関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

凍豆腐の行方―大阪府南河内郡千早における生業の変遷―

凍豆腐の行方―大阪府南河内郡千早における生業の変遷―

橘 将吾


【要旨】
 本研究は、大阪府南河内郡千早において1970年まで続いた凍豆腐造りの盛衰及び凍豆腐衰退後に新しく起こった春雨・魚肉ソーセージ・椎茸の生業について、千早の人々からの聞き取りを中心に調査を行い、その変遷の過程やそれぞれの生業に従事した人々の様子を解明しようとしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。


1.1899年には、56件あった天然凍豆腐小屋もそのほとんどが解体され、今では1軒を残すのみとなっている。また、この1軒も陶芸家のアトリエとして利用されているため、千早において現在も凍豆腐造りに従事している人間はいない。

2.凍豆腐の製造は、但馬からの出稼ぎ労働者に一任しており、千早の人々は小屋の経営や豆腐出しなどの軽作業を中心に行っていた。そのため、12月の中旬になると但馬から多くの人が千早を訪れ、寒さが和らぐ3月頃まで昼夜を問わず凍豆腐の製造に従事した。

3.人工凍豆腐の製造に使用していた冷凍設備を応用して春雨の製造を開始する人が現れた。千早で春雨の製造を行っていた業者は2軒あり、奈良県桜井市にある全国はるさめ工業協同組合にも所属していた。

4.凍豆腐を造る際に、燃料として用いられたクヌギを使用して椎茸の栽培を始めた家が10軒ほど存在し、組合も結成された。しかし、組合員の高齢化や後継者不足で組合は自然消滅し、現在、凍豆腐から転換した者で椎茸栽培に従事している人間はいない。

5.一見、凍豆腐との繋がりが見えない春雨・魚肉ソーセージ・椎茸であるが、凍豆腐製造時からの乾物問屋との関係、豆腐を凍らすための冷凍装置の応用、柴として使用していたクヌギの応用など凍豆腐と深い関わりをもっている。


【目次】
序章――――――――――――――――――――――――――――1
第1章 凍豆腐の時代――――――――――――――――――――――7
 第1節 藩財源としての凍豆腐・・・・・・・・・・・・・・・・8
 第2節 凍豆腐の繁栄・・・・・・・・・・・・・・・・9
  (1)村の様子・・・・・・・・・・・・・・・・9
  (2)凍豆腐のつくり方・・・・・・・・・・・・・・・・9
  (3)銘柄と販売方法・・・・・・・・・・・・・・・・12
 第3節 但馬からの出稼ぎ者・・・・・・・・・・・・・・・・12
 第4節 天然から人工へ・・・・・・・・・・・・・・・・15
  (1)人工冷蔵豆腐の出現・・・・・・・・・・・・・・・・15
  (2)凍豆腐の終焉・・・・・・・・・・・・・・・・16
第2章 春雨への転換――――――――――――――――――――――27
 第1節 凍豆腐から春雨へ・・・・・・・・・・・・・・・・28
 第2節 春雨のつくり方・・・・・・・・・・・・・・・・31
 第3節 春雨の終焉・・・・・・・・・・・・・・・・33
第3章 魚肉ソーセージへの転換――――――――――――――――――――――41
 第1節 凍豆腐から魚肉ソーセージへ・・・・・・・・・・・・・・・・42
 第2節 魚肉ソーセージからハム・ベーコンへ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・44
第4章 椎茸への転換――――――――――――――――――――――51
 第1節 凍豆腐から椎茸栽培へ・・・・・・・・・・・・・・・・52
 第2節 椎茸のつくり方・・・・・・・・・・・・・・・・54
 第3節 椎茸をつくる人々・・・・・・・・・・・・・・・・57
  (1)上田禎男氏・・・・・・・・・・・・・・・・57
  (2)木沢静子氏・・・・・・・・・・・・・・・・59
  (3)松本昌親氏・・・・・・・・・・・・・・・・60
 第4節 椎茸の終焉・・・・・・・・・・・・・・・・61
結語――――――――――――――――――――――――――――80
文献一覧――――――――――――――――――――――83
URL一覧――――――――――――――――――――――85


【本文写真から】

写真1 大豆を水に漬けるための桶

写真2 上田氏の凍豆腐小屋の銘柄

写真3 椎茸ハウスの内部

写真4 椎茸を箱詰めするためのケース


【謝辞】
本論文を執筆するにあたり、千早赤坂村及び河内長野市の多くの方々に協力を頂きました。特にA氏、上田禎男氏、木沢静子氏、千早赤坂村村長の松本昌親氏には長時間の聞き取りや資料提供にも快く応じて下さいましたことを心より御礼申し上げます。皆様のご協力がなければ本論文を制作することはできませんでした。ここに深く感謝いたします。