関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

和歌山の接待講―有田接待講と野上施待講―

和歌山の接待講―有田接待講と野上施待講―
藪 実咲

【要旨】
 本研究は、和歌山県にのみ存在する「接待講」について、有田市箕島にある天甫山大師堂、紀美野町下佐々にある下佐々大師寺をフィールドに、実地調査を行い、そこの世話人たちが創りあげてきた有田接待講と野上施待講を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1.和歌山の接(施)待講の行う接待とは、そもそも和歌山という四国から遠く離れた土地に住む弘法大師信仰者たちが、自らは四国八十八ヶ所をまわる事が出来ないため、その想いをお遍路さんに託すという意味が込められている。

2.有田接待講のはじまりは、1818年頃とされている(『則岡愼一郎氏提供資料』による)。有田接待講・初代長の則岡新助氏は、元々体が弱く痩せていたが、ある日出会った修行僧と共に四国八十八ヶ所巡拝を行った事で、丈夫な体を手に入れた。これをきっかけとして、弘法大師を信仰するようになり、他2名と共に接待講浄業に至る。

3.毎年春の接待には、草履やわらじ等の「物品」を近隣住民や他の世話人からもらいうけ、接待品として霊山寺に持ち込んだが、時代と共に変化し、現在人々からは「金銭」を納めてもらい、そのお金で物品を買い、持ち込んでいる。(有田接待講)

4.昭和45、6年まで接待船として使用されていた辰ヶ浜の漁船は、接待講を船上で接待する事でその恩恵として「大漁」を願った。現在は、自動車とフェリーで四国に向かう。(有田接待講)

5.かつて接待船が存在する頃は、漁船二十数隻に乗りきらないほどの世話人が四国に渡り、霊山寺内の接待所に寝泊りをしながら接待を行った。しかし、現在、主となる2名の男性世話人霊山寺近辺の民宿に泊まり、他7、8名の世話人は日帰り・日替わりで霊山寺を訪れ、接待を行う。(有田接待講)

6.有田接待講のお勤めに使用される御詠歌は天甫山大師堂オリジナル。この「天甫山大師御詠歌」は弘法大師に向けてだけではなく、世話人に向けての感謝の気持ちも込め、浄業に携わった3名が作ったとされている。

7.野上施待講では、当時野上から高野山までの道沿いに世話人が広く分布していた。その中でも1番人の多く集まる、集落の存在する土地に弘法大師像を置く事が良いとされ、それまで転々としながら規模を大きくしていたが、1952年、野上に拠点、下佐々大師寺を構えた。

8.野上施待講はかつて、野上から海南港まで歩き、そこから有田の接待船に乗せてもらい、四国に渡っていた。現在は有田と同様、下佐々から自動車とフェリーで向かっている。現在は、移動における有田との接点はない。

9.施待期間中に、男性世話人は自炊をおこなう女性に代わり、霊山寺からのお返しの札に接待品のために納金してくれた人々の名前や願を書き込む。その札は、和歌山に帰った後、世話人が配り歩く。(野上施待講)

10.野上は有田と違い、年間の行事が多い。その理由としては、高齢になっていく世話人たちの顔見せのため、がある。

11.有田接待講と野上施待講は、霊山寺内で同じ接待所を設けたにも関わらず共同で接待を行わない。起源や現在の活動については異なる点は多いが、接待の際に同じ船に乗っていた事や、有田のお勤めに野上の世話人が参加していた事が聞き取りで判明し、相互関係があった事が明確になった。

【目次】
序章 ――――――――――――――――――3
 第1節 問題の所在----------------------4 
 第2節 接待講とは----------------------4

第1章 有田接待講 ―――――――――――7
 第1節 創始----------------------------8
 第2節 第一番札所霊山寺での接待講-----14  
 (1)接待品---------------------------15
 (2)交通手段-------------------------18
 (3)接待期間の様子-------------------21
第3節 お勤め---------------------------22

第2章 野上施待講――――――――――――29
 第1節 創始---------------------------30
 第2節 第一番札所霊山寺での施待-------32
 (1)施待品---------------------------32
 (2)交通手段-------------------------33
 (3)施待期間の様子-------------------34
 第3節 お勤め-------------------------36

結語―――――――――――――――――――43
文献一覧―――――――――――――――――46

【本文写真から】

写真1 現在(2015年)の天甫山大師堂


写真2 昭和45、6年頃まで使われていた接待船「うたせ」(有田接待講)


写真3 現在(2015年)の大師堂前の有田川
(昭和45、6年まで接待船がついていたとされる場所)


写真4 現在(2015年)の下佐々大師寺


写真5 第一番札所「霊山寺」山門脇にある接待所

【謝辞】
 本研究のための調査にご協力いただいた皆様には大変感謝しております。則岡愼一郎氏、久保 圭子氏、その他大師堂でお話を聞かせていただいた有田接待講世話人の皆様、田和 貞子氏、橋詰 順規氏、その他大師寺でお話を聞かせていただいた野上接待講世話人の皆様、突然の訪問にもかかわらず、貴重なお時間をさいてお話を聞かせていただきありがとうございました。上記以外のご協力いただいたすべての方々にもお礼申し上げます。
 皆様のご協力なしでは、本論文を完成させることはできませんでした。この場をかりてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。