関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

家伝薬のフォークロア―長崎における老舗薬屋の事例から―

社会学部 吉川 奈緒


【目次】
はじめに
第1章 竹谷健寿堂
 第1節 来歴
 第2節 家伝薬「神力膏」
 第3節 全国各地を宣伝行脚
 第4節 店のシンボル「布袋様」
第2章 片峰薬局
 第1節 来歴
 第2節 家伝薬「人壽湯」
第3章 神光堂
 第1節 来歴
 第2節 家伝薬「神力散」
第4章 貞包天心堂
 第1節 来歴
 第2節 家伝薬「天和湯」「安脳丸」
結び

参考文献
謝辞


はじめに
 長崎は江戸時代唯一西洋に開かれた貿易の窓口であり、近代薬学が伝わった地である。今も日本薬学の発祥の地として県内では多くの医薬品が製造されており、そのほとんどが長崎の老舗薬屋に伝わる家伝薬である。家伝薬とは、その家に代々伝えられた妙薬のことであり、伝統的な製法などによって生成される「伝統薬」として販売されていることが多い。
 しかし、度重なる薬事法*1改正により個人での薬の製造や取り扱いが難しくなってきているため、家伝薬の製造や取り扱いをやめる薬屋は少なくないそうだ。
 本論は、今も家伝薬を扱っている老舗薬屋4店で聞き取り調査したものである。店ごとに来歴と扱っている家伝薬を紹介し、それらにまつわるエピソードを明らかにした。


第1章 竹谷健寿堂
第1節 来歴
 長崎市内にある浜市商店街は地元の人や観光客などの多くの人で賑わいを見せており、その中の1つが竹谷健寿堂(たけやけんじゅどう)である。明治5年(1872年)に創業し143年目を迎える、浜市商店街の中で最も歴史ある老舗店だ。現在6代目店主・竹谷和子氏の祖父である竹谷藤吉氏が創業者である。
藤吉氏が店の前に倒れていた僧侶を助けたことから話は始まる。藤吉氏は僧侶が回復するまで介抱した。すると、僧侶は介抱してもらったお礼にと、あかぎれ・切り傷・おできの特効薬である「神力膏(しんりきこう)」の処方箋を教えた。その後、優れた効果を持つ「神力膏」は長崎だけでなく全国でたちまち有名となった。ちなみに、創業当初は金物屋と薬屋の両方を経営していたそうだ。(写真1)

【写真1 創業当時の店舗の風景。この時は金物屋も営む。】

第2節 家伝薬「神力膏」
 長年、「神力膏」を竹の皮に包んで販売していたが、ある時容器を竹の皮から「ハマグリの貝殻」に変えた。中身だけ取り除き不要になった貝殻を名古屋の漬物屋から取り寄せ、熱湯消毒したものを「神力膏」の容器に用いた。1つの貝殻に膏薬をいれ、別の貝殻で蓋をする。大きさと色合いが揃う貝殻同士を組み合わせていたため、それはまさに神経衰弱のようだったという。
当時、貝殻に入っていることから「貝殻膏薬」と呼ばれた。また、「どんばら膏薬」という愛称もあった。「どんばら」とは長崎の方言で「大きなお腹」という意味であり、店頭に置かれている布袋様のお腹に因んでそう呼ばれていたそうだ。 

第3節 全国各地を宣伝行脚
 藤吉氏は、全国の人に「神力膏」を知ってもらいたいと考えた。そこで、藤吉氏は竹細工で空洞を作りそれに紙張りをした、布袋様と寿老人を作った。そして、特注した大八車に2体を乗せて、「神力膏」の宣伝のために全国各地を行脚した。その際、藤吉氏は赤鳥帽子と袴で大黒天に扮した(写真2)。このインパクトある宣伝方法は、当時の世間を相当驚かせただろう。

【写真2 大黒天に扮装した藤吉氏(左)】

第4節 店のシンボル布袋様
 現在、店頭に置かれているのは2代目布袋様で、長崎くんちの傘鉾を作る名人が昭和19年に制作したものである。昭和57年(1982年)の7月に起きた長崎大水害の際、流れ込んできた水によって布袋様が押し上げられ、浮力で浮いたために1階の天井を突き破った。しかし、布袋様は全くの無傷だった。そのことが長崎で有名になり、布袋様のお腹をさすった手で自分の患部をさする人や、布袋様に願い事を念じる人など、福を貰いにくる人が訪れるようになった。

