛教大学紫野キャンパス

大上将太(佛教大学大学院)

「鮭とひとをめぐる民俗研究―岩手県宮古の事例を中心に―」

 王贇(関西学院大学大学院)

「現代中国における「伝統」の「復興」―河南省濮陽市婉君茶芸館の事例から―」

 

f:id:shimamukwansei:20181111223716j:image

 

 

桑山敬己氏報告「『ネイティヴの人類学と民俗学』とその後―日本の学問の行方―」(関西学院大学社会学部研究会例会)

関西学院大学社会学部研究会 2018年度第3回例会

桑山敬己氏「『ネイティヴの人類学と民俗学』とその後―日本の学問の行方―」

コメンテーター:島村恭則

2018年10月31日、関西学院大学社会学部

 f:id:shimamukwansei:20181031171036j:image

f:id:shimamukwansei:20181031170930j:imagef:id:shimamukwansei:20181031170937j:image

f:id:shimamukwansei:20181031170945j:image

 

島村 恭則「桑山報告へのコメント

  桑山氏も『ネイティヴの人類学と民俗学』の中で触れているように、日本では、「二つのミンゾク学」という表現で、文化人類学(かつての「民族学」)と民俗学の近接関係が語られてきました。わたしは、この二つのうちの一方、民俗学を専攻する者であり、その立場から以下、桑山氏の報告にコメントしたいと思います。

 学生はもちろんのこと、他分野の研究者からも、文化人類学と民俗学は、どうちがうのか、という質問を受けることがあります。これについて、少なくとも日本では、まともな説明を行なっている文献はありません。当の文化人類学者や民俗学者も、うまく説明ができず、「文化人類学は異文化研究」、「民俗学は自文化研究」というような説明でごまかしていることが多いです。

 ここで、わたしが両者のあり方について説明してみると、つぎのようになります。人類学(文化人類学、社会人類学、民族学)は、桑山氏が述べているように、イギリス、フランス、あるいはアメリカ合衆国といった覇権主義的国家において発達した学問です。一方、民俗学は、18・19世紀のフランスを中心とする啓蒙主義や、ヨーロッパ支配をめざしたナポレオンの覇権主義に対抗するかたちで、ドイツのヘルダー、グリム兄弟において土台がつくられ、その後、世界各地に拡散し、それぞれの地域において独自に発展をみたディシプリンです。

 具体的には、早くから民俗学が強力に発達して今日に至っている国、地域として、フィンランドエストニア、ラトヴィア、リトアニアノルウェースウェーデンアイルランドウエールズスコットランドブルターニュハンガリー、スラブ諸国、ギリシア、日本、中国、韓国、フィリピン、インド、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチンなどをあげることができます。

 そして、ここで注目すべきこととして、これらの国、地域の中には、世界システム上、周辺的な位置にある(あった)国や地域が少なからず(すべてとはいいませんが)含まれているという点を指摘可能です。むしろ、どちらかというと、そうした周辺的な国や地域においてこそ、民俗学がとくに発達して現在に至っているということすらできると思われます。

 ところで、この場合、民俗学は、イギリス、フランス、アメリカ合衆国以外の、それぞれの国、地域において独自に発達したため、英語圏、あるいはドイツ語圏の民俗学はともかくとして、それ以外の言語を母語とする各国、各地域の民俗学がそれぞれに蓄積してきた重厚な内容、あるいはそれぞれの民俗学の存在それ自体が、他の国、地域に知られることが少なかったという事実があります。

 そのため、つぎのようなことが起こります。イギリスの文化史学者のピーター・バークは、『文化のハイブリディティ』という本の中で、「異種混淆性」という概念について説明する際、以下のように述べています。

  「今日それほどに知られてはいないが、文化の変容を分析する際にはおなじくらいに啓発的だと評価できる概念は、スウェーデンの民俗学者カール・ヴィルヘルム・フォン・シードヴ(1878-1952)によって採用された、オイコタイプの概念だ。「異種混淆性」と同様に、「オイコタイプ」という言葉はもともと植物学者がつくったもので、自然選択により一定の環境に適応した植物の種の集団のことであった。フォン・シードヴは、民話の分析のためにこの用語を借用し、民話がその文化的環境に適応させられるとみたのである。文化の相互作用を研究する学者は、シードヴのパラダイムにしたがって、チェコのバロック建築のような現地独特の形式を、国際的な運動の地域における一変奏として、独自の法則をもった変奏として論じることができるだろう。(中略)グローバリゼーションの分析家は、ソフトウェア産業からの借用語である「ローカリゼーション」や、もともとは1980年代にビジネスの業界用語であった「グローカリゼーション」を使うようになった。民俗学者がこの論争を追ったとすれば、既視感におそわれるにちがいない。というのも、私たちが目にしているのはオイコタイプの再来とでも呼べるものだからだ。」(バーク2012:57-59)

