関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

さだまさしをめぐるFAN・FOLKLORE の民族誌―長崎市でのフィールドワークから―

社会学社会学科 藤原和香
【目次】
はじめに
1. 長崎とさだまさし
1.1 さだまさしさんの生い立ち
1.2 さだまさしさんの長崎における活動
1.3 長崎、ファンのさだまさしと取り組みに対する反応
2. 自由飛行館
2.1 自由飛行館を訪れた人々への聞き取り調査
2.2 「気ままに…思い出に…」ノートの存在
3. ナガサキピースミュージアム
3.1 「ピーススフィア貝の火運動」とピースミュージアムの出来たきっかけ
3.2 ナガサキピースミュージアムの活動
3.3 来館者メッセージ
4. 消失した長崎におけるさだファン聖地―雨やどり―
4.1 雨やどりとは?有限会社 鳴滝 内山恵理子氏
4.2 さだファンと雨やどりチーフ(内山氏)の関係
4.3「まっさんと歩くシリーズ」手作りマップの存在
おわりに
謝辞

はじめに
 長崎出身ミュージシャンと言えば、誰を思い浮かべるだろうか?2016年世間を騒がせた人気ロックバンド、下衆の極み乙女。のボーカル、川谷絵音氏は長崎出身である。彼は地元長崎でLIVE行った際、長崎出身の先輩歌手であるさだまさしさん、福山雅治さんの名前を挙げた。「長崎と言えば『下衆の極み乙女。』と言われるように、死ぬまで歌い続けるぞ。」と宣言したそうだ。現在、長崎出身のミュージシャンと言えば、さだまさしさんと福山雅治さんであると人々の常識として定着していることが伺える。とりわけ、さだまさしさんは音楽活動に留まらず、映画や本、タレント活動など多岐にわたるジャンルで活躍している。彼の作品は出身である長崎をテーマにした作品が多く、地元への情熱や想いが伝わってくる。さだまさしさんのファン、通称「さだファン」の方々にとっても長崎は特別な場所であり、第2の故郷、聖地と考える人もいるほどである。
FOLKLOREとは、「何らかのコンテクストを共有する人々の間で生み出され、生きられた、経験・知識・表現」という定義である。(2014,島村恭則,3)FOLKとは、「何らかのコンテクストの共有する人々」を指し(2014,島村恭則,4)、LOREとは、「フォークの間で生み出され、生きられた経験・知識・表現」のことを示す(2014,島村恭則,6)。今回の調査では、長崎県長崎市出身のフォークミュージシャンである、さだまさしさんのファンをFOLKとし、さだまさしを通して長崎でどのような経験・知識・表現(LORE)を生み出したのか、FANの間で生まれたFOLKLOREを調査した。
 第1章 長崎とさだまさし
 長崎市、市民にとっても、ファンにとってもさだまさしは長崎と切っても切り離せない関係性である。どのようにしてこの関係が成立・維持しているのだろうか。さだまさしさんの生い立ち、長崎での活動、活動に対する周囲の反応の3つの点から、分析していく。
 第1節 さだまさしさんの生い立ち
 28年間さださんを取材してきた西日本新聞社の記者である傍示文昭さんが出版した、さだ番楽屋話によると、「さださんは21歳でデビューしてから一貫して『家族』を歌ってきた歌手である。」と本文中で述べている。(2015,傍示文昭,83)さださんは作品の中で家族をどのように表現してきたのだろうか。さださんの音楽活動の背景には、生い立ちが大きく影響しているのだ。さださんは、佐田雅志として1952年4月10日に長崎市で誕生した。3歳のころからヴァイオリンを習い始め、13歳でヴァイオリン修業のため上京した。早い段階で家族のいる長崎から離れて1人で暮らしている。家族、地元を離れることによってさださんは家族や地元長崎を意識するきっかけとなったのではないだろうかと考える。また、さださんが表現してきた「家族」は広義であると解釈する。一般に考えられている家族という集団だけではなく、故郷長崎も「家族」の中の1つなのだ。「家族」が広義に解釈出来るからこそ、聴く人それぞれ思い浮かべる大切なものや場所も「家族」の1つに当てはめることが出来るのではないだろうか。さださんの「家族」におけるイデオロギーが作品の中に表現され、ファンの価値観に伝播している。
 第2節 さだまさしさんの長崎における活動
 では実際に、さださんは長崎でどのような活動をし、貢献したのか。幼いころから故郷を離れたさだまさしさんは、長崎で何か出来ないか、強い使命感を持っていた。さださんが長崎で取り組んだ活動の中で代表的なものを挙げる。1987年から2006年まで毎年稲佐山で開催された無料の野外コンサート「夏 長崎から」である。広島の原爆が落とされた8月6日に、長崎から広島に向かって歌を歌う。歌を歌える、聴ける…そんな平和な環境で生きる、幸せを噛みしめ、平和について考える機会を人々に提供したのだ。長崎で行うことで、8月6日の長崎は活気に溢れる。さだファンだけでなく、地元の人々にとってもこのコンサートは、改めて戦争と平和を考える、意識する場となっている。よって、さだまさしさんは、「夏 長崎から」を通して、さだファンと長崎の人々が「平和」という同じテーマについて考える機会を設け、両者を結びつけているのだ。「平和について考える」という明確な趣旨のもと、開催されているライブであるため、行く人々の心にさださんの今までの作品をより明瞭に理解することが出来たのではないか。また、このコンサートは20年間毎年開催されていることから、さださんはもちろん、両者にとっても、「夏 長崎から」は長崎の夏の風物詩となり、儀式である。一部ファンの間では「夏 長崎から」は、「合同ミサ」というFOLKの間で生まれた言葉(verbal lore)で呼ばれているのだ。長崎・さだまさし・さだファンならではの言葉である。
 第3節 長崎、ファンのさだまさしと取り組みに対する反応
 こうした、さださんの長崎における活動は故郷や長崎、またファンにどのような影響を与えているのか。2004年に、長崎市の栄誉市民として称号が贈られた。公的機関から、さださんの活動が、長崎市へのイメージアップに大きく貢献したとして認められたことによって、長崎市民にとってもさだまさしさんは誇りであり、長崎市の象徴として捉えられていることが分かる。またファンにとっても、さだまさしと長崎は切り離して考えられなくなった出来事となったのではないだろうか。ファンにとっては、長崎はさだまさしの一部なのである。そのため、長崎を訪れることは、ファンにとって特別な意味をもたらす。長崎を「聖地」と呼ぶことによって、他県とは区別しているのだ。
第1章から、3つのことが分かった。(1)さださんは作品の中で「家族」を表現することに力をいれており、長崎もさださんが表現したい「家族」の1つであること、(2)さださんが長崎市稲佐山で20年間行った無料コンサート「夏 長崎から」は長崎とさだファンを視覚的に結びつける機会となった。その結果、(3)長崎市や市民、さだファンにとってさだまさし・長崎を再帰的に確認する場となり、価値が再創造された。
 ファンにとって、「夏 長崎から」は1年に一度、長崎でさだまさしを感じる場(聖地)であった。長崎には、さだまさしさん、関係者が作った聖地がある。ファンの間では「三大聖地」と呼ばれ、独特のツーリズム(さだツーリズム)が生まれていた。第2章から第4章では、この三大聖地におけるFANFOLKLOREを解明していく。
第2章 自由飛行館
 前述したように、長崎県長崎市にはさだまさしファンにとって聖地と呼ばれている場所が存在する。三大聖地の1つ、自由飛行館である。自由飛行館は、長崎市鍛冶屋町にある、さだまさしさん、妹の佐田玲子さんの喫茶店だ(写真1)。