【写真3 店頭にある2代目布袋様】


第2章 片峰薬局
第1節 来歴
 長崎は外国船が多く入港するため、コレラ天然痘などの感染症がよく流行していた。長崎の大徳寺がある丘の上には商館医ポンぺによって開院された小島養成所があり、その丘の麓であるの思案橋から船大工町の通りには薬関係の店が多くあった。
安政6年(1859年)、当時10代後半だった片峰薬局創業者の片峰七郎氏が大分県豊前から長崎に出てきた。「原賀」という生薬問屋で修業した後に独立し、慶応元年(1856年)に現在店がある長崎市船大工町に開業した。家伝薬「人壽湯(にんじゅとう)」を発売し、和漢生薬や写真用化学薬品も販売していた。
2代目七郎氏は明治36年(1903年)に京都薬学校を卒業して薬剤師になった。日露戦争に出征し、帰郷後は家業を継いだ。この時に店を「片峰薬局」と名付けた。「人壽湯」の製造はもちろんのこと新薬の調合も行った。2代目七郎氏は新薬の調合が上手く、医師だけでなく一般の人にも処方した。
 そして3代目店主である藤井静子氏が幼少の頃は、従業員が住み込みで働いており、節子氏は毎日従業員に見送られて学校に行っていたそうだ。そして、番頭*2が毎朝お店の看板を表に掛けるなど、自分の家の中で徒弟制度が見受けられたそうだ。
 昭和50年(1975年)以降となると、薬害や副作用が社会問題となり医薬品の有効性と安全性が最重要課題になった。それに伴い、医薬品の再評価も始まり、副作用が無い(もしくは少ない)とみられた漢方薬に人々の関心と注目が集まり、店に来る人が多くいたという。そして、現在4代目店主である節子氏も薬学部を卒業し、片峰薬局を守り続けている
 現在は「人壽湯」を買い求めに来る人や、漢方薬の効果や飲み方を尋ねにくる人が店を訪れる。しかし、最近は即効性や副作用が少ない等の薬の開発が進んでいるため、匂いが強い漢方薬を好んで飲む人が少なくなっているそうだ。しかし、長年のお客さんは家族3世代で「人壽湯」を飲んでいたりと、漢方薬の本当の良さを知る人たちに愛用され続けている。

【写真4 看板に描かれたダルマがよく目立つ】

第2節 家伝薬「人壽湯」
 家伝薬「人壽湯」は創業者の片峰七郎が考案し、幕末から現在まで受け継がれてきた。主に頭痛・めまい・のぼせ・耳鳴り・肩こり・不眠などで悩む人が買い求めにくる。パッケージに赤いダルマが描かれていることから「ダルマさんの振りだし薬」という名で親しまれてきたそうだ。赤いダルマは、病が治ってまた起き上がれるように(起死回生)という願いが込められて商標にされた。
そして、筆者が店内を見渡すと戸棚にダルマがたくさん飾られていた。「ダルマといえば片峰薬局」、そう思っているお客さんが持って来たものだそうだ。ダルマが片峰薬局とお客さんを繋ぐ役割をしている気がして、温かい気持ちになった。(写真6)

【写真5 「人壽湯」パッケージ】

【写真6 店内に飾られているダルマ】


第3章 神光堂
第1節 来歴
 明治34年(1901年)に創業した神光堂は、当時易者でありながらも台湾の留学生の世話をしていた深江岩吉氏から始まった。その世話をしていた留学生が帰国する際、世話になったお礼にと、漢方薬店を営む実家に伝わる薬の処方箋を岩吉氏に伝えた。それが「神力散」である。
 
第2節 家伝薬「神力散」
 現在3代目店主である深江長利氏によると、今日まで113年間お店では「神力散」のみを製造販売してきたとのことだ。ダイオウ、カンゾウ、センナ、サンキライ、センキュウの5種類の生薬からなるこの薬だが、度重なる薬事法改正には悩まされた。使うことを禁じられた生薬は代用できる生薬に変えるなどして切り抜けてきた。現在は製造を長崎県製薬協同組合*3に委託することで伝統を守り続けている。そして、長崎市内だけでなく全国各地の人に飲まれており、昔からの愛用者はもちろん、最近はダイエットを意識した若い女性の購入も多いそうだ。