  このような、既視感というのは、これは桑山氏とわたしとの会話の中で、桑山氏が指摘されていることですが、たとえば、近年の人類学周辺でのいわゆる「存在論的転回」の議論、つまり、人間のみならず、自然や物質にも人間同様のエージェントを認め、人間/自然のヨーロッパ的二元論を乗り越えようとする議論ですが、これなどは、日本においては「転回」以前に、折口信夫や岩田慶治といった民俗学者や人類学者がつとに指摘していることであり、つよく既視感を抱かされるものであります。

 しかしながら、このような土着の学問的成果は、英語圏では知られていない。そのために、ないことにされている[1]。でも、世界各地には、土着の学問が確実に存在しています。

 国際的に知られるアメリカの民俗学者のアラン・ダンデスは、International Folkloristicsという本を編集しました。この本は、世界の民俗学史上の重要な研究者についての解説とその代表論文を英訳したもので、そこには、ドイツ人民俗学者(4名)、イギリス人民俗学者(2名)、フランス人民俗学者(1名)、アメリカ人民俗学者(1名)とともに、フィンランド(1名)、アイルランド(2名)、イタリア(2名)、ロシア(2名)、ハンガリー(2名)、デンマーク(1名)、スウェーデン(1名)、オーストリア(1名)の民俗学者がとりあげられています。そして、本文中のある箇所で、ダンデスは、上記以外の学者にも言及し、「英語になっていないためにアクセスが容易ではないが、世界には、ポーランドのOskar Kolberg、エストニアのPastor Jakob Hurt、日本のKunio Yanagita、デンマークのE.Tang Kristensenなどの優れた民俗学者がいて、理論的な業績も含めて多くの仕事をしている」という趣旨のことを述べています。

 ちなみに、この本の中で、ロシアの民俗学者の一人として取り上げられているウラジーミル・プロップは、民話の構造分析を行なった学者として有名な民俗学者で、彼の『民話の形態学』は、民俗学にかぎらず、ナラトロジー、物語論においては必ず引用される本ですが、1928年にロシア語で刊行されたこの本は、刊行後、30年間、ロシア以外ではまったく知られていませんでした。ところが、1958年、この年は、レヴィ=ストロースの『構造人類学』がフランス語で刊行された年ですが、この年に、プロップの『民話の形態学』がたまたま英語に翻訳されたところ、レヴィ=ストロースの神話の構造分析と同じ発想、方法論である、しかもレヴィ=ストロースに先立つことおよそ20年前にすでにこれを公にしていたということで、一躍注目されるようになりました。しかしながら、プロップの業績は、もしも英語に翻訳されていなかったら、日の目を見ない状態が続いていたかもしれません。

 さて、以上に見てきたように、英語、フランス語、あるいはドイツ語による学問以外の、土着の言語、つまりヴァナキュラーによる学問は、知の世界システムの中では、周縁化されるか排除されて今日に至っているわけですが、ただ、近年、状況に変化が生じつつあるともいうことができるようです。それはどのようなことかというと、一つは、ポストコロニアルな発想の浸透で、覇権主義、植民地主義のピラミッドの頂上付近以外のところで産出されてきた「語り」への着目が、倫理的にも必要だと考えられるようになってきていること、また、もう一つは、グローバリゼーションの副産物として、グローバルな情報環境へのアクセスが容易になったことから、グローバル化とは縁遠いと思われていた土着の学問の世界にも、自発的、内発的なグローバル化の動きが発生してきているという点です。