(写真1)自由飛行館の外観
 店内には、さだまさし佐田玲子さんの楽曲がBGMであったり、関連書籍やグッズ、直筆サインが設置されているなど、ありとあらゆるモノから、さださんを感じられる。また、かつて自由飛行館はさださんのお母様が経営されていた。そのため、店内にさださんの家族写真が飾られていたり、メニューにはお母様とゆかりのあるボルシチ料理があり、食べることが出来る。アーティストとしてのさだまさしだけでなく、佐田家の中の佐田雅志が垣間見える貴重な場なのだ。このように店内の様子からは、アットホームな雰囲気が漂っている。訪れたファンは、さだまさしとの距離が近くなったと感じるのではないだろうか(写真2)。

(写真2)店内の様子 直筆サインとさださんの幼少時代の家族写真
 お店は、「長崎」も表現されており、名物カステラを販売するなど観光地としても機能している。メニューの終盤のページには、さださんが書いた「長崎弁あれこれ」という、長崎弁が紹介されているページが設けられているのだ。最後のページにもさださんが書いた似顔絵と「のんびりしてね」というメッセージとサインが添えられており、旅をする人々の心に温かさを残す。

(写真3)メニュー表の「長崎弁あれこれ」

(写真4)メニュー表のさださんのメッセージ
このような店内からは、「長崎」のさだまさしを楽しむことが出来る。
 第2節自由飛行館を訪れた人々への聞き取り調査
 今回の調査実習では、自由飛行館に訪れたお客さんを対象に聞き取り調査を行った。聞き取りを行った質問は以下の通りである。(1)どこからやってきたのか(2)自由飛行館を訪れた理由(3)ファンであった場合、なぜさだまさしのファンになったのか。文面上、調査を行った中でもとりわけ本論文に関連するインタビューをピックアップする。
 ・東京都在住・40代女性
(1)東京から、長崎県観光のために訪れる。いつもは、主にさださんのコンサートに行くために長崎へ来る。(2)長崎を訪れた際は、必ず立ち寄るため。(3)1983年のさだまさし10th Anniversaryの記念として行われた「時の流れに」というコンサートから参加している。兄がさだまさしを聞いていた影響でファンになった。
 ・埼玉県在住・40〜50代夫婦
(1)夫の出張の付き添いでやってきた。初めての長崎であり、念願である。(2)出張が決まった時にネットと調べていたらヒットした。調べるまでは、自由飛行館の存在を知らなかった。(3)若いころ、さだまさしの曲をよく聞いていた。一度だけコンサートに参加したことがある。
 ?長崎市内在住・40代女性2人組
(1)(2)リニューアル以前に自由飛行館を訪れたことがあった。久々に行ってみようということでやってきた。(3)さだまさしさんがデビューする前はよく市内で路上ライブを行っており、出くわせたことが度々あるほど、身近な存在であった。また佐田玲子さんが学校の先輩にあたる。そのため、親しみを持っている。さだまさしさんは、ずっと長崎を大事にし、全国に発信してくれている。長崎市民として嬉しい、ありがたい。言葉の力が大事だということを行動で示してくれた。
 ・長崎市内で単身赴任中(大阪出身)・男性
 (1)(2)仕事のお昼休憩時に訪れる。お昼ごはんはどこかで購入することになる。それならばさださんが好きなので、さださんの場所でお金を落としたい。また、単身赴任中であるため、健康的な食事がとれる場として自由飛行館を利用している。(3)仕事の関係でさだまさしさんを知るようになる。さださんの歌は、実話に基づいているため、歌っていても甲斐を感じることが出来る。
 ・高知県在住・家族連れ
 (1)長崎観光のため。自由飛行館へは10回以上訪れている。(2)母が40年以上さださんのファンであるため、自由飛行館へ。長崎を訪れる度に、自由飛行館に来ることも当たり前となっている。(3)帰られる際、「また何年後かに来るね」と言い残していた。このことから、自由飛行館が定期的な帰る場所になっている。
