関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

俗地名から見る高島

俗地名から見る高島
尾崎 有香子

はじめに

 俗地名とは、実際の住所としては存在しない地名のことであり、その土地に住む人々によって名付けられたものである。今回の調査を進めるにあたって我々独自で俗地名と称し、以下もそのように記す。俗地名はその土地の特徴を示す一つの情報源となる。

 第1章 高島の歴史

(1)明治

 1868年の明治維新によって日本は大きな革新の時代へと突入し、現北海道である蝦夷地も開拓が進められた。明治2年(1869)、開拓使が設置されると共に蝦夷地を北海道と改め、11カ国86郡を置いた。高島郡(オコバチ川〜オタモイ)は、小樽郡と共に翌年開拓使所管となる。
 漁場はこれまで場所請負制度で行ってきたが、明治2年の開拓使の布達によって廃止された。しかし一挙に廃止してしまうと不都合も生じてしまうため、場所持と名称を変え今までどおりの漁場経営が行われることとなった。この時の場所持であったのが、西川家 高島場所支配人 長谷川久八である。元運上屋西川家漁場は、ニシン、シャケ、マス、タラなどの漁で大きな繁栄を築いていたので、海に面した土地を占有して大規模な漁場を営んでいた。そのため当時の高島の戸数は周辺地域に比べて少なかったと言われている。それに比べて一般漁家は一夫婦単位で掘立て小屋に住み、漁船や漁具は小規模で資金も乏しく、何かと場所持に頼ることが多かったと考えられる。また、漁場を営んでいた人達の出身地は新潟・北陸沿岸か道南辺りであるとも言われているが明らかではない。東北や北陸からの移住が続き、村落に発展していった。
 開拓によって人の招致が行われ、漁場も同様に漁民を募集した。漁民の移住類型は「漁夫出稼ぎ」と「漁船出稼ぎ」とに分けられ、北陸出身者が多かった。小樽が文明の発達を進め、人口も5千人を越すようになると、高島も移住者によって人口が増し、ニシン漁業に前進を見せていった。建網、刺網共に数を増して漁獲高も向上すると、西日本での需要の拡大や日本海航路の整備によってニシンはますます価値を増していったのである。
 小樽は水産業以外にも商業都市として発展し、明治2年に手宮に海関所を設けて以来、将来の発展を見越した福山の富裕な商人や漁家達は、続々と小樽に移り住んだ。こうして入港する弁財船と水産物生産者や、小売業者の間に立って取引の仲介を担う回船問屋ができるのだ。こうして小樽港に入港する船舶の数は次第に増えていった。
 明治13年には、三菱会社の函館・小樽定期船航路の開設や、手宮・札幌間に北海道初の汽車の開通など、陸海運共に画期的な年となった。こうした状況下に出された「高島郡小樽郡に合併する」という案は、両群の友好関係の構築や、郡をより活性化させることも考慮され、受け入れられることとなったのである。
 明治初期の西川漁場においては、秋田県出身の佐藤与左衛門を支配人として、弁天島に建網を1ヵ統増設し、祝津もまた移民の増加に加えて肝油製造やヨードの製造などの研究が行われ、次第に活気づいていった。
 明治15年には高島の人口が一挙に増加し、初の高島郡漁業組合(色内〜祝津)が結成され、その頭取に就任したのが佐藤与左衛門であった。
 明治19年に札幌・箱根・根室の3県を廃止して北海道庁を設置し、本格的な殖民開拓に取り組むようになる。以来小樽が特別輸出港となり、埋立地には北陸海運の巨商達の支店が建ち、石造り倉庫が立ち並ぶようになったのもこの頃である。
 そして、高島郡ではさらなる発展が続き、様々な設備も整ってきた。高島へ移住する者は越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)からの漁船出稼ぎを経て、家族で移住し、そのまま定住するというパターンが多く見られ、ニシンを主体とする沿岸漁業のみにとどまらず、沖合漁業にも進出するようになった。ニシンの豊漁によって漁家には階層ができた。建網5ヵ統以上・雇漁夫100〜200人を所有する漁家を大漁業家、建網1〜2ヵ所で定置網を行う漁家を中漁家、ニシンの刺網・昆布採取・雑漁業の家族労働を行う漁家、「ヤン衆」と言われる臨時の出稼ぎや雇われ漁夫に分けられる。ニシン漁には多大な経費がかかり、加えて漁船や漁具の準備や食料、漁夫の給料などを考えると、採算の取れるニシンの量を水揚げしなければ、到底生活できない厳しい世界であることが分かる。 
ニシン漁によって大きな富を得た漁家はのちに成金と言われる程豪遊する者もいれば、堅実な使い道を選ぶ者もおり、様々な境遇をたどることとなる。