 たとえば、日本民俗学会は、これまでまさに土着的な学者の集まりだったのですが、この10年で急速に国際化し、毎年のように国際シンポジウムを行なうようになり、また、アメリカ民俗学会、中国民俗学会とともに、国際民俗学会連合-これはユネスコの哲学人文学会議の下部組織という位置づけになります―、のファウンディング・メンバーになるに至っています(ちなみに、その国際民俗学会連合の副会長は、桑山氏です)。このようなグローバル化対応は、ともすれば、外圧によるものと思われがちですが、そうではなく、「同じような土着的な学問同士で、学びあいたい。吸収すると同時に、こちらからも発信したい。言語はとりあえず英語と中国語でなんとかやっていく」というような内発的な動機によるものです(ここでアメリカと中国、英語と中国語が出てくるところが痛いのですが、あくまでも現実的な手段としての言語として割り切っています)。

 あるいは、エストニアでは、すでに20年前の1996年から、アメリカ、アイスランド、スロベニア、イスラエル、インドから一流の民俗学者をエディトリアルボードに迎え、英語版ではあるものの、国際的な民俗学の学術誌を刊行するようになっています。

 以上に述べたような民俗学の学史や現状は、しかし、文化人類学の側では、ほとんど知られていません。それは民俗学者の側も、それぞれの国の中のことは知っていても、世界中で民俗学がどのような状況になっているかは知らなかったため、民俗学者自身が民俗学について文化人類学者たちに、あるいはほかのさまざまな人文社会科学の研究者たちに対して、説明をしてこなかったからです。それが、時代の状況の中で、やっと世界各地の民俗学の状況が把握できるようになり、覇権主義のもとで制度化された学問とは異なる代替的な知の蓄積の存在が見えてきたところです。

 桑山氏は、著書『ネイティブの人類学と民俗学』の中で、「二つのミンゾク学」の積極的で生産的な相互補完関係の重要性を強調されていますが、以上の状況をふまえると、まさにいまそうしたことが実質的に可能になる時代に入りつつあるのではないかと、わたしは考えます。そして、その場合、民俗学と文化人類学が並列している大学は、実は国内ではほとんどないため(多くは、文化人類学だけが存在。関西圏では、関学だけに民俗学と文化人類学の組み合わせがある)、おそらく、この関西学院大学において、その重要な一歩が踏み出されるのではないかと考えています。

 

【文献】

バーク, ピーター 2012 『文化のハイブリディティ』河野真太郎訳、法政大学出版局。

Dundes, Alan ed., 1999, International Folkloristics: Classic Contributions by the Founders of Folklore, Lanham, Boulder, New York, Toronto, and Oxford: Rowman and Littlefield Publishers.

 

[1] そして、さらに悲惨なのは、そうした土着の学問的成果を生み出した国・地域の内部においても、少なくとも日本の場合そういえると思いますが、土着の先行研究の咀嚼をせずに、外来のパラダイムの直輸入をするということがしばしば行なわれています。

 

What is Vernacular Studies?

What is Vernacular Studies?

 SHIMAMURA, Takanori​

 Kwansei Gakuin University School of Sociology Journal, 129, 1-10, 2018.10. 

 

     This paper aims to provide a general outline of the development of vernacular studies in Japan as well as a vision for the future of vernacular studies based on that development.

     The most important thing for understanding vernacular studies is that this discipline’s full formation came about in Germany in opposition to the enlightenment centered in France in the 18th and 19th centuries and to the hegemonism of Napoleon, who tried to dominate all of Europe. Afterward, societies that shared their anti-hegemony context with Germany were encouraged directly or indirectly by Germany’s vernacular studies. They vigorously formed this discipline, but each in its own way. Specifically, vernacular studies has developed and arrived in the present day in regions such as Finland, Estonia, Latvia, Lithuania, Norway, Sweden, Ireland, Wales, Scotland, Brittany, Czech, Hungary, Greek, Japan, China, Korea, the Philippines, and India and in newer nations like the United States, Brazil, and Argentina.

     What vernacular studies has consistently investigated throughout its academic history is human life on a different level from social phases that have been considered to be hegemonic, omnipresent, central, and mainstream. It is knowledge that was brought about through the close study of these. Generally, modern science is a body of knowledge produced from broad social phases considered hegemonic, omnipresent, central, and mainstream, but vernacular studies becomes compellingly unique by confronting these characteristics and attempting to create knowledge that overcomes their broad social application. Therefore, while it is a type of modern science, vernacular studies is also an alternative discipline that contrasts with modern science in general.