 他にも、さだまさしのファンでないにも関わらず訪れる観光客もいた。理由としては、自由飛行館が国宝である崇福寺の近くに立地していることや、インターネットで調べた際に、コーヒーと長崎名物、カステラが食べられるお店としてヒットすることが挙げられる。
 第2節 「気ままに…旅の思い出に…」ノートの存在
 自由飛行館には客が記録として残すノートが存在する。かすてら珈琲としてリニューアルオープンした、2013年7月20日から始まった。その名も、「気ままに…旅の思い出に…」ノートだ。訪れた人は自由に自由飛行館にきて、想ったことや感じたことを記すことが出来る(写真5)。この節では、このノートを基に、さだファンにとっての自由飛行館という存在を考察していく。

(写真5)「気ままに…旅の思い出に…」ノート
 2013年11月12日「職場の友を引き連れ、横浜からやっとやっと自由飛行館に来ることができました。10代の頃から兄の影響でさださんの歌を耳にして早30年経って…人生の一部になっています。職場の友に感謝!お店に感謝!現在進行形です。」(横浜・匿名)
 2014年2月10日「特急かもめで長崎に着く時に天までとどけが流れた。嬉しくて涙が…長崎県人ではないが、あたたかいまち。長崎。ほっとする長崎。大好き長崎!」(神奈川・O)
 2014年6月4日「修学旅行できました。お父さんがさだまさしの大ファンでヒマさえあればLIVE映像みてます!私もMCが大好きで、1回見に行きたいです。正直さだまさしさんの店があるとは知らなくて、タクシーの運転手さんに教えてもらいました。もっと古いお店なのかなと思っていましたが、すごくきれいなお店で感激しました。焼きカステラ本当においしくてすっごい満足でした」(H)
 2014年7月21日「…さださんの生まれた町に一度は来てみたいと思い思い切って長崎に一人で来ました。…主人を亡くし4年7ヶ月さださんのうたがいつもそばにあったから生きてこれました。これからもいつも聞いていきます」(埼玉・M)
 2014年11月17日「『さだまさし やっぱり好きだ さだまさし』すいぶん昔に一度寄らせていただいた記憶があります。今回は一人旅。一泊で小浜温泉でした。けれど最大の目的は自由飛行館さまに行く事!!…福岡に住んでいると知らず知らずに気ぜわしくなります。ゆったりした時間をちゃんと思い出せました。長崎大好き!さださんのやわらかい声が本当によく合う街ですね。…」(福岡・T)
 以上のように、さだまさしを感じるために長崎を訪れた人々は、さだまさしを通して長崎の思い出を作り、愛を育てていることが分かる。さだファンにとって長崎という場所が特別にになる瞬間がノートから見ることが出来た。この「気ままに…旅の思いでに…」ノートは、ファンそれぞれの「私の中のさだまさし・長崎を表現する場」であるのだ。
 今回の聞き取り調査・記録ノートによって、ファンにとっての自由飛行館が分かった。青春時代ファンであった人が、年齢を重ね余裕が出来た時に、訪れる場所…いわゆる再帰的な場所である。さだまさしのファンは世代を超えて継承されており、家族ぐるみでさだファンであることが多い。「さだまさし」によってファミリーロアが生まれている。というのも聞き取り調査では、本人がさだファンでないのも関わらず、家族の中の誰かがさだファンであることによって、さだまさしの歌を歌えるようになったり、ライブ映像を見るなど、無意識に無自覚にファン活動を行っているのだ。家族ぐるみでファンになることは、他アーティストでもよくある。しかし、さだファンはさだまさしの事務所のさだ企画が制作した公式ブック「さだまさしファンあるある」でも取り上げられるほど多いのだ。公式が認知するほど、家族ぐるみで応援されるアーティストは非常に珍しいのではないだろうか。そこには、さださんが芸能活動を行うにあたって家族ぐるみで取り組んでいること、「家族」を表現してきたアーティストであるからだと考える。
 第3章 ナガサキピースミュージアム
 現存するさだまさし聖地はもう一つある。「ナガサキピースミュージアム」という、平和について考え発信する場だ(写真6)。