【写真7 「神力散」パッケージ】


第4章 貞包天心堂
第1節 来歴
 本調査中、家伝薬を扱う長崎の薬屋の中で、最も歴史ある店を教えていただいた。お店は長崎市に隣接する諫早市にあるということで筆者は足を延ばした。すると、貞包天心堂(さだかねてんしんどう)は西林寺という寺の中にあった。
 浄土真宗本願寺派西林寺天正18年(1590年)に創建された。天和元年(1681年)、第3代住職であった宗誓の夢枕に観音菩薩様が現れ、「怪我や病気で苦しむ民衆を救うように」、と薬の処方の仕方を告げたという。お告げの通りに薬を作り、民衆に処方したのが薬屋の始まりである。
 第2次世界大戦前までは今のように医薬品が豊富になかったため、朝早くから薬を買い求めに来る人で行列が出来、寺の門の前にある休憩所では泊まる人がいたそうだ。また、薬を購入するまで長時間待ってもらうため御茶所を作りお茶を振舞った。今は御茶所跡として残っている。当時、多くの人が薬屋で働いており、毎日町の郵便局に行き全国各地へ薬を発送していた。その上、現在のような情報ツールがない時代にも関わらず、中国やシンガポールへも輸出していた。
 
第2節 家伝薬「天和湯」「安脳丸」
 血の道薬―「天和湯」(写真8)は、14種類の生薬から成り、血の道症に効果がある。血の道症とは更年期症状のことを指し示す。「産前産後には川床の血の道薬」と言われ、昔は自宅出産をする人が多かったので産前産後の肥立ち薬として人々の需要があった。今でも地元では産前産後の肥立ちには「天和湯」が必然とされ、親から子へ受け継がれている。
 脳の薬―「安脳丸」(写真9)は4種類の生薬から成り、「川床の脳の薬」として親しまれている。主に頭痛、めまい、のぼせ、不眠、不安神経症の際に飲むと効果がある。副作用や習慣性がないため、精神安定剤の置き換えとして飲む人もいる。
 戦前までは今も販売している「天和湯」「安脳丸」の他に、癇(かん)の薬―「小児丸」、胃腸の薬―「健胃退痛散」、黄疸の薬―「黄疸散」などの複数の漢方を製造していた。しかし、戦争が始まると薬の原料のほとんどが南方産だったため輸入していた原料が手に入らなくなり、製造規模を縮小せざるをえなかった。
戦争が終わった昭和23年からは「天和湯」と「安脳丸」だけを販売した。そして、貞包天心堂の薬は創業からずっと西林寺の中で製造してきたが、1994年のPL法(製造物責任法)の執行をきっかけに、長崎県製薬協同組合の設備で製造するようになった。

【写真8 「天和湯」パッケージ】

【写真9 「安脳丸」パッケージ】


結び
 本論文は、家伝薬を扱う長崎の老舗薬屋4店が、創業から現在までどのように店を営んできたのかを調査したものである。調査より、以下のことが明らかになった。
 1.竹谷健寿堂は独自の方法で全国宣伝したことが、商売繁盛に繋がる1つのきっかけになった。
 2.片峰薬局は、開国や医学の発展などの時代の流れとともに歩んできた。
 3.神光堂の家伝薬は台湾の留学生から受け継がれ、創業から今日まで家伝薬だけを販売してきた。そして、薬事法の改正には随分悩まされてきた。
 4.貞包天心堂の家伝薬は長崎の家伝薬の中で最も古く、仏教の慈悲の心をもとに病気や怪我で苦しむ民衆を救うことから始まった。そして、それは日本人だけでなく外国人をも救ってきた。
 5.開国時には長崎が貿易の窓口だったため、西洋から伝わってきた薬が家伝薬として継承されていると筆者は考えていた。しかし、一概には言えないが実際はそうではなく、家伝薬の始まりは店によって異なる。


文中では註を*としている
(1)薬事法:医薬品・医薬部外品・化粧品・医療用具に関する事項を規制し,それらの品質・有効性・安全性を確保することを目的とした法律。1960年(昭和35)制定。(大辞林 第三版)
(2)番頭:商家の使用人の最高職位の名称で、丁稚 (でっち) 、手代の上位にあって店の万事をあずかる者(大辞林 第三版)
(3)長崎県製薬協同組合:昭和28年(1953年)に製薬業者が、原料等の共同購入と資質の向上を目的として設立された。昭和33年(1958年)には、優れた薬品の供給をするために製造設備の整った工場を設置し、組合員の発売する薬品の製造を開始。長崎に伝わる秘伝の漢方薬、新薬の製造販売を行っている。(『昔から伝わる長崎の名薬』から一部抜粋)
 