  

 本稿は、日本における民俗学(Vernacular Studies)の展開とそれをふまえて構想される民俗学の将来像について、概観することを目的とする。

 民俗学を理解する上で最も重要なことは、この学問の本格的な形成が、18・19世紀のフランスを中心とする啓蒙主義や、ヨーロッパ支配をめざしたナポレオンの覇権主義に対抗するかたちで、ドイツにおいてなされた点である。そして、ドイツと同様に対覇権的な文脈を共有する社会が、ドイツの民俗学の刺激を直接・間接に受けながら、とくに強力にそれぞれ自前の民俗学を形成していったという点である。具体的には、フィンランドエストニア、ラトヴィア、リトアニアノルウェースウェーデンアイルランドウエールズスコットランドブルターニュチェコハンガリーギリシア、日本、中国、韓国、フィリピン、インド、新興国としてのアメリカ、ブラジル、アルゼンチンといった地域においてとくに民俗学が発達して現在に至っている。

 民俗学が、その学史を通じて今日まで一貫して追究してきたのは、覇権、普遍、中心、主流とされる社会的位相とは異なる次元の人間の生であり、そこに注目することで生み出される知見である。一般に、近代科学は、覇権、普遍、中心、主流とされる社会的位相の側から生み出される知識体系であるが、民俗学は、それらを相対化し、超克する知を生み出そうとしてきたところに強い独自性がある。したがって、民俗学は、近代科学の一つでありながらも、近代科学一般に対するオルタナティブディシプリンであるということになる。

 

 

f:id:shimamukwansei:20181027230719j:image
f:id:shimamukwansei:20181027231124j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230740j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230729j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230725j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230801j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230857j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230734j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230752j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230722j:image
f:id:shimamukwansei:20181027230745j:image

国際シンポジウム 「ドイツ民俗学の最前線 Aktuellstes aus der deutschen Volkskunde 」

日本民俗学会・ドイツ民俗学会共催国際シンポジウム

Internationales Symposium der Japanischen und Deutschen Gesellschaft für Volkskunde


ドイツ民俗学の最前線

Aktuellstes aus der deutschen Volkskunde 

 

2018年 10月 14日(日) 駒澤大学駒沢キャンパス

挨拶 
ヨハネス・モーザー Johannes Moser(ミュンヘン大学・ドイツ民俗学会会長)

発表

ベアーテ・ビンダー(フンボルト大学) 「ヨーロッパ民族学文化人類学における横断的ジェンダー研究」

モーリッツ・エゲ(ゲッティンゲン大学) 「ドイツにおけるポップカルチャー研究の現況―反エリート主義的モチーフをもとに」

ゲァトラウド・コッホ(ハンブルク大学) 「文化遺産、記憶、想起の文化―ドイツにおける研究の歩みと現状」

フリーデマン・シュモル(イェーナ大学) 「文化の挑戦としての自然―民俗学的文化学の研究課題」

発表(原題)

Beate Binder (Humboldt-Universität zu Berlin) (Un)Doing Gender. Intersektionale Geschlechterforschung in der Europäischen Ethnologie/Kulturanthropologie

Moritz Ege (Georg-August-Universität Göttingen) Zum Stand der Popkulturforschung in Deutschland am Beispiel anti-elitärer Motive

Gertraud Koch (Universität Hamburg) Kulturerbe, Gedächtnis- und Erinnerungskulturen – Stand und Entwicklungen der Forschung in Deutschland

Friedemann Schmoll (Friedrich-Schiller-Universität Jena) Natur als Herausforderung der Kultur. Forschungsaufgaben volkskundlicher Kulturwissenschaft

 

若手研究者ポスターセッション

ラウラ・ゴッツァー(ミュンヘン大学) 「“Save Me”と都市:ミュンヘンの難民支援における都市的倫理の主観化」

オヤ・レツニコヴァ(ゲッティンゲン大学) 「トラック運転手ストライキにおけるキッチンの役割:ロシアにおける抗議運動の前提条 件と矛盾としての再生産とケアワーク

アリク・マズカトフ(フンボルト大学) 「法を活用し、道徳を変える:社会的実践としての差別禁止法」

発表(原題)

Laura Gozzer, M.A. (Ludwig-Maximilians-Universität München) "Save Me", and the city. Urban-ethical subjectifications in the support for refugees in Munich.