(2)大正・昭和

第一次世界大戦の影響を受け、日本が欧米に「追いつけ追い越せ」の風潮で様々な動きを見せるようになったのもこの頃である。北海道において道産雑穀類の輸出が急激に伸び、その集積地であった小樽は非常に活気に満ちていた。高島では、電線が施設され、電灯が登場し、また、焼玉エンジンで走る発動機船時代へと移行された。
 漁業における変遷も数多くあった。明治における高島の主な漁獲物は、ニシン、サケ、マス、昆布であったが、中でも特にニシンの漁獲が大きかった。しかし、明治33年を期に、以後資源の衰退、沿岸漁業の枠内にとどまったこと、仕込み問屋資本の支配などの不利な条件と、魚群の局地的な来遊が年々大きく変化してしまったことが最大の原因となって、不漁の傾向が強まっていった。しかし、大きな網元は漁場の数が多く分散的に漁を行えることから不漁にも対処できるので、大正初期にはまだ目立った不漁の影響はなかったようだ。その証拠の一つとして祝津の青山別邸が大正7年の建築である。借金をして網を建てた者にとっては、月2、3分の高利に苦しい状況を強いられたであろうことが想像できる。これによって、高島の漁師は一発勝負のニシン漁のみに期待をかけるのではなく、改良された川崎船によるカレイ、ホッケ、タラなどの沖合い漁業を主体として生活を維持していったのである。
 ニシン漁業の不漁に加えて、浅海魚介類もまた乱獲の結果、次第に水揚高が減少した。
その一例としてホタテの大不漁が挙げられる。当時のホタテ漁業の中心地は後志であり、漁期の取れ高は非常に良かった。生は産地で消費し、他は丸干しにして本州や中国に輸出して、かなりの収益を挙げており、高島にも入港していたとされている。ところが、ホタテをほとんど取りつくしてしまうという事態になり、他の地域に漁に出ることになる。初めは漁を許可されていたものの、漁獲高の減少を恐れて拒否されてしまう。そこで、高島のホタテ船団は、さらに他の地域での漁に出ることとなったが大不漁からは逃れられず、ホタテ漁業は中止されたのであった。
このような背景から、人々の漁業にたいする見方にも最盛期の頃とは変わってきたように思える。この頃に高島へ移住してきた者は、全員が漁業に従事するとは限らず、農業や建設など様々な方面で活躍していった。
ニシン漁業は全道で50〜60万石台にまで減少し、沿岸漁業だけでは存続しかねるということから、沖合漁業への転換が進められた。高島はいち早く川崎船による沖合漁業への進出が見られたが、人力によるためかなりの重労働であり、大暴風雨による遭難事故も起きていた。こうした中で大正以降の高島では続々と焼玉エンジンの発動機船が造られ、沖合漁業がさかんになっていった。
大正時代の町文化は目覚しい発展を遂げていく中、やはり町民の職業は大半が漁業であった。当時高島〜手宮間は道路が狭く、交通機関は客馬車、冬は馬そりであった。荷物がかさばる際の運送も馬車であったが、魚商の女性はザルに魚を入れて、天秤棒で肩に担いで高島から手宮までの道のりを歩いて商売をしていたとされている。
小樽市の最盛期が大正13年から昭和4、5年頃までであると言われ、高島も着々と
近代化を進めていた。機船漁業も板につき、電話も機能するようになり、社会機能は整っていった。
 戦局が進む中で、小樽と高島は昭和15年に合併した。両群共に合併について問題を抱えていたが、多くの人の尽力あって合併が実現したのである。終戦を迎えた後は、小樽と高島は復興に向けて近代化に力を注いでいくことになる。



 第2章 高島の俗地名

前節では、明治維新から小樽との合併を果たすまでの高島を見てきた。これによって、今回の調査テーマである高島の俗地名との歴史的な関連性も踏まえてより理解しやすいと考える。
この節では、今でも高島に存在する俗地名をいくつか挙げる。聞き取り調査を通じての情報入手を試みたが、起源がかなりさかのぼるため、全てにおいて明確な証言を得ることはできなかった。しかし、実際にその地を訪れることによって歴史を物語る風景に出会うことができたのである。

地図1 高島の俗地名を大まかに表した。



(1)成金町

写真1 今も残る石垣が、かつて屋敷があったことを思わせる。

写真2 大きな石垣と今は使われていない屋号の付いた蔵。

写真3 かつて成金町に住んでいた富裕層の人々。 

・ 由来:ニシン漁で成功し、巨額の財を成した親方が豪華な屋敷を構えて住んでいたから。
・ 場所:現在の亀山商店裏から山に通じる3本の坂道のうち、最も小樽寄りの道に面した一帯。