(写真6)ナガサキピースミュージアムの入り口
 さだまさしさんが「長崎に平和を発信するミュージアムを作ろう!」という働きかけによって、このナガサキピースミュージアムは2003年に作られた。しかし、このミュージアムが出来る前から活動は行われていたのだ。その名が「ピーススフィア貝の火運動」である。ピース・スフィア(Peace Sphere)とは、「平和な球体」と訳される。「球体」とは、「地球」の事を示している。「貝の火」とは、慈しみの大切さを描いた宮沢賢治の童話である。童話の「貝の火」は動物たちの行為によって燃え盛り、鎮火する。「ピーススフィア貝の火運動」では、人間社会に置き換え、平和な地球を大切にしよう、未来の子どもたちに平和な地球を手渡そうという願いを込められている。この活動は、1995年にNBC長崎放送長崎新聞社など地元のメディアを中心に、企業や商店の地元経済界の若手の方々が「支援発起人会」という会を立ち上げ、活動を全面的に支えたことによって発足した。地元の支えとさだまさしさんの熱い想いから、さだファンを筆頭に全国各地で運動に賛同する人々が集まり、活動を続けたことで2002年3月にNPO法人として認可を受けることができた。よって、ナガサキピースミュージアムは長年続けてきた「ピーススフィア貝の火運動」の象徴、表現したものと言える。現在、ピースミュージアムでは、「世界の現状を伝えつつも、美しい自然や子どもたちの笑顔を通して、平和の尊さを感じ、私たちに出来ることを提案する」というコンセプトの下に運営している。長崎を家族として考えるさだまさしさんならではの平和活動である。
 第1節 「貝の火運動」とピースミュージアムの出来たきっかけ
ナガサキピースミュージアムに伺った際、専務理事の増川雅一氏から「ピーススフィア貝の火運動」、ピースミュージアムの生い立ちについて詳しく伺うことができた。「ピーススフィア貝の火運動」が発足する以前の平和運動とは政党や労働組合が主体的になり動いていた。その状況からさだまさしさんは「(戦後)50年経過したので、従来とは違う、新しい形で平和についてアプローチする必要がある」と考えた。平和運動の新しい形のアプローチとは「市民」が中心となることであった。こうしたさださんの次世代の発想を具現化したのが「ピーススフィア貝の火運動」である。「ピーススフィア貝の火運動」の目的は2つある。1つは「『平和に関する情報』を発信する」こと、2つ目に「平和に取り組む様々な団体・個人などとのネットワークを構築する」ことだ。前述したように、運動は地元のメディア、企業や人々、ボランティアを含んだ「市民」を中心に全国へ広まった。ここでいう「市民」は一般的に使用されている「市民」ではない。さださんに賛同する人々、さだファンも「市民」の1人となってこの活動を広めたのであった。さだファンはさだまさしを通して平和運動にも大きな貢献・影響を及ぼした。さだまさしのファンは全国各地にいる。このネットワークを利用し、全国のあらゆる場所で活動を行うことが出来、広がった。長崎から平和を発信しようと発足したにも関わらず、県内にとどまらず、県外の人々(さだファン)も平和の発信に賛同し、協力したことが活動の成功した起因の1つだと言える。
こうして全国に広がった「ピーススフィア貝の火運動」の事務局、また市民が自由に平和を発信できる場として作られたのがナガサキピースミュージアムである。ナガサキピースミュージアムは全額、寄付と募金で建設された。行政からの公的資金の支援を求めず、8年という長い時間をかけて企業とボランティアの方々…「市民」の手によって創られたのだ。ナガサキピースミュージアムにさだファンを含めた「市民」の想いが溢れ、表現することが出来たのはこうした背景に基づいている。現在も公的資金は一切求めず、会費や寄付募金、グッズ販売益によって運営され、入場料無料、館内使用料無料を維持し、広く市民に開放されたミュージアムとなっている。さだファンはさだまさしを通して、ファンという役割だけでなく、社会に還元する、貢献するボランティアという役割を担っているのだ。以上からさだファンが、平和運動における1つのムーブメントを巻き起こしたことが分かった。
 第2節 ピースミュージアムの活動
 ピースミュージアムでは様々な活動が行われている。平和学習や企画展、ボランティア活動や災害支援など多岐にわたる。その中でも今回は多くの人々に広がりピースミュージアムの活動の象徴になっているとも言える、「みどりのせんそうほうき」という活動に着目する。ピースミュージアムホームページによると、「みどりのせんそうほうき」の発案者は東京都の入江敦子氏である。1991年の湾岸戦争が始まったころに、「戦争反対」の意思表示として、ほうきのアクセサリーが誕生したのだ。「ナガサキピースミュージアムには、開館間もない2004年、鹿児島ボランティアのNさんから届けられました。そこからピーススフィア貝の火運動の会員・ボランティア・来館者を通じ、全国へと広がりをみせていきました。」と、公式ホームページには、ピースミュージアムと「みどりのせんそうほうき」の結びつきについて記されていた。ピースミュージアムを利用し「忘れないプロジェクト」という長崎原爆投下日を忘れないための展示会を開催していた、九州日中文化協会理事を務める、小川忠義氏やナガサキピースミュージアム職員の佐藤さん、石井さん、川口さんによると、「みどりのせんそうほうき」は全国のボランティアからよくピースミュージアムに届くそうだ。全国のボランティアの中の多くはさだファンでもある。全国からたくさん集まった「みどりのせんそうほうき」は記念として来館した人々にプレゼントされ、さらに「みどりのせんそうほうき」の輪が広がる。簡単に作れることから、小中学生の平和学習の一環としても「みどるのせんそうほうき」は作られている。このように「みどりのせんそうほうき」が世代や場所を超えたfolk materialになっていることが分かる(写真7)(写真8)。