Olga Reznikova M.A. (Göttingen University) "The Trucker Strike’s Kitchen: Reproduction and Care Work as Precondition for and Contradiction within a Protest Movement in Russia”

Alik Mazukatow M.A. (Humboldt-Universität zu Berlin) "Engaging Law, Transforming Moralities: Antidiscrimination Law as Social Practice"

f:id:shimamukwansei:20181018125601j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125650j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125714j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125734j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125755j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125826j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125846j:plain

f:id:shimamukwansei:20181018125914j:plain

 

 

戦後八幡浜のマーケット ―新興マーケットから中央マーケットへ―

社会学部 3回生 織田怜奈

目次
はじめに
1章 新興マーケット
1-1 引揚者の出現
1-2 マーケットのようす
2章 中央マーケット
2-1 新興マーケットから中央マーケットへ
2-2 マーケットのようす
3章 マーケットの終焉
3-1 マーケットの閉鎖
3-2 商店街への移転
結び
謝辞
参考文献

はじめに
 戦後の日本では物が不足していたために、全国的にマーケットが栄えていた。愛媛県八幡浜市でも当時はマーケットが存在し、時代とともに新興マーケット、中央マーケットと変化しながら人々の暮らしを支えていた。本稿ではそのマーケットのようすを述べ、それが人々の間でどのような役割を果たしていたのかについて論じる。

1章 新興マーケット

1-1 引揚者の出現
 新興マーケットの始まりは戦後間もない頃である。満州や台湾、中国、朝鮮などからの多くの引揚者が八幡浜で働く場所を求めていた。マーケットのことをよく知る菊池昭自氏によると、酒六紡績株式会社様より地域復興の期待を込めて無償で提供していただき店を開くことができたという。出店希望者を募集し、紡績工場跡の土地を各店舗に割り当てた。敷地面積は248坪で、現在のスーパーホテル周辺である。
 出店希望者の中には、八幡浜出身の引揚者だけでなく、八幡浜出身の知り合いを頼りに他の地域から来た人もいた。働く場所を得た引揚者たちは割り当てられた土地にバラックを建設し、いわゆるヤミ市のような形で魚、肉、野菜や果物、惣菜などの食品や手芸用品などの生活必需品を売り出した。

1-2 マーケットのようす
 新興マーケットの形状は特殊であった。四角形の中に半円のようにバラックが並び、その間は通路になっていて、客が見て回りやすいようになっていた。店舗は計64軒で、マーケットに行けばなんでも揃うと言われるほど様々な物が売り出されていた。中央には卓球台も設置されていたという。

図1 新興マーケットの構造
 バラックは木造で、屋根は杉皮だったため、雨が降ると雨漏りをした。電気も現在のようには整備されていなかったため、よく停電になった。夜停電になった時は、ろうそくやカーバイドを使用して商売を続けていた。出店者たちはバラックの1階に店を構え、奥や2階で生活していた。2階といっても広さはなく、子供でも頭を下げなければいけないほどだったため、ほぼ寝るためだけに利用されていた。
 物は百姓や漁師が卸売りに来たものを購入したり市場から仕入れたりしていたが、他から手に入れることもあった。家電製品も普及していなかった時代、もちろん冷蔵庫もない。食料はその日に買うというスタイルで、マーケットは毎日買い物客でいっぱいだった。とにかく物が不足していたため、物を並べるとすぐに売れていった。長持ちする乾物や、衣服の修繕に使う糸やボタンなどもよく売れた。
 当時、八幡浜はイギリスの将校に占領されていた。勝手に商売することが許可されていなかったため、当初は警察による取り締まりが厳しかった。警察が取り締まりのためにマーケットに来るとマーケットの中で合図が出され、それを受けた出店者たちは売り物を隠して没収されないようにしていたのだという。売り物を没収されては生きていけないという声を受けて、菊池昭自氏の父が警察に直接交渉しに行ったということもあり、取り締まりはいくらか緩くなった。非合法だとしても餓死しないためには仕方のないことであった上、実際警察もヤミの物を購入して生活していたため、次第に黙認されるようになった。  
 マーケットの出店者たちはみな親しい付き合いであった。親は店が忙しく子供のことをずっとは見ていられなかったが、放課後に店の子供たちで集まって紡績工場の跡地や学校の近くの山で遊んでいた。秋祭りの時期には出店者たちが衣装を手作りし、商店街ごとの仮装行列に参加するなどのイベントもあった。仲間として協力し、助け合って日々生活していたのである。