参考文献
笹川信雄&日刊ゲンダイ「妙薬探訪」取材班,2004,『妙薬探訪――からだにやさしい生薬百選』徳間書店
浄土真宗・唯yui,2008,『浄土真宗・唯yui』伝道資料センター.
長崎県製薬協同組合,2000,『昔から伝わる長崎の名薬』長崎県薬事協議会.
長崎県製薬協同組合,2015,長崎のくすり,(2015年1月7日,http://www.nagasakinokusuri.com/index.html).

謝辞 
 最後になりましたが、本論文の執筆にあたり多くの方にご協力いただきました。ご多忙にも関わらず筆者の2度の訪問に応じて下さいました竹谷健寿堂の竹谷和子氏、時間を掛けて詳しく丁寧に説明して下さいました片峰薬局の藤井節子氏、調査協力をお願いした時から快く応じて下さいました神光堂の深江長利氏、そして突然の訪問にも関わらず温かく迎えて下さいました貞包天心堂の貞包悦子氏、皆様には大変お世話になりました。出会いに感謝し、お力添えいただいた皆様に、この場を借りて心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

寺院と子供―浄土真宗本願寺派光源寺の事例―

社会学部 仲森 裕樹

目次 
はじめに
第1章 光源寺について
①寺町とは
②光源寺
第2章 浄土真宗と日曜学校
浄土真宗と日曜学校の来歴
②光源寺における日曜学校
③光闡日曜学校から光源寺日曜学校へ
第3章 ひかり子ども会と楠達也師
①楠達也師
②ひかり子ども会の来歴
③ひかり子ども会の現在の様子(11月29日)

結び
謝辞
参考文献

はじめに
  本論文は、社会調査実習として行われた長崎巡検の調査報告書となる。今回の調査は長崎市にある浄土真宗本願寺派光源寺をフィールドとして行った。100年以上、光源寺が青年教化の一環として取り組んでいる日曜学校・子ども会の取り組みに焦点を当て、光源寺と子どもたちの関わりが時代とともにどのように変化していったかを聞き取り調査・文献に沿って述べる。

第1章 光源寺について
①寺町とは
寺町とは長崎市にある町名のことで光源寺はこの寺町の一角伊良林にある。

  寺町は大正2年〜現在の長崎市の町名。もとは長崎市伊良林の郷の一部。地内には寺院が多く,町名の由来も寺院が多いことにちなむ。曹洞宗海雲山晧台寺(慶長12年開創)・真言宗医王山延命寺(元和2年開創)・黄檗宗東明山興福寺(元和6年開創)・浄土宗東雲山浄寺(寛永元年開創)・浄土宗万年山三宝寺(元和元年開創)・臨済宗河東山禅林寺(正保元年開創)がある。(「角川日本地名大辞典」編纂委員会、1987 )

②光源寺
  光源寺は寛永8年(1631)に創建された浄土真宗本願寺派のお寺である。創建者は松吟法師である。越後柳川・瀬高(現・福岡県みやま市)光源寺の住寺で、寛永8年頃、当時まだキリシタンの街としてその名残を強くとどめていた長崎へ出向き、浄土真宗の教えを布教し多くの同行同胞を得た。その功により寛永十四年(一六三七)、長崎奉行・馬場三郎左衛門から寺地を銀屋町に与えられ、京都西本願寺の末寺となり山号『巍巍(ぎぎ)山』、寺号『光源寺』の公称を許可された。寛文三年(一六六三)三月、長崎で空前の大火災が起こりほとんどの町が消失し光源寺も類焼した。さらに延宝四年(一六七六)にも大火があり、この時も光源寺は類焼したため寺地を伊良林の源在地に移した。光源寺には全国に伝わる子育て幽霊飴の伝説が伝わるお寺でもあり、毎年8月16日に光源寺の法物である全国でも珍しい産女の幽霊像を御開帳している。