(写真7 「みどりのせんそうほうき」) 

(写真8 子どもたちから送られた、「みどりのせんそうほうき」とメッセージ)

(写真9 ボランティアの手作りグッズ販売コーナー)
 また、「みどりのせんそうほうき」以外にも、ピースミュージアムには、ボランティアの方々の手作りグッズが届く(写真9)。届けられたグッズは、ピースミュージアムで販売され、売り上げは貝の火運動に役立てられる。公式ホームページが運営しているブログ「もってこい日記」でもグッズは紹介される。届けられるグッズの種類は様々で、個性が光る。ボランティア自身が今までの人生で培ってきた技術が用いられている。既製品では見えない、手作り独特の作った人の顔を想像することができる真心がつまった作品だ(写真10)(写真11)。

(写真10 ボランティアから送られたオブジェクト)

(写真11 ボランティアから送られた手作りの座布団)
 多くは知識や技術を持った年配の方からグッズが贈られる。一方、中にはさださんファンの子どもが、貝の火運動に感銘を受け、自ら制作したグッズを届けられることもあるそうだ(写真12)。

(写真12 さだファンの子どもが作った手作りグッズの一部)
 職員の石井さんによると、こうしたボランティアの手作りグッズは毎月たくさん届けられ、全ての展示が難しくなっているほどだ。そのため、ピースミュージアムでは季節に応じて展示するグッズは変えるなど対策を講じている。展示されていないグッズは、ミュージアムの2階で大切に保管されている(写真13)。ピースミュージアムは、長崎港国際ターミナルの前に位置している。そのため多くの海外観光客も訪れる。海外観光客にとって、手作りグッズは「日本っぽい」とされ、人気があるそうだ。またピースミュージアムを定期的に訪れる人の中には手作りグッズを買うことを楽しみにしている、リピーターもいる。

(写真13 展示される日を待ち、眠っている手作りグッズ)
 またピースミュージアムには、全国から届くボランティアの手作りオブジェクトが至る所に設置され、ピースミュージアムに華を添えている(写真14)(写真15)。このようにピースミュージアムは全国各地のボランティアの手で作られ、支えられているのだ。また、ボランティア自身が持っている能力を表現する場にもなっていると考える。

(写真14 ボランティアから届けられた折り鶴)

(写真15 ボランティアから届けられた公式マスコットミューちゃんの手作りマスコットやオブジェクト)
 第3節 来館者メッセージ
 ピースミュージアムには訪れた人々が自身の想いを記すノートが設置されている。訪れる人は様々だが、中にはさだファンの姿が多々見受けられた。ボランティア活動に直接的にかかわっていないファンも、さだまさしさんを通して平和について考える場として訪れていた(写真16)。そして自由飛行館同様、ナガサキピースミュージアムも念願の場所として表現され、それぞれのライフストーリーの中にさだまさしの存在があること、さだまさしを通して平和について考える機会に感謝する言葉が目立つ。どのメッセージもさださんに向けて語りかける形で記されていた。本論文ではその想いを一部抜粋する。

