【二日目】
おはようございます。目が覚め、耳をすますと出石の朝は早いと感じます。朝の5時には「ガタッ!」「ドサッ!!」という隣の個人スーパーに食材を卸すトラックの音がしますし、午前8時になれば辰鼓楼から太鼓の音が聞こえます。この時報の太鼓の音は午前8時と午後1時に鳴り、午後6時には入相の鐘(日暮れに寺がつく鐘)の音が鳴るそうです。電気時計となった今も観光用にこのような配慮がされているそうです。
さて、二日目は観光ガイドさんの解説と共に出石を巡りました。
今回は滋賀のまちづくり団体のツアーに混ぜて頂いたのですが、お聞きすると「ちょっと一風したまちづくり」で立ち寄ったそうです。今年で2回目となるそうで、出石のまちづくりがいかに評価高いか私たちも意識しながら同行させていただきました。
現在蔵跡のみを復元した出石城
最初は出石城から。そびえ立つ大きな門に歴史を感じていると、ガイドさんから「こちらの門は近代に行政が出石城復興のために門を建てる際に、「それでは出石町全員のものではない」と憤った町民が瓦一枚につき500円といった募金を募り、それにより使用するさらに資材などに力を入れた、出石町民の誇りといえるものです。」との解説が。近年復興したものなんですね。
出石城門
さらに門の前にたたずむ木造の橋を見ていると、「そちらの橋も町民の寄付で豪華になったものです。一枚ウン百万ですからね、一歩一歩心して踏み込んで下さい(笑)」ととても良い笑顔を浮かべて話してくださいました。こちらの橋の間の堀は城らしさを演出するために近年掘って造り、水を流したものなんだとか。実際の堀はどうなったかというと道路建設のために埋め立てられてしまったそうです。
橋の先には周りの城下町風景に似合わない西洋風の門がありました。こちらはかつて庁舎があったのですが老朽化が酷かったため、町民の保存を望む声も虚しく、庁舎はついに取り壊されることになりました。かつての縁としてこの庁舎の入口だけでも残し、周囲に草花を植え、現在は公園のモニュメントとして利用されているそうです。では、出石町民誇りの門をくぐって先へ進みましょう。
「はい、お客様!ここ!ここをしっかりと踏みしめて下さい。」とガイドさんの声が。場所は軍の弾圧が厳しい状況下に粛軍演説を行ったことで有名な斎藤隆夫の碑の前。ここには何の所縁が?「こちらはかつて某総理大臣が故斉藤隆夫に敬意を表し、お辞儀をした場所です。お客様は総理大臣と同じ場所に立ったのですよ!」ああ、成程。と、このように出石城付近には「この場所は〜な場所です!」というようなスポットがしばしばあります。出石城の隣にある157段の石段に、37の朱色の鳥居が立ち並ぶ稲荷参道の先にある稲荷神社には、火曜サスペンス劇場、小京都ミステリー~山陰但馬殺人事件~にて片平なぎさが立った場所などが存在します。このような番組が撮影された場合、ここの鳥居は必ず取り上げられるそうです。このような小京都シリーズで番組を作った際に取り上げてもらえるのも小京都の美味しい利点ですね。
こちらは明治34年に開館し、歌舞伎や寄席などの様々な催し物が上演され、出石の人々を長年に渡り楽しませてきました。驚くのは芝居好きの一個人が所有したという事実。時代の流れと共に催し物の中心は映画に移り、テレビの各家庭への普及や娯楽の多様化により昭和39年に閉館となったものの、取り壊されずに残りました。その後、この芝居小屋が取り壊されるのを惜しんだ町の人々の寄付により平成の大改修が行われ復活に至りました。