写真1−1 光源寺山号『巍巍(ぎぎ)山』


写真1−2 光源寺の境内の様子

第2章 浄土真宗と日曜学校
浄土真宗の日曜学校の来歴
 浄土真宗における日曜学校の歴史は明治38年始まる。
 
 明治38年「仏教大学」(大正十一年に龍谷大学と改称)の学生無漏田謙恭らが、キリスト教日曜学校の活躍に刺激され「求道日曜学校」を開設したから始まる。これが仏教界で日曜学校という名称を用いた最初であるとされている。西本願寺は大正四年に日曜学校規定を制定し、全国の本願寺派寺院に日曜学校の開設を呼びかけ、六五〇の日曜学校が開校し、翌年大正五年には七七三校が開校し全国で十一万四九五〇人の子どもたちが日曜学校で学ぶこととなる。また、大正5年は真宗大谷派や浄土宗にも日曜学校の開校が相次いだ年でもあった。(ひかり子どもOB会編:10)

②光源寺における日曜学校の来歴
 光源寺の日曜学校の歴史は明治42年6月6日から始まる。現在のひかり子ども会の前身である光闡日曜学校である。現指導者楠達也師の祖父に当たる当時の住職楠活雷師のバックアップもあり、楠達也師のお父様にあたる越中聞信師が初代の指導者を務めた。
  光闡日曜学校の最初の参加者は子ども20人ほどで正信偈の唱和、讃仏歌、童話の読み聞かせで日曜学校を行った。越中聞信師の指導は子どもたちを引きつけ、子どもの参加人数も増え、参加する年代も幅広かったため年齢別に3つのクラスに分かれて運営し、毎週日曜日には光源寺にたくさんの子ども達が集まった。(参加者が150人になるほど)
 しかし、光闡日曜学校は大正5年5月に閉校することとなる。その理由として『楠活雷師と本山・西本願寺との間に布教方法の違いがあり意見の相違が目立ち始め、大正七年楠活雷は住職の地位を降り布教活動に専念する。』があげられる。楠活雷師は当時としては革新的な考えを持った人で『死んだ後の地獄、極楽を考えるのではなく、いま生きている人間の生活に地獄(生活の苦しみ)があるのだ』といことを説きその考えは当時西本願寺には受け入れてもらえなかった。そういった煽りを受け光闡日曜学校は閉校してしまう。光闡日曜学校の名前はこの年に消滅してしまったが、子ども達との関係が無くなったということではなく、子どもたちのための日曜学校は継続して続いていったそうだ。


写真2−1 日曜学校の初代の指導者越中聞信師と楠活雷師。
      越中聞信師は後の光源寺の代務住職となる。
    

写真2−2 大正時代の日曜学校教科書

③ 光闡日曜学校から光源寺日曜学校へ
  光源寺の日曜学校は最初の指導者である越中聞信師の長男の越中哲也氏によって正式に再開されることになる。越中哲也氏は大正10年生まれで、昭和13年に京都の龍谷大学に進む。そこで龍谷大学教授で教育学の権威山崎昭見氏から青少年教育の理論や実践・ソーシャルエデュケーションについて学び、子どもたちに社会教育が必要であるという想いから昭和13年に日曜学校を再開させる。また、再開した時に、『光闡日曜学校』から『光源寺日曜学校』に名称が変わった。光源寺の日曜学校は当初、哲也氏が大学の夏季休暇で帰郷する折に行われた。京都から帰郷の折に紙芝居を購入したりするなど子どもたちを引きつけた。『鞍馬天狗』が当時は人気を博していたそうです。子どもたちにとって仏教的なことや社会教育を学ぶことは勿論のことであったが、戦前の子どもたちにはほとんど娯楽がなく、日曜学校は子どもたちの間で楽しみの一つになっていたそうです。
  再開された日曜学校に集まる子どもたちも徐々に増えていき、光源寺のお寺の境内には沢山の子どもたちが集まることになる。しかしながら太平洋戦争に向かっていく中で日曜学校を続けていくことも難しくなり、日曜学校の教育の在り方も軍事的なものにならざる負えない時代になっていく。越中哲也氏がいうに指導者も社会に生きているわけであるから時代・社会によって指導の内容も時代によって変わっていくと語る。昭和18年哲也氏の出征と共に日曜学校は一時休校となる。
  昭和20年9月哲也氏は復員する。国にある種統制されていた教育から子ども個人をみて個人に即した教育しなくてはいけないという想いから、一息入れる間もなく昭和21年に日曜学校を再開させる。この当時戦争の影響で娯楽もほとんどなく、食料も乏しかった長崎の子どもたちにとって日曜学校の再開は非常に喜ばしことであったそうである。