(写真16 来館者メッセージを書く場所)
2014年9月10日「昨日ピースフィアの20周年の会に参加し、こちらの近くに泊まっていたので帰りがけに寄らせてもらいました。今までは主人と2人旅でしたが、今回は1人で(主人は留守番です)やってきました。さださんの昨夜の話を聞き、この会に微力ながら参加させていただいていることに自信を持ちこれからも続けさせていただくことを心に誓いました。」(大分・K.M)
 このメッセージからは、さだファンであり、貝の火運動にも参加していることが分かる。こうしたさだまさしを通して、自らの行いに自信を持っていることが伝わる。
2014年11月30日「長年の願いが叶いました。やっとピースミュージアムに来ることができ、感激です。さだまさしさんとのご縁から息子の小学校の校歌を作って頂きました。あれから20年が経ち、昨日その息子が長崎の方との結納を交わしました。これもご縁ですネ。ありがとうございます。さだまさしさんにはいつもいつも元気と勇気を頂いています。また『幸せ』を頂きました。『感謝』の一言です。これからも応援させてください。」(匿名)
 さだまさしを自分の人生に結びつけている。また息子のライフストーリーを持ち出したことで、さだまさしが家族の思い出を共有する人(=フォークロア)となっている。
2015年5月10日「突然の長崎出張となり人生で2度目の長崎来訪です。それならばと、数年前に母が旅した経路をマネて稲佐山、ピースミュージアムとやって参りました。母は2009年10月9日の誕生日にさだまさしさんのコンサート鑑賞も兼ね、自分の年の数だけ作ったチューリップの花束を手にこちらを訪れています。ご安心下さい。母は健在でございます。まさか5年少々後に母と同じノートに書き込む機会があるとは驚きです。ピースミュージアム内にあちこちに分けて今でも母が作ったチューリップを飾って下さっているのを見てとても嬉しく思いました。ありがとうございます。今度は、母と一緒にまた来れたらいいなぁ。」(広島県・N.M)
 さだまさしを通じてファンツーリズムが生まれていることが分かる。また、母と同じ旅路を辿る家族というフォークグループでさだまさしファンツーリズムを再帰的なものになっている。
 ピースミュージアムは、さださんの新しい民主主義による平和アプローチとして活動してきた「貝の火運動」の象徴として作られ、ピースミュージアムの創設には地元の人々や企業と同じように、全国のさだファンが支え発展させていたことが分かった。ピースミュージアムは「平和について市民が考え発信する場」であり、さだファンにとっても平和運動を通して自らの能力を活かす場になっていることが、手作りグッズや来訪者メッセージから分かった。
 さだファンにとって、自由飛行館とナガサキピースミュージアムはどのような違いがあるのか?自由飛行館は、コーヒーやかすてらを頂きながら、「長崎」のさだまさしを感じる場でありコミュニケーションを楽しむ場である。情報を吸収するインプットする場と考えた。一方、ナガサキピースミュージアムは、さだまさしさんの平和への想いが元になりつくられた場所だ。ファンはさだまさしを通して長崎、平和について思い馳せる、表現する場である。また、貝の火運動はさだファンを含む全国のボランティアが周りにシェアして発展してきた。こうした背景から情報を発信するアウトプットの場として考える。どちらの場所もさだファンにとっては同じ長崎の聖地であると同時にインプットとアウトプットという相称する場としても捉えることが出来る。
第4章 消失した長崎におけるさだファン聖地―雨やどり―
 これまで、さだまさしファンなら訪れたい、長崎における聖地を述べてきた。一方で、姿を消した聖地がある。それが、全国で唯一さだまさしのグッズを販売しているアンテナショップ「長崎南山手 雨やどり」である。グラバー邸から大浦天主堂へ降りる坂、グラバー園通りに雨やどりは存在していた。地域情報動画サイト「街ログ」の雨やどり紹介の動画によると、「ピースミュージアムと同じ2003年にオープンし、ピースグッズやさださんのオリジナルグッズを販売し、売り上げの一部を貝の火運動に役立てる趣旨のもと、営業してきた。」しかし、雨やどりは2013年6月2日をもって閉店してしまった。ネット上でも、さだファンの惜しむ声が多く、愛され、さだファンにとって特別な長崎の場所であった。雨やどりを経営していた、有限会社鳴滝を訪れた。
第1節 雨やどりとは?有限会社鳴滝 内山恵里子氏
有限会社鳴滝は創業明治45年から長崎でお土産の企画・販売を行っている歴史ある会社である。今回は、雨やどりの「チーフ」として親しまれていた、有限会社鳴滝の専務取締役である内山恵里子氏から、雨やどり、さだファンについて話を伺った(写真17)。

