関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

火祭りとまちの人々‐池田市の「がんがら火」の事例‐

火祭りとまちの人々‐池田市の「がんがら火」の事例‐

今北有美

【要旨】
 本研究は大阪府池田市で8月24日に行われる火祭り「がんがら火」について実地調査を行うことで、過去から現在に至るまでの変化、そして人々がどのように祭りに関わっているかということを明らかにしたものである。
 本研究で明らかになったことは以下の通りである。


1.正保元年(1644)にたった4人がはじめたこの祭りは、外部から注目され祭りの規模が大きくなることで主催する団体は町、保存会という風に変化してきた。

2.建石町の子供松明に建石町の子供全員が参加できるようになったのは子供会が誕生してからのことである。それ以前はかつてから建石町に住む人々(主に能勢街道沿いに住む人々)だけが参加していた。

3.城山町の大松明では大量の肥松を使用する。しかし肥松の確保は難しく、現在確保できている肥松は5年分程。新たな入手ルートを見つけることができればよいが、確保できなければ大松明そのものの存在がなくなってしまう可能性も否定できない。

【目次】

序章 はじめに――――――――――――――――――――――――――――――1


第1章 池田とがんがら火―――――――――――――――――――――――――2

 
第2章 城山町のがんがら火−―――――――――――――――――――――――19


第3章 建石町のがんがら火――――――――――――――――――――――――54


第4章 がんがら火の行方―――――――――――――――――――――――――69


結語 ――――――――――――――――――――――――――――――――――72


文献一覧―――――――――――――――――――――――――――――――――73


別冊 資料集


【本文写真から】



































写真1 祭りの開催を告知するポスター 城山町が行う大松明の練り歩き(中央)と大一文字(左上)、そして建石町が行う大文字(右上)。



































写真2 池田市内から見た大一文字 城山町が行う大一文字。手前に見える腹掛けを着ている人々は大松明の担ぎ手である。



































写真3 祭り当日に配られる護符(城山町) この護符は池田五月山愛宕神社のものである。祭り当日にリヤカーで販売し、誰でも購入することができる。



































写真4 池田市内から見た大文字 大明ヶ原に灯された大文字の様子。



































写真5 建石町で配られるお札 これは京都愛宕神社のお札である。建石町の代表者4、5名が京都愛宕神社へ代参、御祈祷をうける。お札は祭り参加者のみに配られる。



【謝辞】
 今回、池田市市役所市民生活部観光ふれあい課の池田典隆氏、池田五月山大一文字がんがら火保存会会長中村茂氏、磯邊延宏氏、大文字保存会会長の安田晴彦氏、そして話者を紹介して下さった池田市立歴史民俗資料館館長の田中晋作先生。
皆さまには多大な御協力を賜りました。ここに記して心より感謝申し上げます。

境のまち西院(さい)の近代史

境のまち西院(さい)の近代史
尾崎有香子

【要旨】
  本研究は、京都市右京区西院の現在に至るまでのまちの形成について、現地での実地調査を行うことで、純農村から工業地帯への飛躍的な発展と、その一方で生じる文化の衰退や朝鮮人労働者問題を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。
1.戦前から京都市工業は紡績関係が中心であり、西院も染色業が街の発展の基盤を築いた。
2.駅前屋台は、阪急西院駅の開業によって大阪やその他の地域から、工業地帯である西院に出勤する人によって利用された。
3.阪急京都地下線の開通は、西院駅の乗降客を増やし、まちの都市化を促進する要因であった。
4.西院に多数在住する朝鮮人は、戦前から公共土木工事や紡績工業に低賃金労働者として雇用されたことがきっかけで流入してきた。
5.西院の発展要因である友禅染色、阪急京都線地下鉄工事、どちらも朝鮮人労働者の従事無しには成功しなかったと言っても過言ではない。

【目次】
序 章 西院の概況・まちの形成――――――――――――――2
 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
第1節  京都市右京区西院の概況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
第2節  地名に見る西院の起こり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
(1) 淳和院説 5
(2) 佐比の河原説 5

第1章 友禅染色――――――――――――――――――――12
 第1節  京友禅の誕生と発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
 第2節  京友禅と西院・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
 第3節  弓山染工場 弓山 登さん・・・・・・・・・・・・・・・・・19

第2章 屋台――――――――――――――――――――――33
 第1節  工場労働者と駅前屋台・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
 第2節  「がんばり」 安藤彦三さん・・・・・・・・・・・・・・・35

第3章 阪急地下化による西院の変化―――――――――――43
 第1節  阪急(旧・新京阪電鉄西院駅・・・・・・・・・・・・・43
 第2節  新京阪電鉄京都地下線工事・・・・・・・・・・・・・・・・・45
 第3節  大林組朝鮮人労働者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48

結 語―総括――――――――――――――――――――――64
文献一覧――――――――――――――――――――――――66

【本文写真から】


写真1 広い敷地を有する友禅染色工場


写真2 駅前屋台の移転先となった折鶴会館


写真3 新京阪電鉄京都地下線工事(四条通の様子)