写真2−3 2代目指導者 越中哲也氏


写真2−4 出征する直前の越中哲也氏と子どもたち

第3章 ひかり子ども会と楠達也師
①ひかり子ども会の来歴
  光闡日曜学校から光源寺日曜学校と名称を変えていったが昭和24年に光源寺日曜学校の1文字光をとって『ひかり子ども会』と名称を変えることとなる。哲也氏曰くこの当時『子ども会』という名称が流行っていたそうで、その流れに乗り日曜学校という名称から子ども会に変えたそうだ。
昭和30年、日曜日の朝に行われていた子ども会の活動は土曜日の夜に変わる。その理由として子どもたちの意見として日曜日は、家の人たちと遊んだほうが(過ごす)いいという意見、日曜日の朝はゆっくり過ごしたいという要望がでたからである。子どもの意見を受け入れる空気があり子どもたちと一緒に作り上げる子ども会の活動であった。また昭和30年ごろは子ども会の会員数は増え続け町内の約半分が会員となった。
  戦前、戦後の指導者であった越中哲也氏が復員後勤務先の長崎市博物館学芸員としての研究活動に専念するためにひかり子ども会の運営・指導は弟の楠達也師に昭和32年4月に変わることとなる。(この年楠達也師の性は越中であったが昭和37年光源寺の住職に就任した時に楠に改正する。)
 順調に子どもたちも増えていった子ども会であるが昭和37年ごろから少しずつ子ども会に欠席が増えるようになる。理由として子どもの絶対的な減少、長崎にもテレビ放送が始まったことにより子どもの会の活動に影響を与えることになる。また子どもたちが大きくなり中学・高校と進学するにつれて子ども会から足が遠のいてしまった。そして昭和48年になると子ども会の参加人数が激減する。参加者が2、3人という状態が続き子ども会の運営が困難になる。
  しかし昭和50年代に子ども会に転機が訪れる。ひかり子ども会のOBの方が二世会員を率いて子ども会に参加し子ども会に参加する子どもも増えていった。達也師曰く「これ以上大きな力(存在)はない」と思ったそうである。
 現在は少子化なども進み約20−30人の子ども達が子ども会に参加している。


写真3−1 昭和30年1月22日に新聞に掲載されたひかり子ども会の活動の様子
 またこの当時は子ども会の活動は日曜日だけに限ったことではなく毎朝行っていたそうである。日によってマラソン競争、竹刀体操 操 写 真3−1に写っているのは竹刀体操の様子)など様々な活動を行っていたそうである。  
②楠達也師
 昭和13年に生まれる。楠達也師は「ひかり子ども会」位の現在の指導者であり16代の住職である。父である越中聞信師、越中哲也氏から「ひかり子ども会」の指導者の後を継いだ3代目である。昭和32年住職への道を進むべく京都の龍谷大学に進学する。兄の哲也氏と同じく当時の龍谷大学教授で教育学の権威である山崎昭見氏の下で学ぶ。

 楠達也はクラブ活動を顧問教授として山崎昭見が率いる「宗教教育学」を選び、少年教化の理論と実践を徹底的に叩きこまれた。クラブ員は直ちに京都市内の各寺院の日曜学校に配属され、子どもたちの教化活動に励んだ。楠達也は本願寺別院の角坊日曜学校で子どもたちの指導を行う。(ひかり子ども会編:1982 10)

大学在学中は主に夏休みなどの長期休暇に子ども会の指導にあたっていた達也師であるが昭和34年に大学を卒業と共に本格的に子ども会の運営・指導に携わる。
 仏教を通して子どもたちに宗教的情操を育むことは勿論のことであるが、達也師が子どもたちに指導するにあたって大切にしている一つの想いがある。それは子どもを大切にするお寺であり続けるということだ。つまり子供が自然と集まり、子供が核となるお寺で有るということである。
 これがなぜ大切な想いのひとつになったのかというと光源時に伝わる民話「産女の幽霊」が大きく関わってくる。この民話は結末などに細かな異同が見られるが伝承地は全国に分布してする民話である。そして今回調査を行った光源寺にも伝わる。おおまかな粗筋は子どもを出産したが,亡くなってしまった母親が子どもを育てるために毎晩飴屋に行きその飴を子どもに与えて育てるという話である。これは亡くなってまでも子どもを想い続ける母親の愛情を表した民話である。この子どもを想う愛情というものを民話・伝説で終わらせるのではなく子どもへの愛情が息づいたお寺にしなければならないという想いが子ども会にはあるのだという。