(写真17 雨やどりで販売していた商品をもつ内山氏)
 雨やどりは2003年にナガサキピースミュージアムが開館するにあたって、公式にはない長崎とさださんを関連付けたお土産を売り、長崎とさだまさしを盛り上げることができないかということで、地元商工会の中で名乗りをあげたのが有限会社鳴滝であった。公式のさだ企画にはない商品やファンの生の声を取り入れた商品を制作していた。商品は、賞味期限の心配がなく、買った人が周りの人々に配りやすいよう工夫をされていたようだ。
 第2節 さだファンと雨やどりチーフ(内山氏)の関係
 チーフこと、内山恵里子氏と雨やどりに訪れるさだファンの間には、商売を超えた信頼関係が築かれていた。雨やどりでは、店頭販売の他に、電話にて商品の販売が行われていた。鳴滝では、雨やどり以外のお土産品は「前払い方式」である。顧客の振り込みが確認され次第、商品が発送される。しかし、雨やどりの場合商品「先送り方式」が採用されていた。そこには、内山氏のさだファンにおける絶大な信頼があったのだ。「さださんのファンの方は本当にピュアで素敵な方が多い。1人たりとて悪い人がいない。」と話してくれた。雨やどりを3,4年営業してきたころからこのことが分かってきたそうだ。そうした内山氏のさだファンにおける経験から、さださんのグッズをさだファンが購入する場合に限り商品が先送りされた。さだファンの方にはとても喜ばれたそうだ。何十回も取引したが、到着と同時に支払われる場合がほとんど占めており、一度も未入金があったことはないようだ。このようなエピソードから全国のさだファンと地元民である内山氏の間には、さだまさしを通して他にはない親密な関係が結ばれていた。また、何度も購入してくださる方は名簿に載せ雨やどりから年賀状を送られた。閉店するころには500〜600人程いたそうだ。現在でも、年賀状のやり取りをしている方もいる。内山氏は、「営利面で見るとすごくよかったわけではないが、人とのつながりはありがたかった。」と、商売を超えたコミュニケーションについて話してくれた。また雨やどりを経営していたころ、お土産やさんであるにも関わらず、訪れるさだファンからお土産をよく頂いたそうだ。そうした背景から、グラバー園通りのお土産屋さん100〜200軒ある中で、お土産屋さんにお客さんがお土産を持ってくるのはここしかないよと周囲に言われたと話してくれた。内山氏は「いいお仕事だったな」と雨やどりを振り返った。
 地元の人から見た、さだファンはどう見えたのか。10年と2か月グラバー園通りでさだファンを見てきた内山氏に引き続き伺った。「ファンの人は何回も来てるとさ。長崎に」と、毎年長崎を訪れるさだファン、地図を見なくても分かるもはや地元民のようなさだファンの存在を教えてくれた。内山氏曰く、ファンの人の中には生まれも育ちも東京で故郷を持ってないひと、また故郷を持ってる人にとっても、さだファンにとって長崎は第2の故郷となっているのではないかと思うそうだ。雨やどりに来店した際、ただいまというファンもいた。また長崎弁を使おうとするファンもいたそうだ。内山氏は雨やどりを始めたころ標準語で話すよう心掛けていた。しかし、ふいに長崎弁が出たとき、ファンに「内山さんの長崎弁かわいい!さださんみたいだ!」と喜んでもらえたそうだ。それからは長崎弁を積極的に話すようになったと話してくれた。
 第3節 「まっさんと歩くシリーズ」手作りマップの存在
 雨やどりチーフであった内山氏は、顧客であるさだファンを喜ばせようと地元民ならではのfolk materialを制作した。手作りマップ「まっさんと歩く」である。このマップは内山氏がファンに喜んでもらえるようにと作成され、雨やどりの店頭に置かれ、自由に持ち帰り可能であった。好評であったため、内山氏も楽しんでマップ作りに励み、「まっさんと歩く」はシリーズ化され第4弾まで制作された。第1弾は紫陽花の詩(画像1)。第2弾は解夏(画像2)。第3弾はさださんの所有する島、詩島(画像3)。第4弾はがんばらんばである(画像4)。現在でも福岡さだ研によってPDF化され、ネット上で閲覧・保存が可能な状態になっている。さださんの長崎ゆかりの曲や作品をテーマに長崎を観光できるマップになっている。マップには、丁寧なイラストやとっさの長崎弁・豆知識、さださんの名言など情報がたくさんつまっている。さだまさしファンツーリズムを盛り上げた1つの材料と言える。このマップは多くのさだファンに伝播し、共有されていることから、フォークマテリアルとなっていることが分かる。

(画像1 まっさんと歩く 紫陽花の歌コース)

(画像2 まっさんと歩くNo.2 解夏

(画像3 まっさんと歩くNo.3 詩島日記)