写真4 難工事の成功を称える額と、新京阪電鉄の発展を願う鷲のレリーフ


写真5 交通の要地としての現阪急西院駅

【謝辞】
本論文は多くの方々のご教示の下で完成するに至りました。貴重なお時間を何度も割いて頂き、ご自身のライフヒストリーだけでなく資料収集や写真提供をして下さった「がんばり」の安藤彦三さん、理学博士の小笹稔さん、弓山染工場の弓山登さん、突然の電話にも快く対応して頂いた西院小学校の石井正校長先生。また、折鶴会館の店舗の皆様、染色体験をさせて下さった橋本染工の皆様をはじめとする、ご協力賜りました全ての方々に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと―

女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと―
住田 文


【要旨】
本研究は、奈良県大和郡山市をフィールドに、紡績工場をめぐる人びとの歴史、郡山での女工の生活史について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1.大和郡山市は、奈良盆地の中でも中心地に位置する為、限られた資源で生活を強いられていた。そのため、農業だけではない様々な副業が発達した。

2.大和郡山市では、昔から綿作・養蚕が副業として発展していたため、その後、絣やメリヤス、靴下、紡績産業へと発展していったとみられる。

3.郡山紡績工場では女工哀史はなく、女工たちは自分の時間やお金を自由に使い、有意義な青春時代を送っていた。

4.現在郡山紡績工場跡は、正門にある「大日本紡績工場跡」と書かれた記念碑だけで他は公営団地になっており、影も形もない。

5.柳町商店街は、紡績工場のある時代に女工や他市からの人びとでにぎわっていたが、工場閉鎖とともに衰微。今では、町おこしとして商業施設の運営、地場産の有機野菜を販売するなど商店街と地域住民が一体となって町を盛り上げようとしている。


【目次】

はじめに――――――――――――――――――――――――――――――――――――1

序章――――――――――――――――――――――――――――――――――――――4
第1節 奈良盆地大和郡山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
第2節 大和郡山の生業文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9

第1章 紡績の歴史―――――――――――――――――――――――――――――――19
第1節 紡績の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19
第2節 女工哀史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22

第2章 紡績工場の世界―――――――――――――――――――――――――――――26
第1節 郡山と紡績・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 26
第2節 紡績工場で働く人びと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 35
     (1) 清原三良さんの事例 35
     (2) 西村ウメカさんの事例 38

第3章 紡績工場周辺の町と人びと――――――――――――――――――――――――43
第1節 柳町商店街・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43
第2節 紡績工場による町の発展と衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51


結語――――――――――――――――――――――――――――――――――――――56

参考文献一覧――――――――――――――――――――――――――――――――――58


【本文写真から】

写真1紡績工場閉鎖前の写真


写真2紡績工場正門跡地、現在は公営団地の入り口


写真3紡績工場記念碑


写真4寄宿舎跡地、現在はマンション


写真5柳町商店街、空き店舗を利用し商業施設を運営
















【あとがき】
 卒業論文のテーマを決める際に突如として思い浮かんだものがあった。それは幼いころ、夏祭りなどでよく遊んだ「金魚すくい」だ。金魚すくいってどうして“すくう”のだろうか。そんな疑問から、まず金魚について調べていくことにした。すると大和郡山が日本で最初に金魚の養殖を始めた土地であり、過去に日本一の生産量であったということが分かった。なぜ、大和郡山なのか。そしてなぜ養殖する必要があるのか。そんな疑問を抱きながら、大和郡山へと足を運んだ。そこで、私を思いもよらぬ方向に向かわせたものが紡績工場との出会いだった。はじめにでも記述したように、金魚の養殖園の主人が「金魚だけの街ではなく、女の街だ」と証言したのであった。私はここに研究意義があると考え、調査を開始したのであった。
 調査を開始するにあたって、困難を極めた。それは聞き取り調査を通してライフヒストリーを記述するために、大日本紡績郡山工場で実際に働いていた女工、ないしは工場関係者を見つけ、話を聞くことができないのだ。私は計7日間にわたって、大和郡山を調査した。そして、柳町商店街、図書館、紡績工場跡地周辺の家、駅前の喫茶店、などいたるところで聞き込みを行い女工が住んでいないか、知り合いにいないか、などを聞いて回った。しかし一向に、現れないのだ。「今は病院」「5年前に亡くなられた」「引っ越した」など、ことごとく失敗。紡績工場があったのは、60年以上前にあたる。事実が古すぎて会えないのか、それとも自分の調査の仕方が甘いのか。島村教授のご指導のもと、調査方法を変更。情報をもっている可能性の少ない人を転々とあたっていた方法から、知識をたくさん持つ人にあたる方法に変えたのである。つまり、郷土史家や観光センターに声をかけるという事を始めた。まず、大和郡山観光協会に話を聞く。そこで紹介して頂いたボランティアの方に提案された方法で、今回の聞き取りが成功した。それは、大和郡山市の歴史写真集に写真を提供する人に、出版社を通して紹介してもらうという方法だ。時間は少しかかってしまったが、確実に存在する人に対してアプローチを可能とし、女工経験のある方と大日本紡績の人事であった方を紹介していただく事ができた。断片的な知識保持者に聞く事と、知識を持つ人に聞く事の違いと大切さを痛感したのである。

【謝辞】
 この論文の研究に関して、様々な方々にご協力をいただいた。まず聞き取り調査を快くうけてくださった大和郡山市の皆さま、そして長時間のインタビューにお付き合いいただき、またご指導いただいた清原三良氏・西村ウメカ氏。さらに、両氏を紹介頂く際に仲介してくださった樹林舎の方に深く感謝の意を述べたい。本当にありがとうございました。