民話の詳しい話はレポートと主旨が逸れるため詳しい話は以下に添付する。
http://www1.cncm.ne.jp/~k-naoya/ugumenoyurei.html
  

写真3−2 3代目指導者楠達也師


写真3−3 光源寺に伝わる幽霊像

  
写真3−4 井戸と子育て幽霊の図

③ ひかり子ども会の現在の様子(11月29日)
  かつては日曜日の朝に行っていた活動も現在では毎週土曜日午後7時〜8時から行っている。参加する年齢層上は中学生から下は二歳〜三歳くらいの子供と幅広い年齢層の子供たちが参加している。決まった人が参加しているわけではなく週によって参加する人も異なってくる。浄土真宗を信仰していなくても、光源寺の檀家の方でない保護者、子ども達も子ども会の活動に参加できる。
 調査を行った11月29日は子供たちの保護者、子ども併せて20数名が参加していた。また保護者の方以外にも近所の大人の方も参加していた。子ども会の始まる10分前くらいから人が集まりはじめる。待っている間みんな楽しそうにおしゃべりをしたり、風船で遊んだりとリラックスした雰囲気であった。また保護者の方の会話で「〜ちゃん、〜くん大きくなったね」とあったように子どもたちの成長の機会をみる場でもあった。子ども会の始まりの合図は光源寺にある鐘の音とともに始まる。その鐘の音がきっかけで遊んでいた子どもたちも遊びをやめて真ん中に集まり座る。特に決まった場所は無く思い思いの場所に正座をして座る。ひかりの子ども会の現指導者である楠達也師が「合掌」と言いそのあと南無阿弥陀仏と3回唱える。そのあと十二礼拝の歌を歌う。
 十二礼とはインドの高僧龍樹菩薩が作ったものである。それを子どもでも分かるように簡易にして歌にしたものが十二礼拝の歌である。
そのあと誓いの言葉を子どもたちと一緒に読む。誓いの言葉は以下の通りである。一、仏の子は素直に教えをききます。一、仏の子は、かならず約束を守ります。一、仏の子はいつも本当のことをいいます。一、仏の子は、にこにこ仕事をいたします。 一、仏の子は、やさしい心を忘れません。
 誓いの言葉が終わった後に達也師の遊び要素も含まれた法話が始まった。まず片手を出して、その手を横に振る。当然音は出ない。次に両手を出して手を横に振ると両手が重なり初めて音が鳴る。ここで言いたいのは、友達、父親、母親、親戚の人、周りの人がいるから音が出るということである。つまり相手を思いやって日々の生活をおくろうということである。法話が終わった後は、紙芝居が始まる。この日は、「おまんじゅうの好きなおとのさま」という紙芝居であった。紙芝居は大人が読むのではなく中学生の子が読む。そのあとリクリエーションを行う。保護者の方も一緒に参加していた。リクリエーションが終了した後は参加者にお菓子を配り、12月、1月の予定表を配り終了。


写真3−5 ひかり子ども会の現在の様子 リクリエーションの様子。保護者子どもたちも一緒に参加。

結び
 今回の調査では光源寺と子どもたちの関係性に焦点をあてて調査を行うことで以下のことが明らかになった。
 
①光源時のある伊良林の子どもたちにとって光源時の日曜学校・子ども会というのは学ぶ場所であったと同時に重要な楽しみ・娯楽の一つであったということ。

②時代の流れによって子どもたちに対する教育のあり方・子ども会の運営も代わっていったということ。

③子どもの少子化・娯楽の変化,進学率の上昇等様々な要因が子ども会の参加人数に関わっていたということ.

謝辞
 本論文の執筆に当たり、多くの方々から大変あたたかいご協力をいただきました。
突然の訪問にも関わらず、光源寺、ひかり子ども会について様々なお話を聞かせてくださった楠達也師、越中哲也氏。お忙しい中様々なお話、資料を提供していただいた泉屋郁夫氏。様々お話を聞かせてくださった光源寺に関わる方々。
本論文が完成に至ったのはみなさまのご協力のお陰です。今回の調査にお力を貸していただいたみなさまに、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
ひかり子ども会OB会1982年「伊良林のこどもたち―光り子供会の80年―」
角川日本地名大辞典」編纂委員会1967『角川日本地名大辞典』、650 角川書店