2章 中央マーケット

2-1 新興マーケットから中央マーケットへ
 かなり栄えていた新興マーケットであったが、時代の変化により、徐々に景気が悪くなっていった。そのため、マーケットから撤退し、違う場所で個人的に店舗を構えるようになった人もいた。建物の老朽化が進んでいたこともあり、1960年に大々的に建て替えが行われ、名前も新興マーケットから新しく中央マーケットに変わった。マーケットの建設は共同出資だったが、費用の関係などで撤退する店舗もあり、半分以下の22軒まで減った。建て替えのタイミングで、多くの人が大阪や東京、松山などの、景気が良く働き口がある都市に出ていったのである。残った店舗で千代田食品商業協同組合が結成され、新興マーケットの時は個人所有だった土地や建物を、組合で所有することになった。初代の組合長は菊池昭自氏の父が担ったが、亡くなられた後は各店舗が順番に組合長をした。
 建て替え後は以前の活気が戻り、再び多くの買い物客で賑わうようになった。マーケットのすぐ前がバス停だったこともあり、近くの人だけでなく、佐田岬半島や大洲などほかの地域の人も買い物に訪れた。

2-2 マーケットのようす
 バラックだったものが、長屋状の建物になった。奥行き約4mの木造長屋2棟が向かい合うように並び、その間が幅2mの通路になっていた。新興マーケットの時と変わらず1階が店舗、2階が住居だった。

図2 中央マーケットの構造
 マーケットには様々な食品店舗が入っていたが、当時特にトロール漁が栄えていたため、魚屋だけで5軒もあった。また、マーケットの近くには飲み屋が多く、夜寝ていても電話がかかってきて配達を頼まれることも度々あった。昼も夜も繁盛していたためほぼ休みなく店を開け続けたが、年に数回は休みをつくり、マーケットの出店者たちで旅行に行ったり花見をしたりしていた。マーケットの形態は変化しても、出店者たちの関係は変わらず続いた。店の子供のソフトボールチームもあり、強かったという。現在でも八幡浜では大人のソフトボールチームがいくつか活動していると話に聞いたが、それはこの頃の名残ではないだろうか。

写真1 中央マーケットの入り口(『愛媛新聞』2009年5月22日,より)

写真2 中央マーケットの前の通り(八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017年,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」より)

3章 マーケットの終焉

3-1 マーケットの閉鎖
 1970年代以降、スーパーの勢力が拡大し、マーケットはかつてほどの賑わいを見せなくなった。対面で世間話をしながらの商売が時代に合わなくなったことや冷蔵庫が各家庭に置かれるようになったことで、毎日食料を買うという習慣がなくなった。それまでマーケットを訪れていた人々は、きちんと包装され保存の効く商品を購入するためにスーパーに流れた。また、八幡浜から保内町などほかの地域に行くことができるトンネルが開通し、人々が車を利用して行動範囲を広げたことも、マーケットから客足が遠のいた原因のひとつだろう。
 さらに高齢や後継者不足などの理由で閉店が相次ぎ、活気は失われていく一方だった。建物の耐震性や老朽化などを考慮し、当時組合長だった菊池昭自氏が売却先を検討、2009年に千代田食品商業協同組合が解散されると共に、長年親しまれてきたマーケットは閉鎖された。

3-2 商店街への移転
 マーケット閉鎖後の土地をドコモが買い取り、そこにはスーパーホテルが建設された。最後まで組合に残っていた14店舗に売却金は分配され、それぞれの店舗は近くの商店街などに移転した。それらも時代の流れと共に閉店していき、いまでも営業を続けているのは藤川商店、田中鮮魚店、上野ボタン店の3店舗のみだという。

結び
 八幡浜で半世紀以上栄えたマーケットは、多くの人々の生活を支えていた。ただ物を売買するだけの場所ではなく、そこには出店者たちのコミュニティや、出店者と買い物客との間の会話が存在していた。今では感じることのできない人情味、そして数々の物語がそこにはあったのだ。そのような点でマーケットは八幡浜の人々にとって非常に重要な役割を果たしていたといえるだろう。

謝辞
 この実習報告の作成にあたり、多くの方々にご協力いただきました。菊池昭自さん、宇都宮吉彦さん、藤川商店さん、田中鮮魚店さん、上野ボタン店さんをはじめ、多くの方々から貴重なお話を聞かせていただき、理解を深めることができました。突然の訪問にもかかわらず、快く対応してくださったこと、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」
(http://www.minatto.net/archives/6332,2018年8月18日にアクセス).
愛媛新聞,2009年5月22日刊行
八幡濱民報,2009年5月2日刊行