館内に貼られたポスターは大手企業の物ではなく、出石の町内の商店のもの。この永楽館では館内の見学は勿論、廻り舞台の下の部分、所謂奈落も見学することも可能です。平成の大改修では、「当時の状態をほぼ完全に再現する」ということで、徹底的に芝居小屋を検証し、「こちらの廻り舞台の舞台装置は水車の柱を使われた形跡である」、「この窓の傍に残る凸凹は煤が残っていることから、化粧の際に置かれた蝋燭で出来たものである」などと一つ一つに意味を見出し、それを出来るだけ残し、かつ修復を行った場所が後年の修復の際も明確に解るように工夫がされています。様々なところに愛を感じますね。こちらでは復活をしてからは今も公演が行われています。では出石の観光センター方面に戻りましょう。
まちづくり団体とは解散し、ガイドさんとお昼ご飯をご一緒した後は、天日槍(あまのひぼこ)を祀る出石神社に案内して頂きました。天日槍は『日本書紀』や『古事記』に見られる新羅の国から渡来した神で、但馬開発の功績から彼を祀る出石神社は但馬一宮として出石の人々、そして土木建設に携わる人々の信仰を集めています。神社には禁足地とされる聖域があり、こちらは天日槍の陵(墓)か祭祀の場であったと言われています。ガイドさんによると「いやぁ、私も禁足地には入ったことは無いんだけど、知り合いの●●が小さい頃入ったら腹痛になったとか言っとったわ。祟りかねぇ(笑)」とのことです。
出石神社見学の後は出石観光協会の加藤さんの故郷の集落にある蓮畑にお邪魔しました。
こちらの蓮畑、「このようなどんつきにある集落にどうやったら人を呼べるだろうか?」と考えた結果、自分達の集落には綺麗な水があるということで、蓮を植えることを考えたそうです。それを観光資源としてイベントを昨日行ったところ、それがTVに取り上げられ果ては奈良県、徳島県からなど大量の観光客を呼びこみ大成功したとのこと。もしかして、昨日私達が巻き込まれた大渋滞はこのためでしょうか。加藤さんの故郷は山の奥にあるため、イノシシなどの野生動物が畑を荒らしに来るのだとか。そのための工夫があちらこちらに見受けられます。畑には近年なかなか見られないような水草が生い茂り、栄養豊富な土壌のもとで美しい蓮が育っています。また、この土壌を活かして無農薬米も育てています。
出石は天保6年の出石騒動により5万3000石から3万石に減知され、城は明治元年に取り壊し、城下町の大半は明治9年出石大火により消失してしまいました。出石では洪水など自然災害は勿論、大火などの災害に苦しまれてきた土地でもあります。地形の性質上、強風が吹きやすく、それが火事を煽り、広範囲の被害をもたらすそうです。
明治以降は町自体が出石大火によって疲弊していたのに加え、町民が鉄道敷設に反対し、結果近代化が遅れ、地理的にも孤立し出石は段々と廃れていきました。しかし、出石の人々はこのような中でも大切にしてきたものがあります。それは「学問」です。藩主仙石政辰が学問所を開設し、学問を推奨してきました。弘道館は武士の子供に限られていましたが、その他の子供にも私塾や寺子屋などの門が開かれていました。このことが出石から多くの偉人を輩出してきた理由ではないでしょうか。このことを誇りに思っている出石の人々は今でも学問や習い事を大切にしているそうです。
出石が衰退した理由は先程述べましたが、地理的に孤立したことは出石に悪いことばかりを残しませんでした。地理的に取り残されたことにより、出石の人々は以前にも増して立身のために更に勉学に励むようになり、出石から多くの偉人を輩出してきました。また近年では、加藤さんの故郷のような美しい自然と火災から難を逃れた古い街並みを残していたため、但馬の小京都と呼ばれる城下町の風情から観光地化することに成功したのです。
この出石の成功は小京都登録によるものでもありますが、一番大きな要因と言えるのは出石を愛し守ってきた出石町民の努力ではないでしょうか。
『巡検報告書 完』
文章:谷岡
編集&写真:呉