(2)引越し町

写真4 比較的新しい家々が並ぶ。

写真5

・ 由来:大正8年10月の大火で焼け出された人々がこの付近に移り住んだから。
・ 場所:成金町の坂の隣に面した付近一帯。


(3)喜楽町

写真6 かなり坂を上った所に位置する。引越し町の上辺り。

・ 由来:明治から大正にかけて、親元から分家した次男、三男が新婚で気楽に住んだから。気楽ではなく喜楽という字が俗地名に使われていることに関しては明確な説がない。
・ 場所:引越し町の坂の隣の最も祝津に近い坂付近一帯


(4)稲荷町

写真7 境界が定かではないが、右に稲荷神社があるので右が稲荷町、左が沢町だと推定される。この道がかつて沢だった。

・ 由来:稲荷神社があることから。
・ 場所:現在の高島郵便局から坂に沿って開けた、稲荷神社の周辺地域一帯。


(5)沢町

・ 由来:現在は道路となっている所がかつては沢であったから。
・ 場所:稲荷神社へと入る手前の坂を少し登った、稲荷町と隣り合う地域一帯。


(6)励ましの坂

写真8 手宮バスターミナルを少し上った辺り。緩やかな坂。

写真9 緩やかな坂の後の急傾斜。自転車を押してでは到底上れなかった。

・ 由来:証言は得られなかったのだが、坂の上にある末広中学校まで上る時に生徒達が励ましあって上ったからという説。
・ 場所:手宮ターミナルから末広中学校までの坂。
・ 呪文:この坂を上る人は「人生は、重荷を負うて煤田山を上るがごとし、急ぐべからず。ただただ一心に励むべし」という呪文を唱えるという言い伝えがある。今この呪文を知る人は調査した中では出会うことができなかった。


 第3章 地名研究の見地から

(1) 幸福という地名について

前節にあるように、一つの地域においても俗地名を調査すればいくつも出てくる。ここでは、我々が定義している俗地名とはまた違った地名の観点から、北海道に実存する幸福という地名を例に挙げて考察する。
 昭和49年に「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズによって、愛国駅と幸福駅とを結ぶわずか60円の切符が一躍ブームを巻き起こした。格好のデートスポットとして注目を浴びたが、なぜこのような駅名になったかということに興味を示す人は今も昔もいないようだ。
 そもそも幸福という駅名ができたのは昭和31年のことであり、それまでは幸震駅であった。ではどのように幸福に変化し、幸福町という町名が誕生したのか。幸はもちろんそのまま付けられたものだが、福はどこから来たのか。
 実は、幸福町という地域一帯は、明治時代に主に福井県の人が移民して開発されてきた場所であり、福は福井県の福から付けられたのである。
明治中期、福井県の大野郡はしばしば大水害に見舞われた。復旧にめどが立たないまま、村民100人余りが故郷をあとに北海道に移住してきた。未開の地である十勝に足を踏み入れ、原野を目の当たりにした村民達はどんな思いで生活を始めたのだろうか。これからの生活への不安や希望、様々な思いから幸福という地名が付けられたのだ。


(2) 地名が表すもの

 地名とは、その響きや文字そのものに魅力を感じることはあるが、なぜそのような地名がつけられたのか、誰がどんな思いで付けたのかというルーツを探ることでより魅力的な発見がある。その地域にまつわる歴史や文化、生活などあらゆるものを引き出すことができ、価値ある発見につながるのだ。こんな地名があるのかと驚くだけでなく、小さな地名一つ一つに人々の思いや願いが込められていることを知る重要な手がかりであることを忘れてはいけない。
 また、今回定義した俗地名は、目に付く所には表示されておらず、その土地に暮らす人々しか認識されていない、いわば音声の世界に生きる地名である。耳にすることはあるが目にすることはない。だからこそ、その土地により密着しており、その時代においては重要度が高かった歴史があることを物語っていると言える。


 最後に

 本調査に際して、貴重なお時間を割いて様々なご指導、ご協力を頂きました小樽市立博物館運河館の石川直章先生、小樽市総合博物館の相馬久雄館長、小樽市高島町会の大黒昭会長に深謝いたします。また、多くのご協力をして頂きました小樽市の皆様へ心からの感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせて頂きます。


 文献一覧

高島小学校開校百周年記念称賛会  『新高島町史』
大黒昭     『高島町史 改定増補版』
堀耕      『高島の話』
谷川彰英    『地名の魅力』
上野智子    『小さな地名の調べ方』