(画像4 まっさんと歩くNo.4 がんばらんば)
 第4章からは「さだまさし」を通して地元の人とさだファンの間に特別な信頼関係が結ばれていること、なお場所として存在しなくなっても関係性は一部持続していること。また、さだファンにとって長崎は特別な場所、故郷として受け止めているファンが多数いることが分かった。内山氏が制作したまっさんと歩くシリーズという手作りマップの存在がありインターネットに掲載されていたことから、さだファンツーリズムが行われていたと言える。現在は閉店してしまったが、雨やどりはファンにとって、内山氏とコミュニケーションすることで長崎の情報を収集し、家に帰ってお土産を他者に贈答することで自らの経験や情報をモノで表現し発信する、いわば、自由飛行館とピースミュージアムの役割を両方兼ね備えていた場所であったのではないかと考える。そしてさだファンにとっては3つの聖地の中で唯一、地元の人と気軽にコミュニケーションを楽しめる場所であったと考える。
おわりに
 さだファンというフォークグループが長崎において、経験・知識・表現を生み出してきたかを調査してきた。中でも自由飛行館・ナガサキピースミュージアム・雨やどりに重点を置いた。
・自由飛行館はさだ家の父母が経営していた。そのため、佐田家のカラーが色濃く出ている。ファンにとって長崎のさだまさしを感じ、雰囲気に酔いしれる場所。同行者とコミュニケーションを楽しむ場所。インプットの場所。
ナガサキピースミュージアムはさださんの平和への想い、「ピーススフィア貝の火運動」の象徴となる場所である。よって、ファンはさだまさしを通して、平和について考える場所。また「みどりのせんそうほうき」や手作りグッズから、ファンの能力や経験を表現する場所。アウトプットの場。
・雨やどりは、ファンにとってインプットの場でもあり、アウトプットの場でもあった。いわば中間の役割を果たしていた。そしてチーフの内山氏の存在から、地元に人と気軽にコミュニケーションできる場であり、さだファンツーリズムが具現化し発展した場でもあった。
 さだファンにとってさだまさしを見ることが出来るコンサートやイベントは一瞬の時間である。しかし常時存在するさださんの生まれ故郷長崎の聖地で、さだファンはさだまさしさんに対して思い馳せ、新たな思い出を作る。巡礼することで新たな人間関係を築き、長崎に愛着を持ち、故郷のような特別な感情を土地に持つ。こうしたさだファンの言動から、地元の人々にとってもさだファンはほかの観光客とは区別した特別な存在として認めることになる。その結果、自由飛行館・ナガサキピースミュージアム・雨やどりで行われていたような関係を築くことができたのではないかと考える。
 さだファンは長崎を訪れることで、自分の人生によりさだまさしを内包することが出来るのである。心の拠り所が1つ増え、行けば落ち着く、癒される本当の意味で「聖地」になるのだ。以上の事柄は「家族」を表現してきたさだまさしさんのファンだからこそ、生まれたフォークロアである。
 
 謝辞
 本論文執筆にあたり、ご協力いただいた皆様に感謝を申し上げます。自由飛行館の伊藤さん、スタッフの皆さま、お食事前にも関わらずお話を伺わせていただいたお客様、ナガサキピースミュージアムについて詳しく丁寧に教えてくださった専務理事の増川さん、貴重な資料を提供してくださった小川さん、さだファンについてたくさん教えてくださった職員の佐藤さん、石井さん、川口さんありがとうございました。また突然の訪問にも関わらず快くお話を聞かせてくださった有限会社鳴滝、専務取締役の内山さんありがとうございました。笑顔が素敵で、さだファンの皆様が信頼を寄せる理由が分かりました。
協力して頂いた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。

参考文献
島村恭則,2014,「フォークロア研究とは何か」『日本民俗学』(278):1-34.
傍示文昭,2015,『さだ番 楽屋話』西日本新聞社.
あさ芸プラス,「ゲス極・川谷がライブで“福山雅治さだまさし越え”を宣言し大ブーイング!」(2016年5月13日),( http://www.asagei.com/excerpt/57914),2017年1月17日.
さだまさしオフィシャルサイト,「歴史観(プロフィール)」,( https://www.sada.co.jp/prof.html),2017年1月17日.
1970年代生まれによるさだまさし研究会,「さだまさしさんとは」, (http://www.japanml.net/sas/abouts.htm),2017年1 月17日.
四国新聞社,2004年4月13日,「さだまさしさん栄誉市民に/長崎市」,( http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/print.aspx?id=20040413000291),2017年1月17日.
長崎webマガジン「ナカジン」,「ナガサキピースミュージアム」,( http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/museum/040715/index.html),2017年1月20日.
Youtube,街ログ,「長崎南山手 雨やどり - 地域情報動画サイト 街ログ」(2009年4月12日),( https://www.youtube.com/watch?v=pqdF0jijlHI),2017年1月26日.
ナガサキピースフィア 貝の火運動―ピースミュージアム,「『みどりのせんそうほうき』とは」,( http://www.nagasakips.com/%e3%81%bf%e3%81%a9%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%81%9b%e3%82%93%e3%81%9d%e3%81%86%e3%81%bb%e3%81%86%e3%81%8d),2017年1月27日.