今井美希
【要旨】
本研究は、今井酒造を中心に見た今井家の歴史に対する観点から、今井家の歴史の忘却の背景について明らかにしたものである。今井酒造とは、所在地を兵庫県姫路市とし、私の叔父邦雅が社長を務める会社で、約140年の歴史がある。父達也、父の従兄弟史郎、社長の嫡男で私の従兄にあたる亮介が働いている。現在、姫路市内の6つの蔵元が合併し、名城株式会社となっている。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。
- 一番に挙げられる表面的な理由は、史料の焼失である。太平洋戦争の被災地となってしまった今井家は、太平洋戦争以前の史料は全て焼失してしまった。そのため歴史を知ろうにも本当に正確な歴史を知ることは不可能となってしまった。しかしこれは表面的な理由である。もし本当に歴史に興味があるのであれば、口伝いでも歴史は語り継がれているはずである。この原因の根底にある意識は他に存在する。
- 歴史の忘却には家庭環境が大きく影響していた。達也はお手伝いのあきさんに育てられ、父の淳二と母の恵子と共に過ごした時間があまり多くはなかった。父淳二は仕事以外の休みの日には釣りに行ってしまうので、家におらず話す機会も少なかったという。その環境が影響し、家のことつまり名城やその歴史について関心を持たなかったといえる。さらに母恵子の家柄の影響もあった。恵子は第24代続く歴史ある病院を営む家の長女で、当時第6代続いていた名城も24代に比べると歴史が浅く、恵子にとって今井家は関心を持てるような対象でなかった。達也は次男ということもあり、なおさら関係がかった。この両親のもとで生活してきた環境は、歴史に対する興味・関心を薄れさせた原因と考えてよい。
- どこから忘却の連鎖が始まったのか。現時点で分かっていることは、私の曽祖父にあたる第5代重太郎のときからということである。重太郎は戦国時代の武将で、織田信長に謀反したとされる荒木村重の末裔である。荒木村重の末裔、重太郎は今井家と養子になった。様々なよくない噂が存在するが、有名な武将ということもあり、荒木家には家柄があったことは明らかである。ここでも自身の家柄の大きさ故、今井家について関心がなかったといえる。達也と重太郎はともに過ごす時間は多かったようだが、過ごしてきた時間に関係なく根本的に歴史に対する興味・関心の薄さが伝染していることが、3代を通して明確となった。そう考えれば、重太郎から始まり、息子の淳二に、さらにその息子の邦雅と達也も関心がなかったのは納得のいく流れである。
- そしてその流れは私にも影響していた。達也は今井家の中でも歴史を知っているほうであった。しかし、その歴史は曖昧で信憑性に欠ける部分が多く、歴史的な流れというよりは過去の栄光の話などの内容であったため今井家の客観的事実のほんの一部の知識となってしまった。情報源自体があまり多くないことや会社の歴史の話題が出てこなかったことにより、深い内容にならず私自身自分の家の歴史をもっと知りたいという興味・関心が生まれなかった。ここでもやはり、自分の置かれている環境が影響していることがわかる。両親が歴史に関心がなければ、その子供も興味がない。その結果今井家の歴史が忘却されていった。
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今回私が今井家の歴史について詳細に調査したことにより、今井家の歴史に対する無関心の流れを脱却することができたのではないだろうか。始まりはほんの些細なことであったが、自身の家の歴史を知るということは、自身の存在意識を明確なものにすると感じた。今井家には上記のような時代背景があったため、今の今井家があり、私がある。私たちを形づくっている歴史は、これからも残していきたい。今回私が調査したことがきっかけとなり、後世に繋がっていってほしいと思う。
【目次】
序章
1章 今井家と今井酒造
第1節 今井酒造の歴史
(1)今井酒造とは
(2)住屋茂兵衛と今井吉三郎
第2節 今井直次郎
第3節 戦後の今井酒造
2章 今井達也と「家の歴史」
(1)伝承されていない歴史
(2)曖昧な歴史
(3)伝承されている歴史
(4)考察
3章 今井邦雅と「家の歴史」
(1)伝承されていない歴史
(2)曖昧な歴史
(3)伝承されている歴史
(4)考察
4章 今井美希と「家の歴史」
(1)伝承されていない歴史
(2)曖昧な歴史
(3)伝承されている歴史
(4)考察
結び
参考文献
【本文写真から】
写真1 名城株式会社社
写真2 今井酒造が誕生した土地であり、今井家が代々住んでいる材木町の所在地
写真3 太平洋戦争の被災地に含まれる材木町の今井家
写真4 今井家系図
写真5 今井酒造の原型である今井酒造場
【謝辞】
本研究の執筆にあたり、ご協力いただいた今井家の皆様に心より感謝致します。また、お忙しい中調査にご協力いただいた出口隆一氏に厚く御礼申し上げます。